イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

書籍『ヴェネツィアの放浪教師』(2)

(引用続きです)
「……当時のヴェネツィアでは、庶民層から貴族層に至るまで教育需要が高まっていたが、とりわけ貴族層や上級市民層、専門職層において強い教育需要が起っていた。それに呼応するように、放浪教師たちがそれらの《良質の顧客》層の多数居住する教区、すなわち良質の教育需要の高い教区を指向したのも、当然であった。
『ヴェネツィアの放浪教師』自由競争の原理が働いている限り、需要の強いところに供給も多くなる。しかし、そのような富裕にして威信の高い教区の住民の数は増加しにくいから、需要には限りがあり、供給が続けば供給過多になるのは避けられない。そこに、放浪教師にとって過酷な現実が生じたのである。

このような状況を規定していたのは、中世都市ヴェネツィアの社会的、地理的条件である。ヴェネツィアの場合は、貴族層が政治を、上級市民層が官僚職を独占していた。この社会的特徴が、政治的、社会的な威信と経済的富の一部階層への集中を招き、そうした階層が多数居住する特定の都市空間において政治的な権威と社会的な地位と経済的豊かさとが重複するという特殊な状況が存在した。

そのために、放浪教師たちは威信と富とを所有する人々が多く居住する教区へと、明確にして強い居住指向性を示したものと考えられる。換言すれば、貴族と一部市民層による政治・行政職の独占による強度の社会的閉鎖性が、このような教師の居住傾向をより鮮明にしたといえるのである。

そして、都市域を容易に拡大できない潟の町の深刻な住居の状況が、結果的には、威信や富裕度において二次的な位置を占める都市域への教師の極度の集中化を生み、そこに教師の供給過剰と過当競争をもたらした事実も、おそらくは、教育を完全な自由競争に委ねていたヴェネツィアに特徴的に現われた現象ではなかったかと思われる。」
……
「世俗的にして自由な中世都市ヴェネツィアには、多数の放浪教師が流入してきた。彼らは狭隘な都市空間で過酷な競争を繰り返しながら、よりよい経済条件や社会的威信を求めて地理的に流動し、教師としての階層上昇を図ろうとした。そのような放浪教師によって、ヴェネツィアの私的な教育は繁栄していた。その繁栄に放浪教師が寄与する限り、彼らは保護育成の対象として認識されていたのである。

しかし、一五世紀半ばに教育の構造化が図られ、中等段階の公的学校が設立されたことによって、私的な放浪教師の中にも新しい変化が生ぜしめられた。それまでのヴェネツィアの放浪教師は、すべて完全に私的にして自由な学校教師であったが、以後、その放浪教師の中から官吏としての学校教師が生まれることになったのである。

放浪教師が読み書きやせいぜいラテン語の初歩などを教えているうちは、依然として私的にして自由な教師として活動することができた。しかし、彼らは読み書きよりはラテン語の初歩を、初歩よりは著作家の講読や修辞学を教えようとする教育内容の高度化を通じて、一種の職階上昇を図る存在であった。そして、教育内容を高度化させてより威信の高い教師となった放浪教師の中から、公的学校の教師たちが雇用されることになった。

こうして雇用され官吏化した放浪教師は、もはや私的にして自由な教師ではなく、移動の自由を制限された定着した学校教師となる。そして、貴族専制の維持強化を目的とした教育政策の下で設立された学校で教える以上、国家方針や教育政策に沿った教育をおこなわざるを得なくなる。万一、彼らがそれらに抵触するとなると、ヴェネツィアは容赦なく厳格に対処したのである。 ……」 ――(3)に続く

来年はいい年でありますように。
  1. 2015/12/31(木) 00:04:02|
  2. ヴェネツィアに関する書籍
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書籍『ヴェネツィアの放浪教師』(1)

『ヴェネツィアの放浪教師――中世都市と学校の誕生』(児玉善仁著、平凡社、1993年3月19日)を読みました。公教育が始まる以前の、より多い収入を求め、生徒を求めて、イタリア各地を経巡った《ソロバン》と《文法》を教える、中世の教師です。無名で埋もれた人から、ヒューマニストとして名を馳せた人まで色々です。2011.05.28日のヴェネツィアに触れた本(4)で紹介しました。この本はヴェネツィアのトポロジーを次のように書いています。
『ヴェネツィアの放浪教師』「しかし、中世は違った。当時は船でヴェネツィアに入ったからである。船は、聖マルコ広場の玄関口、ピアッツェッタ(小広場)や、その東のスキアボーニ海岸に着いた。現在では、ヴァポレット(渡し舟)に乗ってリドから聖マルコ広場に帰ってくるときなどに、多少なりともその感じを味わえる。潟の上に浮かぶ石造りの町が、しだいに目の前に細やかな姿を現わし、聖ジョルジョ・マッジョーレを左に見ながら、聖マルコ運河に入るや、繊細な美しさに輝く白亜のドージェ宮殿と、空に向かって突き刺さるように伸びるカンパニーレ(大鐘楼)が目を奪う。

そして、やがてヴェネツィアの象徴である羽の生えたライオンを頂きに冠した、二本の円柱に挟まれたピアッツェッタのそばに、船は吸い込まれるように着いて、町と初めて接触する。それは、遠来の旅人にとって、いきなり優雅にして力強いヴェネツィアの胸に抱かれるような感じを与えただろう。

中世の放浪教師たちも、このようにしてヴェネツィアにやってきた。さまざまな国の人々や、東方の珍しいものが豊かに溢れる大都会ヴェネツィアに、過酷な生存競争が待ち受けているとは夢想だにすることもなく、やってきたのである。

カンパニーレを抱く聖マルコ広場と、それに接する聖マルコ教会やピアッツェッタ、そしてドージェ宮殿が、ヴェネツィアの中心部である。ことに、ドージェ宮殿では、大評議会や元老院の会議が開かれ、ここはまさしくヴェネツィア政治の心臓部となっていた。しかし、オリエント風の壮麗な聖マルコ教会があるとはいえ、そこは決して宗教的な中心ではなかった。この教会は司教座聖堂ではなく、ドージェの個人的な礼拝堂にすぎなかったのである。

外来の放浪教師たちは、まずこのことに驚いたに違いない。というのも、中世に形成された都市を歩くとすぐにわかることだが、一般に都市の中心部に広場があって、その広場の周りに市庁舎と聖堂が位置している町が多い。つまり、都市の中心部に文化的・政治的・宗教的コアが集中していることが多いのである。

ところが、ヴェネツィアは違う。ここではそれぞれのコアが分散している。おまけに、宗教的なコアであるはずの司教座聖堂の影が著しく薄かったのである。

ヴェネツィアの司教座聖堂は、今日でも観光客がほとんど訪れないような町外れに位置している。聖マルコ広場から、東に向かって家々の間の迷路のような小路を歩いていくと、やがて巨大なアルセナーレ(国営造船所)に着く。ヴェネツィアの海軍力を支えた造船軍需産業の中心である。この産業コアからさらに先にある聖ピエトロ・ディ・カステッロ教会が司教座聖堂で、大司教もここにいた。ヴェネツィアの東端である。

この司教座の位置が、ヴェネツィアにおける宗教権力の位置を象徴している。つまり、普遍的な権力である教会権力が地方の政治権力によって完全に屈服させられ、都市の政治的・行政的な機能から排除されていたのである。、その意味では、ヴェネツィアには宗教的なコアは無きに等しかったといってよい。司教座などなくとも、必要な場合にはドージェの個人的な礼拝堂であった聖マルコ教会が、政治的な意向を汲んで立派に役割を果たしたのである。

残る商業のコアは、どこにあったのだろうか。聖マルコ広場から、時計塔の下をくぐって、北に向かって歩くとすぐに、リアルト橋に出る。この橋は、ヴェネツィアを東西に二分する大運河にかかる唯一の橋であった。この橋を渡った一帯をリアルトと呼び、ここに市場があって、ヴェネツィアの物流の拠点をなしていた。また、周辺の島々も、墓地としてのトルチェッロ、ガラス産業のムラーノなど、都市の機能的分化が進んでいたのである。 ……」 ――(2)へ続く
  1. 2015/12/24(木) 00:04:17|
  2. ヴェネツィアに関する書籍
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ガリバルディ通りの幽霊(2)

(続き)
「この事は直ぐに忘れられてしまったが、数週間後の事、この彫像の傍に近付いた若いカップルが、赤い影に脅かされた。引き続いて別の人もそんな事に遭遇した。そうした人々の中には、頭を打たれ、怪我をした人もあった。
Marcello Brusegan『ヴェネツィアの神話と伝説』このエピソードがある不安を引き起こし始めた。そうしてこの地区の住民は、ある種の警戒パトロールをすることを決めた。監視員達は、誰か悪ふざけをする者を取り押さえて、止めさせようと願った。しかし監視員の誰かが彫像に接近した時、例の赤い影が彼を後ろへすッ転がした。

しかしこの時は、直ぐ様消え去ることがなく、目前に、正に赤い上着の軍服姿のガリバルディの像という形となって顕れた。この瞬間、誰もこの人物が分からなかったが、全員一瞬精神的混乱の後、ある声が上がった。《ジュゼッペだ、ジュゼッペ・ゾッリだ》 1838年生まれのあの若いヴェネツィア人。

彼は志願兵として千人隊の遠征に参加し、出発したのだった。そして将軍ジュゼッペ・ガリバルディの双肩を、その死後も見詰め、威風堂々、有望な兵士だった。
マッキアイオーリジュゼッペ・ガリバルディ[左、2010.01.16-03.14日東京都庭園美術館であった『イタリアの印象派 マッキアイオーリ』展の図録。右、その時来日したシルヴェストロ・レーガ画『ジュゼッペ・ガリバルディの肖像』。マッキアイオーリ派については下記をご参照下さい]
伝説は語り続ける。この顕現の後、全ての地域住民はガリバルディの彫像の双肩にもう一つの像、ヴェネツィア人の〝ガリバルディ″の像を追加するよう、圧力を掛け続けた。彼は将軍の像の上で、銃で武装し、警戒怠りない。その時以来、通行人に対する接触は無くなった。

もしかしたら、夜間、銃が一度以上盗まれるのを見たガリバルディの像が、その顕現で通行人達に周知させたのかも知れない。」

『赤い影』という、ヴェネツィアが舞台の英国の恐ろしい、しかし美しい怨霊映画がありました。ヴェネツィア映画で簡単な説明をどうぞ。ヴェネツィアには幽霊話は似合うのかも知れません。

[マッキアイオーリ派: 図録中、権威フランチェスカ・ディーニ氏が22ページに渡って豊饒の解説をされていますが、お急ぎの向きには次の簡潔的確な説明をどうぞ。
――著者: 中島水緒氏: 1850年代半ば、イタリアのリソルジメント(国家統一運動)を背景にトスカーナ地方で生まれた絵画の流派のこと。フィレンツェのカフェ・ミケランジェロに集った画家たちが時代精神を表わすのにふさわしい新たなリアリズムを愛国主義のもとに標榜。アトリエでの入念な仕上げを説くアカデミズムの教えを放棄し、自然の光を生き生きとした状態で定着させるべく色斑で描写した。

こうした描法は1862年、フィレンツェの新聞『ガゼッタ・デル・ポポロ』により、イタリア語で「しみ」「斑点」を意味する「マッキア(macchia)」に由来する「マッキアイオーリ(macchiaioli)」という造語で揶揄されたが、画家たちはこの呼称をあえて受け入れた。外光への強い関心はフランスの印象派に先立ち、1855年のパリ万国博覧会を通じてもたらされたミレー、コローなどバルビゾン派の作品からの影響がうかがえる。

またマッキアの使用は、16世紀ヴェネツィア派のティツィアーノやジョルジョーネが現実の印象を素早く捉えるのに筆触をあらわに描いたことからもインスピレーションを得ている。独立戦争に参加したメンバーの夭折、1870年のローマ解放による国家統一を経て、当初は政治的色合いの強かったグループも個別の主題に移行。

T・シニョリーニはフィレンツェとその近郊の自然風景を、S・レーガは穏やかな家庭生活と女性像を得意とし、G・ファットーリは統一後も解消されない社会的・経済的格差への幻滅から、質素な農村風景、牛や馬といった家畜を繰り返し描いたほか、単調な仕事に従事する兵士の姿など戦争の裏側にあるもうひとつの現実に眼差しを注いだ。――マッキアイオーリから引用させて頂きました。]
  1. 2015/12/17(木) 00:05:20|
  2. ヴェネツィアの伝説
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ガリバルディ通りの幽霊(1)

今までヴェネツィアの幽霊話を幾つか取り上げました。サン・マルコ区の、私が初めて語学校通学のために借りたアパート、旧モチェニーゴ館の中庭に2月17日の夜、出没すると言われている、哲学者ジョルダーノ・ブルーノの幽霊。大聖年の2000年2月17日ブルーノ焚刑400年記念日、朝方までワインを飲みながら、時々中庭を覗きましたが、誰にも出会えませんでした。二つ目がミゼリコルディア湾の外れに建つカジーン・デイ・スピーリティに現れるという、画家ピエートロ・ルッツォ(渾名モルト・ダ・フェルトレ)の幽霊。三つ目がカンナレージョ区レメール小広場の大運河に浮かび上がると言われているフォースコ・ロレダーンの幽霊。

これまで2012.12.15日の古モチェニーゴ館、2011.11.05日のコンタリーニ・ダル・ザッフォ館、2015.07.09日のレメール小広場でそれぞれで書きました。今回はカステッロ区のヴェネツィア一広い大通り、イタリアの英雄ガリバルディの名を冠したガリバルディ大通りの幽霊です。マルチェッロ・ブルゼガーン著『ヴェネツィアの神話伝説』(Newton Compton Editori、2007年10月)から紹介してみます。
地図A
地図B「カステッロ区に1807年頃作られた美しくて広い道、リーオ・テラ(運河埋め立て通り)であるガリバルディ大通りから左へ、セッテ・マルティリ海岸通り(とRiva dei Partigiani)方向に続く大並木通りが枝分かれし、カステッロ区の大庭園へと続く。

並木通りの初めの部分には、建築家ジャンアントーニオ・セルヴァ作の美しいエクセドラ(上部が半ドームの半円形の建築物)が直ぐ背後に控え、統一イタリア陸軍の生みの親の堅固なモニュメント、即ち二つの世界の英雄ジュゼッペ・ガリバルディが建ち上がっている。

1885年のアウグースト・ベンヴェヌーティ作の彫塑作品は、3体のブロンズで的確に彫られたものであり、円形の槽の水面から浮かび出た岩塊の上に置かれ、幽霊伝説を喚起するかの如きである。その伝説は今でも地域住民の間に伝播してきたものであるが、霊媒体から発散する心霊体はもはや現れないという結論に至ったのかも知れない。

事は極近年に起きた。正確には1921年、あるヴィニーチョ・サルヴィとかいう男が、いつものスコールが止んだ後、蝸牛を探しに庭園に行った時のことである。サルヴィが彫像の傍に近付いた時、強いショックと腕をグイッと引っ張られるのを感じた。余りに激しく、不意だったので、地面に引き倒された。

立ち上がった時、彼が《赤い影(ombra rossa)》と結論付けた物を見たが、直ぐに消えた。

その事が彼の友人や知人の耳に届いた時、皆は彼が見たその《赤い影(ombra rossa)》とは、彼がしょっちゅう行く近くの居酒屋(バーカロ)の《赤い影(ombre rosse)》[=バーカロで飲む赤ワインをヴェネツィアではオンブラ・ロッサと言います]だと言って、彼を揶揄い始めた。」――(2)に続く
  1. 2015/12/10(木) 00:02:38|
  2. ヴェネツィアの伝説
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ヴェネツィアの歴史: 932~976年

『図説 ヴェネツィア』(河出書房新社)の巻末年表の932~976年の項は、《カンディアーノ家が世襲的にヴェネツィアを統治》とあり、976年の項には、《反乱によりカンディアーノ家の治世が終わる。その際の火災でドゥカーレ宮殿が焼ける》とあります。

《歴代ドージェ表》には、ピエートロ・カンディアーノ(Pietro Candiano)1世(887-888)、ピエートロ・C.2世(932-939)、ピエートロ・C.3世(942-959)、ピエートロ・C.4世(959~976)、ヴィターレ・カンディアーノ(978~979)とカンディアーノ家の人が選出されています。G.ディステーファノ著『ヴェネツィア史 421-1099』(Supernova)の932年の項には次のような事件が記載されています。
ヴェネツィア史 421-1099「この年ピエートロ・カンディアーノ2世が、第19代総督に選出された。彼は自然死した。彼は共和国の支配権強化に邁進した。先ず初めに、ヴェーネト地方の河川による交易を妨害し続けるコマッキオと争い、グラードの司法権を侵し、自分の領域内にいるヴェーネトの船舶から略奪したイーストリア侯ヴィンテーロ(Vintero o Wintero)と闘い、総大司教マリーノを介して、共和国に助けられ、認められた。」

また976年の項は次のようです。

「グラードの総大司教は総督の息子のヴィターレだったので、一家に政治的権威以外、宗教的権威も集中させたために、ヴェネツィア貴族としてはよく分からない、ドゥカーレ城[当時は宮殿ではなく、城砦]の火事と総督ピエートロ・カンディアーノ4世の暗殺ということだった。

彼の敵は、当時のビザンティン派の最も重要な一族で彼の西欧中心主義を嫌悪しており、総督の友である皇帝オットー1世がドイツでの反乱を鎮圧しようとしていたことを利用して、彼を解任させることを決めた。

しかし傭兵の守護隊による城の守りは固く、そのため謀略を成就させるために、火災攻撃をすることを決めた。海風がある日、ドゥカーレ城の向かいの海岸沿いの家に火を点けた(その家はもしかすると、陰謀に加わった将来の総督の家だったかも知れない)。火炎は城傍まで燃え広がり、総督は炎と煙に燻り出されて、城から出た。

ヴァルドゥラーダとの2度目の結婚による乳飲み子の長男のピエートロ・ジュニアが乳母の腕に抱かれ、逃亡しようと城外に出るや謀反の者が目前にあり、謀反人は近寄るや全員を殺戮してしまった。

最大の侮蔑の表現として、殺された遺体はリアルトの公共の畜殺場に運ばれた。貴族のジョヴァンニ・グラデニーゴが言った。《これらの死体による、畜殺場の悪名を避けるため、総督ピエートロ3世の墓の傍のサン・イラーリオに持っていき、埋葬しよう》 と。

グラードの総大司教である息子のヴィターレは、皇帝の傍に避難した。そこで次期の総督選出の陰謀を企てた。

火災では、ドゥカーレ城とサンタ・マリーア・ゾベニーゴの間の約300人の住民が火炎に呑み込まれた。」
  1. 2015/12/03(木) 00:05:19|
  2. ヴェネツィアの歴史
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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