イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

文学に表れたヴェネツィア――斎藤茂吉(3)

斎藤茂吉が精神病学の勉強のために1922年1月13日~1923年7月19日ウィーンにあった間、ヨーロッパ各地を旅して回った時の短歌作品があります。『齋藤茂吉全集』第一巻(岩波書店、昭和四十八年一月十三日)を繙いてみました。第四歌集『遠遊』の中に、《伊太利亜の旅》と題された歌があります。

――ヴェネツィア。六月三日午後著、五日去る――
◎大小(だいせう)の渠(みぞ)に出入るゴンドラに 古(いにしへ)の代(よ)の音(おと)を聞かむか

◎雲あかきゆふまぐれどきゴンドラに 乘りつつ來(きた)れ旅はさびしも

◎サン・マルコの夜深(よぶか)き鐘の餘韻(よゐん)にも わが身一つのこの靜(しづ)けさよ

◎古き代の航路(かうろ)のこともおもはしむ サン・マルコ寺院(じゐん)の夜ぶかき鐘は

◎ヴェネチアの夜のふけぬればあはれあはれ 吾に近づく蚊のこゑぞする

◎ひとり言(ごと)いふさびしさもなくなりて 白き蚊帳中(かやなか)に眼(まなこ)をとぢぬ

◎ヴェネチアの晝(ひる)の市(いち)なる海の魚 われの心を躍(をど)らしめたり

◎Bovoli(ボオリー)といふ蝸牛(かたつぶり)うづたかく 積みて賣れるを見れば樂しも

◎ヴェネチアは遠(とほ)いにしへゆ樂しくも この海(うみ)の魚(うを)食ひ來(きた)りしよ

◎パドワなる Giotto(ジオットー)も觀たりヴェネチアの 流派(りうは)も見たり幸(さち)ふかくして

◎古への井戸のあとあり淸きみづ 慾りて幾代(いくよ)の過ぎ來(こ)し跡ぞ

◎Palazzo Ducale(總督政廳)を素(す)どおりの如くして 見き連(つれ)なき吾は

◎街上(がいじょう)にイタリアの語(ご)聞くときは 古き代の粗(あら)さおもほゆるかな

◎幾たびもごみごみとせし道とほり 見るべきものも大方(おほかた)見たり

◎ほそき雨朝より降りてここよ見ゆる サン・マルコ寺の屋根ぬらしゐる
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  1. 2015/06/25(木) 00:03:13|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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文学に表れたヴェネツィア――斎藤茂吉(2)

(続き)
「ヴェネチアの美術院(アカデミア)を見たり、寺院を訪れたり、古い役所の跡、富豪の跡などを訪れているうちに、小用がしたくなって来た。しかし便所はなかなか見つからない、もう少し行ったらあるだろうと思って行って見ると其処にもない。
世界紀行文学全集そのうち段々急を告げて来た。僕は独伊の豆字引を買って持っている。それが僕の隠しの中にあるので、幾つか語を引くことを試みた。そうして、その語を以て行きちがう往来の人にたずねて見た。けれどもちっとも通じない。

通じない筈はないと思うが、奈何(いかん)とも為方がない。そのうち僕は幾つか橋を渡り、幾つか広場を通った。とある水際のところに穴が明いていた。これは、雨でも降るとその雨水が海の中に流れて行くように拵えたものらしく、そこに鉄が嵌めてあった。僕はその穴に小便をした。  

こらえられるだけ怺(こら)えたので、小便はなかなか止まない。僕の近くを多くのヴェネチア人が往反(ゆきかえり)している。女生徒がきゃっきゃっ云って通過ぎた。それから男の子が五六人ばかり、小脇に皮のバンドで結えた教科書をかかえながらやって来て、わいわい言いながら僕の小便するのを見ていた。

僕は、けれども到頭小便をしてしまった。そして何かむずかしい事業でも完成したような気持でここを去った。空想家のフロイドは、こういう風に小便するときの感覚も、それから怺えた糞を放(ひ)るときの感覚も、みな性欲の一つの equivalente と考えている。若しそうならば、僕が白昼ヴェネチアでした小便をどう解明せねばならぬのであろうか。

『みちならぬたわけごと』を僕が白昼ヴェネチアの往来で為したことになりはしないか。僕はフロイドの学説を笑いながら、一目散にS. Marco(サン マルコ)の広場を差して急いだのであった。
……
それから丸一年三月ばかり過ぎて、僕は二たびヴェネチアに行った。その時には妻も一しょであった。僕は懐妊している妻を連れてやはり狭いヴェネチアの町を歩いていた。そして大運河からちょいと入ったところの家の角に来ると一人の男が小便をしていた。僕は驚いて近寄って見ると、そこは小便所であった。壁を一寸凹ませてそこに小便をしているのであった。

僕は正直にいうと珍らしいものを発見したような気持になって、それを鉛筆で写生したのであった。それから、そういう便所を注意して歩いていると、家と家との狭い路地の角にもう一つ見付けた。その次の日ももう一つ見付けた。

僕はヴェネチアを二度おとずれて、ヴェネチアの町にも共同小便所のあることを知り、非常な満足をおぼえたのであった。 ……」
 ――『世界紀行文學全集 5 イタリア』《ヴェネチア雑記》(斎藤茂吉、修道社、昭和四十六年九月三十日)

ヴェネツィアに行かれた時、この歌人のような見っとも無い事はなさいませんように。この町の街中に結構有料のトイレがあり、石畳にWCとして矢印で在り処を示してあったり、バールのコーヒーは安いことなので、バールに飛び込む手もあります。但し小さなスタンドだけの所は避けて下さい。私が街を歩いている時、よく利用したのは、フェニーチェ劇場隣のカッフェ《アル・テアートロ》はトイレが綺麗で、人を案内している時等、ちょっと一休みのつもりで利用しました。腰を下ろすと席料を取られますので、エスプレッソ一杯立ち飲みでOKです。

《アル・テアートロ》のファービオさんが作ってくれるスプリッツ・コン・ビッテルは最高!
  1. 2015/06/18(木) 00:06:21|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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文学に表れたヴェネツィア――斎藤茂吉(1)

『世界紀行文學全集 5 イタリア』(修道社、昭和四十六年九月三十日)の中、斎藤茂吉が書いた旅行記は『三田文学』(大正一五年八月号)に掲載した《ヴェネチア雑記》です。その冒頭は次のように始まります。
世界紀行文学全集「もう追憶になったが、あのゴンドラに乗って漕ぎ出したのは、夏の太陽の落ちかかった頃であった。漕いで行く水は運河で、これが Canal Grande(カナアル グランデ)である。そのへんの家並の窓から美しい絨毯の大きいようなものが垂れている。それにはいろいろな模様があって、欧羅巴人がよく云う東方風(オリエント)の図柄である。

なるほど、ヴェネチアというところは面白いところだと僕はゴンドラの中でひとり思っていた。旅人の心を余計に旅人らしくさせると思ったのである。そのうち、運河の大きいのから、細い側道へ這入って行った。そこの水路は細いが、ゴンドラが向こうから来てもこちらで何とか答えながら行違うことが出来る。

水は海の水だから蒼く澄んでいる。たまには玩具の笛のようなものが流れていたり、青い海藻が浮いていたりする。左右の家々はもう古びて穢い。そして、水から直ぐ家になっている。そういう古い小さな家の窓からも、その家相応な小さな絨毯ようの幕がさがっていた。

エキゾーチックという言葉は、僕の留学地の欧羅巴では余り強く感じなかったが、今日のヴェネチアのゆうぐれに僕は強く此の語の持つ語感を身におぼえたのであった。

たとえば、ピエル・ロチあたりでも、深く入りくんだ長崎の港に船が入って来て、船で鳴らす汽笛が港を甲(よろ)うている群山に反響(こだま)し、その長い音が浦上村の方へ消えて行ってしまう。大浦から稲佐の家々が見えて来る。唐寺の紅い門が見え出して来る。そういう時の気持と相通うものがあったのかもしれぬ。

そのうちゴンドラは二たび、大きな運河へ出た。眼界が広くなって、大きな建物が運河の両岸に聳えている。その建物はいろいろの色に塗ってあり、その窓からやはり絨毯の大きいのが垂れていた。

これらの建物の幾つかは皆由緒のあるもので、案内書には委しく書いてあるが、僕はそういうものを読もうともせずに垂れさがっている絨毯を見ていた。……」
 ――『世界紀行文學全集 5 イタリア』《ヴェネチア雑記》(斎藤茂吉、修道社、昭和四十六年九月三十日)より [(2)へ続く]
  1. 2015/06/11(木) 00:01:17|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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旧四大海洋共和国レガッタ

昨日曜日、旧四大海洋共和国(ジェーノヴァ、ピーザ、アマルフィ、ヴェネツィア)レガッタ(パーリオ)が今年はヴェネツィアで行われました。ヴェネツィアは過去2年の優勝を受けて、3連覇が掛かっていました。次の新聞La Nuovaをどうぞ。
4市レガッタ「 ヴェネツィアは旧海洋共和国の第33回目のパーリオを制した
――ヴェネツイアのクルーは9分45秒で競技を牛耳った――

旧四大海洋共和国レガッタはその33回目をヴェネツィアが勝ち取った。半分が入れ替わった、より若いクルー達はリーダーのジーン・ズメルゲットを欠いたが、ヴェネツィアの乗組員達はまたもやライバル達を打ち破った。2kmのコースを9分44秒15で通過した。 …… 」
  1. 2015/06/08(月) 23:20:24|
  2. ヴェネツィアの行事
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ヴェネツィアの建物:ミキエール・ダッレ・コロンネ館(2) 

R.ルッソ著『ヴェネツィアの館』(1998)は、この館をミキエール・ダッレ・コロンネ(Michiel dalle Colonne)館としていますが、『大運河』(1993)とは異なり(こちらは delle Colonne)、この建物の近世の歴史について述べています。
ヴェネツィアの館「建物の通称は、1階開廊を支える柱に由来するが、グリマーニ家がそれをヴェーネト・ビザンティン様式で建てさせた時代に、既にそれは存在していた。後の17世紀の終り、建物に手を入れたのはゼン家で、バロック様式の新しいファサードは建築家アントーニオ・ガースパリに委ねられた。

その改築の少し前、建物はマントヴァ公フェルディナンド・カルロ・ゴンザーガが手に入れた。公は女性に対する情熱、〝特に身長も体重も大きな″女性好みで知られていた。マントヴァにはカローリ伯爵夫人女主人のハーレムがあり、カーニヴァル・シーズンにはパーティーのために全女性を連れて行ったということらしい。

1706年スペイン継承戦争時代、オーストリア軍がマントヴァを占領した時、フェルディナンドは大運河の彼の館に隠棲し、彫刻や絵画のコレクションをそこへ移した。1708年、パードヴァで亡くなり、彼の遺産相続人は建物をヴェローナのコニーリ伯達に売ってしまい、その後彼らもマルカントーニオ・ミキエールに館を譲ってしまった。

もう一人のマルカントーニオはヴェネツィアの総督、最後から2番目のパーオロ・レニエール(1779~1789)の孫娘ジュスティーナ・レニエールと結婚した。

ジュスティーナ・レニエールは教養豊かで才気煥発な、『ヴェネツィアの祝祭の起源(Sull'origine delle feste veneziane)』というエッセイで文学者として成功した女性だった。セレニッスィマ時代の聖俗の祝祭についての夥しい記事は大変貴重な物である。

フランス語も大変堪能で、彼女のサロンの常連だったシャトーブリアンは、彼女が〝ヴェネツィアは自然と対立する存在である″とする説に完璧なフランス語で異議を唱えるのを聞いたという。

1800年代、館の所有はマルティネンゴ家に移り、マルティネンゴ家は遺産として、ドナ・デッレ・ローゼ家に遺した。

館はファシスト国民党、その後続いて労働組合の在所となったが、現在は登記所である。」
  1. 2015/06/04(木) 00:01:45|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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