イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

間奏曲: スキー

長女が苗場に行って、カービングスキーでまた一つスキーが上手くなった、様な気がするってメールして来ました。

幼稚園時代からスキーをやらせました。1級の親の教えを守って、今では親を凌駕していますが、スキー気違いだった私は、何年も前、中腰の姿勢が腰痛で出来なくなり、スキーを辞めてしまい、ヴェネツィアに行っても、猪谷千春さんがオリンピック・アルペンで第2位に輝いたコルティーナ・ダンペッツォへ行ったことがありません。

ヴェネツィアの直ぐ北の雪を被ったアルプス連峰をヴェネツィア本島から眺めるだけです。ミラーノ駅前で屋根に〝板″を積んだ車を見たことがありますが、ミラーノからはどこのスキー場に行くのでしょうか。イタリア語でスキー旅行は、settimana bianca と言うそうですが、スキーというのは1週間単位で日光浴をしながらのんびり楽しむもので、イタリアには日帰りスキーという発想はあり得ないでしょう。

ヴェネツィアのカーニヴァルからの帰り、フィレンツェの友人の家を訪ねたのですが、途中の電車で隣あった御夫婦がアイルランドの人で、御亭主は映画監督で伊語は話せず、御夫人と話しました。帰国して教えられたサイトを覗くとドキュメンタリー・フィルムの監督でした。

アイルランドと言えば作家のジェイムズ・ジョイスぐらいしか知らず、彼がトリエステで英語教師時代、イータロ・ズヴェーヴォ[日本では『トリエステの謝肉祭』(堤康徳訳、白水社、2002年9月5日)他があります]と知り合い、後ズヴェーヴォを欧州に紹介したこととか、5世紀の聖人・聖パトリックのこととかは話が通じましたが、発音が酷いのか、ラフカディオ・ハーンのことは伝わりませんでした。

彼らはアペニン山脈でスキーをすると言って、ボローニャで下車しました。フィレンツェの友人宅に行くと、娘夫婦達は今スキー場だ、と言われ、そういうシーズンであることを納得しました。

《おめず臆せず恥じらわず》(『壽曾我対面』)、ブロークンで話しかけてみると、《袖すり合うも他生の縁》で、イタリア旅行の楽しさが倍加します。フィレンツェのソーニア・アルフォンソ御夫妻もそういう縁で知り合いました。
  1. 2015/03/30(月) 22:16:15|
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ヴェネツィアの建物: ペーザロ・ラヴァ館とモロズィーニ・サグレード館(1)

カ・ドーロ館を越して右のカ・ドーロ通りを過ぎると、庭木の繁茂した館の右に、ジュスティニアーン・ペーザロ、あるいはペーザロ・ラヴァと呼ばれる小さな館があります。E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は、この館を次のように紹介しています。
モロジーニ・サグレード館「15世紀半ばの小さなゴシック建築の建物。元々は、ジュスティニアーン家の物であった。非対称のファサードで、右セクションは2階、3階共に四連窓に露台付きという景観である。1800年代に4階が増築された。1970年内部に手が入り、修復された。現在は、ヴェネツィアの〝Medio Credito″社の在所である。」

その右隣館はモロズィーニ・サグレード館です。上記『大運河』の説明は次の様です。

「元々ヴェーネト・ビザンティン様式だったこの館のファサードは、ゴシック期に改装されたが、幸運な事に18世紀初頭トンマーゾ・テマンツァに委ねられた、厳しい改築の中で、無傷に残った。その当時の所有者はゲラルド・サグレードだった。

2階の持ち上がったビザンティン式のアーチの美しい六連窓と、3階の四角に枠取りされた一面窓を脇に従えた四葉模様の四連窓は生き残った。これらは14世紀~15世紀初頭に遡る。

内部は完全に改築されたが、アンドレーア・ティラーリによる17世紀の美しい大階段は、1734年のピエートロ・ロンギのフレスコ画『巨人族の没落』で飾られ、よく保持されている。アッボンディオ・スターツィオとカルポーフォロ・マゼッティ=テンカッラの漆喰塗りも大変見事なものである。
[『巨人族の没落(Caduta dei Giganti)』は、ピエートロ・ロンギがマントヴァの Palazzo Te のジューリオ・ロマーノの fantasie に着想を得て、装飾的に描いたもの、だとか]

モロズィーニ家の沢山の分家の中には、トレッサとバンダの一家があり、その際立った紋章で特徴づけられている。モロズィーニ家は、古い16の〝ヴェネツィア護民官″の家系に属している。その名前は初期段階から今日まで、セレニッシマ共和国の家系にしっかりと結び付いている。その中には、高位聖職者、文学者、高名なる歴史家、有能な指揮官、その他27名にも及ぶサン・マルコ財務官を含む政治家達で、全て令名高き著名人であった。

一家には4人の総督、3人の総督夫人、サン・ジョルジョ・マッジョーレ島のベネディクト修道院の創立者ジョヴァンニ、ハンガリー王妃トマズィーナとセルビア王ラディズラーオ(伊語Ladislao)王妃コスタンツァという2人の王妃、スラヴ地方で公爵位を授かったアルベルティーノ。
[ラディズラーオ(Ladislao伊語)=Ladislas(仏)、Ladislaus(独)、Vladislav(露)、Vlad(ルーマニア)、La'szlo'(ハンガリー)と、セルビアでの呼称が分かりませんでした]

メダルの裏側に彫られた、14世紀四十人委員会の職にあったレオナルドが、寡頭政治を引っ繰り返そうと謀反に加わり、一生入獄の刑に処された。

またそれとは別に、アンドレーアは――マリーン・サヌードが『日記』に記しているように――息子がある貴婦人の宝石を奪おうと強引にキスに及んだのを咎められ、元老院の前に引き出されたのを見て、彼自身大いに憤激して息子自身に死の刑を要求し、それが受け入れられた、と。」  (2)に続く
  1. 2015/03/26(木) 00:05:55|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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文学に表れたヴェネツィア――河東碧梧桐

『世界紀行文學全集第五巻 イタリア』(修道社、昭和四十六年九月三十日)の中に、俳人河東碧梧桐(1873~1937)がイタリアを経巡り、最終的にヴェネツィアに至る旅をした記録『異国風流』(大正九年)があります。その中からヴェネツィアをご紹介しましょう。
世界紀行文学全集「……ベニスは世界の商業地であったと同時に、ベニス派芸術のルネッサンス時代にすら、一方の覇者ではなかったか。僅か数世紀前のお前達の先祖は、芸術美化の血をお前達にも、満ちてくる潮のように、注ぎかけている筈なのだ。私はいつか、無言の号令を群衆に対してしているような気にもなった。

チラとキャナルのような水の動きが見えた。石畳みの踏み心地が違った。空洞の上を歩む、鈍い音が、雑然と起こった。橋だなと思った、がそこらに露店めいたいろんな店が、ずっと軒を並べているので、橋を渡るような眺望もなければ、大キャナルを渡る気分もしないのであった。

これが、有名なリアルト橋なんだ。昔は東西ベニスを繋ぐ唯一の交通でもあった。この橋を挟んで、歴史つきの建物が屈指に遑ないほどある。ベニスの商人のシャイロックの物語にも出て来る。長さが百五十七呎あって、幅が七十二呎あるという、ベニスの誇りの一つであるところのリアルト橋……。まァそういう気分のする長い橋であった。

私は始めて、群衆の渦中に投じている私の位置を明らかに指示されたように思った。私はベニスの大通りを歩いている。群衆もそれぞれの用達しの用を持っている。何かの祭や一揆や示威運動のそれではないのだ。有閑階級の散歩や、カフェーの女あさりでもないのだ。どこに行く方向も、何をする要用も、希望も事務も、一切の持合せのなかったのは、ただ私一人であったのだ。

私は次第に京都の裏通りを歩いているよりも、もっと狭苦しい、この大通りの、余りに振わないショウウィンドをのぞいて行く余裕を見出した。ここにも目の覚めるような、強烈なる色彩に富んだ花屋があった。間口の極めて狭い、奥行きの果てしないベーカリーもあった。中にも、堂々たるガラスのドアを持った、大きな本屋と、美術写真屋が目についた。それよりも、私の是非見つけて置かなければならなかったのは、英国製両切れを売る煙草屋であった。
……
ベニスにも、こんな別な世界があるのか。私は我に返ってから、この大空地の一端から、敷石の一つ一つを踏み始めた。

この空地は、ベニスの心臓と言われる、サン・マルコの広場であったのだ。左右の勾欄を持った建物は、曾てはベニス最高官の棲んだ記念建築なのだ。最も奥の方に蟠居している怪物、それがサン・マルコの正体であったのだ。紀元後八百年代旧バシリカ風の建築であったものが、同九百年代のビザンチン風に改築され装飾され、其の内部のモザイクは今に、其の時代のベニスの代表作として尊重されている最古の芸術であったのだ。

品川の砲台の上に築かれた町、と見くびってもいいベニスの中に、このピアッツァ・サン・マルコの存在は、それがベニスの心臓であるよりか、ベニスの天国であり、ベニスの極楽浄土であった。サン・マルコの広場を持つことによって、ベニシアンの雄偉な、荘重な、しかも典雅と優婉を失わない画意詩情を代弁するのであった。

エトランジァのユートピアは、心からのベニス憧憬に早変わりするのであった。」
  1. 2015/03/19(木) 00:10:54|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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文学に表れたヴェネツィア―フィリップ・ソレルス(2)

フィリップ・ソレルス著『遊び人の肖像』(岩崎力訳、朝日新聞社、1990年12月20日)を読みました。この作家は女性との関係を中心に、色々の事に思いを馳せ、それについてイメージを膨らませ、膨らんだイメージに従って、物語がどんどん発展していきます。そんな中で、アーネスト・ヘミングウェイに就いて触れられた箇所がありました。
『遊び人の肖像』「……――1918年5月はじめ。19歳のときだ。彼はイタリアの赤十字に入るつもりでいる。目が悪いのに、受け入れてくれたから。ニューヨークでCGTつまりトランザトランティック郵船会社の『シカゴ丸』に乗り込んだ。シカゴ郊外のオーク・パーク、ボルドー、イタリアというわけ……。彼の言葉でなんとなく気に入っているのがあるんだ。『アフリカの緑の丘』のなかだったと思うけれど、《そしていつでもイタリア。どんな書物よりイタリアのほうがよかった。》『河を渡って木立のなかへ』は読んだ?
――いいえ。面白い?
――とっても。ほとんど対話だけで書かれているんだ。五十歳のアメリカ軍大佐とごく若い娘の。舞台はヴェネツィア。
――彼は自殺したの?
――リチャードソン社の連発カラビンでね。銀の象眼装飾のある銃で。
――どこで。
――アイダホ州サン・ヴァレー近くのケッチャム。1961年7月2日。
……
――そうなんだよ、《Je vous salue Marie, pleine de gra’ce》(私はあなたを讃えます、恩寵に満ちたマリアさま)が、突然、全文、白地に黒と書かれ、印刷されて出てくるんだよ。1934年、ある人がシーダーと白樫造りのヨットをとくにヘミングウェイのために建造してプレゼントしたとき、サラゴサにある聖母のための聖廟の思い出に彼はそれを《ピラール号》と命名する。『河を渡って木立のなかへ』という表題は、南軍の将軍ストーンウェル・ジャクソンが1863年5月10日、この世を去った日に述べた言葉からとられているんだけれども、この作品には実に奇妙な場面がいろいろ出てくるんだ……。

ヒロインのレナータが(現実にはアドリアナという名前で、人から聞いた話では去年自殺したらしいけれども、ヘミングウェイは書物のなかで、彼女のことを心から愛した唯一の女性と言ってるんだが、彼女自身は――もっともこういうことになると皆同じだけれど――彼との関係は純粋にプラトニックなものだったと言い張ってばかりいた。それにしても、彼が彼女のために最後の著作、偉大な弔歌ともいうべき『老人と海』を書きはじめたとき、彼女が彼に会うために母親といっしょにハバナへ出かけているというのは実に奇妙だ)、

とにかくそのレナータがいつも大佐の負傷した手に触れたがっていて、祖母の持ち物だった、さらにさかのぼれば祖母の母親の、さらにその母親のというふうに、代々受け継がれてきたエメラルドを彼にプレゼントする……。そしてそのあとのくだりが、僕を魅了する……。
……
――美しい文章ね、とジョーンが言う。ジョイスはこれを引用していたんですって? そしてヘミングウェイも、ジョイスが引用していたと言いながら、同じ言葉を引用しているわけ?
――そういうわけ。しかも『河を渡って木立のなかへ』では、ヴェネツィアで、大佐の口からその断片を言わせている。つまりトリエステのすぐそばで。大佐はトリエステに通じる道のあたりで鴨猟をしたあと(雄鴨を呼び寄せるために使われる雌鴨、いわゆる《おとりの雌》の話については、言いたいことがたくさんあるんだが)、心臓発作で死ぬことになっている。
――トリエステって、なにか関係があるの?
――ジョイスが『ユリシーズ』の大部分を書いた町なんだよ。 ……」

ソレルスは、自分の事を《ディアマンまたの名ソレルス、ボルドー生まれのヴェネツィア人》と称していますから、よっぽどヴェネツィアが好きなのでしょう。ソレルスについては2011.09.17日でフィリップ・ソレルス(1)で、またヘミングウェイの『河を渡って木立のなかへ』については2009.08.15日のヘミングウェイ(1)と2009.08.22日の(2)で触れました。
  1. 2015/03/12(木) 00:06:45|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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Ca' d'Oro[カ・ドーロ、黄金の館](2)

(カ・ドーロ続き)
また別のR. ルッソ著『ヴェネツィアの館』(1998)は、次のような事を語っています。
ヴェネツィアの邸館「共和国時代、総督宮殿(Palazzo ducale)はパラッツォという称号で飾ることの出来る唯一のものだった。貴族達は自分達の邸宅を casa(カーザ=家)とか、略して ca'(カ)と呼び、その後に一家の名前を従えた。それ故カ・ドーロは一家の名前がドーロだったのか。否、このあだ名はファサードを飾る、素晴らしい金箔に由来する。

カ・ドーロはサン・マルコ財務官マリーノ・コンタリーニによって盛期ゴシック様式で、1422~40年に建てられた。彼は当時ヴェーネト・ビザンティン様式の建物が建っていた地所を、1412年に購入した。そして1431年ズアーネ・ダ・フランザ(Zuane da Franza)と呼ばれた仏人画家ジャン・シャルリエ(Jean Charlier)と、多色大理石に輝き、金箔を追加するという契約を結んだ。

狭間胸壁の石材、両隅の柱頭のライオンの彫像、窓上部の入り組んだアーチの飾り等、全てが金箔で覆われた。

色々の所有者の手を経て、カ・ドーロはロシアのアレクサンデル・トゥルベツコイ(Alexandre Troubetzkoi)公が獲得した。そして当時最も賞賛されたスター、卓越した踊り手マリーア・タッリォーニへの贈り物にした。

トゥルベツコイ公がカ・ドーロを彼女への贈り物にしたのは、苛酷で厳しい専制君主であったニコライ(Nicola)1世が、彼に自由主義者としてシベリア送りの刑を科したことから、彼女が救ってくれたことに感謝してのことだった。この独裁者はマリーア・タッリォーニの、あまりの魅力に堪えることが出来なかったのである。

当時この建物は、悲しむべき状態にあった。当時のこの建物についての評価資料によれば、バルコニーには戸もガラス戸も全然なく、雨水が吹き込み放題だった。イタリアにおけるオーストリア帝国軍最高司令長官ラデツキー伯は、ヴェネツィア滞在時、躊躇なく彼女宅を訪れたが、この著名な踊り手は、大運河に面した歴史的建物の収集家だった。即ち、サンタポナールのブゼネッロ館、サン・サムエーレのロンゲーナ作ジュスティニアーン・ロリーン館、サンタンジェロのコドゥッシ作エレガントなコルネール-スピネッリ館を所持していた。

カ・ドーロを修復しようと、彼女は建築技術者ジョヴァンニ・バッティスタ・メドゥーナの所に赴いた。ジョン・ラスキンが見て唖然としているのは、著書『ヴェネツィアの石』の中で暗示的に書かれている。メドゥーナは床を破壊し、壁柱や枠組みを粉々にし、大理石、石材、柱頭を持ち去ったのである――彼を直ぐにでも法廷に呼び出さなければならない、許し難いことなのである。

1894年カ・ドーロを、音楽家であり、コレクターであったジョルジョ・フランケッティが獲得した。ヴェネツィア市にこれを渡す前、館の修復に着手した。フランケッティ男爵の遺灰は中庭の円筒の斑岩の柱の中に納められており、中庭には1427~28年バルトロメーオ・ボン作の有名な赤大理石の井桁もある。それをガブリエーレ・ダンヌンツィオは《il gran pozzo rossigno(赤茶けた大井戸)》と呼んだ。

1927年に開場して一般に供され、実際館は絵画や芸術作品の一大コレクションである。アンドレーア・マンテーニャの『聖セバスティアヌス』やピザネッロ、ジェンティーレ・ベッリーニ、ヴィットーレ・カルパッチョの作品を鑑賞出来る。言っておかなければならないのは、1508年ドイツ人商館(Fontego dei Tedeschi)のファサードにジョルジョーネとティツィアーノが描いたフレスコ画による装飾の断片がある事である。」
  1. 2015/03/05(木) 00:02:17|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ヴェネツィアの人口(3)

先日のLa Nuova紙がヴェネツィアの人口動態を図化したインフォグラフィックを発表しています。参考までに訳してみました。
ヴェネツィア「 住民175000人から56000人へ、こんな風にヴェネツィアの過疎化が続く
――インフォグラフィックで示されたヴェネツィア本島の住民数の下落傾向は、毎年1871~2013人の割合で。本島、本土側、ラグーナ島嶼部、市全体について――

ヴェネツィアは死ぬ、とグッチーニが歌っていた。旧セレニッシマ共和国は人口減少しつつある、ということは今やニュースにもならない。毎年毎年のヴェネツィア本島の人口減少のデータを見ると唖然たる印象を覚える。インフォグラフィックの図で、1871年から2013年までの毎年の住民のデータは、ヴェネツィア本島、ラグーナ内島嶼部、本土、ヴェネツィア全市に分けられている。

本島の人口がピークを迎えたのは1951年で、175,000人に近かったのが分かる。そして今日の56,000人へと至るゆるやかな減少カーブが始まった(ヴェネツィア市統計局による)。」

Centro Storico(ヴェネツィア本島)、Estuario(島嶼部)、Terraferma(本土側)、Totale Comune(ヴェネツィア市全体)の頭の○をクリックすると、その人口動態に変換出来ます。
  1. 2015/03/01(日) 12:00:54|
  2. ヴェネツィアの人口
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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