イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

文学に表れたヴェネツィア――イータロ・カルヴィーノ

イータロ・カルヴィーノ(1923.10.15キューバ、ハバナ近郊~1985.09.19シエーナ)の、白水社の瀟洒な装丁のシリーズ《新しい世界の文学》の一冊『木のぼり男爵』(米川良夫訳、1964年8月20日)を読んだのは、もう何れ程前の事になるでしょうか。イタリア語が多少読めるようになり、イタリア書房で "Marcovaldo ovvero Le stagioni in citta`" を買ってきて、独り読みながらイタリア語の勉強、というより内容が大変面白かったことを思い出します。

カルヴィーノの『イタリア民話集』(1956)からは色々な民話集に翻訳されているようですが、《イタリア民話選》として『みどりの小鳥』(河島英昭訳、岩波書店、一九七八年四月二七日)でイタリア各地の民話が出版されています。文中に《少し悲しい話》『ポーモとスコルツォ』(ヴェネーツィア)と題したヴェネツィア民話が掲載されています。そのお話を冒頭からどうぞ。
みどりの小鳥「むかし大金持の夫婦者がいた。かねてから子どもを欲しいと思っていたが、子宝に恵まれなかった。ある日のこと、その大金持の紳士が道ばたでひとりの魔法使いに出会った。「魔法使いさん、すこしお願いがあるのです」と、切りだした。「どうすれば子宝に恵まれるのでしょうか?」

魔法使いは大金持の紳士にりんごをあたえて言った。「これを奥さんに食べさせてごらん、かわいい子どもが生まれるから」
夫はりんごをもって帰り妻にあたえた。「これを食べればかわいい子どもが生まれてくる。魔法使いにもらったのだよ」

妻は大変よろこんで召使いの女をよび、皮をむくように言いつけた。召使の女はりんごの皮をむいたが、捨てずにとっておいた。そしてあとでこっそり食べてしまった。

やがて、女主人に男の子が生まれ、同じ日に召使いの女も男の子を生んだ。召使の女の子どもはりんごの皮みたいに赤と白の肌をしていたので、スコルツォ(皮)と名づけられた。そして女主人の子どもはりんごの実みたいに真白な肌をしていたので、ポーモ(実)と名づけられた。大金持の主人はふたりの子を自分の子どものように育てて、いっしょに学校へ通わせた。 ……」

お話はこんな風に始まり、最後までヴェネツィアの地名一つ登場しませんから、どこの町の民話としても差支えのない内容です。C'era una volta una strega furba.(昔々ある所に、賢い魔女がいました)という昔話の定型を思い出します。

話は少し変わりますが、furbo/a(形容詞)という単語はイタリアでは+(肯定的)の意味を持つ言葉で、伊語中辞典にある《抜け目のない、ずる賢い》といった日本では否定的な使い方をする語ではないそうです。この辞典では《「ずるさ」「悪賢さ」の意味合いの強さはscaltro、astuto、furboの順で弱くなる。ときに「抜け目ない」「賢い」「目先がきく」の意で肯定的によく使われる》とあるのですが。文化の違いで日本語には、伊語のように其々の単語に-意の語、+意の語といった発想はないので、どうしても《狡賢い》といった訳語を当てるので、誤解されてしまうのでしょうか。

この8月は敗戦70周年で、TVで戦争特集が沢山ありました。硬直した直情径行・猪突猛進の日本陸軍は、死ぬことは潔いのだと本土決戦などという本当にアホな作戦を立て、日本民族の殲滅を強行しようとしました。furbo に日本の来し方行く末を模索するなどということの対極(diametralmente opposto)にある、単に了見が狭いだけの、一人よがりの"カッコ良さ"を求めたのでしょう。こういう人達の子孫である我々はやはり furbo の訳語に《狡賢い》を当てるのでしょうか。

私が思い出す映画にガブリエーレ・サルヴァトーレス監督の『エーゲ海の天使』があります。日本の悲壮感迫る兵隊ものと違い全編笑いに包まれた兵士ものでした。最終場面で、一人の兵士が帰国に当たって、島で共に生きてきた山羊数頭を英軍の艦船に乗り込ませようとしますが、規則で載せられないと断られます。しかし結局実現させるのです。

日本人は規則だと断られれば、交渉もせず引き下がるでしょう。潔いのです、交渉事は下手ですし。伊人は最後の最後まで furbo に希望の実現に努力を惜しまないのでしょう。カッコ良さの問題ではないのです。人がすること、一度決めた法律でも、それは永遠のものではなく、例外も多いことです。日本でも戦国時代、権謀術数は生き残るために必須だったのですが。日本的美学は無視して furbo に来し方行く末の人生、世の中の事を考えられればと思います。

ヴェネツィア共和国を繁栄させた"ヴェニスの商人"は正に"furbo"でした[シェイクスピアのアントニオーはヴェニスの商人と言えません、商人として愚か過ぎます。シェイクスピアの限界が見えます]。第4次十字軍に参軍して、信仰等見向きもせず利益優先、信仰に燃えた仏人十字軍兵士らををコンスタンティノープル陥落に協力させたエンリーコ・ダンドロの故事を知れば、合点がいきます。
  1. 2015/08/27(木) 00:01:54|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ヴェネツィアの建物: ドルフィーン(Casa Dolfin)館

ダ・モスト館の右隣にはドルフィーン館があります。E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)はこの館について次のように述べています。
ドルフィーン館「これは15世紀のゴシック様式の、二つの建物が合体し、1600年代に上の階が増築されたものである。左の建物は前に飛び出しており、2階3階のファサードは、ファサード全体に広がった多連窓に特徴がある。

ドルフィーン家は古い銀行家の一家で、1297年の黄金文書(Libro d'oro)に含まれる、今日尚、存在する一家である。グラデニーゴ家から分離した一家で、その一家も別のグループに分かれたと思われる。

外交官や、かのジュゼッペのような有能な兵士を生み出したが、ジュゼッペはイラクリオン(Candia)戦争(1645~69、カンディアはギリシア、クレタ島の港)の時、ダーダネルス海峡(stretto dei Dardanelli)でトルコの船団に遭遇し、2艘の船で防戦した、数年後、僅かの手段しかない中で、敵軍を大混乱に陥れた、かのジローラモのようにである。

ヴェネツィアのトルコ軍との何世紀にも渡る戦いで、屡々気付かれることだが、興味深いのはその英雄的行動を最高に評価するために、兵員と武器の敵軍との不均衡を強調していることである。ラグーナの全人口は最高でも、女・子供を含めて10万人を超えなかった。

スルタンは東ヨーロッパのみならず、アジア・アフリカ人の計り知れない大きな《貯蔵庫》から人間を掻き集めることが出来て、損失がいかに大きかろうと、ひとえに戦争用に訓練された、恐るべきイェニチェリ軍団で強化された、20万という兵員をふんだんに徴兵した軍隊を常に配置させることが出来た。

船団については全地中海沿岸の人民による艦隊で組織され、ラグーナのちっぽけな都市国家のものに比べれば比較にならなかった。

ドルフィーン家は総督ジョヴァンニ(1356~61)を輩出し、マリーン・ファリエーロ事件で混乱したヴェネツィアに平和を齎した。領土を失うという犠牲はあったものの、ハンガリーとの間に平和が到来した。」
  1. 2015/08/20(木) 00:05:43|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ヴェネツィアの建物: ダ・モスト館(Ca' da Mosto)

スミス・マンジッリ・ヴァルマラーナ館の右はサンティ・アポーストリ運河で、更に17世紀の一般住宅ザーゴの家となり、その右にダ・モスト館があります。R. ルッソ著『ヴェネツィアの館』(1998)はこの館について次のように述べています。
ドルフィーン館「この建物については、ジョン・ラスキンが定義したように《最もシンプルにして豪華且つ表現力を備えた館、最もオリジナリティを完璧に残すもの》という文言が記憶されるが、特に1432年生まれの著名な航海者にして探検家であったアルヴィーゼ・ダ・モストに遡る。

22歳の時マルコ・ゼーノ艦長の商艦のガレー船に乗り組んで船出した。そしてポルトガルのヴィセンテ(Vincenzo)岬で、エンリケ(Enrico)航海王子に会った。彼に快速帆船カラヴェル船の指揮を頼むためであった。この船でアルヴィーゼはアフリカの西海岸を進み、セネガルやカナリア諸島を探検し、その後ジェーノヴァ人アントニオット・ウゾディマーレと共に、ガンビア河口に到達し、カボ・ヴェルデ(Capo Verde)の島々を発見した。

商人としてアフリカ(ナイジェリア)のラゴスに7年滞在した後、ヴェネツィアに戻り、エリザベッタ・ヴェニエールと結婚した。多分1488年この建物で亡くなった。

ヴェーネト・ビザンティン様式のこの建物の建築は13世紀に遡り、上の階の2層はそれぞれ17世紀と18世紀に増築されたもの。しかしダ・モスト家の所有については、1400年代の資料からのみ記述が登場する。この一家は17世紀初めに消滅し、建物は色々の所有者に分割されたが、ズアンネ・ジャリーンが借り受け、ホテル白獅子館(albergo Leon Bianco)を始めた。

町を訪れた非常に高名な人が宿泊した。1700年代後半神聖ローマ帝国皇帝ヨーゼフ(Giuseppe)2世が二度訪れた。1782年にはロシア女帝エカチェリナ(Caterina)2世の息子パーヴェル(Paolo)・ペトロヴィチ皇子とその妃マリーヤ(Maria)・フェオドロヴナが訪れた。

ヴェネツィア共和国滅亡後は、この館の歴史は、Leon Bianco の名前が1800年代半ばに発見された程度で、よく分かっていない。」
  1. 2015/08/13(木) 00:03:22|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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大運河で水浴

日本では35度以上の猛暑日が続き、記録を更新しているようですが、本日のNa Nuova紙は、次のようなニュースを伝えています。
大運河で水浴「 全裸で大運河の水浴
――礼儀知らずの旅行者、リアルトで水浴。今や混迷深い、町への警鐘――

極暑は確か。考えられる危険の軽視も確か、大運河はカオスの海ではない。昨日朝、一人の観光客がリアルト傍の、ペスケリーアのトラゲット乗り場で、禁止され、衛生問題もあり、恥の事がありながら、何らかの理由あっての事だろう、水に入り、泳いだ。 ……」

かつて大運河で、人々が泳いだという記録は結構あるようです。覗き込むと魚影はありますから、水は相当綺麗になったに違いありません。映画『旅情』で、ヘップバーンがサン・バルナバ運河に落ちた時は、相当量の解毒用等の衛生薬を飲んで決行したそうですから、当時の水は酷かったのでしょう。
  1. 2015/08/12(水) 12:25:21|
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文学に表れたヴェネツィア――真鍋晶子

前回『ヘミングウェイとパウンドのヴェネツィア』(今村楯夫/真鍋晶子著、彩流社、二〇一五年一月二十日)という本を読んだことを書きました。この本の後半は、真鍋晶子氏のエズラ・パウンドについての評伝です。パウンドの長編詩を声を出して読んでいると高揚した気分になり、意味が分からなくても分かったような気分で何か満たされます。

パウンドについては、今まで2010.08.15~08.14日のエズラ・パウンド(1、2)や2013.01.05日のエズラ・パウンド 3等で触れてきました。尚、オルガ・ラッジについては2009.11.07日のブロツキーで触れています。少しこの本からの引用をしてみます。
『ヘミングウェイとパウンドのヴェネツィア』「  秘密の巣
パウンドには五十年にわたって恋人でありパートナーであり続けた女性がいた。オルガ・ラッジである。パウンドと出逢った時にオルガはすでにヨーロッパでヴァイオリニストとして活躍していた。出身はアメリカ、オハイオ州だ。

二人の接点は、一九二〇年十一月ロンドン、イオニアン・ホールでのオルガの演奏について、パウンドが《繊細な堅固さをもつ》とのコンサート評を『ニュー・エイジ』誌に載せた時に初めて見られる。ふたりが個人的に親しくなったのは、一九二三年パリ、ナタリー・バーニーの芸術家サロンにおいてであった。

一九二八年、オルガはヴェネツィアに家を購入し、パリを離れた。新居はドルチュオーソ地区のケレーニ通り(カーレ)二五二番地にあり、パウンドはこの家を《秘密の巣》と呼び、愛情に支えられ、想像力と創造力を溢れ出すことの出来る、ヴェネツィアにおける住処とした。

パウンドが妻ドロシーへの愛情を持ち続けたこともあり、パウンドが、オルガ、ドロシー、三者の確執は実に四〇年にわたって続いた。一九二五年以後パウンドはドロシーとの住居を北イタリア、ラパッロ[Rapallo in Liguriaのこと]に定め、この《公式》の本拠地を持つと同時に、ヴェネツィアでの滞在も長期に渡った。

一九六一年、パウンドより一歳年下のドロシーが、もはや高齢の自分の手に負えないと、九歳年下のオルガにパウンドを托し、パウンドが一九七二年に亡くなるまでの最期の十一年間をオルガと過ごした家がここだ。

オルガは、音楽家として自立した人生を送りながら、パウンドとの愛情関係を確実に育んでいたが、ドロシーが介在する長い時間が精神に与えて来た苦痛から解放された際の喜びは測り知れないものだった。 ……」
オルガ・ラッジの家この本に書かれたオルガとパウンドの《秘密の巣》に至ろうとしても、上記の文面では難しいのではないかと思います。右のサルーテ教会が見える地図をご参照下さい。Dorsoduro(ドルソドゥーロ)区252番地は、Rio de la Fornace(フォルナーチェ運河)のPonte de Mezo(メーゾ=伊語Mezzo(メッゾ))橋傍の、Calle Querini(クェリーニ通り―CalleはCaleとも書かれ、Lは無音で〝カーエ″と発音されたりします。脱皮した蟹のモエーカmoeca(moleca)と同じ)の奥に向かって右手に、252番地[地図下部254番地の隣]があります。2年前に訪ねた時は、ドアにオルガ・ラッジの名刺が張ってありました。この通りの突き当たりにストラヴィーンスキイが住んでいたことをこの本に教えられました。
  1. 2015/08/06(木) 00:03:07|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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