イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

文学に表れたヴェネツィア――成瀬無極(1)

以前紹介した『世界紀行文學全集 5 イタリア』(修道社、昭和四十六年九月三十日)に、独文学者成瀬無極の欧州紀行『夢作る人』(大正十三年七月)の中の、『伊太利小景』が転載されています。その巻頭の序詞は次のような詩です。
世界紀行文学全集「 序詞
サン・マルコ鐘は鳴る、聖火のひらめき、
跪きて祈る人々、老い朽ちし媼(おうな)の傍に
うら若き少女の紅き衣闇に燃ゆ、
我もひれ伏して祈らばや、聖水に指ひたし、
釘うたれし主の足に接吻(くちづけ)して、
十時切り、ひたむきに神を念ぜん、
黒き罪を白く洗い、幼児の心に帰らん――
とは思えども頑固(かたくな)の噫わが心、石に似て砕けず悲しからずや。
サンタ・マリヤ・ノヴェルラの読経の声、
ミラノの伽藍(ドゥオーモ)の五彩の窓を漏るる日影、
耳に残り、眼に止まれど、噫、永久に(とこしえ)に、
われは盲目(めしい)、われは聾者(ろうしゃ)
アドリヤチコの春の浪に心和まず、
ゴンドラに揺られつつヴェネチアの水路行けば、
想いは乱れ淀みて底知れぬ淵に沈む。
灯火紅く、タンブァに拍子とりつつ
小夜楽(セレナアデ)(かな)で行く楽人の舟よ、
髪黒く唇紅きヴェネチアの少女よ、
われも載せてゆけ、星影幽かなる大水路(グランカナアル)
闇より闇へ漂狼(さすらい)の、わが心舵をたえ、
何時かはまた光明の海に浮ばん。

フィレンツェのウヒチの堂はめでたきかな、
ラファエロ、ダヴィンチ、ボッティチェリイ、
アンドレア・デル・サルトの筆に描き出されし
愛と信と希望との世界の美わしさ、懐かしさ、尊さよ。
「春(プリマヴェラ)」と「花(フロラ)」との間を流るるアルゴ河、
渡すはポンテ ヴエッキオ、画廊のかけ橋、
数知れぬ肖像画(リトラット)は天才の踏む道に
散り布く紅紫の花か。
ダンテの家(カザ)は徒らに名をのみ止むれど、
眉清く眼涼しく瑪瑙色の唇したる
ベアトリチェに似たる人のゆきかいする
檸檬(レモン)花咲く市よ恵まれてあれ。 」
 ――『世界紀行文學 5 イタリア』(修道社、昭和四十六年九月三十日)から『伊太利小景』(成瀬無極著) 
  1. 2015/04/30(木) 00:01:43|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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箱根ガラスの森美術館 

箱根の温泉に誘われた、その序でに、箱根ガラスの森美術館にも行ってきました。2月のカーニヴァル中にも足を運んだのですが。今回は『魅惑の香水瓶』というテーマで展示がありました。
新聞2新聞1 新聞4新聞3 パンフ1パンフ2 パンフ3
ヴェネツィアン・ガラスを中心に、古代ギリシア・ローマ・エジプト・ペルシア等の物から、近世のフランス、イギリス、ドイツの物まで、古代から王侯貴族から庶民に至るまで、女性達の必需品である香油や香水等を入れておく瀟洒な瓶の類が展示されていました。
風に揺れる盃ヴェネツィアンガラスジュゼッペ・バロヴィエール作『風にそよぐグラス』。風を受けてガラスが揺れています。
上のような常設展示もあります。
  1. 2015/04/28(火) 12:40:19|
  2. ヴェネツィアに関する展覧会
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ヴェネツィア総督: フランチェスコ・モロズィーニ(2)

(続き)
「ギリシアの首都を征服する戦いの間、モロズィーニは人口に膾炙した、全世界を悲しみに打ち震わすばかりの、悪逆の限りを尽くした。パルテノン神殿を倉庫として保管されていた火薬を砲撃させたために大爆発を起こし、ギリシア神殿の一部を破壊させてしまったのである。

残念なことにこの恐るべき戦闘期間中の芸術作品に及ぼした損害は、それだけではなかった。古典古代の大彫刻家の作品、ミネルヴァの彫像(Fidia の) がヴェネツィア人が廃墟から引き出そうとしている最中、粉々になってしまったのである。
[Fidia=古代ギリシアの大彫刻家フェイディアス。アテナイのアクロポリスに立つパルテノンの本尊アテナ・パルテノスやオリュンピアのゼウス神殿のゼウス像で著名。パルテノン神殿建造の総監督を務めた]


しかしこのペロポネソス(Morea)戦争中、彼の受けた軍事的な高い評価は、モロズィーニがペロポネソス公(Peloponnesiaco)という称号を祖国に齎したことであり、現在でも生きているかのように彼の胸像が総督宮殿に置かれている。

その直後、1688年人民から歓呼の声で迎えられ、総督マルカントーニオ・ジュスティニアーンの後を継いで、国家の最高職に就いた。

1689年には教皇アレクサンデル8世が、兜と剣を彼に送った。そこに示された紋章は、異教徒に対するキリスト教の守護者として大いなる責任を記憶するためのものである。

1693年未だ75歳でトルコの脅威の前で、ヴェネツィア海軍の長として参軍し、エーゲ海でのオスマントルコとの戦いに赴いた。しかし旗艦の一番高い旗竿の天辺に軍旗がはためいても、彼の活躍する場はなかった。全てのトルコ船は消えていった。

戦争生活を完徹し、疲労困憊して、1694年1月6日、Nauplia(ギリシアのナフプリオンNavplion、古称ナウプリア) で戦死した。亡骸はサンタントーニオ教会に運ばれ、棺台に置かれた。心臓と内臓はそこに葬られた。遺体はヴェネツィアに運ばれ、サント・ステーファノ教会中央に埋葬された。彼は今でもそこに眠っている。」
 ――Marcello Brusegan『ヴェネツィア人物事典』(Newton Compton editori、2006)
  1. 2015/04/23(木) 00:05:25|
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橋を昇ったり下ったりイヴェント

本日の新聞La Nuova紙は、昨日曜日、行われた〝Su e zo per i ponti(橋を上がったり下ったり大会)"について報じています。この催しについて今までも、2008.04.25日のブログSu e zo(1)や2008.05.16日のSu e zo(2)その他でその由来等について触れています。[Su e zo=伊語Su e giu`]
Su e zo「 太陽が〝橋を上がったり下ったり大会"に微笑んだ
――全ての人に参加を呼びかけるこの大会は、この街を何千という人々が走ったり歩いたりした。知っている人がいないかどうか、ビデオや写真で探してみて下さい―― 」

新聞紙面上の写真やビデオをクリックしてヴェネツィアを体験して見て下さい。
  1. 2015/04/20(月) 19:00:31|
  2. ヴェネツィアの行事
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ヴェネツィア総督: フランチェスコ・モロズィーニ(1)

前々回に触れたフランチェスコ・モロズィーニについて、Marcello Brusegan著『ヴェネツィア人物事典』(Newton Compton editori、2006)は次のように紹介しています。
『ヴェネツィア人物事典』「総督フランチェスコ・モロズィーニ(1618ヴェネツィア~1694ギリシア、ナフプリオン[Nauplia])
彼はこの世紀最大の海軍指揮官の一人だった。1618年サン・マルコ財務官の父ピエートロ・モロズィーニと母マリーア(モロズィーニの分家の一つ)の間の息子でヴェネツィアで生まれた。若くして兵役に就き、直ぐに攻撃的で勇敢な兵士として注目を惹くようになった。

1645年には既にガレー船の船長となり、3ヶ月後にはクレタ島での対トルコ戦争で功績を上げ、ヴェネツィア海軍の総大将として招聘されるまでになった。

1650年、ナクソス島(Nasso―エーゲ海南部キクラーデス諸島最大の島)でヴェネツィア勝利の立役者となり、その勇気ある行動で名誉を得、ヴェネツィア海軍の司令長官に任命された。1654年アテネの外港ピイレエフス(Pireo)の前に位置するアイギナ(Egina)島のトルコの全砲座を破壊した。2年後クレタ島を包囲するトルコ軍を敗走させ、撤退を余儀なくさせた。

短期間のフリウーリでの政庁の仕事を終えて(1663)、1666年クレタ島に戻った。そこではトルコの大臣アフメート・クロプル(Ahmet Kropulu)の軍隊に対する防衛軍の隊長であった。それは記憶に残る包囲戦だった。執拗極まりない、酷い流血に満ちたものだったと歴史は語っている。28ヶ月間持ち堪えた。傷つきながらもモロズィーニは、自分のことにはお構いなしだった。彼の英雄的行動は全ヨーロッパの若き騎士達の手本となった。

しかしながらその彼と彼の部下の勇敢さは(結局防衛軍の30000人が戦士)、圧倒的な敵の力の前では為すすべもなかった。しかしトルコの偉大なる大臣クロプルは、彼の戦争遂行の徳の高さと能力の高さ、意志の強さに感動の余り、彼と彼の部下に対して、名誉ある退却という寛大なる保証を与えた。

1669年9月27日、カンディアの守備隊の辛うじて生き残った者達とイタリア人住民全てを満載した商船15隻と40艘余りの船が出発した。

ヴェネツィアに到着すると、前もって元老院の許可を得ず、島を敵に譲った罪で逮捕され、裏切り者として人民の前に引き出された。

しかし無罪宣告され、最初は疎外状態にあったものの、復職なった1684年には雪辱なり、遠征隊の長として活躍し、16日の遠征でサンタ・マーウラ島を征服した。ペロポネソス半島に上陸し、更にアテネを征服した。……」 (続く)
  1. 2015/04/16(木) 00:04:20|
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ヴェネツィア・レース・ガラス

昨日、八王子市郷土資料館で、ヴェネツィア・レース・ガラスの出土破片とその復元作品の展示があるというので見学に行ってきました。その中身は次の新聞の切り抜き等をご覧下さい。復元ガラス器の展示は~4月29日までです。
読売新聞記事郷土資料館資料1郷土資料館資料2レースガラス器潮工房作品右端は潮工房により、当時のムラーノの技法により復元された作品。潮工房についてはガラス工芸のサイトでどうぞ。

2011.07.30日のブログ言葉・名前でも触れましたが、八王子のレース・ガラスの展示はサントリー美術館の『ヴェネツィア・ガラス展』でもありました。

私の住む八王子とヴェネツィアとの関連と言えば、八王子の料亭、うかい鳥山の手になる、箱根のガラスの森美術館(今年もカーニヴァル期間中、ガラスを見に行きました)とか、富士美術館には珍しくビアンカ・カッペッロの肖像画があります。
ビアンカ・カッペッロとは、ヴェネツィア貴族の娘で、将来トスカーナ大公フランチェスコ大公妃となり、1585年天正の四少年遣欧使節がイタリアに上陸した時、ピーザの城での歓迎レセプションで伊東マンショとダンスを踊った公妃です。

北条氏照の八王子城の落城は1590年、ヴェネツィアから沢山のガラス器等のお土産を頂戴して、天正の四少年遣欧使節が帰国したのは1592年ですから、北条氏照のガラス器と天正少年遣欧使節の物とは重なりません。

ヴェネツィアのインクラービリ慈善院に、イエズス会の創立者となるイグナティウス・デ・ロヨラらがエルサレムへの巡礼行のための便船待ちで宿泊していたことは知られているようです。その年は便がなく諦めたそうですが、結局同会士シャビエル(旧ザビエル)らは東洋・日本へと向かうことになりました。イエズス会のパードレ達がヴェネツィアでレース・ガラスを見たことは当然有り得たことですから、そういう日本への渡来ルートも考えられます。

潮工房さんは、本年09.19~11.29日ヴェネツィアのカ・ペーザロ館の上階にある東洋美術館において、ヴェネツィアの技法によるガラス作品を展示されるそうです。
この館は下が近代美術館で上の階が東洋美術館となっていますが、それは民俗学者で大旅行家だったエンリーコ・ディ・ボルボーネ=パルマによって収集されたコレクションで、この種の美術館としてはヨーロッパ随一と言われているようです。1階の売店には東洋美術館がある故か、谷崎潤一郎から村上春樹まで日本文学の翻訳本が数多く集められています。

ヴェネツィアの街を歩いていると日本の骨董品から茶道具までの専門店を結構見掛けます。ヴェネツィアの中の日本!
  1. 2015/04/11(土) 17:30:54|
  2. ヴェネツィアに関する展覧会
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ヴェネツィアの建物: モロジーニ・サグレード館(3)

(続き)
E.W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は、更にサグレード家について次のように語っています。
モロジーニ・サグレード館「サグレード家がヴェネツィアに到来したのは840年のことで、1100年には大評議会に登院することを許されている。11世紀にはサンタ・テルニータ(伊語はSanta Ternita')教会を建てた。その近辺に自宅以外にも色々の住居を所持していた。 [場所はアルセナーレ西のカンポ・ド・ポッツィ北の一角」

彼らの名前は、大切な秘密を所持していた、ということに由来すると言われている。

初めから後背地やダルマツィアとの木材の商いに携わって、他の貴族達がオリエントの交易で被ったような莫大な損失に遭遇することはなかった。その富は1700年代になっても評判になるほどのもので、1674年に選出された総督ニコロの家系が消滅した時、1678年からヴェネツィア総大司教であった兄弟のアルヴィーゼには子孫がなく、一家の財産と先祖伝来の館は他の分家に移ってしまった。

ヴェネツィアが得た著名な外交官の中にジョヴァンニの名が思い起こされる。彼はその能力のお陰で、一家の紋章の黄金の地の中の赤い帯の上に、フランス王家の百合を埋め込む名誉を得た。

一家は1871年のアゴスティーノ伯爵の死で絶えた。

一家について有名な笑い話が伝わっている。ブレンタ川のヴィッラでの友人が被った賭事のことである。ワインが潤沢に振舞われ、夕食は楽しく、且つ凄いご馳走だったが、ひどく懐疑主義的若者にある事が言われた、この館は時々幽霊に見舞わられることがあるんですよ、と。

夜、その若者は騒音とぞっとするような叫び声で目が覚めた。ベッドが激しく動き始め、上掛けがベッド下に滑り落ちた。それだけではなく、鬼火が彼に向かって飛んできた。彼の恐怖の叫びで友人達の哄笑が沸き起こった。

明かりが点いた時、彼は理解した、鬼火は何匹かの烏賊の尻尾に付けられた小さな明かりだった、と。」
  1. 2015/04/09(木) 10:10:06|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ヴェネツィアの建物: モロジーニ・サグレード館(2)

(続き)
「モロズィーニ家の最初の総督はドメーニコで、1148年に選出された。マリーノは1249年選出、1253年死去したが、平和を愛し、外交手腕は抜群だった。彼はリアルト橋を木で作った。サンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ教会に葬られた。
モロジーニ・サグレード館ミケーレはキオッジャ戦争時代、自分の資金で共和国を支え、和平交渉を成功させたが、総督に選出されたのは1382年のことだった。その4ヶ月後ペストで死亡、サン・マルコ寺院に葬られた。

しかしながら中でも最も有名で知られた人物はフランチェスコ(1618~94)だろう。謂わば、貴族としてガレー船で18歳から船員としてのキャリアを積み、数年にして1657年には海のキャプテンとして最高位を得るまで、経験を積んだ。

この間、オリエントの海で活動し、22年間行方知れずとなり、43歳という壮年でヴェネツィアに帰還した。そして偉大なる艦隊司令長官ラッザロ・モチェニーゴが亡くなると、セレニッスィマは彼を四半世紀続く苛酷なカンディア戦争の、対トルコの立役者に任命した。

命令は何としてでも街を守護するというものだった。フランチェスコは激烈な攻撃に18ヶ月、英雄的に踏ん張った。結局部下と住民との生き残った4000人の命と引き替えになるのは、降伏以外に手立てがないことが分かると、無駄な犠牲は許すべきでないと考え、トルコ軍の要求を受け入れた。

皆の目前には恐ろしいばかりの敵軍がおり、彼らを殲滅しようとしており、その降伏の代わりにモルダヴィアやヴァラッキアの王冠を与える約束は激烈に拒絶された、等々あった。

フランチェスコの要求は生存者の命だった。彼は1669年8月27日捕まった。ファマグスタ(伊語Famagosta)で前世紀起きたこととは反対に、トルコ軍は約束を守った。その地を失った失望は別にしても、大評議会は司令官が元老院の許可を得る前に、降伏条約を結んだことが気に入らず、彼の行動を厳しく調査検討した。しかし結局あらゆる非難から完全に解放されたのだった。

更に1684年トルコと戦うために神聖同盟を再度組織し、彼に再びオリエントでの行動命令が下された。彼は色々な要塞、最終的にはペロポネソス半島(Peloponneso)全域を征服した。その事がペロポネソスという称号を彼に与えることになった(前代未聞のこと)。生存中元老院は"Francisco Mauroceno Peloponnesiaco adhuc Viventi Senatus"という文言を添えた胸像を献呈した(それは現在コッレール美術館にある)。

また1688年総督マルカントーニオ・ジュスティニアーンが亡くなった時、未だに作戦区域で活躍中でありながら、最高職に選出された。数年後、齢75歳にしてトルコの脅威を取り除くために、再度海へ出掛けなければならなかった。翌年(1694年) Nauplia で勇敢に亡くなった。 [Nauplia(ナーウプリア)=ギリシア南部のナフプリオン]

彼はサント・ステーファノ教会に葬られた。ヴェネツィアでは最大の墓石盤の下で彼は眠っている。モロズィーニ家はカヴァリエーレ(騎士位)を名乗ることを許された、少ない家系の一家であることを思い起こそう。この一家はセレニッスィマの財産と安全のために、他の貴族達同様に、非常に沢山の血を捧げたのである。」 ――(3に続く)
[〝サン・マルコの騎士″を名乗ることを許されたのは元来、コンタリーニ、クェリーニ、モロズィーニの3家だそうです]
 ――E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)より
  1. 2015/04/02(木) 00:05:47|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
  3. | コメント:0

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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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