イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ローマの支倉常長一行(1)

私がローマで買った本、『Da Sendai a Roma――Un'ambasceria giapponese a Paolo Ⅴ(仙台からローマへ――パウルス5世への日本人使節団)』(Edizione Office Move、1990.10.)の中から、アレッサンドラ・ギドーリ・トメーイ著《1615年10月――ローマの日本人達……》と題されたものを、誤訳を恐れず、ローマの支倉常長について書かれたものを紹介してみます。
Da Sendai a Roma「 Ottobre 1615: 《Giaponesi a Roma…》[pが一つ、Giapponesi ではありません]
ジャチント・ジッリは1608-70年の彼の日記の中で《西インド諸島から来たローマの日本人達(Giaponesi a Roma dall'Indie)》というタイトルのニュースをその余白に書き付けた。 1615-16年の日本の遣欧使節のローマ滞在についての一節は、今日でもあまり知られていないが、次のように記した。

《1615年10月29日、日本の王(伊達藩主)の兄弟が西インド諸島から到来し、ローマに入った……、2年以上も掛かった旅であり、何人も引き連れてきたのだが、ローマに生きて到着したのは9人で、彼を含めて10人だった……。彼らに大いなる敬意が表明され、彼は各貴紳達の真中で馬に跨り、全員を引き連れ、大群衆と共に進んだ。

色々の色―灰色、白、黒に染められた衣類、他にも上着や聖職者用モゼッタ、また彼らの風習とは異なった衣類を着ていた。沢山の貴族、教皇の廷臣や護衛の者が付き従い、全員が同じように乗馬して同伴した。
パウルス5世常長謁見常長(1)[左、教皇パウルス5世、中、ソテロと支倉常長、教皇に謁見、右、支倉常長] 教皇は枢機卿会議を開かなかった。日本の王[伊達政宗]がまだ受洗していないので、その使節達のためにかかずらった。素晴らしい贈物を教皇に持ってきた。大使はキリスト教徒である。スペインのフェリペ3世に受洗を施され、彼の名スペイン・オーストリア[神聖ローマ帝国]のフランシスコ・フェリペ[羅典式フランキスクス・ピリポ]を洗礼名に貰った。

他の人達もクリスチャンだったが、内一人はその後、ローマのサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ司教座教会でボルゲーゼ枢機卿の手で、受洗された。そして教皇の名前を貰い、パーオロ・カミッロ・ボルゲーゼと呼ばれることになったのは11月16日のことである。彼は仲間と共に大変な栄誉を受けた使節であった。

彼らには色々な場所が紹介され、ローマの教会は色々なプレゼントで飾られ、彼らはローマ市民として認められた。彼らは1616年1月9日までローマに滞在し、ロレートのマドンナ教会に行き、その後帰国するために、彼らを案内して来た神父と共に出発した。神父は彼の母国で司教になった。》

データが一部不正確だったり、二次的な内容が変に詳しかったりするが、ジッリのニュースは大変興味深いものである。何故なら使節のローマ滞在中の主要なデータを全て含んでいるからである。特に遠国からはるばるやって来て、町に滞在する彼らの描写には、非常に新鮮なものがある。ジッリの描写を読むと、4世紀ほど前のこの日本人達を目の当たりにしているかのようであり、彼らが街を通過し、ローマ市民に強烈な印象を与えて、これほど異質の存在の在り様が確実に人々を同じように驚かせたのである。

しかし結局、お互いが同じように示唆し、影響し合うもの、好奇心といったものは別として、これほど隔たった二つの世界が各々の理解の中で、この数ヵ月の間に、お互いになかったもの、あるいは在り得なかったものとしてつぶさに観察出来たのであった。単に思い付いたということではなくて、今上で見てきたように、仮令沢山のニュースを提供しようとしたとしても、この2年以上続いた旅のモティーフが何なのか、ジッリは説明していないし、その真の理由は多分極く少数の人しか知らなかった。

こうしてローマでの、1615年10月末から1616年1月初めのその滞在は、毎日の色とりどりの行列等歩き回りだけを意味することになる。日本人達、即ち1620年9月最終的に祖国に帰還出来た少数の人々にとっては、かなり危険を伴った、大変な思いで、それは夥しい危殆と労苦に満ちたものだったから否定したいような、また語る慰めさえ否定したいような体験だったろう。

しかし7年前日本で、特に江戸では、キリスト教徒は迫害されており、そんな中で慶長使節は色々な期待の中で仙台を出発した。そしてローマの教会と日本との友好関係を築けるものと思われた。少なくとも奥州藩を代表とする地方ではそうであった。

この主人公達の一人、というよりむしろこの長い旅で皆を鼓舞してきたフランチェスコ派のルイス・ソテロは、教皇ウルバヌス8世に、云わば後世に受け継がれるべき、ある種の精神的財産として長文の手紙を奉呈した。その中で奥州藩主伊達政宗の心に、ヨーロッパへの旅のアイデアを吹き込んだとしている。

その文章は、二つのヴァージョン(羅典語版と伊語版)が知られており、大村の獄に繋がれている時、ソテロ師によってしたためられ、日付は1624年1月20日である。

それは非常に重要な文書で、一つには旅が終わって間のない頃に書かれたもので、非常に詳細な内容で、近々のニュースも豊富であり、もう一つは、ソテロの日本への帰還の旅については情報が少ないのだが、それらについて幅広く扱っている。」
 (2)に続く。
  1. 2015/10/29(木) 00:07:16|
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ヴェニス・マラソン

昨日の新聞La Nuova紙は、本日、日曜日に行われる《ヴェニス・マラソン》について、触れています。
ピザーニ館前2015年ヴェニス・マラソンは破壊されたリヴィエーラ通りを8000人のアスリートが疾走する
――イタリアでも最もスペクタクルに溢れたコースは、竜巻の餌食となった地域を通過する。横断幕はなく、≪破壊だけが目立つ≫――

30と109。この数字はストゥラのピザーニ館前から、日曜日朝9時40分に出発する今回のヴェニス・マラソンを特徴付ける。30は、ある人々が世界で最も美しいと考えるマラソン、今回が第30回目であり、109は、去る7月8日の竜巻でリヴィエーラ通り地区が破壊された恐怖の日から109日目ということである。

競技に参加する8000の選手達は、ヴェネツィアに至る道程で竜巻の被害に遭った地域を通過する。 ……」
税関岬の橋リヴェルタ橋を渡るとヴェネツィア市内では、ピアッツァーレ・ローマ広場からザッテレ海岸通りを走り、税関岬からサンマルコのモーロ海岸に架かった仮設の橋(写真参照)を渡り、スキアヴォーニ海岸通りを駆け抜け、ジャルディーニ(公園)前のゴールに至ります。ヴェネツィア市内の階段橋には板が渡され、全て板の坂道(rampe)となる筈です。ヴェネツィアの年中行事でこのマラソンについて触れています。
アフリカ勢追記: 日曜日の競技の結果は、1、2、3位とアフリカ勢が独占したそうです。
  1. 2015/10/25(日) 22:00:40|
  2. ヴェネツィアの行事
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ローマ行

チヴィタヴェッキアの後、ローマに行きました。ローマに着いて先ず最初に訪れた所は、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂のあるヴェネーツィア広場近くにある、イル・ジェズ教会でした。以前この教会に行ったのは『地球の歩き方 ローマ』の昔の版に、長崎で殉教した26人の絵があるとあり、この教会右脇の部屋に入ると誰もおられず、暫くして一人の僧侶が見え、拙い伊語でその事を尋ね、見せて貰えないかと懇願すると、その奥の扉を開けてくれました。
イル・ジェズ教会イグナティウス・デ・ロヨラ元和大殉教大殉教部分[左、イル・ジェズ教会、中左、イグナティウス・デ・ロヨラ(伊式イニャーツィオIgnazio de Loyola)、中右、元和大殉教図、右、元和大殉教図部分]
今回その部屋は絵葉書や宗教書を売る売店の形になっており、常駐の人がいました。以前にも見せて頂いたのですが…、とお願いすると簡単に奥の扉を開けて、内部を案内して説明してくれました。昔見た絵を失念しており、改めて再確認するものでしたが、それは26殉教者の物ではなく、1622年9月10日の、秀忠による長崎西坂における、55人にも及ぶ《元和の大殉教》という日本最大の殉教者を出した死刑の模様を描いた物でした。
元和の大殉教図[サイトから借用]  パウルス・ミキ他レオナルドゥス・キムラ達チヴィタヴェッキアの日本聖26殉教者教会の基になる絵がここにあると思い込んでいたのはそんな訳でした。以前見た島原の5殉教者磔刑図の事を尋ねると、それは現在修復中でここにはないとの事でした。その代わりに《Martirio di S. Paolo Miki, Givanni Coto e Giovanni Kisai in vari periodi in Giappone》(上図中)という絵が掲げられ、売店には《Martirio del Beato Leonardo Kimura con altri quattro cristiani a Nagasaki il 18 nov. 1619》(上図右)と、かつてと様変わりして、日本の殉教者の絵だけが掲げられていました。日本人必見です。
予約アドレスその後ガイドにあるように、支倉常長のフレスコ画があるという大統領官邸パラッツォ・クィリナーレに行きました。大門前で護衛をするカラビニエーリに、どうすればコラッツィエーリの間(Sala di Corazzieri) に入れるか、尋ねると、官邸広場前の右回りの坂道(階段ではない)を下って行く途中の左に《15A》の番地があるので、そこで予約するようにと言われました(休日休み)。事務所に行くと、5日先まで予約は一杯と言われ、日数がなく諦めましたが、PCで予め予約するアドレスを教わりました(上携)。
支倉常長他政宗の夢 常長の現[左、サイトから借用。右から、ルイス・ソテロ、支倉常長、後列右から、山城国の滝野嘉兵衛、摂津国の伊丹宋味、尾張国の野間半兵衛、支倉の書記・小寺外記 [支倉常長については以前のブログ支倉常長もご参照下さい] 尚、常長の洗礼名はスペインで受洗したのでDon Felipe Francisco Faxicura(羅典式Philippvs Franciscvs Faxicvra〔羅典語のVは「ウ」音〕、伊語式Filippo Francesco Faxicura)となるようです。
以前TVで、カメラが入ったボルゲーゼ宮殿の、ある壁面の支倉常長の肖像画を、案内のボルゲーゼの青年が《日本人!》と指差したのを見た記憶がありますが、昨年その絵が修復なって、来日し、東博で短期間展示されました。その絵の在所(ボルゲーゼ美術館?)を確かめることもなく帰国しました。

ローマでチェックオフする時、ホテルのsimpaticaな受付の女性に、次回イタリアに来るとするとどこに行きたいか?と問われ、シチリアと答えるとSciciliaとはどこかと問われ、えっ?と思ったのです。つい日本語式発音になっていたんですね。改めてSicilia(スィチーリア)と返しました。大変反省しました。

今ローマへ行かれると、トゥレーヴィの泉やスパーニャ階段は修復のために近寄れません。また、もしかするとサン・ピエートゥロ大聖堂も大行列のために、その日、遅く並んだ人は入堂不可能になるほどの大観光客です。出来るだけ早朝に並ぶしかないようです。
[ 今回フィレンツェでは大聖堂の周りを入場者が巨大行列していましたが、ヴァティカンでも広場の外側を超巨大行列がぐるり取り巻いていました。入場制限していますから、列の前進は殆ど見えません。巨大というレベルを遥かに超えた観光客の遅く並んだ人はその日入場出来ず、徹夜して次の日を待つのかな、と思いました。偶々レストランで隣り合った日本人は、今朝7時から並び、10番ぐらいだったと言っていました。日本にさえ来る観光客が増加し、世界は大旅行ブームに突入したのか、という感想を持ちました]
  1. 2015/10/22(木) 00:43:58|
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チヴィタヴェッキア行

ヴェネツィア・フィレンツェの後、10月6、7日チヴィタヴェッキアに滞在しました。チヴィタヴェッキアという町をご存じでしょうか? イタリア映画好きの人はご存知かも知れません。『スプレンドール』(1989)や『イル・ポスティーノ』(1994)の、ナーポリ生まれの名優マッシモ・トロイージ(享年42歳、息子役)がマストロイアンニ(享年73歳、父親役)と共演した映画『Che ora e`?(バールに灯ともる頃)』(1989)の舞台となった町です。二人の名優は既に故人です。懐かしいです。

この町は先ず、長谷川路可画伯が修復した日本聖二十六殉教者教会で日本では知られているでしょう。私がかつてローマのイル・ジェズ教会で見た磔刑図が、『地球の歩き方 ローマ』に26殉教者の絵とガイドされてあり、今までそれを信じ込んでいました。当然長谷川画伯はそれを参考にこの教会を修復・描出されたものと思い込み、ブログを書いてきました。それは間違いで、イル・ジェズ教会の絵は、1622年の《元和の大殉教》と言われた、秀忠の命で長崎西坂で火刑と斬首で亡くなった55人の信者達の絵だそうです。
聖殉教者教会パンフ1聖殉教者教会パンフ2パンフ内側1パンフ内側 日本聖殉教者教会裏面一方聖26殉教者の方は、1597年日本初、長崎西坂で磔刑により殉教者を出した時のものを、路可画伯がこの教会に描かれました。それは支倉常長が1615年ローマに向けて下船した地であったことが画伯の頭にあったからでしょう、祭壇天井に常長の肖像が描かれていました。
聖26殉教者教会祭壇支倉常長像また港近くグリエルモ・マルコーニ通りリヴォルノ門傍の広場に支倉常長の銅像があり、彼が太平洋を渡り、メキシコを横断し、大西洋を越え、スペインからローマへ至り、再び帰国して行った道程も石碑に刻まれてありました。現在この町は、常長が船出した石巻市と姉妹都市となっています。常長は3・11のように1611年の大津波で大被害を受けた東北を、メキシコとの貿易で再興したいという伊達政宗の意向を受けて太平洋を渡ったのだそうです。
支倉常長銅像碑文常長の航跡支倉常長が1615年10月18日、ローマを来訪するために上陸したのがイタリアの港町、チヴィタヴェッキアだったということで、1613年10月28日(慶長18年9月15日)に石巻の月浦湊を出立して2年後の事でした。今年の10月で400年記念になります。チヴィタヴェッキア市のサイトに次のような事が掲載されていましたので、訳してみました。

「10月18日はヨーロッパへの日本の最初の使節が、ローマを目指してチヴィタヴェッキア港に上陸した記念日である。オドアルド・トーティ博士の書『チヴィタヴェッキアの歴史』の中で語られているように、仙台藩の大名、伊達政宗の使節であり、家来であった支倉常長は、教皇庁に赴くためにイタリアの地を踏んだ。教皇庁ではパウルス5世がクィリナーレ宮に招いた。この歴史的な使節は、コラッツィエーリの間で今でも見られるフレスコ画がその証明となっている。そこには日本人支倉常長とフランチェスコ派神父ルイス・ソテロが描かれている。

今日ローマのヴィットーリオ・エマヌエーレと名付けられた通りを長い行列で進み、聖庁に招じ入れられた。ヨーロッパ人が日本人に出会った最初の事であり、この時を祈念しながら丸2年の旅をした。石巻・月浦港から1613年サン・ファン・バウティスタ号(S.Giovanni Battista)に乗船して出発した。太平洋横断、パナマでガレオネス(Galeone)船下船、大西洋横断のためパナマ地峡を徒歩で進み、スペインのサンルカル・デ・バラメーダ(Sanlucar de Barrameda)に着。その後各地を経て、チヴィタヴェッキアに到着した。

古いガレオン船(Galeone)と同大の船の再建は、支倉常長の派遣に触発されて全ての町の長ら参加の下、1993年石巻で始まった。それは2011年この地方を襲った破壊的な大津波にも耐えた。今や我々は準備万端である。彼らはチヴィタヴェッキアに姉妹都市提携で派遣されて来た。我々は日本の姉妹都市と連絡を取った。2012年10月11日、市長ティデーイは石巻市長に書簡を送り、この古くからの絆を維持進めることを再確認した。

来年2013年の重要記念日を待ちながら、今年は文化的行事を鑑み、この記念日を祝うだろう。その日は支倉常長が日本を出発して400年なのである。他の町の同郷人も記憶しているだろうが、1991年10月18日ここで行われたもの、個人的にはまた一つのパレードを胸に懐いている。1615年には仙台からの侍達がマルコーニ通りを行進したのだが、その時彼らは長旅の後、古い絆の火を再度点火しようと望んだのだった。

姉妹都市提携は先ず我々の心に生きている。かくも異なった、遠国の人と文化的友好関係を強めようという意志と興味を持って、ヨーロッパ共同体の姉妹都市事務局長のジャン・ベレットは言う: 多くの人がカンパニリズモの中にあって、狭い料簡に閉じ籠ったままである。こうした殻を壊し、他国との類似の競争意識を破ることが必要である。必要なのは、市民が広がっていく世界認識の中で地域の生活を強化しながら、目覚める事。これが姉妹都市提携の最終目的である。」
  1. 2015/10/17(土) 00:08:00|
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ヴェネツィア行

ヴェネツィアに行ってきました。出発直前インテルプレティ・ヴェネツィアーニがこの10月来日すると知って、深慮なかったと悔やんだのですが、サント・ステーファノ広場のサン・ヴィダール教会に行くと、チェロ奏者のダーヴィデが私の姿を見付けて挨拶を呉れました。父君のジャンニも分かったようです。ジャンニとは横浜での公演時、一度話しただけですが、覚えられていたとは! 
Interpreti Venezianiプログラムサラサーテの”カルメン・ファンタジー”という曲には大変感動しました。ヴェネツィア残留組には、アマディーオ一家全員があり、ヴィオラの姉のソーニアさん、コントラバスの父君のジャンニ、チェロのダーヴィデ・アマディーオとアマディーオ一家を中心にヴィヴァルディのヴィオラとチェロの協奏曲RV.531がありました。胸が震えました。
東洋館パンフ美しのガラス、パンフ(2)展示物ヴェネツィアに行ったのは、他にもヴェネツィア・レース・ガラスでも書きましたが、潮工房さんの作品がカ・ペーザロの東洋館に並べられると知ってのこともありました。友人のファビアーナやマリーザ、宿主のマウリーツィオにも話したら、見に行ったよと喜んで呉れました。
Yoshino前にも書いた事がありますが、このカ・ペーザロという美術館はヨーロッパ近代美術と、ヨーロッパ随一と称する東洋美術、特に日本の工芸・美術が収集された美術館で、その売店にも日本関連の書籍、古事記から村上春樹までの伊訳が揃えられています。今回は谷崎潤一郎の作品を購入しました。
Tobia MorraTobia Morra裏ヴェネツィアは何かと日本との関連が深い町ですが、かつてヴェネツィアと日本との関わり(1)の《(1)(2)》で書きましたように、日本と深く関わりを持った町です。カ・ペーザロ以外にも、街には日本の古物品だけを扱う骨董屋があり、展示されていた写真をベアート・フェリーチェの物かと店主に問うと、これは日本の作家の物と言われました。また我が家で使っている茶器の一つにヴェネツィア作の楽茶碗がありますが、この店は現在も日本の物品を並べています。
  1. 2015/10/13(火) 16:19:54|
  2. ヴェネツィアの行事
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文学に表れたヴェネツィア――板垣鷹穂

『世界紀行文學全集 イタリア』第5巻(修道社、昭和四十六年九月三十日)の中に、芸術学者板垣鷹穂の『イタリアの寺』(芸文書院、大正一五年一一月)の中の《小寺小品》に“ヴェネチア”があります。以下引用をしてみます。
世界紀行文学全集「――サンタ・マリア・デイ・ミラコリ――
緑青色をした水を豊かにただよわすカナル・グランデがサンタ・マリア・デル・サルーテの青白い壮麗な影につきて、カナレ・デイ・サン・マルコの広々とした彼方には、サン・ジオルジオ・マジオーレの端正な姿が穏かな水面に浮んでいる。人の世の宮殿とも思えぬ程に空想的なパラッツォ・ドゥカレに沿うて狭いカナルに漕ぎ入るゴンドラは、《歎きの橋》をくぐって静かに進む。

それからは、路地のように狭く、曲折の非常に込み入ったカナルがしばらく続く。舟人達の交わす物憂げな合図の声が、カナルの辻を通るごとに幾度か繰り返されて、両側の家の古びた壁に微かに反響を残して行く。

そのカナルが益々狭くなり、両側の家も益々みすぼらしくなったところにサンタ・マリア・デイ・ミラコリがある。細やかな石橋の側に、淀んだ緑色の水に其の小さく美しい影を漂わせて立つ寺である。大きく考えて聖体を納める棺、小さく考えれば宝石を入れる小箱――と云ったような形である。

半円形の屋根の形が、蝶番(ちょうつがい)で横に開く箱の蓋のようにみえる。黒っぽいくすんだ色の半角柱とアーチとの框に囲まれた明るい色の地肌には、ヴェネチアの建物によくみる幾何学模様めいた単純な図形が、青みがかった大理石とうすい赤の大理石とで半透明に象嵌されている。

それが寺全体の輪郭になお更小箱らしく可愛らしい感じを与える。くすんだ色の聖母像を浮出させたアーチの下の低い扉を展いて堂内に入ると、中は、半円アーチの天井に掩われた単純な長方形の堂で、奥のコーロは、欄をまわし何階かの段上に物見台の如く高まっている。

この小ぢんまりした堂の内は、床も壁も一面に美しい色大理石に装われている。色は鮮やかだが、調子が半透明にシットリしているから、別段わざとらしくきらびやかな感じを起さない。 ……」
  1. 2015/10/08(木) 00:01:47|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ヴェネツィアの橋: 嘆きの橋

M.ブルゼガーン著『ヴェネツィアの神話伝説』(Newton Compton editori、2007.10)に溜息の橋についてのお話があります。
Marcello Brusegan『ヴェネツィアの神話と伝説』嘆きの橋「総督宮殿と新牢獄舎を結ぶイーストラ(Istria)半島石製の宙空に浮かぶ橋。スキアヴォーニ海岸通りのパーリア(麦藁)橋から、その優雅さを愛でることが出来る。1600年代、新牢獄舎建設の注文で作られることになった。元々は総督宮殿の1階に秘密の場所として必要だったもので、当時は不十分なものになっていた。

建築家アントーニオ・コンティーンが、脱走出来ないように最高の安全を目指して、宙に浮かぶものとしてデザインし、起訴のために囚人達が牢獄から司法官の部屋へ移動する便のために造られたに違いない。

橋は2階にあり、宙に浮いて完全密閉状態で、内部の廊下は二つで、別々独立しており、一方は入館用、他方は出館用で、両側に夫々窓がある。

溜息の橋の伝説は、ロマンチックな文学が発端である。今や牢獄の役目は完全に終わった。囚人がどんな運命かは定かではないが、橋を渡る時、多分最後の機会だろう、それはラグーナであり、自由であり、はたまた、パーリア橋の袂で、涙滂沱で彼を待つ恋人の姿を、小さな窓から目にして、溜息を吐くに違いない、そんな人口に膾炙した伝説の結果でもあるだろう。

初めてこの街を見れば、欲求を一つ表現しなければならないと思うように、この橋は、何十もの繰り返されるイメージと共に、今や何世代にも渡って、人口に膾炙した伝説と共に、執拗に続くヴェネツィア認識のシンボルの一つとなった。」

2012.07.21日に書いたブログジョン・ラスキンでも触れましたが、イギリスの美術評論家ジョン・ラスキンは溜息の橋の設計者をアントーニオ・ダ・ポンテとしているそうですが、実際はダ・ポンテの甥、上記のアントーニオ・コンティーンだそうで、ダ・ポンテのリアルト橋建設に協力し、ダ・ポンテが新牢獄舎の建築を頼まれた時、その橋〝溜息橋″の設計はコンティーンに任せたのだそうです。

尚、溜息の橋の命名についての考察は、2014.01.22日のブログ鳥越輝昭を、ご参考までに。
  1. 2015/10/01(木) 00:05:49|
  2. ヴェネツィアの橋
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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