イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: カメルレンギ館(2)

カメルレンギ館について、R.ルッソ著『ヴェネツィアの館』(1998.03)は次のように語っています。
ヴェネツィアの館「セレニッスィマの財政を司る司法官の名前からこう呼ばれる、カメルレンギ(財政管理者)館は、明確に財政事務所を指向した、ヨーロッパでも初めての建築物の一つである。それ以前に建っていたカメルレンギの前身の建物があった同じ場所に、1525~28年に建てられ、グリエルモ・デ・グリージの建築である。

当時斑岩や多色大理石で飾られた、この共和国収入役のこの場所は、事務所として以外にも刑務所や商人の開廊として供された。

かつて絵画作品のコレクションでも有名だった。事実、収入役の役人達の間には、職務の終了時、一家の紋章や自分自身の肖像を描き込んだ宗教画を館に残す習慣があった。今日画布――最も高価なのはボニファーチョ・デ・ピターティの物――はアッカデーミア美術館とチーニ財団にある。

館のファサードで目を引くのは、面白い挿話のある二つの彫像である。1500年代末リアルト橋が未だ木製時代、石造で出来ないか、幾度となく検討された。特にカメルレンギ(収入役達)は、工事が後送りされる費用について恐れていた。

人々の意見は割れていた。ある人はいずれ木製で新造されるだろう、またある人は今まで起らなかった事があるかも、と。この後者の意見について、ある一人の老人と老女があって、この二人がリアルトのタベルナ(居酒屋)で会って飲んでいる時、お互い相手に興奮して、老人の方は『そんな橋が出来たら、股の間に爪が生えて欲しいもんだ』、老女の方は『そうなったら私の身体に火を点けて欲しいわ』と。

こうした一風変わった願いが、グリエルモ・デ・グリージに何か暗示を与えたかも知れない、そしてカメルレンギ館の角柱の上に、脚の間を爪で覆われて蹲る男を、向き合った角柱の上には、ヴァギナが炎に包まれて座る女を彫ったのだった。

現在、館は会計院の在所である。」
  1. 2016/03/31(木) 00:05:26|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ヴェネツィアの建物: カメルレンギ館

リアルト橋を渡越し、対岸のリアルト市場側の右岸に渡り、サンタ・ルチーア駅へ向かって最初の建物は、カメルレンギ館です。E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993年)は次のように紹介しています。
カメルレンギ館「古くは商人達の開廊であった場所に、1526~28年に建てられた建造物で、共和国の財政を司る役職の人々の重要な行政府庁となったためこのように呼ばれる。行政官達は正にcamerlenghi(国庫の財政管理者)であり、2階がその事務所で、1階は支払不能の債務者の牢獄に使われていた。

ヴェネツィアの初期ルネサンス様式のエレガントな建物である。ベルガモ人と通称されたグリエルモ・デイ・グリージに帰属する建築とされ、コドゥッスィとロンバルド派の影響が著しい。大運河のカーブに沿って、五角形の基部に3層の建物が出来た。

全て石で覆われ、かつては多色大理石で飾られたファサードは、色々な方向に面して、アーチ状の高い窓が一貫して続き、花綵で飾られた美しいフリーズ装飾で支えられている。その簡素なラインをアイデアに満ちた調子で活気付けている。即ち、2本の付け柱の柱頭にはそれぞれ蹲った男と女が見られる。男は局部に四肢の爪を立てており、女はそこに炎を抱いている。

二人の姿はあるエピソードを思い出させてくれる。リアルト橋の工事中、その近くに住む、ある大変懐疑的発想をする男が頭を振りながら、ヴェネツィアは将来石の橋を持つかも知れないと言った。その時、彼の股間に爪が生えてきた、と。そしてある女がそれに応えて、その時、ヴァギナが燃え尽きてしまった、と。

工事が終わった時、ヴェネツィア人は何時でも冗談に対応出来る気概ある人間であるから、そんな辛辣でみだらな小話を永遠に語り継ぐのだ、と。」
  1. 2016/03/24(木) 00:04:23|
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ヴェネツィア総督(5): ピエートロ2世・オルセーオロ(2)

(続き)『ヴェネツィア人物事典』「……この船団派遣は大成功であった。即ち、ピエートロ2世は巧みにナレンターニ人を分断するように攻め、要塞を孤立させ、結局飢えのために屈服させた。帰還の船旅で、総督の船団が休息に立ち寄った各町々は恐れ慄き、ヴェネツィアに服従することを誓った。こうしてイストラ半島とダルマツィアはヴェネツィアの保護領となり、ピエートロ2世オルセーオロは、dux Venetorum et Dalmaticorum(ヴェネツィアとダルマツィアの総督)という称号を帯びることになった。

この勝利が齎した価値とは、その時以後誰もアドリア海でヴェネツィアの優位に反論を唱える者がいなかったということを言えば、評価は歴然としている。ヴェネツィアにとっての危険と言えば、アドリア海以外の、ジェーノヴァ共和国やオスマントルコ帝国等の権力だった。

この船団派遣を思い出すために、更に毎年キリスト昇天祭の祝日、総督と司教、全評議員が記念すべき儀式を祝うために、栄えある船(ブチントーロ)に乗り、リード港の前まで進むという事があった。こうしてよく知られる海との結婚式、またはセンサのお祝いが生まれたのである。
海との結婚式2[現在行われている〝海との結婚式″の模様(La Nuova紙から借用)。2013.04.27日の海との結婚式もご参照ください。]
ピエートロ2世は、バーリをサラセンから解放(1003)するという、また更なる偉業もあり、聖マルコをヴェネツィアの守護神にする(1004)という決定的な選択をした。

1009年9月に亡くなり、15歳の息子オットーネが直ぐに彼の仕事を継いだ。しかし、総督職を世襲王朝にしたいというあらゆる試み同様、今回も失敗。二人の子供は宗教上の重職を受け、ヴィターレはトルチェッロとオルソの司教となり、1045年死んだ。三番目のジョヴァンニはトルチェッロの司教、続いてグラードの総大司教となり、1006年ペストで死んだ」
bacino Orseolo《オルセーオロ》の名前は、現在ヴェネツィアには、サン・マルコ広場のコッレール美術館へ上る階段左の直ぐに運河の見える所、ゴンドラの舫う溜まり場になっている所が、Bacino Orseolo として特に有名です。[写真はサイトから借用。]

ヴェネツィア共和国はこの頃を持って、礎期が終わり、地理上の発見、新航路の開拓等により地中海貿易がメインから外れて行く時期までの期間、セレニッシマの発展最盛期に突き進んでいくのです。
  1. 2016/03/17(木) 00:46:51|
  2. ヴェネツィアの歴史
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ヴェネツィア総督(4): ピエートロ2世・オルセーオロ

ピエートロ2世・オルセーオロ(在位991~1009、ca961ヴェネツィア~1009ヴェネツィア)について、M.ブルゼガーン著『ヴェネツィア人物事典』(Newton Compton Editori、2006)の紹介は次のようです。
『ヴェネツィア人物事典』「ピエートロ・オルセーオロ2世は、991年から1009年までヴェネツィア共和国第26代総督であり、あらゆる時代の中でも、その職務において最も令名高くして天才的なヴェネツィア軍指導者として重きをなした。ピレネーの修道院に引き籠るため総督職を退位したピエートロ・オルセーオロ1世の息子であり、トリブーノ・メンモを廃位させた人民会議が、彼を総督に選んだ時991年には当時まだ30代という若さだった。

総督就任初年度からピエートロは獅子奮迅の働きを見せると共に外交的には用心深さを示した。即ち、ビザンティンとサラセン、神聖ローマ帝国の若いオットー3世との間を巧妙に乗り切り、ローマ帝国の復興を夢見た。そして結局、息子をビザンティン皇帝の姪に、もう一人の息子を神聖ローマ帝国皇帝の義妹との結婚に漕ぎ着けた。
[このピエートロ2世の息子ジョヴァンニについて面白い挿話がありますので次をご覧下さい。食(1)、フォークについて

しかし彼の最も重要な偉業は、999年か1000年(正確な日付は不明)船団の派遣であった。996年既に彼は、アドリア海沿岸を荒らし回るスラヴ海賊narentani[ナレンターニ人とは、その頃クロアティアのネレトヴァ川(Narenta)周辺に住んだスラヴ人で、この辺り島嶼部を含め、Paganiaと称したそうです]撲滅のための船団を指揮しており、クロアティアのヴィース島(Lissa)で海賊を打ち破った。
サン・マルコ旗[《サン・マルコ獅子旗》イタリアのサイトから借用。右の6ケの長細いひらひらは6セスティエーリ(区)を示します] しかし海賊は、ダルマツィアへ逃れ、現地の住民を圧迫したので、彼らはヴェネツィアに助けを要請した。総督はその機を逃さず、ビザンツの承認を得るや、二回目の大船団のトップとしてキリスト昇天祭の日、出港した。幾つかの史料によれば、この時初めてサン・マルコの獅子旗が翩翻と翻った、という。 ……」 (続く)
  1. 2016/03/10(木) 00:01:07|
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ミモザの日

イタリアでは3月8日はフェスタ・デッラ・ドンナ(女性の日)とかジョルノ・デッラ・ミモーサ(ミモザの日)とか言われ、男性が女性にこの季節の花ミモザを捧げます。もともと1904年3月8日にアメリカで婦人参政権を要求したデモが行われた日に端を発したこの日。イタリアでも世界婦人デーの一環として祝われているようです。

現在では、国連が1975年この日を国際婦人デーに制定し、世界的にフェミニズムの日として祝われている訳ですが、イタリアでは第二次世界大戦中の1945年3月8日、自由イタリアの地域で、最初のフェミニズムの象徴としての女性の日としてイタリア女性連合がイニシアティヴをとって祝ったのだそうです。
ミモザの花[ミモザの花――サイトから借用] 大戦終了後、全イタリアで1946年3月8日が祝われ、反ファシストのパルティザン(partigiana)だったテレーザ・ノーチェ、リータ・モンタニャーナ、テレーザ・マッテーイらが、高価であるとか珍奇とかではない花として選び、フェミニズムの象徴の女性の日のシンボルとして、正にその季節の花ミモザがイタリアに受け入れられたのだそうです。以来イタリアでは女性にミモザの花を贈る、女性の日として祝われているのです。[私はミモザと聞くと、少年時代に見た仏映画『ミモザ館』を思い出します。]
パルチザン日記この本は反ファシストのパルティザンとして戦った女性の記録です。

ヴェネツィアでは、4月25日の聖マルコの祝日に、赤い薔薇の花を女性に贈ります。2014.04.26日の聖マルコの祝日もご参考までにどうぞ。

[追記(03.09): 慌てて日本ウィキペディアの記述を引用して書いてみると、年号など始まりが間違いのようです、以前に支倉常長をウィキペディアで読むとイタリアへの海路の筈が陸路と嘘が書いてありました。どこまで信じればいいのか? 英語のサイトから訳してみました。
――1857年3月8日、ニューヨークの衣料に携わる労働者達が10日間、労働条件の改善と女性としての権利を求め、ピケを張り、行進しました。しかし警察権力で圧殺されました。51年後の1908年3月8日、ニューヨークの彼女達の姉妹であるお針っ娘は、1857年3月を誇りとして、選挙権を求め、そして低賃金長時間労働と子供労働の停止を求め再び行進しましたが、警察は厳しく潰してきました。
1910年の第2インターナショナル(社会党国際会議)の時、ドイツの社会主義者クラーラ・ツェトキンが、この米国のデモンストレーションと働く婦人達の名誉を記憶に留めるべく、3月8日を国際婦人デーとする事を提案しました……(中身も訳も間違いでない事を祈ります)。]
  1. 2016/03/08(火) 17:04:26|
  2. ヴェネツィアの行事
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ヴェネツィア総督(3)トリブーノ・メンモ

トリブーノ・メンモ(在位979~991――?ヴェネツィア~991ヴェネツィア)について、M.ブルゼガーン著『ヴェネツィア人物事典』(Newton Compton Editori、2006)は次のように紹介しています。
『ヴェネツィア人物事典』「トリブーノ・メンモ(or メーニオ)は、前任者ヴィターレ・カンディアーノ退位後、979年総督という玉座に選ばれた、ヴェネツィア25代総督である。ピエートロ4世・カンディアーノの娘マリーナと結婚した。読み書きが出来ない上に、余り命令も出すことなく、魅力に欠けたそこそこの政治家だった。サンテルマーゴラの自分の家を離れる事がなかったのは、多分総督宮殿が今だ建造中だったからに違いない。

確かに高名な人物ではなかったが、その選挙は色々の係争中の派閥の妥協の産物だった、総督職を血を血で洗う家族間の復讐劇を鎮めることは出来なかったからである。とりわけ目立ったのは、カンディアーノの親戚であり、オットー2世とモロズィーニ家から特権を与えられ、オルセーオロ家とも縁戚になり、ビザンティン派に属していたコロプリーニ家との争いだった。これらの人々の間に生じた数ある抗争の中で、若いドメーニコ・モロズィーニが殺され、コロプリーニはドイツの神聖ローマ帝国皇帝に保護を求め、ヴェローナに避難するしかなかった。

これらの人々はヴェネツィアに対して船での防衛線を構えており、全臣下に対してラグーナの町との交易を禁止していた。総督はコンスタンティノープルに息子マウリーツィオを派遣したけれど、ビザンティンを介入させようという試みは無に帰した。モロズィーニ家はコロプリーニの館に押し入り、略奪行為をし、妻達を連れ去るという復讐をした。オットー2世が亡くなると、ヴェネツィアの町に対する封鎖も攻略も終わりとなり、世の中の流れは穏やかなものとなった。

しかし一族の長であったステーファノ・コロプリーニは、総督が保証したけれど、ヴェネツィアに戻る気はなく、トスカーナ公の元へ向かった。しかし彼の一族達は故郷へ帰還し、数年後モロズィーニ家に殺された。

991年3月、トリブーノ・メンモは今や老人で政治をこなす事も出来ず、退位させられ、サン・ジョルジョ修道院の修道士になるしかなかった。修道院には莫大な贈り物をし、数ヶ月後亡くなった。

彼の在籍中、サン・マルコ寺院は通達で、総督個人の物とされ、宗教行事はその長の総督に任される個人的な礼拝堂ということとなった。1610年サン・ジョルジョの修道士達は、修道院に対する功績を記憶に留むべく、イストラ半島石の上に総督の胸像を置いた記念碑を建てた。彫刻家ジューリオ・モーロの作品である。」
サン・ピエートロ・ディ・カステッロ大聖堂教会内部左、カナレット画『サン・ピエートロ・ディ・カステッロ大聖堂』、右、現在の教会内部。イタリア・サイトから借用。 [775年総督マウリーツィオ・ガルバーイオが、初期ヴェネツィアの中心でもあったオリーヴォロ島を将来のカステッロ司教区として初代司教を迎えるべく、オベラーリオと命名して新しく司教の在所を設けました。ヴェネツィアがこの地域の主都となり(812)、841年聖堂をパルテチパーツィオの息子であった司教オルソ・パルテチパーツィオが再建し、伝道者聖ペテロに献堂され司教座となりました。以来1807年にサン・マルコ寺院がナポレオンの命でヴェネツィア大聖堂となるまで、サン・ピエートロ・ディ・カステッロ教会に司教座が置かれていました。

この時期ヴェネツィア総督となったパルテチパーツィオ家の人々は、10代アニェッロ(811~827)、11代ジュスティニアーノ(827~829)、12代ジョヴァンニ1世(829~836)、14代オルソ1世(864~881)、15代ジョヴァンニ2世(881~887)、18代オルソ2世(912~932)、20代ピエートロ(939~942)の7名だったそうです。]
  1. 2016/03/03(木) 00:01:45|
  2. ヴェネツィアの歴史
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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