イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ホイッスラー展(~2015.03.01日まで)

横浜美術館で開催中の《ホイッスラー展》(2014.12.06日~2015.03.01日)に行ってきました。ジェイムズ・アボット・マクニール・ホイッスラー(1834.07.11.マサチューセッツ州ローウェル~1903.07.17.ロンドン)は、米国生まれの画家ですが、ヨーロッパ、特に英国で活躍した、ジャポニスムの画家として特に日本では有名と思われます。
ホイッスラー横浜美術館ジュニアガイド ホイッスラー展図録右、展覧会図録
このホイッスラーがヴェネツィアを描いています。『展覧会図録』からその事に関しての記述を引用してみます。
「グローヴナー・ギャラリーの杮落としで展示されたホイッスラーによる夜景『ノクターン』、特に《黒と金色のノクターン: 落下する花火》を美術批評家ジョン・ラスキンが酷評した[《公衆の面前で、絵の具壺をぶちまけた絵》と評した、名著『ヴェニスの石』の評論家は既に時代遅れの感性の論者になっていたのでしょうか]ことから、彼はラスキンを名誉棄損で訴えた。彼は勝訴したものの、僅かな賠償金しか得ることが出来なかった。

そしてパトロンであったフレデリック・レイランドと《青と金色のハーモニー: ピーコック・ルーム》の装飾を巡って仲違いしたこと、更に彼自身の贅沢な生活から、1879年5月には破産した。齢45。ロンドンの美術商ファイン・アート・ソサエティは、経済的に困窮したホイッスラーに12点のエッチングをヴェネツィアで制作することを依頼した。

ヴェネツィアでの滞在は1879年9月から3ヶ月を予定し、エッチングは同年12月のクリスマス前に出版されることになっていた。……彼のヴェネツィア滞在は予定の3ヶ月から大幅に延びて、14ヶ月に及び、凡そ50点のエッチング、100点のパステル画、8点の油彩画を制作した。

彼はアッカデーミア近くのレッツォーニコ館に宿を取り、1879年秋から1880年の初め頃まで滞在した。サン・マルコ広場のカフェに出入りし、多くの若い芸術家に出会ったが、中でも銅版画家オットー・ヘンリー・バーカー(1856~1909)とは懇意になった。彼の勧めでガリバルディ通り近く、スキアヴォーニ海岸通り端のカーザ・ヤンコヴィツに引っ越し、バーカーの隣人となった。ここからは総督宮殿、サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会、サンタ・マリーア・デッラ・サルーテ教会への素晴らしい眺めが広がっていた。
ホイッスラー経歴サルーテ教会 サンタ・マルゲリータ広場左、平凡社版『ファブリ世界名画集: ホイッスラー』(1973)、《生涯》、《バラ色と黒、サルーテ教会堂、日没》、右、展覧会図録『サンタ・マルゲリータ広場の鐘楼』

カナレット(1697~1768)、グァルディ(1712~93)、そしてターナー(1775~1851)等、過去の巨匠達は水の都ヴェネツィアの永遠性を描いた。しかし彼は彼らが好んで描いたサン・マルコ寺院、サンタ・マリーア・デッラ・サルーテ教会、大運河など歴史的建築物や観光名所を題材として選ぶことはなかった。

彼が選んだ主題の多くは、歴史あるヴェネツィアのモニュメンタルな建築物ではなく、小さな運河の奥まった何気ない一角、そこに生活する人々の日常と情景であった。
戸口ノクターン:溶鉱炉ノクターン:宮殿戸口とブドウの樹 庭左から(図録)、『戸口』『ノクターン: 溶鉱炉』『ノクターン: 宮殿』『戸口とブドウの樹』、右は『庭』(サイトから借用)

彼は1850年代に得た日常的な主題への興味を、パリやロンドンと同じように、ヴェネツィアでも示した。つまりホイッスラーは歴史の中からヴェネツィアの町が醸し出す本質的な要素を表現したのである。」

私はこうしたホイッスラーが描いた、ヴェネツィアの《光と影》の陰の部分の表現に惹かれました。

2009.08.01日のプルースト (2)で、ホイッスラーについて触れました。プルーストはホイッスラー等の画家をモデルにエルスチールという架空の画家を創造したのだそうですが、実名のホイッスラーの名前も『失われた時を求めて』の中には登場します。また例えば、明治時代の美術評論を蒐輯した東洋文庫『芸苑雑稿他』(岩村透著、平凡社)などでは、彼は《ジェームス・マクネイル・ウィッスラー》と表記されていたようです(「ウィッスラーのヴェニス滞在記」)。

なお常設展に、幕末、江戸・横浜などで活躍したヴェネツィア生まれの写真家フェリーチェ・ベアートの彩色写真の幾つか、『横浜』『鎌倉』『函館』『東海道の風景――リチャードソン氏の殺害の現場』『三田鋼坂』等が展示されています。

今年も後わずかとなりました。駄文に付き合って頂き、大変感謝しています。いいお年を迎えられますように、そして来年が良き年でありますよう、祈念しています。
  1. 2014/12/28(日) 21:03:31|
  2. ヴェネツィアに関する展覧会
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ヴェネツィアの歴史: アックァ・アルタ(588年)とオデルツォ陥落(639年)

ルカ・コルフェライ著『図説 ヴェネツィア――「水の都」歴史散歩』(中山悦子訳、河出書房新社)の巻末年表588年の項に「大雨と大洪水でヴェネト地方の河川が変化。アディジェ川の流れも変わる」とあります。

2013.01.19日のアックァ・アルタの2で、記録に残るアックァ・アルタの最初期のものとして、G.ディステーファノ著『ヴェネツィア史 421-1099』の589年の項として触れましたので、アックァ・アルタについてはそちらをご覧下さい。

『図説 ヴェネツィア』の次の639年の「オデルツォ陥落。ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の権力の中心はチッタノーヴァ、エラクレアに移る」という記述と同じ年の、『ヴェネツィア史 421-1099』の639年の項は次のようです。
ヴェネツィア史 421-1099「639年= 新王ロターリ(Rotari)に率いられるランゴバルド族は、アルボイノが防御が軍事的に万全として攻撃を避けていた町、オデルツォ、アルティーノ、パードヴァを攻めた。オデルツォは地域の政治的軍事的長(おさ)の在地であったが、最終的に墜ちた。

司教聖マニュス(Magno、古代羅語マグヌス)は(オデルツォの)opitergino の最も重要な一家らと共に、Melidissa(更にはエラクレーア)の島への脱出行を指揮した、何百という人々を引き連れて。一方、ある人々はイエーゾロへの移動を選んだ。

エラクレーアの名前は、教皇セウェリヌス(Severino)の教書の中に初めて(640年5月28日)登場する。彼はトルチェッロと、ビザンツ帝国皇帝ヘラクレイオス(610~641)が作ったエラクレーアのチヴィタ・ノヴァの教区を設けた人であり、その町を守った。この町の歴史は古い。
[イタリアでエラクレーア(Eraclea)という地名は、古代ローマ時代ヘラクレア(Heraclea/Herakleia)の戦いがあった、ターラント湾に面したポリコーロ(Policoro)傍の史跡としての名称と、ここヴェーネトの町。ヘラクレイオス(伊語Eraclioエラークリオ)が作った町の意で、エラクレーアと呼称されるようになったのでしょう]
Melidissaこの町はキリスト教時代、数世紀前に遡り、イゾンツォ川とアーディジェ川の間を下ってきて島民となった人達は狩猟漁労で生活していた。これらの島民達にとって、オデルツォの入江の Melidissa の島は、大きさでも重要さでも価値の高いものであった。この名前のギリシア語の意味(meliedes=より良い、中央の)では、この地域で最も評価の高い都市部であった。

伝説は言っている。即ち、既に169年にマルコマンニ族(marcomanni )から逃れようとしていた。グラード教区会議がオデルツォから司教座を移すことを決定した(579年11月3日)のであり、居住地とは決定的な役を果たすに違いないのだから、オデルツォの人々は Melidissa に移動したのだと。

正式には638年何が起きたか、事実、移動は568年に起きていた。その時オデルツォの司教聖マニュスは、ローマ教会と反対のアリウス派の信仰というキリスト教を信奉していたランゴバルド族の迫害を避けるために、最も重要なopitergino 一家らと移動してしまっており、その地にサン・ピエートロ・アポーストロ司教座聖堂を建てていた。

その時からエラクレーアは、西洋と東洋の架け橋としての入江地区の最大の町になっており、ビザンティンとランゴバルドの宮廷と、商業的・外交的関係を正式に持ち、商人達はコンスタンティノープル(Costantinopoli)でのように、パヴィーアでもどこでも赴いた。

それ故エラクレーアは、トルチェッロと同じようにラグーナの大商業センターであり、政治の中心になった。将来に生まれる総督の最初の在所、政治軍事の中心地であり、結局ビザンティン帝国の支配の下で、ローマのVenetia という、この地区の主都となる。

しかしながら現在、エラクレーアには何も残っていない。……」
  1. 2014/12/25(木) 00:00:44|
  2. ヴェネツィアの歴史
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ヴェネツィアの歴史: ランゴバルド族(569年)

ルカ・コルフェライ著『図解 ヴェネツィア――「水の都」歴史散歩』(中山悦子訳、河出書房新社、1996年1月25日)の巻末の年表の569年の項には「ランゴバルド族、ミラノに達する。陸地からラグーナの島々への避難」とあります。

G.ディステーファノ著『セレニッシマの歴史 421-1099』(Supernova、2010.02)には、568年の項にそれに見合う記事が次のように書かれています(当時ヴェネツィアの一年の始まりは3月だったようです)。
ヴェネツィア史 421-1099「568年4月2日= ランゴバルド(伊語Longobardo、独語Langobarde)[恐らく髭と髪を長く伸ばしていたため、こう呼ばれる。lunga(長い)、barba(髭)]族は、北パンノニア[ドナウ川南西部の古代ローマの属州、現、ハンガリー地域]を復活祭の日に出立し、Predil(Alpi Giulie 北東アルプス)の峠を抜け、アッティラや他の蛮族のように略奪行為はせず、その地に定住した。事実、スラヴやブルガリア兵で強化された軍隊の後ろから、それぞれ軍隊長の命に従う1万ほどの男達が35の部族に分かれ、全家財を携え、女、老人、子供、家畜らを従えた……。

ビザンティン人はイタリアを失うはめになったが、その間、オデルツォを主都に定めていた。スカンディナヴィア出身のランゴバルド族は良き土地を探して動き回り、ドイツ(Alemagna)に住んでいたバンダル族が移動した(369年)後、パンノニア[ハンガリー西部、ブルゲンラント(Burgenland)、ウィーンとスロヴェニアの一部のオーストリアの地域]に定住し(527年)、何年も動かなかった。

その間、ある物はコンスタンティノープル(Costantinopoli)の傭兵となってイタリア半島を南下し、その土地がパンノニアより良い土地と知って決定する……モルドヴィア(Moldovia)から来たフン族の一派のavari(強欲者) に譲って土地を後にした。彼らの残酷さとその恐ろしさは有名だが、ランゴバルド族はナルセス(Narsete)の助けを大いに得た。彼はラヴェンナを征服し、無秩序で強欲な、かなり危険な連中を国へ返した。

何年か後、ナルセスはその地位を奪われ、追放された(567年)。彼の代わりにロンジーノ(Longino)がやってきた。その間アルボイーノ(Alboino) はランゴバルト族の王となった(560)。そしてナルセス は無法に罰せられたと考えられるが、アルボイーノに侵入を示唆したのは、ナルセスが死ぬ(568年)前、兵站的な軍事計画を授けたのは彼だったのではないかと言われている。

ある事実からの推測がある。それはアルボイーノが素晴らしい戦略と十分な兵站準備で行動したということである。そして多分ナルセスの配下がいたということである。何故かならばその地域の資料が大切に保存されていたからである。多分ナルセスは自分の追放時、その資料と共に追い出されたに違いない。資料の内容とは、道、国、町、住民数、要塞、砦を守る守備隊数などである。

事実、半島を南下すると、アルボイーノは征服すべき場所を選び、よく守護された所やビザンティン海軍に容易に守護出来る海岸地帯は避けた。

征服の度にその種族の長は土地の総督の称号を彼に呈し、彼らは軍隊と家財道具等や後ろから付いてくる家畜類と共に定住した。こうして Venetia のチヴィダーレ・デル・フリウーリ(Cividale del Friuli―Forum lulii)に甥のGisulfo と共に最初のランゴバルトのドゥカーレ(ducaの)王国を創建した後、アルボイーノの王国はパダーニア(Padania)に広がっていった。

こうしたことで、最初オデルツォ、アルティーノ、パードヴァを軍事的に制圧することは止め、トレヴィーゾに方向転換し、ヴィチェンツァ、ヴェローナを征服し、更にミラーノにまで向かった(569年9月)。この地域全てを支配したため、Longobarda、即ちLonbardia と称されることになる。

そしてパヴィーアを攻め、3年後には降伏(572年)させ、彼らの主都とする。続いてアルボイーノは半島中央・南部のカラーブリアまで、ビザンティンの領域を三角形の形に攻めて行く。しかしこの半島周辺の海岸沿いはオリエントの帝国に臣従しており、アルボイーノからは自由だった。」
  1. 2014/12/18(木) 00:01:54|
  2. ヴェネツィアの歴史
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ヴェネツィアの建物: コンタリーニ・ピザーニ館他

グッソーニ・グリマーニ館を過ぎるとノアーレ運河の右隣にダ・レッゼ館があります。ひときわ低いゴシック様式の建物で、中央部に尖頭式の三連窓がありますが、建物前部に庭の空間を持つ、総体的に簡素な建物です。15世紀に建てられたのですが、直ぐに改築されたと言われています。
コンタリーニ・ピザーニ館他更に右に進むと、ボルドゥ・ギーズィ・コンタリーニ館です。この建物は1600年代のもので、1階部分は田舎風の浮出し飾りの石積みで、ピアーノ・ノービレは1階玄関門と同様な構造のセルリアーナ式で、軸線が右に偏っています。
[セルリアーナ式とは、ヴェネツィアの建築によく見掛ける三連の窓や門で中央はアーチ、両脇は楣(まぐさ)式の開口部となっているものを指します。]

現在では消滅してしまった家系ギーズィ家の分家の物でしたが、結婚で800年にヴェネツィアに到来したボルドゥ家の手に渡りました。その右の建物はコンタリーニ・ピザーニ館です。E.&W.エレオドーリ著『大運河』(Corbo e Fiori Editori、1993)は、この館について次のような事を述べています。

「古い建物を1600年代に改築したもので、1階ポルティコの右端の、ストラ半島産石のゴシック様式の柱頭の大きな柱は、多分その時の名残である。現在のファサードは大変単純なもので、中央に位置する2階と3階のアーチとなった楣式の三連窓は、ヴェネツィアでよく見掛けるものである。同じ様式が1階にも見られる。

コンタリーニ家はヴェネツィアにとって、重要であると共に古い大家の一つである。12使徒の家柄の一つで、ヴェネツィアで最大数の総督数、8人を生み、サン・マルコ財務官44人を輩出したが、現在では消滅してしまった。

イスラエルのザッフォ(ヴェ語Zaffo=伊語Giuffa、ヤッファJaffaのこと)から到来した伯爵の家系で、テル・アビブでシュヴァリエ(chevalier=騎士)身分を名乗っていた。大変に富裕であり、コンタリーニの名前はヴェネツィアの最も美麗な建築物と結び付くものである。

最初に総督になったドメーニコ1世(1043~70)は、その総督に相応しい寺院と重要な宮殿を持つべく努め、総督オルセーオロが建てた、倹しい古い建物は壊し、今日でも賛辞される素晴らしい建物を、数世紀後には完成するべく下準備に取り掛かった。しかし彼は、必要と思われる巨額の費用には心がひどく傷んだ。

サン・マルコ広場でのある特別の儀式の時、元首の考えを述べたいと思い、警察長官の大隊長に退任するかどうかを尋ねた。僭主政的専横を恐れる、勝手な行動を認めない元老院は彼を激しく非難し、警察長官という“大物(messer Grando)”が総督の言い分を聞くという軽率さを反省させようと獄へ入れられた。その時、総督は唯一警察官に命令を下すことが出来るのは元老院であることを知ることになった。

もう一人の偉大な総督はアンドレーア(1368~82)で、勇敢な軍隊指揮官であり、有能な政治家だった。彼には若い時、将来“閣下(Missier)”と呼ばれるに違いない雰囲気があったが、望みもしない名誉如きは避けたいがため、それに見合った態度を示すことが出来ると考え、41人の選挙人には立候補しないと伝えた。

しかしながら選出されたことが分かった時、町から姿をくらました。選挙の結果を彼に伝えなければならない委員会メンバーは、彼の自宅には使用人しかいないことを知った。誰も彼の居場所を知らず、その時判明したことは、新総督が町から逃げ出したということだった。

しかし元老院議員は役立たずのヴェネツィア人ではなかった。探偵となって、最終的に逃亡者を発見した。彼はパードヴァのあばら家に隠れ潜んでいた。彼は、かつてシリアに行った時、占い師に自分が総督職に就くとヴェネツィアが困った事態に落ち込むと予言されたと言って、言い逃れようとした。貴族達は、もしそれでも拒否するならば、死罪を申し付け、全財産を没収すると冷酷に言い放ち、話を切り上げた。

ヴェネツィアは後悔することはなかった。中でも彼の下でキオッジャとの長い厳しい戦いに勝利したのだが、ジェーノヴァ共和国との苛烈な関係が始まった。」
  1. 2014/12/11(木) 00:05:38|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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文学に表れたヴェネツィア――ハーマン・メルヴィル(2)

(続き)
「……聖歌隊、銀の吊り香炉が揺れている――信者達の上に香の煙。驚くべき効果である。香煙の下降は滑り降りてくるようである――草と草の間を。香の薫りは古めかしくて、それはこの町の教会の特徴である。今日に限って、その理由――原因が分かった。
ハーマン・メルヴィルハーマン・メルヴィル像、ウィキペディアから借用
町に帰る。輝かしい一日の終りは蜃気楼のような趣――マラモッコの島々への航路で船の航跡が揺らめいている。

サンタ・マリーア・デッラ・サルーテ教会、その八角形。またサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会。一連の木彫の彫刻群。溜息の橋の隣の総督宮殿の、庭の地面の広がり。火で燃え焦げたかのように黒ずんだ牢獄。総督宮殿またしかり。事実火災はあった。

サン・マルコ広場を散策。暇つぶしに歩く人々。鳩、鳩、鳩……。歩いてリアルトへ行く。大運河の上から下まで見渡す。ぶらぶら歩きを続ける。
カナレットのリアルト橋カナレットのリアルト橋の西側左、カナレット『大運河とリアルト橋を南から見る』、右、カナレット『大運河とリアルト橋を西から見る』
目を見張るような女達が列をなしている。ティツィアーノが描く女の浅黒い肌色は、いずれにしても自然が教えてくれたもの(ティツィアーノはヴェネツィア人)。明るく、燃えるような、金色に輝く褐色。カメオのように澄み切って、鮮やかな切り口の顔立ち。長く、狭い路地の奥の窓からの眺めである。

月の明かり、サン・マルコ広場のガス灯の明かりでのそぞろ歩き。十数人の歌手や演奏家達――リアルト傍の広場にサーカス芸人やお笑い芸人[ピエロ]。アクロバットの演技。総督宮殿のアーケイドは、言わば建築による垣根である。

この夏の穏やかな数日、ブロンドのヴェネツィア女達が水溜まりの中に生える百合のように、歩き回り、輝くように生きていた。

大運河は真っ直ぐではなく方形に広がって、桟橋を利用するため湾曲部もあり、イレギュラー。まるでサスケハナ川[ニューヨーク州中部から南流し、ペンシルヴァニア州東部とメリーランド州北東部を通過、チェスピーク湾に注ぐ]のように蛇行している。

フォースカリ館のバルコニーからの景観。まさに極上の見もの。巨大なパネル画。宿営のように辺りを睥睨している。オーストリアのハンモック、そして武具に磨きをかける人。広い玄関の間(ま)には料理人と掃除人。

ヴェネツィアではあらゆる交通手段が運河に顔を覗かせる。乗合馬車、個人用馬車、荷馬車、二人乗り馬車、二輪荷馬車(商売用の)、葬式用四頭立て馬車……。[ヴェネツィアでは馬車は走れません。全て船の意です]」
  ――ハーマン・メルヴィル『イタリア日記』《ヴェネツィア滞在記》の伊訳から日本語へ
  1. 2014/12/05(金) 00:02:47|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ヴェネツィアの現在: アックァ・アルタ(高潮)

アックァ・アルタのニュースしきりです。今日のLa Nuova紙は次のような記事を発表しています。
アックァ・アルタのサン・マルコ広場「 ヴェネツィアで今朝、最高120cmのアックァ・アルタ
――キオッジャでは更に悪く、8時30分には125cm。雨は降らないが、ボーラ(暴風雨になり易い北からの風)が来ている。

今朝ヴェネツィアにアックァ・アルタが襲った。8時30分に最高120cmに達した。今季この現象が数日前から続いているが、ここまで高くなるとは予測されていなかった。

キオッジャでは更に悪く、最高122cm、ブラーノ島では114cm。雨は強くはないが、ボーラが吹きまくっている。」

アックァ・アルタについては、2013.01.19日のアックァ・アルタ 2等で少し詳しく触れました。
  1. 2014/12/03(水) 18:35:21|
  2. ニュース
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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