イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィア: ヴァポレット事故

2015.01.29日のLa Nuova紙に次のニュースがありました。

「 リアルトでヴァポレット同士の衝突、乗客2人怪我
――2船の内1船のエンジン故障で、13時20分、衝突事故、船首がもう一方の船に突っ込む――

大運河のリアルトでヴァポレットの衝突。ローマ大広場方面に向かう、カルボーン河岸を13時20分発の第2番線の82号ヴァポレットは、リードに向かう、ローマ大広場発のヴァポレット47号が近付くのを見た。

47号は着岸しようとしながら、エンジン停止となった。運転士は制御不能に陥り、周囲のゴンドリエーレに注意を呼び掛けるために、故障を知らせるサイレンを鳴らした。

このヴァポレットの進み具合は、ローマ大広場方面行きの桟橋から離れてしまったヴァポレットの船首に直進した。船首同士の衝突により、満員の船上の2人が船から投げ出された。47号の男性には、スーエム(Suem)の医師が手術を要求しているし、82号の女性は肩を痛めたが、医学的処置は緊急を要しない、とされている。……」[Suem=Servizio di Urgenza ed Emergenza Medica]

2013.08.17日に、ゴンドラとヴァポレットが衝突して、独人観光客が死亡した事故(ゴンドラ乗船客の初死亡事故)のゴンドラ事故の記事を紹介しましたが、今回は死者もなく、なりよりでした。
アックァ・アルタ今年のカーニヴァル(明01.31~最終日02.17日)が迫っていますが、本日のニュースには相変わらずのアックァ・アルタが来襲する様子が報じられています。La Nuova2(110cmの高潮)。昨年のカーニヴァルでもサン・マルコ広場を海水が来襲しました。
  1. 2015/01/30(金) 15:00:59|
  2. ニュース
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法学者の紀行文に表れたヴェネツィア――田中耕太郎

『世界紀行文學全集 第五巻 イタリア』(修道社、昭和四十六年九月三十日)に収録された、吉田茂内閣文部大臣等を歴任した、東京大学法学部の田中耕太郎教授の紀行文《イタリア紀行》は、彼の著書『南欧芸術紀行』(文藝春秋新社、1952年刊)からの転載と思われます。その中の《ヴェネチア、12.11》編は、次のように始まります。
世界紀行文学全集「ヴェネチアは不思議な都である。その全体が大小の運河を通した島の上にあることはとくにいうをまたない。水はこの町の往来で、小蒸気やゴンドラは町の交通機関である。道は全部見事な敷石で、狭く迷宮のようになっているが極めて清潔である。

ところによっては人二人が触れ合わないではすれ違えない。道は複雑していて行き止りが多く、不案内の私は人の家や運河に突き当って引返さなければならぬことが度々あった。往来には車類は一切見受けられない。自動車は勿論のこと自転車、荷車さえもない。従って車を曳く牛馬もいず犬すら見受けられない。

この故に人は安心して歩むことができる。町全体は石畳が敷きつめてある。公園もなく庭園もない。ここでは我々は土を踏む可能性は絶対に存しない。」
……
「リアルトーの橋を渡りティチアノのアヌンチアチオーネ及びジォヴァンニ・ベリーニのエマオのクリストを蔵するサン・サルヴァトールを見、最も繁華な商業区域のメルツェリアを通ってサン・マルコの広場に出る。

その南北はプロクラチェ(ドーチの下の高官の邸宅)でその東はサン・マルコの教会にによって囲まれ、全部石を敷きつめた長さ百七十五米、幅五十六米の大広場はイタリアのみならず他の国においても比類のないものである。

私は十八世紀のヴェネチアの画家の描いたこのピアッツァの油絵をロンドンで多く見たが、それは今でも全くその通りである。我々はそれからしてヴェネチアの盛時をさながらに見ることができる。……」

現在では旅行ガイドが正確になり、こういう、かつての紀行文を距離をもって読むことが出来るようになり、隔世の感があります。かつて初めてヴェネツィア行を目指した時、トーマス・マンのように船でサン・マルコ岸へ着岸を、と思いながら、当時のガイドにはそういう案内はなく、発見まで数年掛かりました。その間、伊語習得を目指しました。今では一つの手段、マルコ・ポーロ空港からアリラグーナ船でサン・マルコ広場前に直接到達する便を知っていますが。
  1. 2015/01/23(金) 00:01:00|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ヴェネツィアの建物: フォンターナ・レッツォーニコ館とミアーニ・コレッティ・ジュスティ館

コンタリーニ・ピザーニ館を更に右へ行くと、トラゲット通りの右に16世紀の建物、レーヴィ・モレーノス館があります。この館の一部の庭が大運河に面し、脇のサン・フェリーチェ運河と、ミアーニ・コレッティ・ジュスティ館の一角の庭とに挟まれて、フォンターナ・レッツォーニコ館があります。この建物についてE.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のように語っています。
フォンターナ・レッツォーニコ館「……二つの庭に挟まれて建つ、この大きな建物は16世紀終りから17世紀初めの建造と言われている。対称形をなしていないファサードは、大運河側の大門と軸線をなす一面窓を両脇に置く四連窓からなり、コーニスと窓の露台を水平方向の大理石飾りで結ぶようにして、開口部の柱を幾何学的網目模様で飾っている。

1549年ピアチェンツァからヴェネツィアにやって来たフォンターナ家のために建てられた建物。この一家の一人、ピエートロはフランス王のお陰でカゼルタの支配者となった。彼の娘達四人は、皆ヴェネツィア貴族と結婚した。

ある期間、この館はレッツォーニコ家に貸し出され、1695年カルロ・レッツォーニコがここで生まれた。彼は将来、教皇クレメンス(Clemente)8世(1758~69)となる。」

この館の右隣は、ミアーニ・コレッティ・ジュスティ館で18世紀にアントーニオ・ヴィゼンティーニが建てたものです。上掲の『大運河』(1993)は次のように書いています。
ミアーニ・コレッティ・ジュスティ館「画家であり建築家であったアントーニオ・ヴィゼンティーニによって、1776年(ファサードにその年号が刻まれている)建てられた。彼の名前はカナレットの都市景観画(veduta)を板刻した版画で、特に有名である。

ファサードは美しい。彫刻を収めた壁龕とアーチ型の大門がドーリア式の半柱の間で交互に繰り返される1階は、パッラーディオを連想させるものであり、露台が水平に流れる上の階では、テラコッタ製のパネルが嵌め込まれ、彫刻的要素はなくなり、最上階には胸像が置かれている。そしてその上は屋根裏部屋である。

右隣はカ・ドーロ(フランケッティ美術館)であるが、今日、このジュスティ館もフランケッティ美術館の一部である。」

2012.10.13日のブログアントーニオ・ヴィゼンティーニでヴィゼンテーニとミアーニ・コレッティ・ジュスティ館について触れました。
  1. 2015/01/22(木) 00:07:36|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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旅行記に記されたヴェネツィア――与謝野寛

神田神保町を歩いていましたら、『保存版 世界紀行文學全集――イタリア』(修道社、昭和四十六年九月三十日)が古本屋さんの店頭に並んでいましたので、購入しました。ヴェネツィア滞在があっても、編輯ものですので必ずしもヴェネツィアが取り上げられている訳ではないし、内容によりカットされたりしているかも知れません。歌人・与謝野晶子の連れ合い、与謝野寛(号、鉄幹)のイタリア旅行記《ヴェネチヤ編》(明治45年)がありましたので、先ずその引用をしてみます。
世界紀行文学全集「 ヴェネチヤ
午前四時にヴェネチヤへ着いた。水の上の街は夜霧の中にぼんやりと黒く浮いて居る。乗客の少い夜汽車から降りた三十人程の者は夜が明けて後に来る一銭蒸汽を待つ積りか大抵停車場(ステイション)の待合室へ入って仕舞った。

前の岸には五六隻のゴンドラが寄って客を呼んで居る。三四人其れに乗る人もある様だから僕も其内の一隻へ飛乗った。いや飛乗ろうものなら直ぐに顚覆するに決ってるが、其れと見て岸に居る一人の立ン坊が船を押えて呉れる。其処へ船の中から差出す船頭の手につかまって徐(そ)っと乗ったのだ。早速立ン坊君に五文銭一枚を与えねば成らなかった。

ゴンドラは軽く跳る様に水を切って小さな運河へ入った。天鵞絨(ビロウド)を張った真黒な屋形の中に腰を掛けた気持は、上海(シャンハイ)で夜中に乗った支那の端艇(はしけ)を思い出させた。狭い運河の左右は高い家家で劃(しき)られ、前は暗と夜霧とで二間と先が見えない。

運河は矢鱈と曲り、曲り角の高い壁に折折小さな瓦斯(がす)灯の霞んでる所もある。出会う舟も無いのだが、大きな曲り角へ来る度に船頭が《ホオイ》と妙に淋しい調子で声を掛ける。あとはなみなみとした水を切る櫓の音許りだ。

一人乗ってる僕は大分心細かったが二十分の後に再び大きな運河へ出て詩人の名を家に付けたホテル・カサ・ペトラルカの門前へ着いたのでほっと安心した。門の鈴を船頭が稍(やや)久しく押してると、之がヴェネチヤ美人と云うのだろう、目の大きく張った、チチヤノの絵に見る様な若い女が寝巻の上に遽(にわか)に着けたらしい赤い格子縞の前掛姿で白い蠟燭を手にして門を開けて呉れた。

一寝入したと思う間も無く寺寺の朝の鐘が遠近(おちこち)から水を渡って響くので目が覚めた。窓の下が騒がしいのでリドウを掲げると運河には未だ水色の霧が降って居る。弱い朝日の光が霧を透すので青青とした水が紫を帯び、其れに前の家家の柱や欄干やゴンドラを繫ぐ杭などが様々の色を映してるのが堪らなく美しい。そして騒がしいのは行き交うゴンドラの船頭の声であった。
……
三日目には美術館でチチアノの《基督(クリスト)昇天》、《ピエタ》を始めチエポオロの絵を観、又貴族政治時代の栄華をドガアルの宮殿に眺めたが、フィイレンチェ行の汽車の時間が迫ったから委しく書く余裕が無い。最後に昨夜の月明に何処からとも無く響くギタルの音を聞いて寝たのが何だか物哀しかったことを付記して置く。」
  1. 2015/01/15(木) 00:04:09|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ヴェネツィアの現在: チェスキーナ洋子さんに弔意を

2015.01.12日のLa Nuova紙によりますと、ヴェネツィア在住の超有名日本人、チェスキーナ永江洋子さんがお亡くなりになったとあります。ご冥福をお祈り致します。

洋子さんは芸大を卒業後、戦後初の公費留学生としてイタリアに渡り、ヴェネツィアのベネデット・マルチェッロ音楽院でハープを勉強中、イタリアでも指折りの億万長者、レンツォ・チェスキーナ伯爵と知り合い、結婚され、伯爵夫人となられます。レンツォ氏没後、その遺産を譲り受けるも、レンツォ氏の甥との10年にも渡る遺産相続裁判沙汰があり、彼女が勝訴し、ヴェネツィアに定住することで決着したようです。

若い音楽家達を援助したり、平和のためのコンサートを開いたりしたことで知られ、ヴェネツィアを取材に来たテレビマン等彼女にお世話になった人々は数多いと思われます。例えば、サン・マルコ広場のカッフェ・ラヴェーナ(Lavena)はヴァーグナーが愛したことで知られますが、チェスキーナ家の持ち物と記憶します。
ヴェネツィア 私のシンデレラ物語チェスキーナ洋子著『ヴェネツィア 私のシンデレラ物語』(草思社、2003年3月)で彼女の事は詳しく知ることが出来ます。
  1. 2015/01/13(火) 22:37:54|
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ヴェネツィアの人口(2)

先日、1月5日の新聞La Nuova紙が、次のような記事を掲載しました。簡単にリードの部分を訳してみます。
ヴェネツィアの人口「 ヴェネツィアの人口、下降: 昨年更に397人、減
――ヴェネツィア本島からの住民の流出が続く。ヴェネツィア・ラグーナの島々からも人口は緩やかに下降しつつある。対岸のメーストレは600人の増加を見た――

2013.05.22日のヴェネツィアの人口 1で触れましたように、ヴェネツィアの人口は 58.000人を割った後、更に減少を続けているようです。
  1. 2015/01/12(月) 23:26:37|
  2. ヴェネツィアの人口
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ヴェネツィアの伝説: 初代総督パオルッチョ・アナフェースト(697~716)(2)

(続き)
「ラグーナ内部の土地を覆っていた政治的・精神的危機感の中にありながら、その地方の中心である厳しい政庁から自治独立したのだが、それは行政・防衛の面ではビザンティン方式であり、宗教はローマ教会式で、正に一つの伝説、少なくとも一つの言い伝え、それは具体的な証拠で補強はされていないのだが、最初の duca(公国の君主)、ヴェネツィア語で言う doge(ドージェ、総督)の選出に関係する伝説として広まっていく。

即ち、エラクレーアで697年に選ばれたパオルッチョ・アナフェースト(Paoluccio Anafesto)である。更に詳しく言えば、それはサッビオーニ岬そばのリーオ・グランド海岸の、今日では失われてしまったサン・ニコロ教会に残る、ある言い伝えに寄るのである。

13世紀に遡る、Altinate 年代記には、グラードの大司教クリストーフォロの下、決定された重要な政治に参加した最重要な家の名前が列挙されている。大司教には、ビザンティン政庁に繋がる、〝自治がより一層逞しくなる″〝憲政的な熟成度の確保"〝彼らの力に頼りながらではあるが、ある国家的状態に達する"といったような意味合いがあった。

Apostolico(使徒の)という形容詞を冠する12の家系は重要で裕福な家だった。Badoer(バドエール)、Barozzi(バロッツィ)、Contarini(コンタリーニ)、Dandolo(ダンドロ)、Falier(ファリエール)、Gradenigo(グラデニーゴ)、Memmo(メンモ)、Michiel(ミキエール)、Morosini(モロズィーニ)、Polani(ポラーニ)、Sanudo(サヌード)、Tiepolo(ティエーポロ)がそれであった。

この選出については、何世代もの歴史記述家達の言い争いが続いた。公の市民集会はあったのか、なかったのか、古い年代記といえども全ては後世のものであり、実際に起こったように事件を語る、あるいはヴェネツィアの自治独立を顕彰したいがために、むしろ事件を歴史叙述の必要に合わせようとする。確かにこの選挙活動についての疑いは存続する。

しかしながらランゴバルド王リウトプランド(Liutprando、712~744)の時代、712年以後のことであるが、パウリーチョ(Paulicio)公(duca)は軍略に秀でたマルチェッロ(Marcello)と共にエラクレーアの領地の中でランゴバルド王国との境を定めようとしたのは確かなことである。

しかしこのパウリーチョがいかなる人物であったか、明確な部分もあるが、彼をランゴバルド公と同一視する人、また彼を初代ヴェネツィア総督とする人、あるいはまたそれが正しいと思われるが、ラヴェンナのビザンティン太守(esarca)、パウルス(Paulus)と同一視する人もあり、その人物はこの地域の全土地を法の下に統合する任にあった。

地域の境界線の画定は、国家の役目であったし、確かに責任ある当局の特権であった。即ち、ラヴェンナの太守(ビザンティンのesarca―Paolo/Paulus)と地域の偽政者(軍事の専門家 Marcello)の、海賊の侵入等からヴェネツィアを守るための最初の町の要塞化の仕事は、Paulicio/Paoluccio の役目であった。当然海軍造船所の建設も必要であった(このケースも mere illazioni である)。

そして717年居住地としてのエラクレーアに叛旗を翻すマラモッコとエクィーリオの貴族の陰謀の犠牲となり、街が陥落した。」
ヴェネツィアが燃えた日[第2代総督は、マルチェッロ・テガッリアーノ(717~726)と言われていますが、この軍事の専門家のマルチェッロがその人だったのでしょうか。マルチェッロ家は1700年代には、アレッサンドロとベネデットの音楽家を輩出し、ヴェネツィア音楽院の正式名称はその名前でベネデット・マルチェッロ音楽院です。現代のマルチェッロ家の頭首ジローラモさんは、ニューヨークに死んだロシアのノーベル賞詩人ブロツキーの遺体をサン・ミケーレ島墓地に移し、葬りました。ブロツキーはヴェネツィアに来ると、マルチェッロ家に泊めてもらっていたようです。ブロツキーについては2009.11.14日の、《ヨシフ・ブロツキー 2等で触れました。上掲の『ヴェネツィアが燃えた日』はマルチェッロ家とブロツキーの関係や米人詩人エズラ・パウンドのこと等、大変面白い本です。一読をお勧めします。]
  1. 2015/01/08(木) 00:03:00|
  2. ヴェネツィアの伝説
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ヴェネツィアの伝説: 初代総督パオルッチョ・アナフェースト(697~716)(1)

新年明けましておめでとうございます。

Marcello Brusegan著『ヴェネツィアの伝説と神話』の中に、初代ドージェ、パオルッチョ・アナフェーストについての神話伝説的記述《パオルッチョ・アナフェースト、最初のヴェネツィア総督選出》があります。読んでみましょう。
Marcello Brusegan『ヴェネツィアの神話と伝説』「ランゴバルド族による568年のアクイレーイアの征服、ラグーナ内の最も安全な地帯グラードへの大司教パオリーノの蒼惶とした逃亡は、ヴェネツィアが公式にも誕生したことを明確に示している。事実パオリーノは、破壊され占領されたアクイレーイアを逃げ出す時、キリスト教精神をしかと心に留め、全ての侵入者、あらゆる脅しに対する叛旗を高く掲げ、アクイレーイアの聖人や殉教者の聖遺物と共に逃亡した。

それは残酷で神を持たぬ蛮族の押し寄せる波の防波堤となったのである。侵入という危険に対しては浅瀬や Velma(=伊語 melma ラグーナ内のぬかるみ)で守られたラグーナの住民達に精神生活と市民生活というものが生まれた。それは直ぐ後にグラードの総大司教となった大司教の存在によって守られたのである。

ランゴバルド族とビザンティン間の反目は、大変激しく大きなものであり、6~7世紀の間、数十年にも及んだ。この二つの民族の争いは、解決を見ないまま何年も続き、帝国のヴェーネト地域、アウグストゥス帝の古い第10州はビザンティンにとって、本土側のほんの僅かの土地、ストラ半島を残すのみにだんだん追い込まれた。正にこの時代、ラグーナのコロニー化が最終的な局面を迎えた。

ランゴバルドの圧迫の前で、脅威はますます強くなり、ビザンティンの持つローマらしさはますます東へ、アドリア海岸際へと追いやられ、活動出来る地域は限られて、まるで東ローマ帝国の憎まれっ子の息子達は海に放り込まれそうで、ますます増える逃亡者達はラグーナの島々へ移動していき、より組織的で自治独立したコミュニティーを作り上げた。

本土のランゴバルドの地域とラグーナのビザンティンに属する地域との間の政治的断絶は非常に明白である。一方の側が、ランゴバルド王国とそれに従う公国、もう一方が、゛軍事の専門家゛に支えられたラヴェンナのビザンティン管区に従うビザンティンの領域、即ち、軍隊司令官は639年までオデルツォに居住したが、640年からエラクレーアのチッタノーヴァに移動した。

色々の執政官はこれらの国に所属していたが、彼らはそれぞれ独立した島や海岸を統治し、今まさにそこは住民のセンターになりつつあった。これらの執政官は最高の資産家、最も裕福な一家と一体となって行動するのだが、彼らは軍事的必要から、法的行政的任務を任されてコミュニティーを指導した。 ……」  (続く)
  1. 2015/01/01(木) 00:07:58|
  2. ヴェネツィアの伝説
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プロフィール

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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