イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

リアルト橋(2)

例えば、2011.08.13日にリアルト橋を書きましたように、度々この橋について触れていますが、ヴェネツィア建築の範とも言われてきたこの橋が、現在修復中でテントを被っています。悩みを抱えているようです。2月27日のLa Nuova紙を訳してみました。
工事中のリアルト橋「 基礎部に裂け目、リアルト橋は重症
――割れ目の入った欄干、階段下のセメント部、修復中に新たな建築疲労と問題の発見。費用の拡大――

欄干の棚部全てに罅割れ。階段下の基部のセメント部。商店の壁面の化粧仕上げの部分的はがれ。この数ヶ月の工事中に見つかった、リアルト橋修復工事現場に驚きの数々。1年以内に工事を完成しようと、職人工人工事労働者を倍にして、時間に機敏に対応してきた、工事を引き受けた企業――トップグループ、ラーレスに率いられた――が熱意不足とか不慣れとかいったことでは決してない。……」 

まだまだ工事は続きそうです。現在橋は渡る事出来ないのでしょうか?
[追記: 仮の橋が出来ているそうです。Makitaliaさん、情報、有難う御座いました。]
  1. 2016/02/29(月) 18:49:18|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ヴェネツィア総督(2)ヴィターレ・カンディアーノ

ピエートロ1世の後を継いだのはヴィターレ・カンディアーノ(在位978~979)、更にトリブーノ・メンモ(在位979~991)でした。
『ヴェネツィア人物事典』ヴィターレ・カンディアーノ(ヴェネツィア?~979ヴェネツィア)の略歴は次のようです。
「殺されたピエートロ4世の兄弟、総督ピエートロ3世カンディアーノの息子は、978年9月総督に選ばれ、直後ピエートロ・オルセーオロのこの後継者は、修道院に逼塞するために逃亡を図ったのだった。

彼の在籍中の最も重要な事は、総督ピエートロ4世カンディアーノの殺害でヴェネツィアに対し怒っていた神聖ローマ帝国皇帝オットー(Ottone)2世との関係改善だった。しかしオリエントの皇帝との関係には関わらなかったようである、だからそこからいかなる称号も授かることはなかった。

政権成立後、14ヶ月して、ヴェネツィアの政治・市民生活を破壊したピエートロ4世を殺害した兄弟達一派を一掃することも叶わず、単なる挨拶一言で退位して、サンティラーリオ修道院での修道生活に引き籠った。そして僅か四日の修練の後、命を引き取り、ここに葬られた。」 
  1. 2016/02/25(木) 00:06:11|
  2. ヴェネツィアの歴史
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サン・マルコ寺院

昨日の新聞La Nuova紙は、次のようなニュースを掲げています。
サン・マルコ前の賑わい「 サン・マルコ、寺院に回転ドア到来
――内部に300人以上はNO、入口でテレカメラで各人がチェックされる。このセキュリティ・システムは鐘楼にも適用される――

ヴェネツィアのサン・マルコ寺院に複数の回転ドアが導入される。この人数計測のバリアー装置を決定したのは、教会の代理人トップのカルロ・アルベルト・テッセリーンである。

曰く、《我々の目的はあらゆるアクセスに対応する事であるが、誰であれ回転ドアとテレカメラで計測され、チェックされて入院可能となる事を確実にしたいのである。寺院と入場者の安全の為である。》

サン・マルコ寺院代表のエットレ・ヴィーオは、建築家マーリオ・ピアーナに仕事を依頼し、人数計測装置を導入する。《それは寺院内であらゆる瞬間、300人以上人が居ない事をチェック出来る最新のシステムである。サン・マルコは教会であって博物館ではない。寺院と入場者に危害を加えようとする危険を避けるため、警察と合意の選択である。……」

こういった装置はヴァティカンの大聖堂や美術館でも導入されているのでしょう。昨年10月ローマに行った時、感じました。ますますアクセスに時間が掛かる事が予測されます。常にPCで予約を取っての行動が必要になるでしょう。予約用紙を持参する人は、即入場可能でしたから。
  1. 2016/02/21(日) 12:01:17|
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ヴェネツィア総督(1)オルセーオロ1世

ルカ・コルフェライ著『図説 ヴェネツィア』(中山悦子訳、河出書房新社、一九九六年一月二五日発行)の巻末年表の《991~1008年》の項は、《ドージェ、ピエトロ・オルセオロ2世の治世。ダルマツィア併合(1000)。サラセン人に勝利(1002~03)》とあります。何年間もの年表を逐一訳す訳にもいきませんので、この期間の総督の略歴で代行致します。

ピエートロ・オルセーオロ1世(976~978在位、928ヴェネツィア~987Cuxa[カタルニアのサン=ミシェル=ド=クシャ])[M.ブルゼガーン『ヴェネツィア人物事典(i Personaggi che hanno fatto grande Venezia)』(Newton Compton Edition、2006.11)]より
『ヴェネツィア人物事典』「ピエートロ・オルセーオロ1世は総督にして聖人。928年ヴェネツィアに生まれた(フリウーリ地方のある歴史家による)、貴族の家系である。妻フェリーチャ・マリピエーロ(バドエールかも知れない)との間に、二人の子供、ピエートロ(彼も総督に就任)とジョヴァンニ・モロズィーニに嫁いだ娘がある。彼は何世紀も前からの、地中海の鼻つまみ者でしかないサラセン海賊に対するヴェネツィア海軍の司令官であった。

この鼻つまみ者は、商船を襲うだけでは満足でなく、しばしば恐ろしくも海岸地帯を襲撃して、略奪と殺戮を繰り返し、略奪品を、特にキリスト教徒を奴隷としてを連れ去った。時には大陸奥深くまで侵入し、獰猛なサラセン海賊到来など思いもよらなかった城や修道院、村落まで襲い掛かって来た。海洋共和国の損害は激しいものであり、海上交易に強くペナルティを課したが、強化するのは無意味で、サラセン海賊に対するために永続的に艦隊を組織せざるを得なかった。

976年ヴェネツィアでは総督宮殿での陰謀が、総督ピエートロ・カンディアーノが殺されるという反乱の形で発生した。それに伴いセレニッスィマ共和国の党派間の厳しい争いが新しく始まろうとしていた。その時、賢明にも中立的な人物を選ぼうという最多数の市民が優勢を占めた。その能力と厳しいモラル故、皆に評価されていた、深いキリスト教信仰の人、ピエートロ・オルセーオロが選ばれる以外はあり得なかったのである。

新総督は期待を裏切ることなく、短期間で町を和解させ、政府の財源を数多くの有益な事や公共の利益に振り向けた。前任者を殺戮した謀反人に壊された、サン・マルコ寺院と総督宮殿を建て直させた。新しい教会の建造のためには資金を惜しまず、貧者の救貧院の建築に自分のポケットマネーまで提供し、サン・マルコの鐘楼傍に建てたのだった。その上、今日サン・マルコ寺院の最高の装飾品である黄金の衝立(Pala d'Oro)の最初の核となる部分をコンスタンティノープルに注文したのは彼だった。

それは”かくも晴朗なる(Serenissimi)"年月だったが、ヴェネツィアがこの有名な愛称《Serenissima》をいとも簡単に使用出来るようになるのは聖人であったこの総督のお陰である。ほんの2年間のことである。というのは、その間、オルセーオロ・ピエートロ1世は別の人生を選んだのだった。

即ち、地上の王国より精神世界の王国を希求し、修道院長グァリーノの影響の下、妻と息子達の許しを得て、ピレネー山麓のクシャ(Cuxa)のベネディクト会修道院で宗教生活を始めたのだった。恒例に従えば、カマルドリ会修道会の創始者のロムアルドゥスの教えは、立っていることも横になることも出来ない狭い空間の独房風の個室に閉じ籠ることだった。
[カマルドリ修道会=1012年ロモアルドゥス(Romualdo)がアレッツォ山中カマルドリに創設したベネディクト会一会派]

大変謙虚で厳しい人柄だったから、神のような霊感を備えていた、と言われる。それ故、クシャ(o Cusanキュザン)で987年1月10日祈りと悔悛の日々が清らかに終わった。続いて聖別され聖人とされ、遺体等の聖遺物はサン・マルコ寺院の宝物の一部となっている。」
  1. 2016/02/18(木) 00:04:10|
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ヴェネツィアの建物: ドイツ人商館(ヴェ語Fontego dei Tedeschi)

大運河を更に右へ下って行きますと、リアルト橋の袂に大きなドイツ人商館(Fondaco dei Tedeschi、ヴェ語Fontego dei Tedeschi)があります。E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のように説明しています。
ドイツ人商館「13世紀初頭には、既に存在しており、商館は1505~08年の大火の後、ジョルジョ・スパヴェントとスカルパニーノの手で再建されたもの。多分ジローラモ・テデースコの指示に依るものと思われる。ファサードは18世紀初め、中央の回廊と脇の塔が水平にヴェーネト=ビザンティン様式の伝統に則って建て直された。

その簡素な外観は、人の期待を裏切らない。事実、元々一連の寓意的な裸像をジョルジョーネとティツィアーノがフレスコ画で完成させたのだったが、少々の断片が生き残り、アッカデーミア美術館に保管されている。
[色大理石で装飾を施すより、絵画での装飾の方が建築費用が安くて済んだからだとか。]

内部は、3層の回廊階に面して4角形の中庭があり、その平面図は著名且つ特殊である。18世紀に内部が改装され、1937年には中庭は天窓で覆われた。その時代、ドイツ語話者の商人の取引場であり、ここに居住し、売り捌くための商品を置いていた。

事実、大運河に面した開廊から、倉庫空間に囲まれた広い中庭に通じ、商館として明確に評価できるものである。現在は、電信電話の地方局の在所である。」

数年前、ここが郵便局でなくなりました。よく切手や包装袋を買った、直ぐ横のTタバッキで聞くと飛んでもない引っ越し先を教えられました。タバッキで切手が売り切れた時、今や存在しない、ここに行け、と教えられた事もありました。例によって例の如しの対応です。昨年10月リアルト近辺を歩いている時、多分ここが引っ越し先だと思われるリアルト近くの郵便局を見付けました。サン・マルコ広場傍の郵便局は変わりません。

ドイツ人商館は現在修復用のテントを被っています(昨年10月)。古い新聞ですが、2015.03.10日の新聞La Nuovaを紹介してみます。

「 リアルト橋、少なくとも2年の工事
――フォンテゴ・デイ・テデスキはファサードは現在も工事中、カメルレンギ館も工事開始、4月からリアルト橋の修復開始――
ドイツ人商館リアルト工事現場。かの有名なリアルト橋地区は様変わりしている。来月になれば更に――建築物の修復開始である――大工事現場は旅行シーズン酣でも激動している。

事実、この工事バージョンはリズミックに動いている――ヴェネットーン・グループの工事――大百貨店とすべくドイツ人商館は改装中なのである。ルイ・ヴュイトン(ルイ・ビトン)グループのフランスのDfsが経営に乗り出す予定。 ……」
  1. 2016/02/11(木) 00:05:18|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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文学に表れたヴェネツィア――グスタフ・ヘルリンク=グルディンスキ

「グスタフ・ヘルリンク=グルディンスキ(Gustaw Herling-Grudzin’ski、1919.05.20キェルツェ~2000.07.04ナーポリ)は、ポーランド生まれの作家。1930年代末の学生時代、鋭い文芸評論でデビューした。戦争中、ソ連で投獄され、2年間 Kargopol の強制労働場で生き延びた。投獄体験から『また別の世界(Inny Ewiat、1951)』が生まれた。《ソ連のラーゲリについて詳細に書かれた、最も衝撃的本》とBernal Rossel が結論付けた。
『Venezia』ベネデット・クローチェの娘と結婚し、1955年からナーポリで生活した。彼の本は長い間、ポーランドでは禁書だったが、ヨーロッパの主要な言語に訳され、成功を収めた。

《ラ・スタンパ》紙や《イル・マッティーノ》紙と協力した。イタリア語で出版されたものは『Pale d'Altare』(1967)、『Due racconti』(1990)、『Dario scritto di notte』(1991)、『Gli spettri della rivoluzione e altri saggi』(1994)、『L'isola 』(1994)、『Un mondo a parte』(1994)、『Controluce』(1995)、『Le perle di Vermeer』(1995) 」と、Zeppelin, citta' raccontate da scrittori "Venezia"(I libri di diario)は書いています。

ところで本文は
「恍惚境を表現しようとして、平凡に言葉を繰り返してしまうという安直な手法を避けるのは難しいことだ。しかし同じような事が、愛の告白や嘆願でも起きてしまう。平凡である事を自動的にキャンセルしてしまうある種の装置が存在するのである。注意をそこから逸らしてしまう。何故なら、言い古されて手垢の付いた言葉が、新しい光を帯びて輝き始め、その言葉自体が現行の言葉の意味を凌駕して行き渡る。

ヴェネツィアに対する私の愛の始まりは、こうであった。かつてのあのある町以上に、日々魅了されていった。その街は夢の形から作られたと詩人は言う。私は特別な絆を覚え称賛した。睡眠と徹夜の間に、調和を設定したいのである。目覚めの瞬間、消えゆく夢が更に持続し、朝の光で消滅する。これが《私の》ヴェネツィアが創られたその礎である。

更に現実的なものになり得るか。はたまた今や非現実なものと化したのか? 運河に架かる非日常的と言える橋の上で、暗い水の中に一つの鏡を見付けたいものだとばかり、暫く立ち止まっていた。その鏡とは過ぎ去った事を確実に内在しているはずである。小路や広場では足音(時を反映する流れ)を聞き、その瞬間、遠ざかるのか、近付くのか、判別しようとしていた。

私は渡し舟(バポレット)の助けは借りない。何処にでも歩いて行く。私にとってゴンドラとは幻影である。かつてゴンドラの事はよく知っていた。譬え長年の間ここに住んだか、あるいはしばしば足を運んだとしても、他の町でそうであったようにヴェネツィアでも中心に辿り着きたかったのだ。

何故なのか? ヴェネツィアには中核、あるいは核心といったものがない。あまりにも流動的で不安定、捉まえようとすると逃げてしまう。

私はサン・マルコ広場や尊大な寺院が好きではなかった。総督宮殿が好きではなかった。固まった土地の一角に建つあまりにも具体的な街が好きではなかった。敷居の上で平衡状態を保つヴェネツィアが好きだった。何故なら、夢の現実の証だったから。

大運河沿いにさえ根を下ろした、前兆のようにもろい建物のあの蛇(蛇行――旅人の多くはこう定義した)は、神は何ものかはご存じだが、ヴェネツィアはしかるべきものであり、しかるべきものではなかった。ヨーロッパの同じ考えが眠っていた、そして同時に消え去るように脅迫され、消滅に向かっていた。 

夜明けから深夜まで、出来る限りあらゆるルートを進み、ヴェネツィアの中で熱狂的且つ恍惚として熱愛したのは正しくこれであった。真実でもある。しかし私にとって沈黙は正当ではない。最初の瞬間、我がヴェネツィアは私が住み着いた〝女″であり、正しく一人の女[伊語文法でヴェネツィアは女性]であった。」 ……
  1. 2016/02/04(木) 00:02:19|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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