イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの歴史: アッティラの劫掠(452年)

Giovanni Distefano『ヴェネツィア史 421-1099』(Supernova、2010.02)の452年の項にはアッティラの劫掠についての記述があります。
ヴェネツィア史 421-1099「452年= ラグーナの島々は、434年からフン族の王アッティラ(Attila)の本土側への侵入を恐れ、逃げ落ちる先となっていた。アッティラの南下で、最初のヴェネツィア(Prima Venetia)が避難民達により形作られ、第二のヴェネツィア(Seconda Venetia)は裕福な避難民達が更に新しい時代を切り開いた。

しかしマルティーノ・ダ・カナールが語るように、ラグーナに移り住んだ人々は《大量の金銀》を持参してきたので、今やラグーナのヴェネツィアと本土のヴェネツィアの分離が始まったのである。
アエティウスアッティラ左、アエティウス。右、アッティラ。両者PCサイトから借用
451年ガリアで西ローマ帝国の将軍アエティウス(Ezio)に敗れたアッティラは、パンノニアで軍隊を再編し、北西アルプス(Alpi Giulie)を経てイタリアへ南下し、アクイレーイアを包囲した――この町は誕生以来632年間、誰にも征服されたことはなかった――3ヶ月の攻略で攻め落とされ、大半を破壊し尽くされた。

更にヴェーネト内陸に侵攻すると、世紀初めのアラリックや他の蛮族の侵入で生じた避難逃亡のように、ラグーナの島々への次なる新たな移動の引き金になった。アクイレーイア以外にも、ドミノ現象でコンコルディア、オデルツォ、アルティーノ、パードヴァ、エステの人民も移り住んだ。

その移動騒ぎは、多分近隣のせっぱ詰まった状況にある人々の興味を呼び、自分の田舎から近いラグーナの中の島々で生き永らえることの出来る希望を与え、自分達が作り住んでいた社会を後にしたのであった。」

日本の百科事典から、フン族の支配者アッティラ(?-453)の概略を引用してみます。
「434年その兄弟ブレダとフン族の共同支配者となったが、445年彼を殺し独裁者となった。版図は今日のハンガリーを中心に東カフカス、西ライン川、北デンマーク、南ドン川右岸まで。447年彼の軍はトラキア地方を蹂躙し、テルモピュライとコンスタンティノープルに近付いた。その間70の都市城砦を陥れた。このためビザンティン帝国は和平のため彼に莫大な賠償金を約束した。

451年彼の軍はガリアに侵入、カタラウヌム平原でアエティウスの西ローマ軍と西ゴート・ブルグント諸族連合軍に大敗(カタラウヌムの戦)。452年彼は北イタリアを劫掠、アクイレーイア、パードヴァ、ミラーノ等を攻略して西ローマ帝国から莫大な賠償金を取り、本拠地のパンノニアに帰ったが、間もなく病死した。」
  1. 2014/10/30(木) 00:07:11|
  2. ヴェネツィアの歴史
  3. | コメント:0

第29回ヴェニス・マラソン

昨日のLa Nuova紙を見ますと、恒例の“ヴェニス・マラソン”の模様が報道されています。記事内容は以下です。
マラソン競技「 エティオピア選手マモが第29回ヴェニス・マラソン優勝
――イタリア走者グァルディの前、2時間16分45秒で第一走者はテープを切った。グァルディは1分55秒離された――

今朝エティオピア人カテマ・ベハイル・マモが、ストラからヴェネツィアまでのコースの第29回ヴェニス・マラソンを制した。20歳のエティオピア青年は、イタリア人トップのジョヴァンニ・グァルディの前、2時間16分45秒の記録で、セッテ・マルティリ海岸通りのゴール・テープを切った。グァルディはトップを牽引するグループの7番目につけて走り、最終コーナーで挽回し、トップから2分弱遅れの2着でフィニッシュした。……」

2011.03.19日のブログ年中行事(10)でこのマラソンの来歴について触れました。
  1. 2014/10/27(月) 16:02:08|
  2. ヴェネツィアの行事
  3. | コメント:0

ヴェネツィアの歴史: ヴェネツィア共和国の建国(421年)

例えば、ヴェネツィア大学の日本語科で、ネイティヴ教師をされている中山悦子さんが訳された『図説・ヴェネツィア――「水の都」歴史散歩』(ルカ・コルフェライ著、河出書房新社、1996年1月25日刊)の巻末の年表で、伝説上のヴェネツィア建国は421年となっています。塩野七生さんの『海の都の物語』(上巻)はアッティラの南下(452年)から始まっています。

ヴェネツィアで買った本、Giovanni Distefano『Atlante storico della Serenissima(ヴェネツィア史) 421-1099』(Supernova、2010.02)の421年の項には次のような事が書かれています。
ヴェネツィア史 421-1099「ヴェネツィアの最初の教会建築と建国の伝説上の謂れは3月25日である。その日、世界の創造が祝われた、即ち聖母マリアの受胎告知と架刑のキリストである。4人の司教の前で聖なるジャーコモ・アポーストロに捧げられた初めての聖教会を建設することが、厳かにリアルトで宣言された。

4人の司教とは、ヴェネーティコイ(Venetikoi)と呼ばれた古ヴェーネト人や、本土側に住むヴェーネトの人々と区別するために島の人々と呼ばれた人々の魂を司る司教、パードヴァのセヴェリアーノ(orセヴェリーノ・デ・ダルディ)、アルティーノのイラーリオ、オデルツォのエポーディオ(orグローディオ)、トレヴィーゾのジョコンド(orジョクンド)である。

司教と共にパードヴァから派遣されて来ている3人の執政官が、政治権力の代表として居た。パードヴァの司法権はラグーナを形成する地域の大部分、特に将来ヴェネツィアとなる最初の萌芽としての24軒の家に囲まれた教会のある場所にまで及んでいた。

この3人の執政官は、写本によればガリエーノ・フォンターナ、スィモン・グラヴィコルノ、アントーニオ・カルヴォであった。パードヴァで発見されたヴェネツィア草創期についての文書によれば、その員数は6人であったという。いずれにしても写本が語るところは、3人の執政官が島々を統治したのは34年間であったという。同じ写本は更に、教会が信仰の対象として認められたのは422年のこと、また別の写本は429年のこととしている。

当然の事であるが、我々は伝説の中にドップリ浸かっている。しかし2007年4月13日、ヴェーネト州は法令第8号を可決することになる。それはヴェーネト語を知り、保護し、その使用を促進すること、地名についての調査研究を助成し、援助すること、ヴェネツィアの建国記念日、それは全ての鐘楼の上に輝くシンボルとしての祝日だが、それを制定し、Festa del Popolo Veneto(ヴェーネト人民の祝日)と呼び、“3月25日”という日を思い返すのである。

そのヴェネツィア建国の記念日にヴェーネト史を思い起こすよすがとし、オリジナルな言語的財産を価値あるものとし、文化、風俗習慣、市民道徳の価値を人々に周知徹底させるのである。

続いて波のように押し寄せてきた蛮族のこの地域への侵入という恐怖は、パードヴァ人にラグーナの中に逃げ場を作らねばという思いを抱かせた。

401年アラリック(伊語Alarico―西ゴート族の王)率いる西ゴート族が南下して来たが、別の蛮族の地域にローマの介入で留まった。ヴェローナで彼らを退却させたそのスティリコ(伊語Stilicone―ローマの将軍)はイタリアの解放者として歓迎された(403年)。数年後ラダガイスス(伊語Radagaisoラダガーイゾ―東ゴート族の指揮者でゴート、ヴァンダル、ブルグンド等のゲルマン混成軍を率いた)に率いられたゴートやシュヴァーベンのゲルマン混成軍が荒れ狂い(407年)、直ぐにヴァンダル族がそれを真似た(408年)。[ラダガイスス混成軍はスティリコのローマ軍によりフィエーゾレ近郊で殲滅(406.08.23.)]。

続いて再びアラリックが南下してパードヴァを略奪した。414年には彼の後継者のアタウルフ(伊語Ataulfo―西ゴート族の王。皇帝の妹ガラ・プラキディアを奪い、妻とした――ガッラ・プラチーディア(伊語)の霊廟はラヴェンナにあります)の劫掠があった。町の建国のドキュメントによれば、パードヴァのラジョーネ館の火災(420.02.02)が町を救ったという。その文書はある人は偽造文書としているが、421年執政官がラヴェンナとローマだけに配置されることに反対したのだった。

パードヴァ人の将来のラグーナの中の町の中心と考えられたリアルトのサン・ジャコメット(S.Giacometo)教会の建設を監督すべく、6人の執政官が任命されたのだが、3人はその仕事の遂行を手助けする者であり、あとの3人は、2年後にはそこに定住を始めるが、その実現をコントロールする者であった。……」
  1. 2014/10/23(木) 00:07:34|
  2. ヴェネツィアの歴史
  3. | コメント:0

寺崎武男展(2014.10.02~11.16)

寺崎武男(1883~!967)という画家を初めて知りました。人伝に展覧会の事を教わり絵を見に行ってきました。11月16日までやっています。
寺崎武男展・表寺崎武男展・裏寺崎武男はヴェネツィアで学んだ彫刻家長沼守敬(もりよし)らに憧れて、自身も農商務省留学生として1907年(明治40年、24歳)渡伊し、ヴェネツィア国立高等美術院で、人体、彫刻、建築、版画等美術全般を修め、テンペラ、フレスコ画、エッチング等研究・制作し、1916年(大正5年、33歳)帰国しました。在伊中、天正遣欧少年使節の事跡に感動し、生涯使節の事とヴェネツィアに拘って描いたそうです。ヴェネツィアを第二の故郷としていたそうです。
ヴァチカンへの行列レデントーレの祭総督宮殿ヴェニスの船出寺崎武男画、左から①『遣欧少年使節 ヴァチカンへの行列』②『ヴェニスの歓迎~レデントレの祭り』③『ドゥカーレとサンマルコ広場』④『ヴェニスの船出』――②は、1585年6月26日に、フェッラーラからキオッジャを経てヴェネツィアにやって来た天正遣欧使節を、7月のレデントーレの祭の豪奢な船列で出迎えた、として描いているようです。毎月25日に行われていた定例の聖マルコの祝日の華麗な行列も6月29日に遅らせて少年使節に披露されたといいます。

2008.11.29日に書きました墓参のように、彼はヨーロッパ初の日本語学校の日本人教師として、ヴェネツィアで最後の6代目教師を1908~09年勤めました。日本語教育の教科書の編纂にも関わり、その何年か後始まった、ヴェネツィア大学日本語学科の礎を築いた人といえるでしょう。

今回の展覧会で分かった事は、2008.03.21日に書いた天正遣欧少年使節(1)のドメーニコ・ティントレット(大ティントレットの息子)が描いた伊東マンショの未発見の肖像画が、本年2014年3月イタリア北部のある個人コレクションで見付かったという、ニュースです。未見ですが、何年か前の伊東マンショの新しい絵の発見といい、今回の発見といい、感動的なことです。是非見たいものです。

この目黒駅前の久米美術館は、岩倉具視の米欧回覧に随行して、『米欧回覧実記』を著した久米邦武を記念する館です。邦武の息子桂一郎は洋画家で、黒田清輝と共にパリからヴェネツィアに寺崎武男を訪ねて遊びに行っているそうです。久米邦武については2010.10.16日のブログ久米邦武をご覧下さい。
『イタリア図書』44号神田神保町のイタリア書房刊行の雑誌『イタリア図書』(年二回刊)の44号から、寺崎画伯の御子息寺崎裕則氏が御尊父の事績について執筆連載中です(最新刊は50号)。

追記=伊東マンショPCで検索した結果、上記のこの“伊東マンショ像”(トリブルツィオ財団蔵)の絵に遭遇しました(絵は日本美学研究所のサイトから借用)。次のブログが大変参考になりますのでご覧下さい。日本美学研究所。尚、この発見の経緯を2014.03.20日の読売新聞が詳しく報じているそうで、その事に触れたブログEssais d'hermeneutiqueで知ることが出来ます。
  1. 2014/10/18(土) 23:04:52|
  2. ヴェネツィアに関する展覧会
  3. | コメント:2

ヴェネツィアの建物: バルバリーゴ館

マッダレーナ運河から更に進むとバルバリーゴ館となります。E.&W.エレオドーリ著の『大運河』(1993)には次のようにあります。
バルバリーゴ館他「この建物は16世紀後半まで遡れるが、それ以前に存在した二つの建物を結合したもので、この建物の中心軸は二連窓とその脇に置かれた三連窓(各階にズレが見られる)という、均質でないものを統合した一塊の中心をなしている。

時代の要請でファサードはブレッシャの画家カミッロ・ベッリーニとその弟子で協力者であったヤーコポ・パルマ・イル・ジョーヴァネにより寓意的主題によるフレスコ画で描かれた。フレスコ画は、現在では殆どその姿を消した。

バルバリーゴ家は“新しい”家系に属する一家であったが、19世紀初頭に絶えてしまった。一家の名前が世に出たのはアッリーゴの功績から始まったと言われているが、その彼は9世紀にサラセンを破り、敗者の髭で首環を作ったという。事実一家の家紋には六つの髭が描かれており、年代記によれば次の諷刺のようにまるで冗談だった。《お前の家紋には髭が六つあるが、それで"男″になった者はいない。》

ヴェネツィアでは稀な事であるが、バルバリーゴ家の二人の兄弟は総督室入口の敷居の溝に足を踏み入れていた。マルコは1485年、ペストが猖獗を極める中、選出されたが、翌年亡くなってしまった。

次いでアゴスティーノは1486年から1501年までヴェネツィアを統治した。総督職にあって1489年、ヴェネツィアはキプロス(Cipro)島の君主カテリーナ・コルネール女王を受け入れた。

アゴスティーノは人民の共感を得ることがまるで出来なかった。激しく批判され、強欲で吝嗇と思われた。習慣となっていたように死後も、彼のなした行動は厳しい取り調べの対象であり続け、相続人に加えられた6000ドゥカートの途方もない罰金が科せられることにもなった。ジョヴァンニ・ベッリーニ(ジャンベッリーノ)画のバルバリーゴ総督の肖像画が存在する。
総督アゴスティーノ・バルバリーゴ司令官アゴスティーノ・バルバリーゴ左、ジョヴァンニ・ベッリーニ画『総督アゴスティーノ・バルバリーゴ』。右、海軍司令官『アゴスティーノ・バルバリーゴ』。両者Wikipedia から借用
この一家の最も著名な人物の一人が、もう一人のアゴスティーノである。彼は1571年のキリスト教同盟軍の一員として参加した有名な海戦、レーパント戦のヴェネツィア軍の艦長だった。非常に有能な海軍指揮官であり海兵であり、トルコ軍に対して勇敢な戦士として戦った。

傷つき、右眼に矢を突き刺されながら、最終的な勝利の時まで命令を下し、司令を続けた。敵ながらあっぱれなアリ・パシャ(Wikipedia は Mahmet Shoraq と表記)の敗北に同盟軍が狂喜した、正にその時になってとうとう彼は呟いた。《ようやく旅立ちが出来るな》。そして矢を引き抜くや絶命した。

更に著名なバルバリーゴ家の人物には、1655年生まれの聖バルバリーゴと、カルロ・レッツォーニコの母親となったヴィットーリアがいる。彼女は自分の息子が1758年クレメンス8世の名で教皇庁のトップに立った、その同じ年に亡くなった。」

バルバリーゴ館の右隣はズリアーン・プリウーリ館です。E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のように言っています。

「セルリアーナ式の露台を持つ、1600年代のヴェネツィアに典型的な建築。建物の軸線に大運河に向いた大門があり、両脇には整然と片面窓が配置され、全体としてシンメトリーが若干左にずれている。

カノーヴァの保護者だったジローラモ・ズリアーンがメチェナーテ(保護者)として著名であり、1794年カノーヴァをサン・トロヴァーゾのプリウーリに託した。

ズリアーン家はヴェネツィアに多くの執政官を送り出した古い家系である。1120年慈善行為として教会や修道院を建造した。サンタ・フォスカの同じ敷地にズリアーン家は居住し、1379年税の登録書にも記載されている。

古い人物の中で、一人パーオロは1382年イラクリオン(Candia―クレタ島の港)総督になったし、数人の外交官も登場した。多くのズリアーン家の人々はここに住い、戦士、文学者、外交官となった。」
  1. 2014/10/16(木) 00:05:16|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
  3. | コメント:0

民話に表れたヴェネツィア(2)

『世界の民話――南欧(2)』(小沢俊夫編、安達茂之・沼田俊則訳、ぎょうせい、昭和52年3月10日)という本を読みました。そのイタリア編の中に《ヴェニス総督とどろぼう》という一編がありました。ヴェネツィアのお話です。次のように始まります。
『世界の民話』「たいへん古いヴェニスの都に、むかし、ひとりの総督がいた。心の広い、知恵のある、金持ちの男で、なにごとにつけ慎重で抜かりがなかった。この人は、メッセレ・ヴァレリアーノという名で、メッセレ・ヴァノッツォ・アッチェンターニの息子だった。

さて、ヴェニスのサン・マルコ大寺院には、世界でいちばん美しい、みごとな鐘楼があった。それはまた、当時ヴェニスの町がいちばん自慢にしていた建物だった。ところがこの鐘楼は、土台に何か欠陥があって、くずれ落ちる危険があった。

そこでヴェニス総督は、イタリアじゅうに人を捜しもとめ《鐘楼の修繕工事を引き受けようと思う者は、総督のもとに出頭せよ。その者には、金は要求するだけ与えよう》と、おふれを出した。

この話を、フィレンツェに住むビンドーという名の腕ききのとうりょうが聞きつけた。鐘楼がどうなっているのかそのようすを知ると、この仕事を引き受けることにした。そこでとうりょうは、息子と妻を連れてフィレンツェを引き払い、ヴェニスへ引っ越した。

鐘楼を調べた結果、これは改修できると思い、とうりょうは総督のところへ行って《閣下、鐘楼を修理しにまいりました》と申し出た。総督はとうりょうに大いに敬意を表し、よもやまの話をしながら、こう言った《とうりょう、このしごとはなるべく早くとりかかるように頼むよ。そなたのしごとぶりをぜひ見たいものだ》。《閣下、かしこまりました》と、とうりょうは返事した。

こうしてさっそくしごとにとりかかると、とうりょうは念いりに、しかも短期間で鐘楼を修理したので、前のものよりもりっぱになったほどだった。そのため総督は大喜びで、請求どおりに金を払い、とうりょうをヴェニス市民にし、収入もじゅうぶんに与えた。

それから、総督は言った《こんどは、宮殿を建ててもらいたい。そこには、ヴェニス市の宝物と財産をぜんぶ保管できる部屋を作ってほしいのだ》。

とうりょうはさっそく、総督の望みどおりに宮殿を建てるため、あらゆる努力をはらった。宮殿の中には、例の宝物を収めるための部屋を、ほかのどの部屋よりも美しくりっぱに作りあげた。

ところが、とうりょうはその部屋に、抜けめなく巧妙に石をひとつはめ込んで、取りはずしたり、もとどおり押し込んだりできるようにしかけをした。このようにしておけば、好きな時に部屋の中へ入り込めると考えたのだった。この秘密の入り口のことは、とうりょうのほかは世間のだれも知らなかった。…… 」
『図説 ヴェネツィア』ドージェ表メッセレ・ヴァレリアーノやヴァノッツォ・アッチェンターニ[メッセレ⇒Messere(メッセーレ―敬称の殿、氏、様の意)?]を総督一覧表で点検しても同じ名前がありませんので、現実にあったお話ということではないようです。
  1. 2014/10/09(木) 00:03:20|
  2. ヴェネツィアの伝説
  3. | コメント:0

インテルプレティ・ヴェネツィアーニ(ヴェネツィア室内合奏団)(4)

昨日イタリア文化会館で行われた、ヴェネツィア室内合奏団の演奏会に行ってきました。昨年に続き、3年連続の来日です。昨年はチェロ奏者のダーヴィデ・アマディーオさんはヴェネツィア本拠地の留守を守り、来日はなかったのですが、今年は来てくれました。
ヴェネツィア室内合奏団 表ヴェネツィア室内合奏団 裏当日の演目何年か前の横浜コンサートの時は、奥さんのクラウディアさん(団長のコニョラートさんの妹)同伴で、父君のコントラバス奏者ジャンニさん、ヴィオラ奏者の姉上ソーニアさんらを含めた演奏会でした。今回演奏会が始まる前、文化会館前の路上でばったり出会い、お喋り出来ました。

演奏はアントーニオ・ヴィヴァルディの『ラ・フォッリーア』で始まり、珍しくどよめきとスタンディング・オヴェーションで終わりました。私自身も大変感動しました。始まりの曲、ヴィヴァルディの『ラ・フォッリーア』をサン・ヴィダール教会で、ダーヴィデさんを中心に演奏する動画が Youtube にあります。次をどうぞ、ラ・フォッリーア
馬上の聖ヴィタリスサン・ヴィターレ(S.Vidal)教会祭壇画、カルパッチョ画『馬上の聖ヴィタリス』。この祭壇画前で彼らは演奏します。

数年前ヴェネツィアで、アッカデーミア橋を降りて、サン・ヴィダール教会前に差しかかった時、教会内部に眼をやると、祭壇で練習中のダーヴィデさんが気付いて手を振って呉れました。その後彼らの練習をずっと見ていました。練習風景を入口から見学してもいいのです。思い起こせば彼らの演奏を聞き始めて、今年が20年目となります。1994年、サント・ステーファノ教会で初めてこのグループを聴きました。前の席にいたフランス人夫婦が《Magnifique !》と叫んでいました。その2年後にはサン・サムエーレ教会で聞くなど長い歴史となりました。

インテルプレティ・ヴェネツィアーニ(ヴェネツィア室内合奏団)については、2012.09.25日のヴェネツィア室内合奏団等で今まで数回触れました。
  1. 2014/10/05(日) 03:42:09|
  2. 音楽
  3. | コメント:0

ヴェネツィアの建物: ソランツォ・ピオヴェーネ館、エーモ館、モリーン・クェリーニ館

カ・エーリッツォ・アッラ・マッダレーナ・ジャ・モリーンの右隣はソランツォ・ピオヴェーネ館です。E.& W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のような事を語っています。
ソランツォ館、エーモ館ほか「大玄関や窓のコーニスから1階の四角形の窓やメダル飾りに及ぶ左右のバランス、更には装飾的要素のエレガンスは、この建物を初期ルネサンスの最も心地よいものの一つとしている。16世紀前半の建築で、サンテ・ロンバルドに帰属する。彼は高名なトゥッリオとピエートロ・ロンバルドの息子であり、甥であった関係にある。

1760年に、ピエートロ・ソランツォの娘のチェチーリアは、ジローラモ・ピオヴェーネに嫁ぎ、この館を遺産として持ってきた。今日、財務警察の所在地である。」

その右隣のエーモ館について、上掲書の記述は次のようです。

「17世紀に建てられ、中央が突き出すような形に飛び出し、ファサードの角度が2面をなして大運河に向かい、開放的な形という特徴を示す。右のセクションである玄関側の上階は、楣(まぐさ)式のコーニスで飾られたアーチの二つの片面窓を右に配置して、三連開口部を持つセルリアーナ式窓を見せている。

左側のセクションは柱で縁どられた、三つの片面窓が規則的に配置されている[エーモ家はヴェネツィアでも古い家系として知られ、ヴェネツィアに色々建物を所持していた一家だったそうです]。」

エーモ家右隣はモリーン・クェリーニ館です。同書の記述を読んでみます。

「マッダレーナ運河の大運河への出口のカーブに建つこの建物は、16世紀のもので、ファサードの角度が変わって2面が運河に向き、広く広がっている。左角には、大運河への水への通用門が設けられ、上階の三連開口部となる四角形のセルリアーナ式窓は幅広で、他に片面窓を三つ従えている。

クェリーニ家の手に渡る前は、古い総督の家系であるモリーン家の所有で、887年以前の記録があり、大評議会の《セッラータ》時の黄金書(libro d'oro)に記載されている。905年建設のサンタニェーゼ教会のように、この一家によって建てられた教会がいくつかある。このモリーン一家からは勇敢な軍人が輩出した。

1500年代初め、マルコ・ミキエールはサン・マルコ財務官のルイージ・モリーンの息子を死に至らせた。この一家の長は裁判所に出頭する代わりに、自分の権利としてミキエールの罪を許し、もう一人の息子のマルコにも罪を許してやるように説得した。」
 ――E.&W.エレオドーリ著『大運河』(Corbo e Fiore Editori、1993)より

[セッラータ(serrata)――1297年と1307年に大議会の議員資格が特定の家柄に限定され、その家柄の全ての成年男子(25歳以上)は非嫡出や合法的に廃嫡された者を除き、大議会に議席を持ち、貴族と規定された――『ヴェネツィア貴族の世界』(永井三明著、刀水書房、1994年2月4日)より]
  1. 2014/10/02(木) 00:03:40|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
  3. | コメント:0

カウンタ

カレンダー

09 | 2014/10 | 11
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -

プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

最近の記事+コメント

カテゴリー

ブログ内検索

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク

このブログをリンクに追加する

過去ログ

フリーエリア