イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: ミキエール・デッレ・コロンネ館(1)他

モロズィーニ・サグレード館を更に遡行すると、サンタ・ソフィーア広場の一番繁盛しているトラゲット乗り場があり、その右隣にはフォースカリ・デル・プラ館があります。E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のような事を述べています。
ミキエール・デッレ・コロンネ館「15世紀後半の小さな建物で、1階にはオジーブ式(尖頭式)の六連窓が左に寄ってあり、右に一面窓が置かれている。3階は手酷い造りの仕上がりだが、飛び出した露台は下の階の大理石の開口部の四角形とバランスが取れている。1520年マントヴァ宮廷のヴェネツィア大使の住居だった。」

この館の右にはペルゴラ通りがあり、更に19世紀の住宅があります。その先にはミキエール・デッレ・コロンネ(P.Michiel delle Colonne)館があります。上掲の『大運河』(1993)の記述は次のようにあります。

「この建物は、1階のファサードに見えている細い柱が立ち上がった開廊が示しているように、ビザンテイン商館の典型的な様相を見せている。最初グリマーニ家の物であったが、その後、ゼーン家に譲り、ゼーン家は17世紀最後の10年間、アントーニオ・ガースパリに改築させた。

彼はファサードを全面的に改装し、どっしりと落ち着きのある建築ラインを保持しながら、2階3階の中央から周辺へと、ファサードのセルリアーナ式の周りにハーモニックな輝きを配置し、突き出した露台と窓上部の3角形部分と彫像がバロック期の典型的な要素を甦らせている。

館の名称は1階開廊の柱から来ている。1713年没の最後のマントヴァ公フェルナンド・カルロ・ゴンザーガ[Fernandoは西国名、伊国名はFerdinando,、間違いのようです]の住居だった。レオパルディ公が購入して、館はミキエール家の所有となり、公にはこの建物は、ヴェネツィアが直ぐにでも将来に渡って大いなる便宜を得るだろうことは分かっていた。 ……」

その後はミキエール家の3人の総督、ヴィターレ1世(1096~1102)、ドメーニコ(1118~30)、ヴィターレ2世(1156~72)を中心に話は進みます。ミキエール家は697年に初めてヴェネツィアで総督が選ばれた家族、16の護民官の家族の一つだったそうで、800年の前に公式の文書の中で語られている、重要な家系の一つだったそうです。
  1. 2015/05/28(木) 00:09:46|
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ヴェネツィアの行事: ヴォガロンガ

本日の新聞La Nuova紙は、昨日日曜日に行われた恒例のヴォガロンガ(手漕ぎ舟マラソン)の模様を伝えています。
トゥレ・アルキ橋前「 ヴォガロンガ、カンナレージョで大渋滞
――船列は旧マチェッロ岬通過後、詰まってしまった。あるジョリー艇は転覆。2艘のドイツのドラゴン艇が運河を塞いだ。船の流れが回復するまで2時間掛かった――

カンナレージョ運河のトゥレ・アルキ橋の手前での大渋滞は、ヴォガロンガ競艇の第41回大会を少々駄目にしてしまった。正午過ぎ、お祭り気分の船列は旧マチェッロ岬を過ぎた所で流れが止まった。……4人漕ぎのジョリー艇が、トゥレ・アルキ橋の手前で沈没し、消防署の潜水夫や協力していた沿岸警備のヴォランタリー達が乗船の外人達全員の救助という突然の作業に邁進するしかなかった。

しかし問題だったのは、30分前、船首に10人ばかりのドイツ人が乗船した2艘のドラゴン艇であった。その乗組員の何人かは酩酊気味で、旧マチェッロ岬のカーブを通過した直ぐの所、カンナレージョ運河の真中で船を横にして、コースを塞いでしまったことだった。 …… 」

ヴォガロンガの歴史等、公式見解については、2011.02.25日のブログヴェネツィアの年中行事をご参考までに。ヴェネツィア学院に伊語の勉強でこのトゥレ・アルキ橋の直前のアパートを借りたのは2008年、アパートの2階の窓から毎日運河を眺めていました。懐かしい光景です。
  1. 2015/05/25(月) 17:45:58|
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イタリアの名前: ジョルジョ/ジョルジャ

私がヴェネツィアで見た、大好きな画家と言えば、ヴィットーレ・カルパッチョですが、特にカステッロ区にある小さな同信会館サン・ジョルジョ・デッリ・スキアヴォーニにある聖ゲオルギウスが竜を退治する絵は私にとって最高です。三度は見に行きました。パリに行った時、ギュスターヴ・モロー美術館に行きました。最上階のメイン大広間で見たのは、モローが愛したに違いない画家カルパッチョの『聖ゲオルギウスの勝利』の原寸大の模写絵が飾られていることでした。
『竜を退治する聖ゲオルギウス』ギュスターヴ・モローの模写この絵はリビアの都市シルシャを通り掛かったゲオルギウスが人間の肉を好む竜の生贄にされようとした王女の命を救った話を描いたものだそうです[詳しくは『黄金伝説』(ヤコブス・ウォラギネ著、前田敬作・今村孝訳、平凡社文庫、1~4巻、2006.05.10~)でどうぞ]。同じ主題の聖ゲオルギウスの竜退治の絵がサン・ジョルジョ・マッジョーレ島の修道院にもあることを最近知りました。それは修道院の奥深くに飾られているそうですから、一般人には見ることは出来ませんが。

ジュゼッペ・ピッターノ著『名前辞典』(Sonzogno、1990年3月)はゲオルギウス=伊語Giorgioについて次のように語っています。
名前辞典「この大変有名な名前Giorgio /Giorgia は、下流階級の出である。事実ギリシアの農民、百姓を意味する gheorgo's に由来する。意味はそうだが、この名は竜に捕らわれた王女を、その竜を殺して救った聖人伝説が知れ渡ったお陰で、大変な幸運に恵まれた。

このため聖ゲオルギウスは騎士や十字軍士の守護聖人で、ラッファエッロやカルパッチョ、ドナテッロその他の画家達によって、竜を槍で刺し殺す姿で描かれた。

歴史上、この名を冠した有名な人物は満ち溢れている。ボヘミアの王、ブルガリアの2人のツァー(ツァーリ)、ロシアの12人のツァー、イギリスの6人の王、ギリシアの2人の王等。宮廷以外では、フランス革命時の山岳党のジョルジュ・ジャック・ダントン、画家としてはジョルジョ・ヴァザーリ、ジョルジョーネと通称されたジョルジョ・バルバレッリ(ヴェネツィア語ではゾルゾーン)、ジョルジョ・モランディ(伊画家、1890-1964)。

米国初代大統領ジョージ・ワシントン、仏国作家ジョルジュ・サンド、英国詩人ジョージ・バイロン、独国生まれ音楽家ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(帰化した英国ではジョージ・フレデリック・ハンデル)、仏国推理小説家ジョルジュ・シムノン、現代作家ジョルジョ・バッサーニ(1916~2000)、歴史家ジョルジョ・スピーニ、シンガーソングライター、ジョルジョ・ガベール、政治家ジョルジョ・ラ・ピーラ、画家ジョルジョ・デ・キリコ、作家ジョルジョ・アルベルタッツィ、女優ジョルジャ・モール、演出家ジョルジョ・ストレーレル(1921~1997)、ファッション・デザイナー、ジョルジョ・アルマーニ、詩人ジョルジョ・カプローニ。

その他、ジョージ・バーナード・ショー、ジョルジュ・ベルナノス、ジョージ・オーウェル、作家ジョルジョ・マンガネッリ、ジョルジョ・サヴィアーネ、ジョルジョ・ボッカ、漫画家ジョルジョ・フォッラティーニ、昆虫学者ジョルジョ・チェッリ等。

教会はジョルジョ/ジョルジャを4月23日に聖名祝日として祝います。

外国名としては、ジョルジュ、ジョルジェット、ジョルジーヌ(仏)、ジョージ、ジョージーナ(英)、ゲオルク、イェルク、ゲオルギーネ(独)、イアグン(デンマ)、ホルヘ(西)、ジョルジェ(葡)、ユーリイ、ゲオールギイ、イーゴリ(露)

伊語の変形: Giorgetto、Giorgino(男)、Georgia、Giorgetta、Giorgietta、Giorgina、Georgina(女) 」

ヴィットーレ・カルパッチョについては、2012.10.27~02012.11.10日カルパッチョ(1~3)で触れました。
  1. 2015/05/21(木) 00:02:19|
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三社祭

ヴェネツィアの祭には色々、何度か観客として参加しましたが、昨日は浅草の浅草神社の三社祭に行ってきました。実はその前の週、神田の明神さんにお参りしました。明神下の江戸時代同房町といった地域にかつて世話になった方がいて、挨拶に行くと、96歳の健在のご夫婦にお喋りに付き合って頂きました。その後、境内で神輿を見ていると、暴れ出した神輿に煽られて、薙ぎ倒され、夫婦共々人に踏まれたのですが、幸いに怪我はありませんでした。
三社祭そして三社祭!! この三年連続して観客になっています。妻はかつて八王子の祭で両肌脱いで大太鼓を叩いていましたから気合が入っています。私は単なる見物人。《浅壹》の法被を着た連から《三社》の連の神輿まで。浅草公会堂の前が基地らしい三社連の人達の神輿を中心に見物しました。あやめ連の奇麗所が切れ目なく祭囃子の演奏です。《~ちゃん、可愛いー!》とおじいちゃんから声が掛かります。ヨーロッパ系の顔の担ぎ手の法被姿からアジアの顔の人、女性の担ぎ手は五分の二くらいあったでしょうか。見物人の和服姿の若い男女の言葉は中国語だったりして、祭が国際色を帯びていると感じました。
三社祭、神輿あやめ連旦那連の着流しの和服姿の帯の、凝った象牙か何かの細工物の根付で帯留めした印籠、巾着のような飾りがかっこいい。女性達の髪型は髪を伸ばし、頭の後ろに丸く固めて団子をネットで飾り、手拭いを帯状にして王冠のように飾ります。少女達も子供神輿で鍛えられます。
腰の飾り 雷門の猫ちゃん右、雷門の柱に座り、皆の注視の的になっていた猫ちゃん
神田明神は山王さんと二社で、江戸時代徳川家邸内に神輿が入り、奉幣の儀式を毎年行ったのだそうです。天和元年より毎年それを行うのは町人にとって負担が大きいとのことで、隔年挙行となり、更に正徳三年より根津権現の三社の交互となったのだそうですが、享保三年、元の二社に帰ったのだそうです。この祭を天下祭と称し、江戸三大祭と言ったりしますが、浅草の三社さんは武士とは関係のない庶民の祭で、別格の大祭と思われます。浅草大好きです。

毎年伝法院通りの飲み屋さん《紅とんぼ》で祭の締め括りは飲んでいたのですが、席が一杯で今年は全然空きがなく、仕方なく新宿に戻り、伊勢丹前のヴェネツィアン・レストラン《イル・バーカロ》で、ヴェーネトのワインでヴェネツィア風に終わりました。
  1. 2015/05/18(月) 17:45:56|
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ヴェネツィア・ビエンナーレ

先日の新聞は、2015年のヴェネツィア・ビエンナーレが始まったことを告げていました。昨日の新聞La Nuova紙は、15日の出来事を報道しています。
運河への跳躍「 橋からの跳躍、それはアート
――拳骨橋からモーニカ・フリコーヴァさんのパフォーマンスは通行人の驚愕を引き起こす――

あるドラマに立ち会っていると考えた人もいた。その飛び込みは、2015年のヴェネツィア芸術ビエンナーレに参加したモーニカ・フリコーヴァさんのパフォーマンス。サン・バルナバ広場とサンタ・マルゲリータ広場の間に架かるプーニ(拳骨)橋から身を乗り出し、外的世界(運河)へ向かって跳躍を試み、運河に落下して行った。〝カラテ″と名付けられたパフォーマンスは、サンダロ舟に収容されることで終了した。 」
 
このサン・バルナバ運河は、ディヴィッド・リーン監督の『旅情』でヘップバーンが落ちた運河として、頓に有名ですが、プーニ橋や左脇の八百屋さんもよく知られています。プーニ橋については2008.05.02/05.09日のブログ拳骨橋等を参照して下さい。
  1. 2015/05/17(日) 10:45:32|
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ヴェネツィアの歴史: 774~810年

『図説 ヴェネツィア』(ルカ・コルフェライ著、中山悦子訳、河出書房新社)の巻末年表の774~810年の項には《カール大帝率いるフランク族がランゴバルド領を征服。ラグーナにまで達する。ヴェネツィアはビザンツ艦隊の到着により救われる》とあり、810年の項には《ラグーナの政治の中心、リヴォアルトへ移る。ヴェネツィアの中心としてのサン・マルコの核が生まれる》とあります。
ヴェネツィア史 421-1099G.ディステーファノ著『ヴェネツィア史 421-1099』の810年項には次のような記述があります。

「シャルマーニュ(Carlo Magno―カール大帝)の息子で、781年からイタリアの王であったピピン(Pipino) は、いわゆる〝ヴェネツィア共和国″を攻撃したフランクのラグーン攻撃隊の指導者であった。戦闘行為は春に始まった。彼らは中心のマラモッコに代表される地域を〝大漁"として得るために、全ての河口は押さえており、共和国の南北の島々は支配下に置かれていた。

それは歴史上、決定的な時であった。時あたかも蛮族に追われて逃亡を繰り返していた。グラードやカーオルレ、あるいは二つの、元のエラクレーアやイエーゾレの島といった共和国周辺の島々の住民達は、〝中心″を目指して逃亡し、ヴェネツィアのラグーナの島々(その中にはトルチェッロ島をはじめ、ムラーノ、リアルト、マラモッコ、ペッレストリーナといった大きな島が含まれる)が守護してくれた。

中心は、当時総督オベレーリオと彼の忠実な部下である弟のベアートが守護していたが、ビザンティンに与する連中の反乱で引っくり返され、攻撃に晒され、包囲された。

他の年代記は語っている。ベアートは逃亡しておらず、ビザンティンに与する軍隊に守られ、1年間リアルトを在所として総督は留まった。確かな事は、14世紀になって初めて、総督達の肖像画が描かれることになるが、その大評議会の紋章の中にベアートの肖像が描かれたのである。リアルトの最初の総督として、間違えられたのだった。

続いて総督宮殿の大火の後、1577年肖像画が描き直された時、オベレーリオは適正な場所を得た。

フランク軍に対する勇猛果敢な防衛活動の中で、エラクレーアの裕福な資産家アンジェロ・パルテチパーツィオは際立った活動をした。彼は中心の町から避難してある程度高さのある島々に引きこもるよう言った(高さがないと満潮時水没する―サン・マルコ広場に設けられた政治の中心とリアルトの商業地区は将来においても変わりはない)。何故かならば、エラクレーアのこの裕福な資産家は、ピピンの艦隊への対応計画は、ヴィットーリオの考えに基づいて手筈を整えていたからである。

ピピンは水に対して、況してやラグーナが〝落とし穴″に満ちていることについてなど未経験で丸で無知であった。事実、ランゴバルドやフランク人から構成された軍隊、即ちこのような環境で戦うことに慣れていない人々は、数ヵ月が過ぎ、夏が来て灼熱となり、水の調達が不可能となり、足掻き回り、力尽きていった。

ピピンは最後の攻撃を放棄し、ヴェーネト人の行動的で有効な守りの前に敗れていった。即ち逃げる振りをする小さな舟に惹きつけられ、目の前のその光景を信じ、ある運河の中まで追い掛け、突如やって来た干潮のために船団は座礁してしまったのである。その運河は孤児運河(Canal Orfano o Canal dell'Orfano)と呼ばれることになる。全ての船は完全に破壊され、船乗り達は殲滅された。ピピンはラヴェンナから来たのだが、またそこに引き返すしかなかった。

ヴェネツィアは救われ、ビザンティン主義者のアンジェロ・パルテチパーツィオ(在位811~827)は歓呼して総督に迎えられた。

皇帝コンスタンティノス7世ポルフィロジェーニト(basileus Costantino Ⅶ Porfirogenito、913~959)はこの事実を再構成している。ヴェーネト人が通行を阻止するために水の中に杭を打ち込んだため、ピピンはマラモッコに軍隊を上陸させることが出来ず、本土側に宿営した。攻略は6ヶ月にも及んだ。

ヴェーネト人はピピン軍が飢えの余り、杭を引き抜こうとしているのが分かった時、ラグーナの住民は敵軍にパンの塊を打ち込んだ。……前進は不可能で、夏が到来し、マラリアが猖獗を極めたため、退却の帆を揚げるしかなかった。 ……」
[Angelo Partecipazio(811~827) は、他の資料では《アニェッロ Agnello》パルテチパーツィオでこちらが正しいと思われます。]
[コンスタンティノス7世(913~959)はマケドニア・ルネサンスと呼ばれる文芸復興運動の中心人物。]
  1. 2015/05/14(木) 00:02:36|
  2. ヴェネツィアの歴史
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文学に表れたヴェネツィア――成瀬無極(2)

前回紹介した『世界紀行文學全集 5 イタリア』(修道社、昭和四十六年九月三十日)の、独文学者成瀬無極の欧州紀行『夢作る人』(大正十三年七月)の中の、『伊太利小景』から続きです。
世界紀行文学全集「……サン・マルコの広場(ピヤッツァ)へ出てみて矢張り驚いた。ミラノのとは全然様式を異にした東洋趣味の豊かな光彩陸離の大伽藍を正面にして例のガレリアが左右を囲み、中央の広場には無数の鳩が遊んでいる。すべてが大理石だ。それが云わば水に浮いているのだから不思議である。

それにサン・マルコ伽藍の側面も内部も燦爛たる絵模様で飾られているが、それが皆モザイークなのである。近くで見ると重そうで、下の広場(ピヤッツァ)から眺めると鹿の様に軽くみえるとゲエテが訝った二頭の馬が正面の屋根の上に悠然と立っている。近くに聳えている塔から街と海とを眺めた景色も美しい。

聖水に指を浸し、釘打たれた主の足に触れて十字切りつつ跪拝する男女の姿が此処でも私の心を捉えた。暫時私達も信者の間に交じって礼拝の儀式の終るのを待っていた。金銀五彩に色どった聖母の像を描いた護符を一枚記念に僧侶の手から受けて帰った。

帰朝して間も無く旧師H博士を病床に訪うて、心に快癒を祈りつつその護符を枕元に置いてきたが、その翌日は早くも不帰の客となられた。《サン・マルコ鐘は鳴る――》 あの詩に更に悲しい弔いの一連を添えねばならぬ。

《太守の宮殿(パラッツォ・ドゥカアレ)》は無暗に大きなもので、案内者が幾人も交替して見物の心胆と懐中とを寒からしめる。もう一つ吾々を戦慄させるものは昔の牢獄の跡で、例の「鉛屋(ピオムビ)は十八世紀末に取り壊されたとあるが穴倉で水責めの苦みを与えるような設備の名残が見られる。散々呵責してから水葬という手順であろう。実際はそういう惨酷な事はしなかったのだと弁護する人もあるようだが、見る眼に偽りはない。

しかしそれも「嘆きの橋(ポンテ・デ・ソスピリ)となると美しく詩化せられる。《われヴェニスに来て嘆かいの橋の上に立てり、宮殿と牢獄と相対し、魔杖もて触れしが如く浪間より諸々の建物の浮び出ずるを見たり》 とバイロン卿が「チャイルド・ハロルドの中で歌っている。罪人の血の涙が沁み込んでいるような橋だ。

大広間に世界最大の油絵だと云うチントレットの「天国の図」がある。光線を調節するために箱(カメラ)を貸して覗かせるのは面白い。その他無数の絵画があるが、一々覚えていない。

チチヤンの「クリストオファ」などが眼に止まっている。同じ人の《聖母(マリア)昇天の図》の行方を尋ねて《サン・マリヤ・フェラリ》とかいう小さい御寺へ行ったりした。美術館で逸品とせられていたこの大作が戦争の為めであろう、こういう場所へ移されたのである。 ……」
  1. 2015/05/07(木) 00:04:22|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ヴェネツィア大混乱

本日のヴェネツィアの新聞La Nuova紙は、昨日の町の大混乱を伝えています。
街中で「 ヴェネツィアを大襲撃、Actv桟橋大混乱、リベルタ橋麻痺
――町を襲った巨大旅行者のため、最悪の土曜日だった。アチティヴはヴァポレット便船を大運河や島々へ大増発。しかしそれでも不十分。駐車場は満杯――

ヴェネツィアを大旅行者が襲撃。〝暗い″土曜日は町のチェントロで過ごしたい人でギッシリ。問題となる兆候は朝から最悪となる兆しがはっきり見えていた。 …… 」

大人気の観光地は大量の旅行者を処理するには、狭い島という土地柄故、機能麻痺に陥ったようです。リベルタ橋麻痺ということは、駐車場に入るために車が橋上で身動き付かないということでしょう、駐車場を出る車は極小でしょうから。日本等観光客の少ない所と違って、大人気の観光地にも〝過大″となると、モテる者の不都合(悩み)が起きるようです。観光客が残していくゴミ処理やトイレ設備等も大変でしょう。数年前、観光客はここだけで年2000万人を越していました。10年以上前、土地の人が言っていました。もうこれ以上、観光客に来てほしくない、と。

[ヴェネツィアの友人は、車は日本国内で製作されたトヨタ車をわざわざ取り寄せていましたが、駐車場はメストレに土地を買って車庫を作っていました。車利用の時は、ヴェネツィアからバスで出かけていましたが、ヴェネツィアに車庫を保持してこんな大渋滞に巻き込まれたら、一日マイカーの中で過ごす等ということになりかねません。]

1989年、文化のアヴァンギャルドの町として、サン・マルコ広場でのピンク・フロイドの野外コンサートを市は許しましたが、結果的には30万人が集まり、翌日町中ゴミ芥の山で、街の清掃に1ヶ月も掛かったという話を読んだことを思い出します。環境保護者達の抗議の声が後々まで絶えなかったそうです。

参考までに以前のLa Nuova 2紙をどうぞ。
  1. 2015/05/03(日) 13:00:08|
  2. ニュース
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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