イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ジョージ・クルーニー、ヴェネツィアで結婚

このところ、ヴェネツィア映画祭終了後も《La Nuova》紙の紙面を賑わせていた米国俳優の記事がありました。あまり続くので読んでみますと、ジョージ・クルーニーがヴェネツィアで結婚式を挙げるという内容でした。日本の新聞も書いていますので詳細はそちらに譲り、紙面のキャプションをクリックすると色々彼の写真がご覧になれますので、昨日のLa Nuova紙を訳してみました。
ジョージとアマル「 ラグーナ上のハリウッド: ジョージとアマルは《結婚します》と誓った

ジョージ・クルーニー53歳とアルマ・アラムッディン36歳は、昨夜(土曜夜)《ヴェネツィアでのプライヴェートな式で》結婚した。その事は俳優の公式スポークスマン、スタン・ローゼンフィールドにより告げられた。結婚式を祝ったのは、元ローマ市長で彼の友人でもあるヴァルテル・ヴェルトローニを始めとして、100人の招待客である。

二人は昨夜、運命的な《I do.(認めます、結婚します)》(伊語Si'―英国風《I will》のヴァージョン)と誓った。しかし法的に有効なものとするために、結婚式はカヴァッリ・フランケッティ館(市所有のため日曜日は休み)で、月曜日公式なものとして繰り返される筈である。

月曜日(今日)のその後の予定は、ジュデッカ島での午餐会後、招待客達は全員ショッピングやラグーナの島々へ島巡りでリラックスする。夜の大晩餐会はアンティーキ・グラナーイ(Antichi Granai)において。」

カヴァッリ・フランケッティ館は1999年からヴェーネト科学文学芸術協会所在地となった、アッカデーミア橋の袂にある美麗な館。古くから市の結婚式場であるマルティネンゴ館では100人の招待客は丸で収容不可能です。市の施設は日曜日は休みですので結婚式もありません。
午餐会はジュデッカ島のレストラン・チプリアーニで開かれたのでしょう。晩餐会の会場 Antichi Granai はホテル・チプリアーニの傍にある、かつて共和国穀物倉庫と言われた建物で、チプリアーニが獲得してイヴェント用に修復したものだそうです。

ヴェネツィアでの結婚式については2012.06.02日にコルネール・マルティネンゴ館を書きました。また2013.08.24日のアレッサンドロ・マルツォ・マーニョも参考までに。
  1. 2014/09/29(月) 15:56:36|
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民話に表れたヴェネツィア(1)――ジュゼッペ・ナリーン(3)

[続き]
「こう言うと、井桁の脇に反物を置き、そそくさと立ち去りました。そのため誰でも気付くように、この小広場に入ってきた最初の人がそれを持ち去ったのです。

この愚か者が反物も代金も手にせず帰宅して、母親にいかに正しく売るために行動したかの一部始終を語ると、彼女が怒り心頭に発したのも宜なるかなでありました。しかし本当の所を言えば、息子より自分に非があると思ったのです。息子曰く。《母さんが言ったようにやったよ! 何回か母さんは馬鹿な真似は止めなさいと言ったよね。いや全く、本当に母さんの事を信じてるんだ、僕は! 母さん大好きだし、子供って躾が大事だしね》。

グァルダーテロは母を慰めようとして言いました。《黙ってて、母さん。悪魔は人が言うほど悪いものじゃないよ。まだ言ってないけど、明日の朝、お金を受け取りに行くんだ。もうちょっとの辛抱だから》

事実翌朝、グァルダーテロは大理石の像のある小広場に再度赴き、彫像に言いました。《ねえ君、反物の代金、今呉れるかい?》。返事はありません。彼は暫くそこで待っていました。でも無駄でした。怒り狂って、ハンマーのような棍棒で何度も打擲を加え、粉々になるまで殴り付けました。

その時、彫像の中にピカピカのスクード金貨が大きな鍋に入っているのに気付きました。この大きな鍋を肩にゆっくりと担ぎ上げ、我が家に急ぎ、叫びました。《母さん母さん、僕を見て、ほら、こんなにゼッキーノ金貨を持って来たよ》

そう言って鍋をテーブルの上にぶちまけると、その発見の喜びのあまり、欣喜雀躍しました。母親は馬鹿ではありませんでしたから、直ぐにお金を全て拾い集めて、息子がこの事を村中に、愚かに触れ歩かないように言いました。《グァルダーテロちゃん、よく聞いて。チーズと牛乳を売りに物売りの女が来るから、この玄関の所にいて頂戴。小さい鍋を売ってもらいたいのよ》

彼は大変な大喰らいでしたが、母親の言付け通り玄関の所に座っていました。一方母親は、秘かに2階に行き、2リラ分の乾燥イチジクと干し葡萄を窓から落としました。それは雨降りと思われるほどの沢山の量でした。この阿呆のグァルダーテロは正に雨降りと勘違いし、母親の名前を呼びました。それを入れる盥かバケツを持ってきて欲しかったからです。

その間、それらを食べまくりました。食べれると分かったからです。そして腹が破裂しそうなほど食べると、寝に行きました。

その数日後、二人の左官がスクード金貨の事で難詰し合っているのを耳にしました。道でスクード金貨を見付け、お互いに自分の物だと主張しました。二人が口論している時、グァルダーテロは丁度そこに居合わせたのです。そしてその金貨のチャリンという音を聞いて彼らに言いました。《あんた方は二人ともお馬鹿さんですね! スクード金貨一枚でそんなにいきり立って。僕なんか偶然に金貨の一杯詰まった鍋を見付けましたよ。僕はおとなしくして、いい子してたから》。

裁判所がその話を聞き付けて、グァルダーテロを呼び寄せ、尋問を始めました。どこでその金貨を見付けたか、その日はどんな日であったか、鍋には何か封印がなかったか、と。そこで彼はお金は誰もいない館の、何も喋らない“唖”の男の腹の中に隠されていた、と答えました。

《あの日は、イチジクや干し葡萄が降りました》と言いました。裁判官達は、全員が納得出来る返答を聞いた時、《この子は気が狂っている、少なくとも頭は正常じゃない。サン・セルヴォロ島に送ろう、精神病以外の治療は必要ないから》と言いました。
サン・セルヴォロ島サン・クレメンテ島左、サン・セルヴォロ島、右、サン・クレメンテ島。イタリアのサイトから借用[サン・セルヴォロ島はヴェネツィアのラグーナにある島で、当時男用の精神病院がありました。一方女用の精神病院は直ぐ近くのサン・クレメンテ島にありました。]

こうしてこの息子の奇妙奇天烈が母親を裕福にし、彼女の深謀遠慮が彼の愚鈍を正常に戻し、俚諺の言うように、よく制御された船は滅多なことでは座礁しないのです。」
 ――Giuseppe Nalin著『Fiabe veneziane』(Corbo e Fiore Editori Venezia、1995)より

この民話で使われている伊語 scemo, sciocco 等は、日本語で《愚か、愚鈍、遅鈍、馬鹿、痴呆、脳足りん、愚者、阿呆、頓馬、木偶の坊、のろま、間抜け、お人好し、あんぽんたん》等の名詞・形容詞の意です。同じような意味の伊語を辞書から探しますと次のように夥しくあります。
allocco, asino, babbaleo, babbeo, babbione, babbuino, baggeo, baggiano, balordo, beota, bietolone, bue, capocchione, castrone, cetriolo, ciocco, citrullo, ciuco, coglione, coglioneria, cretino, dappoco, deficiente, dolce di sale, ebete, fatuo, fesso, gaglioffo, gnocco, gnoccone, gonzo, grullo, idiota, imbecille, inetto, insensato, insulso, istupidito, lasagnone, lavaceci, macaco, mammalucco, melenso, merlo, minchione, oca, ottuso, pappalardo, pecorone, pezzo d'asino, pinco, pippa(俗), pipparolo(俗), pippione(俗), pirla, pisellone, polentone, rammollito, rapa, rimbambito, scemo, scempio, schiappa, scimunito, sciocco, scioccone, semplicione, sempliciotto, sfiga di cazzo(俗)、somaro, stolido, stolto, stronzo, strullo, stupido, testa di cavolo, testa di rapa, testone, tonto, tordo, torsolo, vento gnocco, zucca vuota, zuccone, zugo(俗)  
  1. 2014/09/25(木) 00:02:39|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ヴェネツィア憲法橋(カラトラーヴァ橋)

2008年に渡橋出来るようになった憲法(カラトラーヴァ)橋は、出来た直後から御難続きです。建造祝賀会は当時の市長カッチャーリさんが行わないと言明、カラトラバ氏が文句を言っていると新聞にありました。また直後、車が橋を渡ったり、バリア・フリーのための工事、雨が降ると滑りやすくなる苦情等々、補修工事が続いています。
カラトラーヴァ橋市民にはこんな橋、撤去してしまえとさえ言う人もいます。市の担当者の涙ながらのインタヴューも見ました。しかし便利にはなりました。このため市はカラトラバ氏への支払いの一部を、補修費用に充てるとして凍結したという記事も読みました。昨日のLa Nuova紙は次のようなことを書いています。

「 経費の高騰、破毀院はカラトラバの上訴を破棄[日本の最高裁に当たる破毀院の破棄の判決は下級裁判所に差し戻しということ]
――スペインのスター的建築家である、ヴェネツィアの憲法橋の設計者は、ヴェーネト会計院に建造修復費用の高騰等で調査下にある。裁判官は、カラトラバは仕事の責任者であり、質問に答える義務がある、と――

スペインの建築家サンティアゴ・カラトラバ(最も有名な建築家の一人)は、ヴェーネト会計院に、目下発生中の損害のために起きた裁判を終わらせたいと求めていたが、その上訴は破毀院で退けられた。会計院は大運河の“第四の橋”の修復費用増大による損害賠償として、400万ユーロを彼に要求していた。ヴェネツィア市はこの問題あるプロジェクトにサインしていたのである。上級裁判所の警告は、カラトラバはこの建造の仕事の責任者であった、と。」

カラトラーヴァ橋については、2007.10.24日のカラトゥラーヴァ橋や2008.02.22日の大運河をご参照下さい。

共和国時代の1545年、サン・マルコ図書館(Biblioteca marciana)がサンソヴィーノの手で殆ど完成を見た時、突如崩壊し、失敗を許さない政庁は彼を獄門に下しました。その時、ティツィアーノやアレティーノが強く弁護してくれたそうです。出獄出来たのは、自分の費用で再度図書館を完成させるというのが条件だった筈です。
  1. 2014/09/23(火) 16:00:58|
  2. ヴェネツィアの橋
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民話に表れたヴェネツィア――ジュゼッペ・ナリーン(2)

[続き]
「自分の心に言いました。《お前も少しは考えてよ。母さんが帰ってきたら、このハチャメチャ に気が付いて、カンカンに怒り出すよ、もう生きた心地もしないよ》。そこで母親が彼に毒入りの食べ物だと言っていた箱のところへ走ると、それを開けました。本当のところ、母親は全部彼が食べてしまわないように、ただ信じ込ませるためだけに言っただけのことで毒入りなどでは全くなく、その壺には探すのも難しい最良の蜂蜜が満杯だったのです。
見開き頁グァルダーテロは毒を食べて死のうと、箱から蜜壺を取り出しました。壺の中身が途轍もなく甘く美味だったので、全部を平らげました。食べ終わり、指で底まで嘗め尽くすと、竃に横たわりに行きました。

そうこうしている間に、母親が帰宅し、玄関の戸を叩きました。何度叩いても応答がありません。誰も開けないので、とうとう扉に体全体で体当たりを食らわせ、戸をへし破りました。そして息子の名を呼ぶのですが、返事がありません。何か厄介な揉め事でも起きているのではないかと更に大声で息子の名を呼びました。《グァルダーテロ、グァルダーテロ! 聞こえないの?》。

彼は母親の怒りが和らぎ、慌てふためいた感じになり、精々ぶつぶつ言うのが分かるまで黙ってじっとしていました。母親が焦れてイライラしているのが分かり、グァルダーテロは細い小さな声で言いました。《母さん、僕ここだよ、竃の中。見えないけど、安心して》。

その声を聞いて彼女はショックを覚え、《何としたこと! でもなぜ?》と叫びます。《毒を飲んだんだよ》直ぐに彼が答えます。《で、誰が毒を呉れたの、でも、どうして?》。グァルダーテロは自分が勇敢にやり通したことを母に逐一語りました。《やる事何でもみんな酷かったから、死のうと思って、母さんが箱にしまっていた物を食べて、毒で死のうと思ったんだ》。

グァルダーテロが食べた毒とはどんな物であったか聞くと、彼女はホッとして、直ぐに息子が食べた物とは毒などではなく、火を通して、よく熟成した蜜であると説明しようとしました。しかし彼はそんな事は丸で信じておらず、この病気に適した美味しい薬となる食べ物を沢山調合してくれるようにと言いました。そしてその何日か後、恢復すると竃から飛び出しました。

その後、彼の母親は彼に一反の布を渡して売ってくるように言いました。《お喋りな人に売っちゃ駄目だよ。そんな人はお前をきっと騙すからね》。《何を言ってるの、母さん。僕を馬鹿だなんて考える人なんかいないよ》とグァルダーテロは答えました。そして反物を持って町を触れ売りに回り始めました。《織物、織物、素敵な織物! 美しい織物はいかがですか?》

時々、誰かがその反物はリンネルかとか、幅は幾らかとか、長さは何ブラッチョ(1ブラッチョ≒60cm)かとか、呼び止めて尋ねました。しかしあまりお喋りで彼を混乱させるので彼はそれには応えず、人の事に関わずらうな、帰るようにと言って全員を追い払いました。お終いには《織物、織物、素敵な織物! 美しい織物はいかがですか?》と声を嗄らして叫ぶと、あまりの回遊に疲れ果て、一つの大理石像がある人気のない小広場に入り込みました。

その小広場中央にある井戸の脇に腰を下ろし、誰か反物を売れる人が通り掛からないかとじっと眼を凝らしました。暫くそこに座っていましたが、生き物一匹として入ってくることもなく、彼は彫像の周りを一周して言いました。《ねえ、君、この家には誰も居ないのかい?》
 
彫像が何も答えないので、彼はこれは誠実な人間だなと感じ、直ぐに織物を売ろうと思いました。《この人は話さない、だからお喋りじゃない》。そこで彫像に、《ねえ、君、この反物を買いたいかい? 安くしとくよ》と。でも彫像は当然の如く話しません。

自分に打って付けの人が見つかったことに満足して、グァルダーテロは次のように言いました。《この反物を納めてね。君がいいと思った額を頂戴。明日お金を貰いに来るから、初めに値段を決めといてね》 」――」[続く]
  1. 2014/09/18(木) 00:05:52|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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民話に表れたヴェネツィア――ジュゼッペ・ナリーン(1)

ヴェネツィアの語学学校へ何度か通学する内、ヴェネツィア語も多少は分かりたいとちょっとだけ勉強してみました。動詞 essere が“Mi son o Mi so”“Ti ti xe”“Lu xe o L'e`”“Nu semo”“Vu se'”“Lori xe”と格変化することを知り、知ったかぶりで妻に“何時ですか?”を“Che ora xe?(ケ・オーラ・ゼ)”と教えると、夕方バーカロに立ち飲みに行き、スプリッツ・コン・ビッテルを飲んでいる時、妻がカウンターの中の青年に“ケ・オーラ・ゼ?”と問うと大いに笑われてしまいました。

金髪の外人が山形弁で滔々と喋ると嬉しくなって思わず笑ってしまう、あの現象です。そんな訳でヴェーネト(ヴェネツィア)語の参考書等を購入しました。その中に Giuseppe Nalin『Fiabe veneziane(ヴェネツィア昔語り)』(Corbo e Fiore Editori-Venezia、1995)があり、見開きでヴェネツィア語とその伊語訳が対照的にページアップされています。その中の一編を伊語訳の方から和訳してみます。題して『La fiaba dello sciocco(馬鹿息子の昔話)』です。
Fiabe veneziane「昔々、グラーナという名の女がありました。大変思慮深い女でしたので自分には不足はなかったのですが、いつも揉め事を引き起こすような愚鈍な息子を持っていました。

しかし彼女にとって息子は、他人が言うほど馬鹿だとは思えませんでした。いつも息子を庇って子を持つ親なら誰でも、我が子が言ったりしたりすることは何でも、丸で奇跡だと思ってしまうのですが、そんな思いで毎日を過ごしていました。そして息子が自分で体を洗ったり、掃除したりが出来たりすると、息子が学校を卒業したかのように嬉しくなるのでした。

グラーナは抱卵中の雌鶏を飼っていました。そして雛が大きくなったら売って、しっかり稼ごうと考えていました。

ある日彼女は大切な用が出来て出掛けなければならなくなりました。そこで息子を呼んで言いました。
《ちょっとこっちへ来て。よく聞いてね。この雌鶏はしっかり見張っていて頂戴。それで、もしかして巣から立ち上がったのが分かったら、巣に戻れるようにしてやって。そうしないと、卵を抱くのを止めて、卵も駄目になるし、雛も産まれないから》。
《まかして、母さん。よく分かったから》。この阿呆は母親に言いました。

《もう一つ言っとかなきゃ駄目なの》。しっかり者の女は息子に繰り返しました。《この箱は触らないでね。中に毒になる物が入ってるから。食べたりしたら死んじゃうから》。《神様が見張ってるから大丈夫だよ》。グァルダーテロは答えました。と言うのは、グァルダーテロ(Guardatelo―それを見張ってて下さいの意)というのは彼の名前だったからです。
《何と何と! 毒だったんだ。離れろ離れろ。気が付いてよかったよ。もしかしたら、食べちゃってたよ》。

母親が用足しに出掛けると、グァルダーテロは直ぐに菜園に急ぎ、地面に穴を掘り、いつものように腕白小僧らが走ってきて穴に落ちるように、木の枝で穴に蓋をし始めました。こうしてうまく細工をしている間に、雌鶏が卵を抱くのを止めて家の方へ歩いていくのに気が付きました。《シッ、シッ、シッ。そっちじゃないぞ》。大声を張り上げました。

しかし雌鶏は彼になど目もくれませんでした。雌鶏がそこでボンヤリしているのが分かると落とし穴作りは止め、土をドンドンと踏み固めてから、帽子を後ろに引いて枝を摑んで行きました。鶏の背を力の限り撲り付けると、一撃で即死してしまいました。

グァルダーテロはこのとんでもない結果に肝っ玉が潰れ、直ぐに起きた事を取り繕わねばと考え、自分に言いました。《卵を抱くように、何かしなくっちゃ》。ズボンを引き下げ、雌鶏の所へ腰を下ろしに行きました。

しかしあまりに勢いよくお尻を下ろしたので、卵を全部潰してしまいました。自分のへまに激しい癇癪を起しましたが、直ぐに治まりました。《もういい! 知りたくもないや。考えれば考えるほど、どうすれば元通りになるか、分かんない。お腹が空いたから、何とかしなくっちゃ。この雌鶏を焼いて食べよう》。大声で言いました。

こうして雌鶏の羽根を毟り取り、串刺しにして、直ぐに火をカンカンに燃やして炙り始めました。半分炙ったところで、躾通りにしなければと思い、テーブルにテーブル・クロスを広げ、地下のワイン庫に行ってワインを持ってくると、焼き過ぎにならないように火から串刺しを外しました。

持ってきたデカンターに半分も注ぎ入れない内に、台所で何か大変な異常が起きていると感じました。何だろう? またへまをしたのか? 何か不安になり、デカンターを置き、樽の栓を手にして、階段の方へ走って行くと、大きな太った猫が串刺しの焼けた鶏を口に咥えていました。大きな音を立てて脅すと、もう一匹の猫がそれを奪おうとしました。

自分の鶏を取り戻そうと、グァルダーテロは直ぐに猫を追い掛けました。全速力で走り、猫の前脚の間から取り上げることが出来ました。しかし樽の栓をまだ手にしていることに気付き、地下庫に行ってみるとワインがジャージャーと噴き出しており、今や辺り一面に溢れ返っています。そこで泣き始めました。《母さんが何も気が付かないなんてことはあり得ないから、懸命に片付けなきゃいけないな》。

そこで彼は何をしたのでしょうか。倉庫の片隅にあった白い小麦粉を一山持ってきました。それがワインを吸い取ってくれると考え、地下のワイン庫へ急ぐとその上に振り撒きました。少しは自分の失敗を回復出来たと思ったのですが、安心出来ず、自分の仕出かした災難に内心、次第に不安が昂じていったのです。」――(次に続く)
  1. 2014/09/11(木) 00:03:37|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ヴェネツィアの歴史的レガッタ(Regata storica)

本日のLa Nuova紙は、昨日曜日行われた恒例の歴史的レガッタの模様を報道しています。
レガータ・ストーリカ「 レガータ・ストーリカ(歴史的レガッタ)、デステ組、ヴィニョット組を破る
――最終のゴンドリーニ戦はデステ・テッツァートとサンテラズモ島の従兄弟の組が11秒の大差で勝利[例年のようにヴィニョット組とのいがみ合いで大会幕切れが台無しになっていたようです]。観覧招待者にはピエートロ・グラッソ上院議長等。

櫂操船の祝祭はヴェネツィア伝統行事の最たるものである。モーゼ事件[ガラーン元ヴェーネト知事まで収賄で収監]、サン・マルコ湾での船舶問題[巨大船通航のことでしょう]、ヴェネツィア島民数の加速的減少問題、観光客の急増問題等の問題山積みの中で、古きセレニッシマは自らの天職を見出した。

櫂の文化、旧共和国の船とそれに携わった職人芸、それはかつてアルセナーレで、1日で戦闘船1艘を完成した技術が作り上げたもの。水とその水と関わる歴史との深い絆、投機を目当てに仕掛けられた事への巻き返し(時に熱意の欠如もあった)への熱い思い。

これが2014年のレガータ・ストーリカであった。」

今年のゴンドリーニ戦は、デステ組が gigante となり、すっきりと有終の美を飾ったようです。新聞のキャプションをクリックすると行事写真を色々見ることができます。尚、2011.03.12日のヴェネツィア年中行事でこのイヴェントの事を書いていますのでどうぞ。 もう一つのニュースLa Nuova2もどうぞ。
  1. 2014/09/08(月) 13:23:32|
  2. ヴェネツィアの行事
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ヴェネツィアの建物: エーリッツォ・アッラ・マッダレーナ、ジャ・モリーン館

マルチェッロ館右隣はエーリッツォ・アッラ・マッダレーナ・ジャ・モリーン館(Ca' Erizzo alla Maddalena, gia' Molin)です。E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は以下のように述べています。
マルチェッロ館他「15世紀半ば頃と推定されるゴシック建築で、左側部分には四角の枠で囲われたエレガントな五連窓があり、上部アーチ形は天地逆となった薔薇型装飾で、そこからピアーノ・ノービレのサロンは光を採り込み、最上階は装飾を単純化した五連窓が繰り返されている。

1650年にエーリッツォ家の手に渡った。サロンには1470年に亡くなったパーオロ・エーリッツォの英雄的偉業を描いたアンドレーア・チェレスティの2枚の油彩画(1600年代)があった。

他の二人の貴族ルドヴィーコ・カルボとジョヴァンニ・コンドゥルメールと共に、彼はエヴォイア島(Eubea)のカルキス(Negroponte)の戦略的要塞の責任者で、その時トルコ軍が攻撃の陣形を全面展開して砦を攻め立てていた。

彼はヴェネツィアの司令官がよくやるように最後通牒を拒否し、敵の陣形の不備を発見し、勇猛果敢な反撃を当然の事とした。全員虐殺の憂き目に遭ったのだが、最後に敵の手に落ちた彼は、スルタンに頭は見逃すと約束され、残虐凄惨にも2枚の板の間に挟まれて、鋸で体ごと真っ二つに挽き切られた。

エーリッツォ家は9世紀にスロヴェーニアのコーペル(Capodistria)からやって来た古い一族であるが、総督フランチェスコ(1631~46)を生んだ。彼は勇敢な兵士であったが、セレニッシマに長い平和をもたらした。

彼はサン・マルティーノ教会に葬られた。近年分かった事であるが、自分の心臓がサン・マルコ寺院の大祭壇傍に葬られることを望んでいた。何年もの間、モザイクの間に置かれていた心臓形の板が意味していた物は不明になってしまったが、最近の床面発掘調査でその板が移動させられ、小さな箱に入れられたものが総督の心臓であったことが判明した。

エーリッツォ家の者で最後の館の所有者は、狂信的なまでに保守退嬰の人間であった。1700年代初頭亡くなったが、息子があまりにも現代的感性の持主で、“赤い靴下と鬘”を身に着けているのは犯罪的であるとして、息子を廃嫡した。事実可哀想な息子は、額にある目立つ傷痕を隠そうと、フランス到来の鬘という最新流行を身に纏っていたのだった。

父の死去に際して彼は遺言書に異議申立てをした。そしてその訴訟は6000ドゥカートを宗教施設に喜捨するということで解決を見た。」
  1. 2014/09/04(木) 00:01:08|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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