イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの監獄

M.ブルゼガーン著『ヴェネツィアの神話伝説』(Newton Compton editori、2007.10)から、カザノーヴァで有名になった牢獄の話をどうぞ。
Marcello Brusegan『ヴェネツィアの神話と伝説』新牢獄舎「 セレニッシマのピオンビとポッツィの恐ろしい牢獄
総督宮殿の3人の異端審問官(2人は十人委員会から、1人は総督相談役の中から選出、前者2人は纏う衣服から黒衣、後者1人は赤衣と呼ばれる)の部屋から、〝ポッツィ(井戸)″と呼ばれる地下牢へは狭い階段を下り、また〝ピオンビ(鉛)と呼ばれる屋根下の牢獄へは狭い階段を上る。

前者は恐ろしいばかりの湿気、空気が希薄で、真っ暗のあまりそう呼ばれた。後者は鉛の板で永遠に覆われている。囚人は、冬場はポッツィ牢で寒さに苦しみ、ピオンビ牢では夏場酷暑に直面したであろうことは、容易に想像出来る。

ポッツィ牢が出来たのは、15世紀半ばに遡る。それは総督宮殿の中で、かしこに分散していた各種の独房を集中的にまとめようという1525年の決定に拠るものであった。それは隣接する他の空間から独立性を、兵站的に守る刑務所の施設である。

囚人の収容状況は非常にきびしいものであった。十人委員会は1568年公式に、《それは人間の埋葬》に酷似していると述べた。結局、これらの独房は、低い頑丈な、閂の掛かったドアから、やっと蠟燭のかすかな光か、油の明かりが灯されて届くか、天井の丸い穴からやっと風が入った。しかしそれは夜は締められ、最低の人間性を示すことになる。

ピオンビ牢は総督宮殿の建物の屋根の下に大部屋が7つあり、宮殿の運河に面し、15世紀中頃に作られた。ポッツィ牢に比して、夏の地獄の暑さと冬の温度の厳しさにも拘わらず、非常に凌ぎ易く、より好まれたと思われる。

現実には、そこでは空気はより循環しており、照明はもっと明るかった。だから、そこにはより罪の軽い囚人を押し込んだ。もっぱら残忍な罪や国家に対する犯罪を犯していない者であった。

ヴェネツィアの非常に厳しい牢獄から脱走に成功した者は、極くわずかであり、その中でもとりわけ有名な人物は、疑いなくジャーコモ・カザノーヴァであり、彼は1756年10月31日の夜、大胆不敵にピオンビ牢から脱走した。」
  1. 2015/09/24(木) 00:02:13|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ドルソドゥーロ区の美術館

昨日の新聞La Nuova紙は、次のようなイヴェントを報じています。
ドルソドゥーロ地区「 アッカデーミア美術館、チーニ美術館、グッゲナイム美術館、ドガーナ美術館: 美術館の黄金の1マイル
――ヴェネツィアの4大施設はドルソドゥーロ地区を活性化するため、文化の中心(極)を一つに纏める――

1200年代の黄金基金から現代の聖なる展示まで、1000年の美術史を経巡る〝時代の散歩″は、アッカデーミア橋から税関岬までの大運河沿いの1本の通りを行き、美術・博物館施設とコレクションを一つにするプロジェクトである。

この地区を取り巻く四つの貴重な施設を一般に提供して、見せる1マイルに足りない区間の芸術文化の案内が、ドルソドゥーロの美術館の想いである。即ち、ピノー財団による、①le gallerie dell'Accademia(アッカデーミア美術館)、②la galleria di Palazzo Cini(チーニ美術館)、③la Collezione Peggy Guggenheim(グッゲナイム近代美術館)、④Punta della Dogana(ドガーナ美術館)である。 ……」

ヴェネツィアに行かれたら、是非大運河対岸のドルソドゥーロ地区を散歩して下さい。ヴェネツィアの人々の第一のお気に入りの場所は、ジュデッカ運河に面したザッテレ海岸通りだそうです。私のお気に入りは、このザッテレを西の果てまで行くとバゼージョ運河に沿って北上するCalle del Vento(風の通り)です。名前が気に入りました。2014.04.16日に書いたディエーゴ・ヴァレーリに教わりました。
  1. 2015/09/21(月) 13:40:54|
  2. ヴェネツィアの美術館
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ヴェネツィアの広場: レメール小広場ほか建物

ドルフィーン館右隣はボッラーニ・エーリッツォ館です。E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は簡単に次のように紹介しています。
レメール小広場の「サン・ジョヴァンニ・グリゾーストモ運河と大運河との合流点に位置し、少々古い建物を改築したものである。狭いファサードは柱の間の広いアーチになった三連窓が、2階、3階の中心を占めている。一方、入口の大玄関は中心を外れて右に置かれ、より近年になって最上階が追加された。

ここに総督アンドレーア・グリッティ(1523-39)が住んだが、有名な文学者ピエートロ・アレティーノ(1492-1556)がダンドロ館に移る前に住み、彼の辛辣で刺すような文言で世の有力者を震撼させた。」

サン・ジョヴァンニ・グリゾーストモ運河を挟んで、右に19世紀に改築された16世紀の住宅用の建物があり、レメール小広場と続きます。この小広場については、暫く前に書いた(2015.07.09)ブログレメール小広場に、ここに現れる幽霊の事を書きました。この小広場の建物について、上記の『大運河』は次のような事を語っています。

「18世紀の建物のある狭いヴェネツィア的なこの一角は、非常に典型的な風情に富んでいる。ここにかつてリオーン家、そしてモロズィーニ家所有の12世紀の建物があった。そこには大アーケードのある、大変美しく、典型的な外階段と素晴らしい井桁が残っている。

古いビザンティン様式の館の建築のために使用された大理石は、アルティーノのローマ式建築の物と同じ物であることに気付けば、興味深いことである。それはトルチェッロ島に運ばれて使用されたが、再び返され、ヴェネツィアの館の再建築に使用された。

リオーン(or レオーニ)は、レヴァントのアクル[San Giovanni d'Acri、イスラエル北部の港湾都市のこと?]に引っ越したが、1291年、町がイスラム教徒に征服されるや、一家は莫大な財産を持ってヴェネツィアに戻った。

しかし年代記が言うように、ラグーナに戻り上陸する前に、慎重なドメーニコは大評議会への参加が認められる保証を望んだ[セッラータはその数年後に起きた]。

1360年頃、ヴィード・リオーンはフランチェスカ・モロズィーニと結婚した。結婚式の夜、花婿は花嫁に自分の靴下を脱がすよう命じた。その事に関して、貴族の嫁は、憤慨して〝モロズィーニ家はリオーンの靴下を脱がす等あり得ない″と答えた。喧嘩が続き、フランチェスカは追い出された。その後もヴェネツィアでヴィードは、そうした事に我慢をしないパートナーと争い、通達により、貴族としての家柄、即ち大評議会から排除された。

この一家は、ヴェネツィアで著名な人物を輩出しているが、重大な事で不名誉を被ることになった。市のアヴォガドール(行政官)、その後本土の長老委員となったマッフェーオは、1540年、フランス領事に買収され、共和国の機密事項を洩らしてしまった。発覚するや逃げ出したが、首に1000スクードの懸賞金を掛けられ、永久追放になった。

彼の子孫は4世代後まで、貴族の称号を剥奪され、結局レメール小広場の館は取りこぼされた。上記の事が現在でも噂される。一家は19世紀に絶えた。」
  1. 2015/09/17(木) 00:05:43|
  2. ヴェネツィアの広場
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文学に表れたヴェネツィア――牧野英一

『世界紀行文學全集 イタリア』(修道社、昭和四十六年九月三十日)の中に、法学者牧野英一の『海を渡りて野をわたりて』(日本評論社、昭和二年一一月)からの《マルコの広場》という一篇が取り上げられています。そこからの引用を掲げます。
世界紀行文学全集「二月二十四日 ヴェニスにて
広いバルカンの野をよぎってイタリヤに入る。トリエステにては霧ふかくしてアドリヤチック見えず。例の長い橋をわたって、朝ヴェニスに着くと、うすもやのなかの寺々のさまに、まさしく見おぼえがある。とおい鐘の音、ちかい鐘の音、曾て聞いたおぼえのある鐘の音が、曾て見たことのおぼえある寺々からひびいている。
……
ヴェニスに来ての兎も角もの仕事は、まず、サン・マルコの御寺へまいるということでなければならぬ。信仰あつきヴェニスの人々が、サン・マルコを念じつつ、地中海をわが海として東に西に漕ぎまわってから、はや千年ちかく経ている。その東から西からあまたの珍宝をもたらして、ヴェニスの人々は、マルコの御寺をかざったモザイックの金色(こんじき)のきらめき、大理石のかがやきのめでたさ。マルコの御寺は斯ようにしてできたのである。
……
斯くして、サン・マルコの御寺にとなりして、ドージュの御殿ができた。マルコの御寺をおがんだのち、わたくしはドージュの御殿をひとまわりした。
 
マルコの御寺は、はじめ九世紀頃にできたのが、追々に拡大され修築されて今日のものとなった。ヴェニスの人々は、海外の到るところから、貴いもの珍らしいものを舶載してマルコの御寺をかざった。

ビザンチン式の屋根とゴシック式のかざりとが、いろいろに取り合わされている。門の上に在る大きな馬はビザンスのヒッポドロームから持って来たものであるとか、ひとつひとつの柱、ひとつひとつの彫像にも深いいわれがあるのである。

ドージュの御殿もおなじく九世紀頃からはじまった。そこにも各地から集められたいろいろの材料が用いられて、追々に拡大され修築された。十世紀頃には城壁を以て囲んだものであったとかいうのであるが、修築を重ねるうちに、いつのまにか、ただの御殿になった。

フローレンスでも、シエナでも、昔の政庁は城塞の形にできている。しかし、ここでは、全く平和を象徴して御殿ができたというのが、ヴェニスの特色であるとされている。 ……」
  1. 2015/09/10(木) 00:02:12|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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歴史的レガッタ(Regata storica―レガータ・ストーリカ)

毎年9月の第一日曜日恒例の《レガータ・ストーリカ》は、今年は揉め事もなく優勝が決まったようです。昨年はデステ組が優勝しましたが、最終的には揉め事があったそうです。《La Nuova紙は次のように報じています。
レガータ・ストーリカ「 歴史的レガッタ、ヴィニョット組の13回目の勝利、デステ=レドルフィ・テッツァート組は失格
――試合中の無作法行為がスパークした。女子の戦いはヴァレンティーナ・トーズィ=ジョルジャ・ラガッツィ組がカオルリーナ舟で優勝、若者組の試合はボン=ヴィニョット=イエーゾロ組がカオルリーナ舟で勝利。ブルニャーロ市長《これがヨーロッパの町での競艇である》と、そしてジョニー・デップ登場[現在ヴェネツィア映画祭参加]――

今年の歴史的レガッタは、ルーディとイゴールのヴィニョット従兄弟組に13回目の赤い旗が翻った。紫色のゴンドリーノ舟が競艇中、終始リードを保った。一方ジャンパーオロ・デステ=イーヴォ・レドルフィ・テッツァート組は、マーキナ(カ・フォースカリ前に設置されたゴール施設)間近で半艇身前の黄色の舟のコースを塞ぐという無作法がヴィニョット組に比してあり、失格した。

第2位は、緑色のアンドレーア・ベルトルディーノ=マルティーノ・ヴィアネッロ組、第3位は、カナリア色のクィンタヴァッレ・ベルガンティーン組、第4位は、青色のロベルト=レナート組。 ……」

2011.03.12日のブログ年中行事(9)に歴史的レガッタの歴史等について触れています。
  1. 2015/09/07(月) 17:15:05|
  2. ヴェネツィアの行事
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ヴェネツィアの歴史: 900年

『図説 ヴェネツィア』(ルカ・コルフェライ著、中山悦子訳、河出書房新社、1996年1月25日)の巻末年表の900年の項には《ドージェ、ピエトロ・カンディアーノの治世下、サンタ・マリア・ゾベニゴからカステッロにいたる城壁を構築》とあります。G. ディステーファノ著『セレニッスィマの歴史 421-1099』(2010)は、900年の項で次のように述べています。
『図説 ヴェネツィア』ヴェネツィア史 421-1099「ハンガリー人(Ungari o Ungheri)、以前はフン族(Unni)とも呼ばれた遊牧民(ステップ地域から到来した蛮族)、ローマ街道から他の蛮族のように容易に東アルプス(Alpi Giulie)からヴェーネトへ侵入した。イタリア王ベレンガーリオの軍隊を破り(899年)、全パダーナ平原の大破壊と全殺戮を繰り返し、出遇う街ごとに略奪し、焼き払いながらラグーナに向かって道を切り開いていった。

その間、町の政治の中心を守護するために、あらゆる攻撃、ハンガリーの侵入を阻止する自衛のために、急遽《カステッロ運河からサンタ・マリーア・ジュベーニコまでの防塁……と……同じ防塁の片方の端からサン・グレゴーリオ修道院の対岸まで太い鉄の鎖で大運河をバリケード封鎖した》[Temanza26より]。この太い鎖は、夜の内に招かれざる客を封鎖し、総督を安眠させるため、大運河の対岸から張られたのだった。

あの《Rio di Castello(カステッロ運河)》の事を文字通り捉えて、サン・ピエートロ・ディ・カステッロからサンタ・マリーア・ゾベニーゴまで狭間胸壁のある防壁の存在を人に教える者が多数いるかも知れないので、ここは監視されねばならないのである。

『Venezia romanica(ロマネスクのヴェネツィア)』の中で、ヴラディミーロ・ドリーゴも示唆しているように、そこで述べられている事は多分正確ではない。何故なら防壁は《Rio di Castello》という運河が、リアルトという狭い範囲、将来町の政治的中心となる地域だけを取り囲む《Rio della Paglia(パーリア(藁)運河)》[ここに溜息の橋が1603年に作られた]として理解され、正に総督の城塞が区切るように取り囲んでいた。

ここで語られている事の、更なる確証を得るためには、テマンツァがコピーした(1781年)ペオリーノの有名で、正確な地図(1346年)を一目見れば、充分である。取り囲まれているのは、政治的要塞のみである。」

当時は総督宮殿は城塞だったようで、運河名等も現在とは異なるようです。
  1. 2015/09/03(木) 00:05:14|
  2. ヴェネツィアの歴史
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ヴェネツィアの大干潮

ヴェネツィアのアックァ・アルタ(高潮)は有名ですが、それと同じように大干潮もあります。昨日の新聞La Nuova紙は、次のようなニュースを報じています。
座礁した船「 朔望(月の満ち欠け=満月新月)による干潮: 10艘あまりの船が座礁
――満月のこの数日、ラグーナでの航行は浅瀬に船が座礁して、悪夢となり果てる危険あり。錨を上げる前になすべき事――

月と貴方。しかし夢は悪夢となり遂せる。この数日満月による潮の満ち引きは、過大か過小の問題を引き起こす。ラグーナを訪れ、朔望による潮の満ち引きの極点に遭遇した釣の愛好家達はそれを目にした。即ち、今日日のような満月新月では、満潮最高点、干潮最小点は、上弦下弦の月の時に比して極めて著しい。 ……」と。

アックァ・アルタ現象が回数等最高を示すのは、もうすぐやって来る11、12月で、日々の干満の差は120cm程と言われています。2008.02.29日のブログヴェネツィアの街では、干潮に触れました。
  1. 2015/09/01(火) 15:50:04|
  2. ヴェネツィアの自然
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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