カ・ドーロ館を越して右のカ・ドーロ通りを過ぎると、庭木の繁茂した館の右に、ジュスティニアーン・ペーザロ、あるいはペーザロ・ラヴァと呼ばれる小さな館があります。E.&W. エレオドーリ著『大運河』(1993)は、この館を次のように紹介しています。
「15世紀半ばの小さなゴシック建築の建物。元々は、ジュスティニアーン家の物であった。非対称のファサードで、右セクションは2階、3階共に四連窓に露台付きという景観である。1800年代に4階が増築された。1970年内部に手が入り、修復された。現在は、ヴェネツィアの〝Medio Credito″社の在所である。」
その右隣館はモロズィーニ・サグレード館です。上記『大運河』の説明は次の様です。
「元々ヴェーネト・ビザンティン様式だったこの館のファサードは、ゴシック期に改装されたが、幸運な事に18世紀初頭トンマーゾ・テマンツァに委ねられた、厳しい改築の中で、無傷に残った。その当時の所有者はゲラルド・サグレードだった。
2階の持ち上がったビザンティン式のアーチの美しい六連窓と、3階の四角に枠取りされた一面窓を脇に従えた四葉模様の四連窓は生き残った。これらは14世紀~15世紀初頭に遡る。
内部は完全に改築されたが、アンドレーア・ティラーリによる17世紀の美しい大階段は、1734年のピエートロ・ロンギのフレスコ画『巨人族の没落』で飾られ、よく保持されている。アッボンディオ・スターツィオとカルポーフォロ・マゼッティ=テンカッラの漆喰塗りも大変見事なものである。
[『巨人族の没落(Caduta dei Giganti)』は、ピエートロ・ロンギがマントヴァの Palazzo Tè のジューリオ・ロマーノの fantasie に着想を得て、装飾的に描いたもの、だとか]
モロズィーニ家の沢山の分家の中には、トレッサとバンダの一家があり、その際立った紋章で特徴づけられている。モロズィーニ家は、古い16の〝ヴェネツィア護民官″の家系に属している。その名前は初期段階から今日まで、セレニッシマ共和国の家系にしっかりと結び付いている。その中には、高位聖職者、文学者、高名なる歴史家、有能な指揮官、その他27名にも及ぶサン・マルコ財務官を含む政治家達で、全て令名高き著名人であった。
一家には4人の総督、3人の総督夫人、サン・ジョルジョ・マッジョーレ島のベネディクト修道院の創立者ジョヴァンニ、ハンガリー王妃トマズィーナとセルビア王ラディズラーオ(伊語Ladislao)王妃コスタンツァという2人の王妃、スラヴ地方で公爵位を授かったアルベルティーノ。
[ラディズラーオ(Ladislao伊語)=Ladislas(仏)、Ladislaus(独)、Vladislav(露)、Vlad(ルーマニア)、Làszlò(ハンガリー)ですが、セルビアでの呼称は、Ladislav(セルビア文字で、ラディスラフ)でしょうか?]
メダルの裏側に彫られた、14世紀四十人委員会の職にあったレオナルドが、寡頭政治を引っ繰り返そうと謀反に加わり、一生入獄の刑に処された。
またそれとは別に、アンドレーアは(マリーン・サヌードが『日記』に記しているように)息子がある貴婦人の宝石を奪おうと強引にキスに及んだのを咎められ、元老院の前に引き出されたのを見て、彼自身大いに憤激して息子自身に死の刑を要求し、それが受け入れられた、と。」 (2)に続く
- 2015/03/26(木) 00:05:55|
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暫くの擱筆ですっかり感覚がずれて終っています。取り敢えずは前の続きで、
楽しそうな事を考えて、再度ヴェネツィア行する気が起こりそうな事Pescecrudoサン・マルコ寺院と総督宮殿退院おめでとうございます。
引き続きのシリーズ、楽しみにしております。むさしの想坊市内での乗馬についてこちらこそ、宜しくお願い致します。むさしの想坊様市内での乗馬についてペッシェクルード
来年もどうぞよろしくお願いいたします。むさしの想坊久米邦武Minaさん、コメント、有難う御座います。
私もボッカッチョの生まれたチェルタルドと群馬県甘楽町とが姉妹都市だそうで、
一ノ瀬先生がその間の労を取られ、尽力されているpescecrudo