イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

文学に表れたヴェネツィア――今村楯夫

『ヘミングウェイとパウンドのヴェネツィア』(今村楯夫/真鍋晶子著、彩流社、二〇一五年一月二十日)という本を読みました。以前にもヴェネツィアのヘミングウェイについて触れました。2009.08.15~08.22日のヘミングウェイ(1、2)です。この本からヴェネツィアっぽいところを引用してみます。
『ヘミングウェイとパウンドのヴェネツィア』「  ヴェネツィアの市場
『河を渡って木立の中へ』の中で、キャントウェルは次のように語る。
《まず街の反対側にあるグリッティ・ホテルを出発するところから始めよう。ファンダメンテ・ヌォーヴェを通って迷わずにリアルト橋に着くところでゲームは終わる。そこまで来れば、橋を渡って市場に降りて行くことができる。市場は街のどこよりも気にいっていた。どの町でも、まっさきに行くのは市場だ。(第二十一章)》

キャントウェルあるいはヘミングウェイのみならず、旅する人びとの多くは訪れた都市の市場を覗いてみることを楽しみにしているに違いない。特に野菜や果物を扱う市場と海辺にある町の魚市場は格別に楽しい。市場には人びとの生活そのものが凝縮しており、その地方特有の食材としての野菜を手に取って見ることができるし、見たこともない果物を発見することもある。

ヴェネツィアの魚市場はまた格別、興味深い。まずは日本でも見慣れた魚貝類を確認し、次には初めて見る魚に驚嘆する。サバ、ヒラメ、クロダイ、アジなどに始まり、アサリ、シジミなどの貝類に加えて、大量のムール貝、エビは大小さまざまな大きさと色合いをもって山盛りに並べられている。

ヴェネツィアの市場に魅了されたキャントウェルは続く章で、詳しくその魅力を語っている。章全体が市場に関する話となっており、作者ヘミングウェイがいかに市場のもつ猥雑なほどに活気溢れる様相に心を惹かれていたか分かる。 ……」

私は1994年からヴェネツィア詣でを始め、2000年から7年間もアパートを借りて、毎年2、3ヶ月ずつ語楽学校に通ったのですが、未だに片言しか話せない全く不出来の生徒でした。語学能力なしでも街歩きは出来ますし、また毎日の食事は欠かせません。1994年、初ヴェネツィアの魚市場で、魚屋のジャンニと知り合いました。以後ヴェネツィアの魚についてはジャンニが教授してくれました。数年前NHKのTV伊語講座のヴェネツィア編でこの魚屋の叔父さん(現在引退)が対談者に登場し、テキストに写真が掲載されていたので、テキストを購入してジャンニに渡して呉れるように頼みました。叔父さんは日本の雑誌に自分が載ったと大変喜んで呉れたとジャンニが報告を呉れました。

そんな目で魚市場を見ると、私はシジミをリアルト市場で見たことがありません。注意深く目を凝らして見たことがないのでしょう。この貝は私の田舎の宍道湖など淡水・汽水域に誕生します、ラグーナは海水・汽水ですので生息可能のようですが。fondamente(ヴェ語)を〝ファンダメンテ″と米語式に読む等[ヌォーヴェ(nuove伊語⇒noveヴェ語)]、時に目にする誤植が気になりますが(魚貝類⇒魚介類)。郷に入っては郷に従え(Quando a Roma vai, fa' come vedrai)という格言は英語を話す人には馬耳東風でしょうか?

しかしそういう些細な事はどうでもよく、ヘミングウェイ好きは楽しく読みました。《パパ(ヘミングウェイ)》大好きです!
  1. 2015/07/30(木) 00:03:05|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ヴェネツィアの歴史: 881年から

前回引用しました『図説 ヴェネツィア』(ルカ・コルフェライ著、中山悦子訳、河出書房新社、一九九六年一月二五日)の巻末年表の〝881年から″の項に《ドージェ、ジョヴァンニ・パルテチパツィオ2世(881~887)。比較的平和な時期を迎える。アドリア海北部で覇権をとる》とあります。G.ディステーファノ著『セレニッスィマの歴史』421-1099(Supernova、2010.02)の881年の項には次のような事も書かれています。
ヴェネツィア史 421-1099「オルソ・パルテチパーツィオ1世(864-881)の共同指導者で息子のジョヴァンニ・パルテチパーツィオ2世(881-887)は第15代総督になった。人民の承認の下、兄弟のピエートロ(939-942)の前、もう一人の兄弟オルソ・ジュニアの死により、総督職に就いたのである。彼が完成させた仕事としては、マラモッコのサン・コルネーリオ・エ・チプリアーノ教会が思い出される」。[何故教会が Ss(サンティ)でないのか分かりません]

またこの年の項に次のような話も掲載されています。
「この総督オルソ・パルテチパーツィオ1世は自然死の状態で亡くなり、サン・ザッカリーア修道院に葬られた。未亡人となった総督夫人はグレゴーリオ・アンドレアーディとかいう男と再婚し、モロジーナという娘を儲けた。この娘の愛の物語から《ボーコロの伝説(Leggenda del bocolo――薔薇の蕾の伝説、ヴェ語bocolo=伊語bocciolo)が生まれた。

モロジーナは美男で優しい吟遊詩人、若いロドルフォと愛し合うようになる。彼がある宮廷のパーティでバラード(物語詩)を吟じた時に出会ったのである。しかし少女の父はその事について知りたくもなかった。そこでモロジーナはその若者に、仏王シャルルに随伴してムーア人との戦いに行くよう勧めた。そうすれば栄光を得、父の誇りも獲得することが出来る、と。

ロドルフォは出発し、意気込み激しく戦い、周りの者全てが恐れ戦き、彼を正に英雄と考えた。しかしある日、薔薇の木の傍らで傷付き、命が尽きたのだった。

死ぬ前、薔薇の蕾(ヴェ語でbocolo)を集め、自分の忠実な部下に渡し、それをモロジーナに持って行ってくれるよう託した、自分への愛を思い出して呉れるように、と。

少女は蕾を受け取っても何も言わなかった。自分の部屋に籠ると翌4月25日ベッドの上に横たわっているのが見付かった、絶命して。

この大いなる愛の記憶として、ヴェネツィアでは毎年4月25日の〝サン・マルコの祝祭(Festa di san Marco)″に全ての恋人達は自分の恋人に赤い薔薇の蕾を贈る習わしが始まった。――これ以外の伝説もある。 ……」

2011.01.22日の年中行事 4や2014.04.26日の聖マルコの祝日でサン・マルコの祝祭について触れています。
  1. 2015/07/23(木) 00:04:59|
  2. ヴェネツィアの歴史
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レデントーレの祭

今月土曜日(18日)夜、恒例のレデントーレの祭の花火大会が催されたことが昨日の新聞La Nuova紙に載っています。
レデントーレ「 レデントーレ祭は灼熱の夜: 10万の人が船等で花火鑑賞
――水上の花火大会は40分のスペクタクル。辣腕の花火師がコンピューターで操作。労働組合の抗議《夜の大会を強化するという口実で、午前中住民の通行を制限された》。地震の如き花火――
 
伝統の花火大会。レデントーレの最高の夜に10万の人。サン・ジョルジョ島からジャルディーニ公園まで、サン・マルコ湾は船で埋め尽くされた。パラッツォのパーティ――総督宮殿、船やテーブルに供された伝統料理、それらは鴨料理(ヴェ語anara)、鰯料理(ヴェ語sarde in saor)、ビーゴリ・スパゲッティ(bigoli in salsa)等。 ……」

レデントーレの祭については、1011.03.05日のヴェネツィア年中行事でも触れています。
  1. 2015/07/20(月) 16:09:40|
  2. ヴェネツィアの行事
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ヴェネツィアの歴史: 827~880年

『図説 ヴェネツィア』(ルカ・コルフェライ著、中山悦子訳、河出書房新社、一九九六年一月二五日)の巻末年表の827年の項には「ヴェネツィアを管轄下に含むグラードの総大司教がアクイレイア総大司教の管轄より独立」、827~880年の項には「ドージェ、ジョヴァンニ・パルテチパツィオ2世。比較的平和な時期を迎える。アドリア海北部で覇権をとる」、更に828年「聖人マルコの遺骨がヴェネツィアに到来」とあります。

『セレニッスィマの歴史』421-1099(Giovanni Distefano著、Supernova、2010.02)の827年の項には次のような記事を掲載しています。
ヴェネツィア史 421-1099「マントヴァの教会会議で、アクイレーイアの総大司教マッセンツィオは神聖ローマ帝国の陰の宰相的存在で、フランク族が古いヴェーネト地域を再統合したり、ビザンティンとランゴバルド族の間での分割騒動といったことはもうなかったのだが、アクイレーイアは自分達の支配権(司法権)を再確保して、グラードの総大司教管区の排除を要求するという主張を通すことが出来た。ラグーナの島々の宗教上の精神生活に関わることである。

教会会議はアクイレーイアの主張を全面的に認め、《グラードは権利の効力の温存を放棄した。……事実、教皇庁はグラードという都市の排除をはっきりとした形にしようとはせず、グラードの総大司教管区は依然として存続した。》(デ・ヴェルゴッティーニより)

教皇庁の決定の延期という事態の中で、総督は、アクイレーイアそして西欧世界が征服されてしまうという大危機を察知して、敏速に行動した。即ち、尊厳なる総大司教のラグーナの島々の平安を無視するということは、シャルルマーニュ(カール大帝Carlo Magno)のカロリング朝の支配を被るということ、更にはコンスタンティノープルとの海洋貿易に繋がるメリットを失うということを意味した。

直ぐに数ヶ月で、《アクイレーイア教会の伝説的創立者》福音史家マルコの遺骨がヴェネツィアに届き、その彼の遺骨を納める、彼に捧げられた教会が、ヴェネツィアの他のあらゆる教会の中で第一位にあるものとして誕生し、他に優越する。   

そしてその教会はヴェネツィア総督領の新首都の中で、古きアクイレーイア教会に繋がるシンボルとして存在することになる。」 

2008.11.02~11.22日に書いた聖マルコ伝説(1~3)で、ヴェネツィアに到来した聖マルコの遺骨について書いています。
  1. 2015/07/16(木) 00:05:30|
  2. ヴェネツィアの歴史
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ヴェネツィアのレメール小広場の幽霊

リアルト市場の大運河対岸にレメール小広場というピクチァレスクな空間があります。この広場にレメール(Remer ゴンドラの櫂を作る職人)という名のミラーノ風のバーカロが出来、何度か飲みに行ったことがあります。この広場は『異邦人たちの慰め』(イアン・マキューアン著、早川書房刊)を米人監督ポール・シュレイダーが映画化した『迷宮のヴェニス』(1990)の中でも使われていました。更にNHKのフィクション風ドキュメント、ドラマティックバス・ベネチア編『ヴァポレットの女』という番組の中で、このバーカロの中を背景に、ヴァポレットの運転手らにインタビューするシーンがありました。この広場に次のような幽霊話があるそうです。Marcello Brusegan著『ヴェネツィアの神話伝説』(Compton Editori、2007.08)から訳してみました。
レメール広場Marcello Brusegan『ヴェネツィアの神話と伝説』[「レメール小広場はヴェネツィアでも最も特徴的でロマンティックな場所の一つである。リアルト橋の直ぐ近くに位置し、ヴェネツィアでも最も古い井桁[1200年代後半の平行六面体のヴェローナ産の赤大理石]が広場中央にあり、大運河左岸に顔を見せる[ここで左岸の呼称はサン・マルコ湾が河口を意味します。これまで私のブログは鉄道駅側を河口としていましたが、その資料は誤りでした]。そして13世紀に遡る、ヴェネツィアでも最も古い物の一つであるリオン館が姿を見せている。

広場に暫し足を止めて、大運河のシャワシャワした水の囁きを見ていれば、幸運な人ならば(あるいは人それぞれの気質だから不運な人でも)、ぞっとする(鬼気迫る)ようなシーンに遭遇するやも知れない、即ちフォースコ・ロレダーンの幽霊のことである。妻エーレナの首を手にして水面から立ち上がってくるのである。

この時たまの出現(決まった状況でだけ現れるという人がいる――それは満月で霧深い夜)は、1598年に起きた陰鬱な出来事を思い出させ、時の総督マリーノ・グリマーニ(犠牲者の叔父――1595~1605)はどのような登場人物を見たのか? それは姪のエーレナ・グリマーニとその非常に嫉妬深かった夫フォースコ・ロレダーンである。

ある夜、総督が街を散歩している時、レメール小広場の方へ走って行きながら叫んでいる一人の女の声を聞いた。彼女は剣を持った男に追い回されていた。総督グリマーニは素早くそれに介入して、二人の追跡を始め、追い付いた。そしてそれは自分の姪とその夫であることが分かった。

総督の発した質問への返答は明確で断定的なもので、フォースコ・ロレダーンは妻が自分の知りもしない男と何度も不倫を重ねており、自分が妻を糾弾するのは正しいと言った。エーレナは夫の嫉妬は見当外れも甚だしく、その嫉妬の対象は単に私の従兄弟だと言った。

状況は暫くは平静に落ち着くかと思われたが、突如、フォースコは怒りが爆発し、逆上して分別を無くし、妻に飛び掛かった。そして一撃の下に剣で妻の首を打ち落としてしまったのである。

殺人者は血に塗れ、総督の方に向き直って言った。自分に科せられるいかなる罪も罰も甘んじます、閣下、と。しかしグリマーニは言った。先ずローマの教皇猊下の元へ行きなさい、そして妻のその亡骸と刎ねた首を持参して、犯した罪の許しを乞うことだ、と。

ローマに到着するやフォースコは教皇に謁見を求めた。教皇は事の次第を聞いて、彼の接見を許さなかった。ロレダーンはすっかり打ちのめされてヴェネツィアに帰省したが、ヴェネツィアでの裁きに身を委ねる前に、自分が冷酷な罪を犯した場所に赴いた。そして大運河に身を投げ、自らの命を絶った。 

その時以来、殺人者の幽霊が出没するのだという、両手あるいは膝に妻エーレナ・グリマーニの首を抱えて。」

ヴェネツィアには幽霊話が結構あるようで、私が初めて語学校通学のために借りたアパート《旧モチェニーゴ館》には、2007.11.07日に書いたジョルダーノ・ブルーノの霊が出ると言われましたし、2011.11.12日のコンタリーニ・ダル・ザッフォ館(1、2)でもジョルジョーネに関わる幽霊話を書きました。

ところでこのレメール小広場は大運河の〝左岸″にあると書くと今まで書いてきたことと180度矛盾します。今まで準拠していた『Venice. The Grand Canal』(Daniele Resini著、Vianello刊)や『ヴェネツィア』上下(クリストファー・ヒバート著、原書房刊)等はサン・マルコ湾を上流としているため、この小広場が右岸になります。最近図書館で見付けた『ヴェネツィア 大運河』(ウンベルト・フランツォイ著、陣内秀信監修、中山悦子訳、洋泉社、1994年10月3日)はサン・マルコ湾に向かってこの小広場側を〝左岸(羅典語式de Citra―こちら側)″、税関岬側を〝右岸(de Ultra―向こう側)″としています。やはりこれが正しいと思われます。サン・マルコ湾方向が海ということ。今後はこの本に倣います。
『ヴェネツィア 大運河』しかしこの『ヴェネツィア 大運河』(洋泉社)が絶対かと言えば、例えば上記の語学校初通学時に借りたアパート、モチェニーゴ・カーザ・ヴェッキア館(旧モチェニーゴ館)の説明文に英国のバイロン卿が長期滞在したとあり、バイロンに関する碑文が掲載してあるのです。本の前頁、左隣のモチェニーゴ館の写真を見れば、碑はその左隣のモチェニーゴ館のファサードに貼られている物で、モチェニーゴ・カーザ・ヴェッキア館の物ではないと分かるのですが。バイロンがそのモチェニーゴ館に滞在した模様は2012.12.08日のモチェニーゴ館でどうぞ。著者、監修者、訳者とヴェネツィア・オーソリティという三役揃い踏みでもこういう事は発生するようです。
  1. 2015/07/09(木) 00:05:56|
  2. ヴェネツィアの伝説
  3. | コメント:0

ヴェネツィアの建物: スミス・マンジッリ-ヴァルマラーナ館他

ミキエール・デッレ・コロンネ館を通り過ぎると隣にはミキエール小館があり、更にミキエール・デル・ブルザ(Michiel del Brusa`)館があります。E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のような事を述べています。
マンジッリ・ヴァルマラーナ・スミス館他「1774年の火事で損傷を受けたため、こう呼ばれるゴシック様式の建物[ヴェ語 brusa`=伊語 casa bruciata]。3年後、共和国の財政援助で再建なり、グァラーナの手で装飾が施された。中央の美しい四連窓とその両脇に従えた、花形のオジーブ式一面窓2面で、持て囃された。」

更にその右隣にはスミス・マンジッリ-ヴァルマラーナ館があります。その館について、E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のように書いています。

「イギリスのジョージ3世に豊富で貴重なコレクション――特にカナレットとピアッツェッタの作品――を売った有名な美術品鑑定家であり、イギリスの外交官ジョゼフ・スミスが住んだので、〝大使の″と通称された。収集品は現在、イギリス・ウィンザー城の王立コレクションにある。

1743~51年、彼はアントーニオ・ビゼンティーニにそれ以前に存在していた建物を一新させた。その最初の2階3階の新古典様式の美しいファサードは、彼の手になるものであった。ピアーノ・ノービレの窓のように、1階の大門はティンパヌムを持つ小礼拝堂風門であり、窓は楣(まぐさ)式構造を支える、対になったコンポジット式の扶壁柱の列がファサードをリズミックに強調している。

最上階とその下の階は、次の所有者となったジュゼッペ・マンジッリが増築したものである。彼は1784年内部を更に最新の物にしたいと考え、フェニーチェ劇場の建築家ジャンアントーニオ・セルヴァの趣味に委ねた。彼の手入れのお陰で、ネオ・クラッシックの豪奢な室内装飾が実現した。その中には今日でも保存されている、非常に価値の高い物がある。

館は次いでヴァルマラーナ家の手に渡った。ヴィチェンツァの裕福な貴族である。神聖ローマ皇帝コンラート2世(Corrado Ⅱ)が1031年より伯爵位を授けた。……」

ジョゼフ・スミスとアントーニオ・ヴィゼンティーニの関係については、2012.10.13~10.20日のヴィゼンティーニ(1,2)で触れています。ご参考までに。
  1. 2015/07/02(木) 00:05:09|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
  3. | コメント:0

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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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