イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: カ・ドーロ(1)

ミアーニ・コレッティ・ジュスティ館の右隣は、有名なカ・ドーロ館です。現在、ジョルジョ・フランケッティ美術館です。E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)はこの建物について次のように語っています。
ミアーニ・コレッティ・ジュスティ館ミアーニ・チェレッティ・ジュスティ館、カ・ドーロ「この建物はヴェネツィア・ゴシック建築の宝石として、大運河の中で最も有名、且つ人々に賛美されているものであり、総督宮殿と、その装飾の豊饒さにおいてのみ、比肩し得るものである。

1424~34年、マリーノ・コンタリーニのためにゼン家の敷地に建てられ、壁面を飾る珍しい様々の色の大理石装飾故、黄金の館と称されるが、かつては素晴らしい金箔で覆われていたそれが、現在では消滅してしまった。

ロンバルディーア人マッテーオ・ラヴェルティと、ヴェネツィア人ボン父子ジョヴァンニとバルトロメーオの作品である――この2人の有名な石工は総督宮殿の布告門(Porta della Carta)の作者でもある――彼らはこの魅惑的で洗練された、盛期ゴシック様式の傑作を作ったのである。

透かし模様で、左に寄った中心軸は、ビザンティンの装飾片に溢れ、繊細に彫られた、大運河に面した装飾開廊が1階に開けている。

カ・ドーロは商館住宅(casa-fondaco)と言われるもので、事実マリーノ・コンタリーニは商人貴族であった。2階、3階の大サロンは入り組んだアーチと、大運河に面した開廊の四葉装飾の素晴らしい多連窓から明かりを取り込み、反対の壁面には飾り窓が中庭に開かれている。

ファサード右のセクションは、2種の一面窓に挟まれた広い壁面を、よくあるように、色で絵画処理が施されている。両角は複雑な綱模様の大理石で際立ち、豪華なレース様装飾として、空に向かって浮かび上がらせている。

館は続いてマルチェッロ家の手に、更にロレダーン家の手に渡った。1802年には《相当壊れた》物として事業家ポッツィによって獲得されることになる。

1846年にはロシアのアレクサンデル・トゥルベツコイ(Alessandro Trubetzkoi)公が、バレリーナ、マリーア・タッリォーニへの贈り物とすべく、館を引き継ぎ、ジョヴァン・バッティスタ・メドゥーナに修復を任せた。彼は全てを作り変えようと、ボン作の貴重な井桁、ラヴェルティの中庭に通じる外階段を撤去し、大理石や柱頭を取り替えてしまった。

幸いなことにジョルジョ・フランケッティが、1894年所有者となり、館の損害を見極めようとし、古物商から取り戻そうと、メドゥーナによって売り払われた物を取り返し、元々あった場所に置き直した。

ライモンド・フランケッティ男爵は、最終的に1916年国に譲り、国は寄贈者の豊富なそのコレクションをそこに収め、人々の鑑賞に堪えるようにした。それらには貴重な絵画作品、大理石、ブロンズ像、家具、その他ヴェネツィアの芸術作品が多数含まれている。

館は、近年修復された。」

現在、左隣の、ヴィゼンティーニ作のミアーニ・コレッティ・ジュスティ館と繋げられ、フランケッティ美術館となっているようです。
  1. 2015/02/26(木) 00:04:06|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
  3. | コメント:2

精神病理学者フロイトのヴェネツィア

岡田温司著『フロイトのイタリア――旅・芸術・精神分析』(平凡社、2008年7月25日)を読みました。著者によれば、ジークムント・フロイト(1856.5.6モラヴィアのフライベルク(現チェコ、プシーボル)~1939.9.23ロンドン)はイタリアに大変興味を抱いており、当時オーストリア領であったトリエステに滞在したその後、40歳の時、1895年8月23日初めてイタリア領ヴェネツィアに足を踏み込んでイタリア旅行を始めたそうです。それから後20回以上、イタリアを訪れたとあります。イタリア美術にも大変関心があったようです。 
フロイトのイタリアその後ヴェネツィアには、1896年8月30日、1897年8月25日、1898年4月8日、1898年9月10日、1902年8月28日とオーストリアから南下して来て、ヴェネツィアの地を踏み、その足でイタリア旅行を始めたのだそうです。 

「フロイトの思想および精神分析の理論の形成に、実は彼のイタリア旅行と、この国の芸術や文化が深くかかわっていた」と述べられているように、本書の目次《イタリアからの便り、前・後篇》《イタリアへ向かって/生殖器》《石は語る》《レオナルドとミケランジェロへの挑戦》《イタリアのフロイト――カトリシズムとファシズムの狭間で》といった章から、フロイトのイタリアへの興味が伝わってきます。この本の《1895年夏、ヴェネツィア》は次のように始まります。

「一八九五年の最初のイタリア旅行がヴェネツィアだったというのは、おそらく偶然ではないだろう。二〇年近く前のトリエステ滞在のことがフロイトの念頭にあっただろうし、地理的にみても、イタリアへの通過儀礼がまずヴェネツィアからはじまるというのは、ウィーンの旅行者にとって、ある意味でごく自然な選択だったであろう。しかし悩みの種がないわけではなかった。誰を旅のパートナーにするかである。……」

「……有頂天の彼にとっては、弟アレクサンダーがさっそくイタリアの洗礼を受けて、初日から《五回も一リラを騙し取られた》ことでさえ、《おもしろい》と感じられる。この国では旅行者がペテンや窃盗のいいカモにされる、人口に膾炙したこの風評が現実となるのを目の当たりにして、フロイトは、どこか楽しんでさえいる様子である。……」

「《……昨日はそれからサン・マルコの鐘楼に登り、さらにリアルト橋から出発して町を歩いて横断してみた。そのおかげで、かなり奇妙なものまで見ることができたよ。フラーリ聖堂とスクオーラ・サン・ロッコを訪ね、ティントレット、ティツィアーノ、カノーヴァの作品を心ゆくまで楽しんだ。広場のカフェ・クアードリには四回も立ち寄り、手紙を書き、買い物のための交渉に取りかかった。……》(フロイト書簡)」

「かつて一八世紀には、イタリア旅行は《グランドツアー》と呼ばれ、一部の貴族や富裕層にのみ許されていた特権で、古代とルネサンスへの彼らの憧憬を刺激し、そして満たすものであった。その旅行は、芸術家や文学者、哲学者たちを駆り立てていたばかりでなく、貴族や富豪の若者たちにとっては、人文主義的で博物学的な教育の最後の仕上げとなる必須のカリキュラムでもあった。

イタリアはまさに、文化と芸術と自然を学ぶための現地実習場だったのである。だが、《崇高》で《ピクチュアレスク》な馬車によるこの《グランドツアー》の時代は、いまや過去のものとなっていた。……」
 ――岡田温司著『フロイトのイタリア』(平凡社、2008年7月25日)                                                  
  1. 2015/02/19(木) 00:03:48|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
  3. | コメント:0

箱根ガラスの森美術館

つい先日、箱根ガラスの森美術館に行ってきました。現在、ヴェネツィアはカーニヴァル真っ最中なので、ムラーノガラスを見ながら、ヴェネツィア気分を味わいたいということでした。2年前このシーズンに同じように仮面や衣装を貸し出して、カーニヴァル気分でヴェネツィアングラスを鑑賞するという試みがありましたが、今年も同じように無料で仮面や衣装を貸出していました。どうせですから、借りてみました。
ヴェネツィア仮面祭ヴェネツィア仮面祭裏リヴィオ・セグーゾ展リヴィオ・セグーゾ展裏この催しとともに、ヴェネツィアのガラス彫刻の巨匠リヴィオ・セグーゾの展覧会もありました。セグーゾのガラス作品は、この美術館の常設展示でも展観出来ます。
見終わってコーヒーを飲みに館内のレストランに入ると、この期間のために(?)イタリアから招かれている楽団 《La Sinfonia dei Fiori》の5人のメンバーが2人ずつ交代でカンツォーネを披露していました。この時間は歌手の Oscar さんとヤマハのキーボードで伴奏する Enzo さんの演奏で、演奏後話し掛けると、その母国語に喜んで、お名前を教えて頂けました。
  1. 2015/02/15(日) 10:36:54|
  2. ヴェネツィアに関する展覧会
  3. | コメント:0

ヴェネツィアはビザンツから独立(751年)

ルカ・コルフェライ著『図説 ヴェネツィア』(中山悦子訳、河出書房新社)の巻末の年表、742年の項には「チッタノーヴァ、エラクレアの政治の中心がマラモッコに移る」、更に751年の項には「ランゴバルド族ラヴェンナ征服、ヴェネツィアはビザンツから独立した存在となる」とあります。G.ディステーファノ著『ヴェネツィア史 421-1099』(Supernova)の751年の項でもう少し詳しく見てみましょう。
ヴェネツィア史 421-1099「751年: ビザンティン人がラヴェンナから追い払われた。――
ランゴバルド(longobardo)族の王アストルフォ(Astolfo―749~756)がこの町を征服し、五都市連合のペンターポリ(Pentapoli)はビザンティン太守の支配した行政区に終止符を打たせた。ヴェネツィア総督はそれに介入しなかった。むしろランゴバルド族との善隣を目指し、協定を結ぶことを優先した。ラヴェンナ陥落の時、ヴェネツィア総督領の真の独立の端緒がほの見えた。

ビザンティン皇帝の好意を失ったために、行動に二つの間違いを冒した。いずれにせよ、アルボイーノ(Alboino)が侵攻し(568年)、オデルツォとアルティーノの占領(639年)の後、ランゴバルドのヴェーネトへの侵入が完結する。

コンスタンティノープルはランゴバルド族の征服には動こうとはせず、その時、アストルフォは勝利したと思い、イタリア半島でのビザンティンの権威は自分に移ったと思い、この統治権を行使しようとローマに迫った。

教皇ステファヌス(Stefano)3世(752~757)にとっては、フランスに難を逃れ、フランク王ピピン3世(714~768)短躯王(il Breve)に教会とローマ人の保護を求めるしか手立てがなかった。その交換に、教皇はピピン3世とその二人の息子、カール大帝(741~814―シャルルマーニュ)とその弟カールマン(Carlomanno―751~771)にローマ貴族の称号(754年)を与えた。その称号には権限などは含まれていなかったが、ローマ公のもとで定住することは出来た。

この行動で教皇の俗権が生まれたと言われている。その俗権は教皇庁の人達がコンスタンティヌス帝まで遡らせるもので、有名な《コンスタンティヌスの寄進》状と呼ばれるものを生んだのである。それはロレンツォ・ヴァッラが証明したように、偽文書である。ランゴバルド人がラテン語で書いたものである。

その中で言われている事は、凡そ次のようである。シルウェステル1世(314~335―Silvestro)によりハンセン病(癩病)から回復し、彼によって洗礼を受けたローマ皇帝コンスタンティヌス(Costantino)1世は、ローマ、全イタリアや西欧世界における司法長官の職と支配権を彼に与えた。

そして口出しや介入をされないために――天界の皇帝であるキリストがキリスト教信仰の第一人者(教皇)を指名するという、その力を地上の皇帝が、使用するのは相応しくないのだが――ビュザンティオン(Bisanzio、ビザンティウム)に(ローマに変わる)新都市を移し、コンスタンティノポリス(伊語Costantinopoli、英語Constantinople、現Istanbul)として建設した。」

日本の百科事典に《コンスタンティヌスの寄進状》という項目があります。読んでみましょう。
「中世最大の偽書といわれる文書。作成の事情に関しては異見が多く、ピピン3世の754年のローマ教会への寄進に関連し、800年のカール大帝の戴冠を正当化するためにローマで作成されたとする説が有力であるが、9世紀前半フランク王国成立説もある。

内容は、コンスタンティヌス1世(大帝)が癩病を時のローマ司教シルウェステル1世の洗礼によって治癒したことに感謝して、ローマ司教とその後継者がアンティオキア、アレクサンドリア、コンスタンティノープル、エルサレムの四主教座の上に支配権を有すること、またローマ市を含む全イタリア、西方属州、地区および都市をローマ司教の支配にゆだねることを述べており、教皇権の世俗権、皇帝権に対する優越を主張したものとされる。その偽書たることは15世紀にニコラウス・クサヌスおよび最終的にはバラ[ロレンツォ・ヴァッラ]によって論証された。」
  1. 2015/02/12(木) 00:03:07|
  2. ヴェネツィアの歴史
  3. | コメント:0

ヴェネツィアの歴史: 726-27年

ルカ・コルフェライ著『図説 ヴェネツィア』(中山悦子訳、河出書房新社)の巻末年表、726-27年の項は「ローマ公領とビザンツ帝国の対立。ヴェネツィアはローマ側につく」とあります。G.ディステーファノ著『ヴェネツィア史 421-1099』(Supernova)の726年の項を読んでみました。
ヴェネツィア史 421-1099「ビザンツ皇帝レオ3世(basileus Leone Isaurico、717-41)は、ローマ人のような聖画を崇拝するというやり方には反対で、そうした宗教画の撲滅を指示し、その破壊を始めた。彼の確信は、国外の聖画は国内の物に比して疎外されたものであり、遠ざけ、廃止すべきものということであった。

しかしこの法令は、先見の明に満ちた伝説から来るものであろう。二人のユダヤ人が、彼が聖書で禁じられている聖画を打ち壊せば、帝位に就いて、長い王朝が続くと予言したことにもよるだろう。

最初、この法令にはコンスタンティノープル(Costantinopoli)で、抑えることの出来ない反発を引き起こしたが、町は次第に、偶像崇拝と考えられた聖画から解放されていった。

教皇グレゴリウス2世(Gregorio Ⅱ、715-31)は、《宗教画の中に、天と現世の間での一つのシンボル、瞑想の要素》を見、イタリア人にこの法令に従わないよう、指令した(727年)。

ヴェーネト人は教皇庁の指示に従い、ラヴェンナではパウルス・エザルカ(esarca Paolo)がbasileus(皇帝)の意に従わせようとしたために、人民の激しい抵抗を引き起こし、その中で殺されてしまった。ヴェネツィア総督府とコンスタンティノープルの間に、大きな綻びが生じた。」

この記述を読むと、上記引用の『図説 ヴェネツィア』の「……ヴェネツィアはローマ側につく」の意味するところが分かります。
  1. 2015/02/05(木) 00:03:05|
  2. ヴェネツィアの歴史
  3. | コメント:0

カウンタ

カレンダー

01 | 2015/02 | 03
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28

プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

最近の記事+コメント

カテゴリー

ブログ内検索

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク

このブログをリンクに追加する

過去ログ

フリーエリア