イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: セルナジョット館他

レメール小広場を更に右へ進むと、15世紀のレメール館の右隣にセルナジョット(Sernagiotto) 館があります。E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のような事を簡略に述べています。
セルナジョット館他「1800年代の上品な建築で、1階は円形小柱を脇に置いた角柱が支える楣(まぐさ)式構造開廊で、上の階には対になった窓が並ぶ。」

更に右に19世紀に改築された16世紀の住宅があり、その先にチヴラーン館があります。上記『大運河』は次の如く記しています。

「17世紀の擬古典様式風建物で、浮き出し飾りのある切り石積みの高い基部の上に立ち上がった、しっかりした発想によるファサードは興味深く、ノービレ階はバルコニーが連続的に占めており、中央窓は上部の大理石を支えるアーチがキーポイントとなって示され、その脇には三角形のペディメントが大理石で繋がれている。

現在は財務警察局の本部である。この一家は名を知られた、最も古い家系で、チヴラーン家は697年の初代総督の選挙に参加している。何世紀にも渡る長い、ヴェネツィアの歴史の中で、大いなる勲功を収めた、非常に勇敢なるキャプテンを輩出した。」

チヴラーン館の右隣はペルドゥッチ館で、『大運河』の記述は以下のように簡単です。

「15世紀のゴシック様式の小さな建物だったが、続く時代に手が加えられ、オジーブ式の二連窓の館となった。」

ペルドゥッチ館の右は、ルッヅィーニi(Ruzzini)館となります。やはり『大運河』の記述を借ります。

「1830年に崩れ落ちたペルシャ人商館跡の敷地に建てられた、多分19世紀終わり頃の、ネオルネサンス様式の大きな建築物。ルッヅィーニ家は1100年代初め、コンスタンティノープルからやって来た。一家の一人マルコは、ジェーノヴァとの熾烈な戦いの期間中、敵のガレー船を多数拿捕して、ギリシアのエーヴォイア島(Negroponte)で、栄えある勝利をヴェネツィアに齎した。

共和国は狂喜して、1558年8月29日を国の祝日と宣言するほどだった。

カルロは有名な外交官で、何度も大使となり、1732年総督に選出された。

ルッヅィーニ家は、沢山の、大きな倉庫を保有していたが、中でもドイツ人商館左隣のこの建物は火事で焼け落ち、再建され、ペルシャ人商館として機能した。」
  1. 2015/11/26(木) 00:04:10|
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文学に表れたヴェネツィア――和辻哲郎

『世界紀行文學全集5 イタリア』(修道社、昭和四十六年九月三十日)の最後に、和辻哲郎の『イタリア古寺巡礼』(要書房、昭和二五年四月)が納められています。その中から、ヴェネツィアに関わるものを次に拾い出してみます。
世界紀行文学全集「ホテルはサン・マルコの広場に近いボンヴェキアティという家であった。運河沿いに二町ほど歩いて、賑やかな通りを一寸抜けると、すぐサン・マルコの広場の西の端に出る。広場は石で敷きつめてあるが、その上へ鳩が下りて来て、餌をくれる子供たちのまわりに集まっている。

その広場の向こうの端に、恐ろしく賑やかな姿をしたサン・マルコのお堂が、広場におっかぶさるように聳えているのである。その印象はいかにもヴェネチア独特で、同じイタリアの国内ではあるが、やっぱりヴェネチアという独立の国へ来たような気持を起させる。

そのすぐ南側にはパラッツォ・ドゥカーレ(ドージの館)があるが、この建物がやはりヴェネチアの町の歴史を一挙にして思い起させるような、ヴェネチア独特のものである。その中を見物するだけでも一日ではすまなかった。

最初二三日はそういうところを愉快に見物して廻ったのであるが、多分四月の二日か三日の頃に、昼食にホテルへ帰って食卓に向うと、まるで食欲の起らないのに気づいた。

ホテルへ帰る途中では、今日もまたヴェネチア名物の魚のフライを食おうと、幾分楽しみにさえしていたのであるし、食卓についてからもそういう気分でいたのであるが、最初スープを飲み始めると、何となく胸がつかえるようで、あとを口に入れる気がしない。やがてフライが出ても、頭ではうまい筈だと思うのであるが、どうしても、手をつける気持が起って来ない。

結局、皿と睨らめっくらをした末に、残念ながらそのまま下げて貰う。どうも変だ、そんな筈はないが、と思って、室に帰って念のために熱を量って見ると、七度五、六分ほど熱が出ている。どうも風邪をひいたらしい。今のうちに癒して了おう、というわけで、その日はアスピリンを飲んで寝てしまった。夕食も抜いたように思う。

翌朝眼を醒ましてみると、気持はさっぱりしている。熱もない。朝食はうまかった。もうこれで風邪は防げたらしいと安心して、午前中はまた見物に廻った。ところが、昼の食卓について見ると、昨日と同じ現象がまた起って来たのである。

昨日は昼と夜とを抜いたのであるから、今日は少し栄養を取って置かなくては、と考えるのであるが、何としても食物を口に入れる気がしない。ただ僅かに水が喉を通るだけである。さては、朝熱がなかったのは、アスピリンのせいであった。風邪はまだ退散しないのだ、と思って、この日もまた午後は床についた。 ……」
  1. 2015/11/19(木) 00:05:44|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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テロ事件

先日パリで、計画的なISの同時多発テロに巻き込まれ、ヴェネツィア出身の、ソルボンヌで学ぶヴァレーリアさんが亡くなり、今日のPC上のTVで、母上が娘を語り、サン・マルコ広場で蝋燭の哀悼の行列があった模様が流されました。
ヴァレーリア、弟と[ヴァレーリア(Valeria Solesin)さんと弟] 宗教とは他者を思い遣り、憐れむもの、と思う私は、他者を傷つける、彼らが原理とする宗教とは単なるテロの別名と思うしかなく、もうパリには行けないな、と思いました。この度、ヴァティカンに行った時も、彼らが標的にする所には一切近付かないつもりでいたのですが、遂、出向いてしまいました。
  1. 2015/11/17(火) 22:02:01|
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ローマの支倉常長一行(3)

(続き)
「旅の期間中、そしてローマ滞在中ずっと、政宗の使節達にはイエズス会の書簡や報告書が、後になり先になり付き纏っていた。この客人達は安心するように守られてはいたが、イエズス会は、支倉常長は日本の皇帝(家康)の使節ではなく、〝その臣下である政宗と呼ばれる、ある藩主″の使節だとはっきり述べ、《この使節は仮面で偽装した連中であり、かの地のパードレ達がこの事全てを既に報告しており、この卑俗なフランシスコ派のパードレ達は従者で女衒でしかない》と述べている。
パウルス5世像伊達政宗政宗、ソテロ、常長支倉常長他支倉常長銅像[左、サンタ・マリーア・マッジョーレ大聖堂聖具室のパウルス5世、中左、独眼竜でない伊達政宗、中中央『伊達政宗、ルイス・ソテロ、支倉常長』仙台藩御用絵師、佐久間晴嶽の長男・佐久間得楼(?、1841-90)画、中右、ローマ、大統領官邸の『ソテロ、常長他』、右、チヴィタヴェッキアの常長銅像(サイトから借用)]
この表現(ソテロがストイックに殉教者となる事を我々は後に見る)は、今や望みなき状況に直面することになる、日本に残るイエズス会士の激しい不安を考慮しても、これは強烈に事実を捻じ曲げたものである。

この意味で違った証言としては、ソテロと常長が日本の港を出発するちょっと前の1613年10月5日の書簡がある。即ち、日本にいた司教からイエズス会のパードレ長に向けてのもの。1615年10月当時、イタリアとスペインの宮廷では既によく知られた物。

《福音書や当局、教皇庁を軽んじているやも知れぬ派遣団に、教皇聖下におかれましては、正しい情報不備のため何かが起こらないように》とパードレ長は書簡で前もって知らせるように求めている。

日本国内の事情を知らない連中の激しい非難は、多くの場合、過度になり勝ちで、少なくともローマの公文書が書いているように説明不能で、ヴェネツィア共和国の外交団は《この機会、興味ある事は、尊敬すべきイエズス会のパードレ達が、この人物がキリスト教信仰に到達したと述べているのは馬鹿々々しいというよりも不快そのものである》と言っている。

こうした趨勢の中で使節団は、マドリードでもローマでも極端なほどの用心深さでしか受け入れられなかった。というより、両方の土地で支援の要求や仙台から示された友情に対する応対は、時間の浪費だけで、曖昧模糊としており、フェリペ3世からパウルス5世へ、そしてまた教皇からスペイン王へ向かわせるだけで、彼らはますます呆然とし気落ちして、疲労していった。

最後に決定的な返答を貰おうと、ソテロと常長がローマからマドリードへ帰着した時、多分この二人を除いて今や全員が知っている事が、最終的に知らされた。即ちそれは、日本全国で迫害の嵐が吹き荒れて、仙台藩も積極的にそれに参加しており、使節団が祖国へ帰還することも非常に危険だということであった。それにも拘わらず、使節団はマドリードを出発し、全員自覚的に自分達の不幸な、色々な運命に立ち向かった。

伊達政宗の使節団の結末はいかなるものであったか。しかしながらこの使節団が静かな生活の中で、また多分遥か向こうの、かつての数年のローマでの単調な生活の中で、格別の事を成し遂げたことは否定出来ないのである。恐らく多くの人達は、グレゴリウス13世の時代、30年ほど前のこと、日本からやって来た人々の記念すべき、もう一つの歩みを思い出していた。

その時全ては丸で異なった展開で、日本の少年達は訪れた多くの宮廷で満腔の敬意で、率直に歓迎され、疑念一つとてなく、ただ示されたのは好奇心と敬愛の情だった。

しかし今回は、支倉の実際の姿も好意を持って描かれなかった。《器量の人というより、中流以下の者。黒い肌で太った、四角い顔で髭を剃り、髪を三つ編みにした46歳の男……》

しかしこの出来事の特異性により、印刷された幾つかの書物では、例えばジェーノヴァ外交団の種々の見解、とりわけヴェネツィア共和国のもの、更に沢山の証言で称賛されて、無意味となったローマ滞在の殆ど毎日の記録を再構成することが出来る。

今や人々は、そうした文献を照合しながら、出来るだけ信頼置ける、徹底的な再構成に取り組み始めている。この事件を正確に位置付けるために、パウルス5世の一般政策教書の中で、偶然にもクリスティーナ・ヘーアマン=フィオーレ(K.Herrmann -Fiore)が提供した他の多くのデータは、この書の中でも使用されている。 ……」
――2013.11.27日に書きました支倉常長も参考までに。
  1. 2015/11/12(木) 00:05:06|
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ローマの支倉常長一行(2)

(続き)
「1613年に戻ろう。もっと詳しく言えば、ソテロ師が1612年当時、言及しているように、典型的にある政治的理由で、というより宗教的信念から未だ受洗していない伊達政宗――結局受洗に至らなかった――は、日本海岸からは行き易い中央アメリカや太平洋地域を牛耳るスペインの支持が得られるかも知れないと考えた。その支持とは、絶対に利益と繋がっている、更にローマの教会側から言えば、仙台の大名の政治的優位性から来るものであった。
パウルス5世支倉常長の像支倉常長像支倉常長[左、パウルス5世像、作者不詳。中左、教皇庁から常長に与えられたもの。明治になって公になった。中右、チヴィタヴェッキアの日本聖26殉教者教会の長谷川路可画の常長像。右、ボルゲーゼ所蔵、Archita Ricci画と言われているが、東北大学の田中英道教授はある理由の下、仏画家Claude Deruet画とされている。2014年東博の《支倉常長展》で来日。]
政宗はソテロと偶々知り合い、ソテロは彼の側室の病気治療のために、ある神父を派遣して、回復したという事があった。政宗はその後、彼に贈り物をし、自分の屋敷に招き、午餐を振る舞い、感謝の意を表した。

この予期せぬ好意を受けた時、カトリック教徒になれば、その藩主が持つであろう計り知れない力を褒め称え、彼は藩主にカトリック要理を教えようとした。カトリック教会の長である教皇の世俗的・地上的側面をも越えて、高位の絶対的権威の表現であり、発露であったからである。

このフランチェスコ派の神父には、イエズス会に対して〝小さな兄弟会(フランチェスコ派)“のこれほどまでの特別の勝利は、暫時であれ、日本の都で宗教活動を実際に任され、そして奥州藩主をもし改宗させることが出来ていたなら、それは大変僥倖なことであったろう。

ソテロの説教に感じたということより、西欧世界の力の記述に影響されて、政宗は個人的に地域の振興に野心を見せて、一種の砦であるようなキリスト教信仰の立場をはっきりと利用しようとした。迫害されるキリスト教の砦の任を自らに課し、この彼の任務への援助と感謝の意を込めて、マドリードの宮廷とローマへ使節を送ることを決めた。

〝大名“の使節として抜擢されたのは、正しくソテロであり、続いて家来の支倉常長六右衛門であった。二人に付き従った者は、御家来衆、家族、各種の使用人達であり、その大半の者は長い旅の途中、亡くなった。

フランチェスコ派の注意深い年代記には、初期から計画の実現を邪魔する、実際の困難や事件について触れている。1612年の初期の試行錯誤の後、1613年10月28日、到頭日本の港を出帆して、航路をメキシコへ向けることが出来た。太平洋岸から大西洋岸へ。メキシコの陸地を横断し、キューバに着。使節達は1614年10月5日スペイン南部の海岸に到着した。続いて、12月20日マドリードに至り、1615年1月30日そこで政宗の使節達はフェリペ3世の拝謁の栄を賜った。

仙台の一行は8ヶ月間の滞在中、〝大名″に期待されていた交易の承認をスペイン王から得たいと思いながら、結果的に零だった。

マドリードで支倉常長は1615年2月17日洗礼を受けた。洗礼名は彼の代父となったレルマ公デミア侯爵フランシスコ・デ・サンドイアル・イ・ロホスからフランシスコの名前を、スペイン王の名前からフェリペの名前を頂戴した。

次なるローマへの旅のために、スペイン語通訳の役で伊人シピオーネ・アマーティがこの使節に合流したのは、この期間のことだった。彼は使節団について詳細な記録を残している。8月22日にはローマへの旅が始まった。

ジェーノヴァに立ち寄り、パウルス5世への贈り物を納める箱を購入し、関税の支払免除を求めたが、マドリードでのように事はうまくいかず、ジェーノヴァのガレー船で航海が始まり、次なる目的地に向かい、チヴィタヴェッキアに上陸して、終着地の教皇領に至った。

為政者セヴェローロが代表するローマ当局との最初の接触以来、ローマの為政者の窓口となった者と使節の間の関係が恒常的なものとなり始めたが、そこには細々とした接触とは違った関係を築くことを阻止しようとするローマ側の警戒心があった。

確かに奥州では、使節を送り出した後、状況が変化しており、伊達政宗がパウルス5世やフェリペ3世に提案した政治上の協力や使節団の拡大等の案件の実現は、無理だったかも知れない。

しかし同様に、使節出発の時点からイエズス会が、密かにこの派遣に敵意を漲らせていたのは確かであり、フランシスコ会が始めた規制緩和(デレギュラシオン)とでも呼べるものは、日本で公教要理を教える事に基づいた、この微妙なバランス・ゲームを破壊してしまうかも知れないことが当然のように心配されており、今や事は悲劇的状況に向かって破竹の勢いで進んでいた。」 ―[(3)に続く]

常長一行がバルセロナからジェーノヴァに向かう途中、嵐に遭い、仏国のサン・トロペ港に避難したそうです。その時、サン・トロペ侯爵が日本人を初めて見たそうで、日本人が仏国に足跡を印した初めてと言われています。その事を侯爵が書簡に記した物が仏国カルパントラ市のアンギャンベルティーヌ図書館に保管されていて、アルフレッド・タンにより掘り起こされ、それを知った仏文学者高橋邦太郎先生に訳され、1971年7月29日の朝日新聞に掲載されたそうです。尚、その仏語書簡については、《ボルドー便り vol.122》というブログで詳しく触れられています。ご参考までに検索して下さい。
  1. 2015/11/05(木) 00:07:37|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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