イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィア街案内(2)

(続き)
「この素晴らしい館を訪れた後は、ヌオーヴァ大通りをさっと横切って〝アッラ・ヴェードヴァ″としてよく知られる、居酒屋カ・ドーロに入ってみよう。ここを後にして右ピストール通りへ向かう。左に現在人気のある店、アイルランド・パブThe Fiddler's Elbowがある。『ヴェネツィアの民話』の始まりの頁で出会う橋まで真っ直ぐ行き、渡橋して行くと、Vini da Gigio という記憶に値する小さな食事処の前に出る。
本文キオード(釘)橋サン・フェリーチェ運河通りを右に行くと欄干の無い橋(他にはトルチェッロ島にあるのみ)を見ることになる。昔は欄干の無い橋が普通で町の各所にあった。そこを後にして、ミゼリコルディア海岸通りに続くミゼリコルディア橋を渡橋する。続くオルメズィーニ運河通りは近年、ヴェネツィアの青年達の夜の集会所となった。
[上掲のキオード橋を撮影で使用した映画について、2011.08.20日のヴェネツィアの橋で触れました。]

ここには異国的レストランが幾つかある。アラブ風シリア風メキシコ風、そして〝失楽園″はとりわけ不思議なロケーションで、出会いの標準スポットとなり、ジャズのライヴを聞くことが出来る。

夜の楽しみは又にして先を急ごう。橋を降りて前方を見ると、バルダッサッレ・ロンゲーナ作のレッゼ館である。共和国滅亡時、最初に詳細に調査された建物で、かつてティツィアーノ、ヴェロネーゼ、ティントレットらの大作が豊富だった。近付いて見ると、左の角、2階露台下に興味深い錬金術に関する浮彫があり、その角に隠れるようにしてあるハルピュイアはお節介者である。更にその上の二つは《謎》である。

その右には山のような赤レンガの建物ミゼリコルディア同信会館が聳え立っている。内部の一部は未完であるが、サンソヴィーノの堂々たる作品である。その辺りをくるりと回り、アッバツィーア広場に通じる木の橋を渡ろう。そこでは現在閉鎖された教会を眺めることが出来る。傍にお薦めのミゼリコルディア古同信会館がある。1600年代に天蓋付き大扉が外されてしまい、現在はロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート美術館に収まっている。街の中心から外れたこの地区は、建物全てを含めて、ヴェネツィアでも最も快適でロマンティックな一角である。

これらの美しい、魅惑に富んだ建物は、コルト・マルテーゼの時代、画家イターリコ・ブラス(有名な映画監督ティント・ブラスの祖父――彼は今やエロチック映画の巨匠になってしまった)の持ち物だった、当時興味深い美術コレクションを所持していたが、彼はA. マニャスコを再発見したのであり、結局はアッカデーミアに収められる沢山の作品を手にしたのであった。更にサン・トロヴァーゾ運河通りに1925年建設された教会の壁面でも見られる、中世の浅浮彫と盃が見られる。

海岸通りを行くとマドンナ・デッラ・ミゼリコルディアの美しいアーチが現れる、ここノーヴァ広場とこの周辺は貧しい人々のために信者会が住居を建てた地域である。スクェーロ(ゴンドラ造船所――現在ここは営業していないらしい)に面した木の橋の前で右に回ると、サッカ橋に出る。そこからのラグーナ北の眺望は素晴らしい。この景色について、ロシアの詩人ブロツキーは世界にまたとない水彩画と語った。
[ヨシフ・ブロツキーについては2009.11.07日のヨシフ・ブロツキーをご参照下さい。]

サッカ・デッラ・ミゼリコルディア(ミゼリコルディア湾)のもう一つの場所に、これもまた〝ヴェネツィア人″スティーヴンソンがある窓から遠望したのだが、著作された時以来、彼はアヴァンチュールを残し、ここからのラグーナや鴎の姿を称賛したのだった…。

目前にはコンタリーニ館があり、その背後には庭や菜園、また前に書いたカジーノ・デッリ・スピーリティがある。 ……」 (3に続く)

カジーノ・デッリ・スピーリティについては、次のブログカジーン・デッリ・スピーリティ(1、2)をご参照下さい。
  1. 2016/04/28(木) 00:20:57|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィア市長ルイージ・ブルニャーロ

昨日(04.21)国立西洋美術館の『カラヴァッジョ展』を見た帰り、銀座のヴェネツィア・レストラン〝バラババオ″に立ち飲みに寄りましたら、支配人の谷川さんが「ヴェネツィア市長が先日新宿の〝バーカロ″に寄って、こんなサインを呉れました」とおっしゃり、下のコピーを頂きました。「ブルニャーロさんは何しに日本に来たんですか?」と問うと、そこまでは聞いていません、とのことでした。バーカロやバラババオについては2011.12.24日のバーカロ(1)で触れました。
ブルニャーロ「我がヴェネツィアを思い出させる素敵な場所、2016年4月20日。」ヴェネツィア・レストラン『バラババオ』イル・バーカロ
帰宅してLa Nuova紙を検索すると、私が気付かなかった記事が見付かりました。ブルニャーロ市長が最近訪日し、その時、4月18日の記事です。次にその訳を掲げてみます。
ブルニャーロ「 町を活性化するために東京を訪れたブルニャーロ
――《私は幾つかの企画を準備している。目を覚ますと興味深そうに私を覗き込む市長ルイージ・ブルニャーロがいた、その時私は自己紹介した、ヴェネツィア出身のマウリーツィオ・ロッテルです……―― 

《私は幾つかの企画を準備している。目を覚ますと興味深そうに私を覗き込む市長ルイージ・ブルニャーロがいた、その時私は自己紹介した、ヴェネツィア出身のマウリーツィオ・ロッテルです。ムラーノのガラス芸術をあらゆるフォルムと表現様式を駆使し、もっと追究深化させたいと東京に住み付いて30年です。》彼は私に微笑んで、30分以上に渡って語ってくれた。マウリーツィオ・ロッテルは東京に移住した、芸術家にして実業家。結婚して2人の子がある。

支援活動プロジェクトの最初の町としてのヴェネツィアと合意したトヨタとの会合の後、日本の自動車会社のトップと会っている間、昨日市長ブルニャーロはイタリア産品フェア(イタリア展04.13~04.26?)開催中の世界でも有数の日本橋の商業センター(三越のこと?)に訪れた。

そしてそこで開催されるイタリア祭に何年も顧客達のために出品しているロッテルの作品が、スタンドのあちこちに展示されていた。彼との出会い後、市長もヴェネツィアの芸術家と彼の作品の写真をツイッター(twitter)に披露していた。

マウリーツィオは更に、《東京イタリア大使館の通訳に付き添われ、ブルニャーロは、私が旅の間に編み出した古くて、特殊な手法で創出した作品に大変興味を示した。ムラーノのアバーテ・ザネッティ校で私のテクニックを教えられる可能性についても話し合い、その詳細についてのヴェネツィアでの話し合いの場も約束してくれた。》

船や車の水素使用についてのトヨタのテクニックをヴェネツィアに持ち帰るべく、ブルニャーロは東京滞在を続ける。日本の自動車会社のヴェネツィアに対する可能な提案には、月に数回しか車を使わない大多数のヴェネツィア人に利用出来る"car sharing"サービスの車の提供ということもある。」 2016年4月18日、ジューリオ・デ・ポーロ記

かつてヴェネツィア市長で哲学者でもあったマッシモ・カッチャーリさんの講演を、一ツ橋の如水会館にて、東京大学主催で行われたのを聴講したことがありました。
  1. 2016/04/22(金) 20:15:45|
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ヴェネツィア街案内(1)

ヴェネツィアの語学学校通学時、ヴェネツィアの街歩きに興味があるなら、お薦めの本があるよ、と言われ紹介された、先生ご推薦の本が次です。Guido Fuga-Lele Vianello著『Corto Sconto―itinerari fantastici e nascosti di Corto Maltese a Venezia』(LIZARD edizioni、1997)。在学中、この本を片手に街を歩いてみた事があります。

このコルト・マルテーゼ(Corto Maltese)とは何者か? かつてジュデッカ島の隠された秘密探しにコルト・マルテーゼやアルレッキーノらに案内された事がありました。2008.08.17日のコンメーディア・デッラルテでコルト・マルテーゼについて少々書きました。イタリアのWikipediaの助けでこの人物について触れてみます。

「ウーゴ・プラット(Hugo Pratt)に1967年創出された漫画の中の人物、Cortomalteseシリーズの主人公である。 この名前はジェーノヴァ人フロレンツォ・イヴァルディの編輯経営する雑誌『Sgt. Kirk』の1967年の初刊号に初めて登場した。漫画に関心があったイヴァルディに彼を紹介したのは、ステーリオ・フェンツォだった。

イヴァルディは漫画愛好家であり、ウーゴ・プラットとの出会いからこの出版社の企画が生まれた。新しい雑誌『Sgt. Kirk』のためにコルト・マルテーゼなるキャラクターが誕生し、その物語『Una ballata del mare salato(死海のバラード)』は1969年2月雑誌20号で完了する。この作品は『コッリエーレ・デイ・ピッコリ』の23号から1971年の35号までの紙面で再び掲載された。

漫画本の最初の出版はモンダドーリ社編集により1972年である。ジェーノヴァ人との関係は1969年雑誌の終刊と共に終わる。 ……」
とウーゴ・プラットの活躍は始まり、20年間ほど続いたようです。海洋物中心なので、『La laguna dei bei sogni』(1971)『Favola di Venezia』(1977)等、ヴェネツィア関連の作品があるようです。このガイド本から、コースを一つ、カ・ドーロからのコースで紹介してみます。
Corto Sconto地図 カンナレージョ[右は案内図]  それでは出発しましょう、Pronti via !
「14世紀の、この素晴らしい建物から出発しよう。かつてファサードは多色大理石の上に嵌め込まれた高価な金箔で豊富に飾られていた。建物全体は、ゴシックというより、正確にはオリエント的味があり、マリーン・コンタリーニの要請による建物であったが、最後の所有者ジョルジョ・フランケッティ男爵という類稀な性格の人物による、豊富な美術コレクションに負うている。彼は死(1922)の数年前その素晴らしい遺産全てを国に寄贈したのだった。建物の最後の所有者には1章を設ける価値があるが、このマントヴァ出身のユダヤ系一家には際立ったものがあった。

ジョルジョ・フランケッティは色々の所有者の手を経て来た、というより滅茶苦茶な有様となったカ・ドーロを手にした。そして細心の注意深さで館を完璧に修復し、一連の芸術作品と重要な調度品等を収集した。結局、セレニッスィマ時代の裕福だった貴族の館の様子を再現したいという夢を実現した。
ミアーニ・コレッティ・ジュスティ館[現在は左隣のミアーニ・コレッティ・ジュスティ館と共にジョルジョ・フランケッティ美術館となっているようです。2015.02.26日にカ・ドーロ(1)を書きました。]
彼はエレガントな学識で、オリエントの豪華な絨毯とフランドルのつづれの織布、色々な地方の戦勝記念品、価値ある彫塑作品、当時の絵画や家具、珍しい貨幣や考古学的出土品のコレクション等に近付いていった。イタリアの色々な流派の絵画作品の中には、マンテーニャの『聖セバスティアヌス』がある。美しい中庭にはバルトロメーオ・ボン作の井桁、ビザンティンの盃のセットや古代ギリシアやローマの彫刻の数々、美しい外階段が2階に通じている。 ……」  (次回に続く)

ここでライモンデイ・フランケッティについて:
「フランケッティ家で最も冒険を好んだ人物は、勿論冒険家ライモンド(1891-1935)であるが、彼は岩山から支那海やアフリカまで間断なく旅にあった(参戦した第一次大戦は別にして)。20代、乗船中ペストが発生し、マレーシア島に上陸した。1年に渡って、一人ピグミー族と生活した。

誰しも彼が死んだものと見做していた時は彼はイギリス使節だった。彼が足跡を残した国々にアフリカがあるが、幾度となく使節として入国した。ダンカリによって殺戮されたジュリエッティ使節団は〝ダンカーリアもの″が記憶に残る。

こうした行動をもとに、『Nella Dancalia etiopica』という本を書いたが、彼の記憶の中では、彼によりジュリエッティと命名されたエティオピアの湖の名前から、娘をアフデーラと呼んだのだった。このAfdelaはヘンリー・フォンダと結婚し、4番目の妻となった。

この旅の期間中、ライモンドがコルト・マルテーゼに出会った可能性は大いにあり得るが、二人が個人的に交わした書簡は、残念ながら見つかっていない。結局、飛行機事故による彼の最期は、混乱を引き起こしたのだったが、それはフランケッティがエリトリア植民地の支配者と旅をしたり、ネーグス(Negus、エチオピアの王家)と戦争回避の可能性に関わっていたり、したからであった。」
  1. 2016/04/21(木) 00:01:57|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィアのモエーカ蟹

先日(04.14)の新聞La Nuova紙はモエーカ蟹の季節の到来を告げています。
moeche[写真はサイトから借用]  「〝モエーケ″の季節が到来した。ヴェネツィアのラグーナで見られる料理
――4・5月、ラグーナのある種の蟹は脱皮して、柔らかくなる。何世紀もの間、人々はこの美味に溺れてきた――

正に王様の味! 自分に運ばれてくる時、涎を垂らし、舌鼓を打ってしまう。しかし〝モエーケ″と〝マザネーテ(masanete)″はラグーナ地域に生活する人々の典型的な料理であり、この産品だけを食している。

ブラーノやペッレストリーナ、トゥレポルティ、キオッジャは人々が蟹を捕獲する場所であり、そこで水の中に仕掛けた専用の木の籠で漁を仕掛け、祭りの料理を作ることが出来るように、春の温もりを辛抱強く待つのである。

ヴェネツィアのラグーナの蟹は独特で、4・5月の春と10・11月の秋に脱皮する。甲羅を脱ぎ捨て、柔らかくなる。この蟹を選別するために篩(tamiso)に掛ける。即ち、船上で三方に枠囲いのある長方形の台の上で選別される。〝モエーケ″は桶に入れられ、選を逃れた蟹は水に戻される。このやり方は言わば、漁はお相子勝負で、適した(枯渇しないように)、ラグーナの蟹のレベルが保持される。……

モエーケは料理の準備が整うと、フライにするためのレシピとしては、卵を存分に溶かした容器に生きたまま入れるのである。モエーケが卵を全部食べ終わると取り出し、フライ粉を塗し、フライパンの熱した油で揚げる。数分で蟹の裏側が黄色、表が赤くなったところで、油をよく切り、皿に盛り付ける。塩少々と白ワインのセッコで、さあ、召し上がれ。」

蟹(伊語granchio)はヴェネツィア語でgranzo(グランゾ、gransoのスペルも)。moleca(地中海いそわたり蟹の牡。牝はmasanetaで8~12月、特に10.10~11.05日が最も美味とされる)は、ヴェネツィア弁では母音の間の〝l″は無音になるので、moleca(モエーカ)と発声され、Lなしで〝moeca″[複数moeche]と書かれたりします。gondola(ゴンドラ)も〝ゴンドヤ″と聞こえたりします。日本ではソフト蟹とか英語式にソフトシェルクラブとか言っているようです。

残念ながらこの季節にヴェネツィアにいたことがなくて、未だにこの味を体験していません。
  1. 2016/04/18(月) 22:05:51|
  2. ヴェネツィアの食
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文学に表れたヴェネツィア: マーリオ・ソルダーティ

マーリオ・ソルダーティとは、如何なる作家なるや。Zeppelin, citta` raccontate da scrittori 『Venezia』(I libri di diario)では、次のように紹介しています(1906.11.17トリーノ~1999.06.19テッラーロTellaro[ラ・スペーツィア湾に面する])。
『Venezia』Mario_Soldati[ヴェネツィア・リードにて。イタリア・サイトから借用] 「マーリオ・ソルダーティは1906年トリーノに生まれた。1924年僅か18歳で、喜劇『Pilato』で作家デビューした。続いて1929年短編集『Salmace』で批評家の注目を集めた。同年合衆国に移動し、1931年までコロンビア大学で教えた。その間の事は、文学日誌『初恋、アメリカ』(1935)に凝縮している。

1931年には映画に接近し、文学にインスピレーションを得た一連の映画『Piccolo mondo antico』『Malombra』『Policarpo ufficiale di scrittura』『La provinciale』等を監督した。続いて、長編小説的筋書きの物を出版した。それは推理小説的要素とグロテスクな要素を兼ね備えており、引き摺り込まれるような物語的構成で描かれており、辛辣なエスプリと鋭い皮肉に満ちている。

著名な作品に次のものがある。『Le lettere da Capri』(1953)、『Il vero Silvestri』(1957)、『Le due Citta`』(1964)、『La sposa americana』(1978)、『Rami secchi』(1989)、『La finestres』(1991) 」
河の女[サイトから借用]  日本では、ソルダーティはソフィーア・ローレンの『河の女』の監督・脚本家として等、映画関係で知られた人のようです。その他和訳された小説に『偽られた抱擁(Le lettere da Capri)』(清水三郎治訳、講談社、1959)や『現代推理小説全集 第14巻《牝狼/窓》』の『窓』(飯島正訳、東京創元社、1959)、『現代イタリア短編選集《雲の上の足跡》』(大久保昭男訳、白水社、1972)等々。本邦未訳ですが『La seggiolina del Florian』というヴェネツィアを舞台にした短編もあるようです。

それではこの本の本文を:
「随分前から、真冬ヴェネツィアで何日か過ごしたいと願っていた。滞在を楽しむためだ、この町とは正に、平和で、静寂で、過去の栄光の貴族的寂しさに満ち、甘美なのだった、が現在においても、やはりそうなのだ。商業の仕事で訪れる多くの外国人に壊されてしまった別の季節の魅力、且つ乱痴気騒ぎ可能な、且つバクーニンの集団生産主義的な、あるいはまた嘘偽りの騙し打ちの面白さ。
……
幸いなことにヴェネツィアでも雨が降っていた。サン・マルコ広場までヴァポレットに乗船した。食堂を探しに通りをうろつく前に、宿に行き、荷物を置き、部屋を決めて置きたかった。

全ては、予想し夢見ていたことだ。モロズィーン広場、スペツィアーレ橋、ラルガ通りがあった。雨が降っている。船の明かり、商店の看板の明かりが偶々消えずに点いたまま、平たい壁に映えている。

生き物の姿はない。かしこには、サン・モイゼ教会のファサードがひっそりした雨の向こうに烟って、霞んでいる。 」
 ――『La messa dei villeggianti』(モンダドーリ社、1959)
  1. 2016/04/14(木) 00:05:34|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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セルジョさん

本日のLa Nuova紙を見ていましたら、顔だけは知っているセルジョ・フェーミオさんという漁師の方の顔が出ていました。伊語でspigola、ヴェネツィアではbranzino という、11㎏の鱸(すずき)を手掴みされたのが新聞のニュースになっているのでした。
セルジョ・フェーミオ私が勝手に私淑したのですが、法政大学建築学部の陣内秀信先生が書かれたり、話されたりしたヴェネツィア話を下に私のヴェネツィアおたくが始まったのでした。私が伊語を教わった小林惺先生と、陣内先生は同時期ヴェネツィア大学に留学されており、当時は少ない日本人で、ヴェネツィアに定住されていた別府貫一郎画伯の館で、よく酒盛りをされた、というお話を聞きました。その辺の事情については2011.10.15日のバルズィッザ館で少し触れました。

かつてNHKTVでレガッタに出場しようとする若者二人のドキュメントを見ました。東京オリンピックで来日したボートの漕ぎ手の選手の甥とその友人が、この伯父の栄光を得るべくレガッタの訓練に励むのですが、結局敗退します。舟の前を漕いでいた高校生の顔に記憶があって、数年前ヴェネツィアの運河でゴンドリエーレの顔にその面影を見て、問いかけてみると正にその高校生で、今ではゴンドラを所持する船頭さんになっていたのです。日本のTVに撮られたのは13年前のことだと昔を懐かしんで語ってくれました、とそんな事もありました。

昔見たNHKTV《世界 我が心の旅》ヴェネツィア編は陣内先生が主人公でした。先生はセルジョさんと知り合われ、この番組中セルジョさんの船での語りの場面が幾つかありました。そのセルジョさんがLa Nuovaの紙面を飾っていたのです。ニュースを訳してみます。

「 手で11㎏の鱸を捕る 
――セルジョ・フェーミオは船で帰宅途中、モーターボートに仰天した大きな魚を見た。73歳は魚を船に引き寄せた――

船で失神状態の鱸を見て、捕まえた。セルジョ・フェーミオにとって幸運な一日だった。漁師の家系でジュデッカ島で、この厳しいけれど魅力ある職業を続けて来た最後の漁師達の一人である。

73歳にも拘わらず、9日土曜日昼頃、帰途に着き、レデントーレ教会沖合の南ラグーナで、大きな鱸を水面上に見た。11㎏もあるものだった。かなり難しくはあったが、セルジョは魚を船に近付け、手掴みに成功した。少し前、猛スピードで通り過ぎたモーターボートが原因で、魚は失神状態で捕獲は易しかった。」

セルジョさんについては、河名木ひろし写真・文の『ヴェネツィア 麗しのラグーナ』(幻冬舎ルネサンス、2007.09.10)でも、写真入りで紹介されています。
  1. 2016/04/11(月) 23:00:25|
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カラヴァッジョ展

現在、上野の国立西洋美術館で『カラヴァッジョ展』を03.01日から06.12日までやっているのは周知のことです。そんな訳で、昨夜金曜日夜(04.08)、NHKTVの『光と闇の画家 天才カラヴァッジョの謎をイタリアに追う』を見ました。聞いているとアナウンサーが、ミラノ生まれのカラヴァッジョ、と言っていました。私がクレモーナからベルガモへ電車で行った時、途中の駅カラヴァッジョで停車しました。隣の婦人に、もしかしてこの町は画家カラヴァッジョの生誕地ではないかと問うと、そうだと言って、次の停車駅トレヴィッリョで下車されました。土地の人の感じでした。

記憶違いはよくあることなので、イタリアのWikipedia を覗いてみました。ミラーノ生まれと書いてありました。固有名詞の検索時、私が愛用しているサイト、Treccani では、ミラーノの近くではありますが、ベルガモ県のコムーネで、Michelangelo Merisi, il detto Caravaggio(通称カラヴァッジョ)の生誕地とありました。国立西洋美術館のサイトを見ると、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョとなっているのは、カラヴァッジョが生誕地であることが明確であるからと思われます。

何年か前、ボルゲーゼ美術館に予約してローマへ行くとお目当てのベルニーニはあったのですが、カラヴァッジョは1点残して日本等へ出張中でした。去年暮れもナボーナ広場傍のサン・ルイージ・デイ・フランチェージ教会のカラヴァッジョのカッペッラの前だけは沢山の人集がしていました。カラヴァッジョ人気が大変なものであることを思わせました。このTreccani のサイトで、東京でのカラヴァッジョ展について触れていましたので訳してみました。
法悦のマグダラのマリア「カラヴァッジョと彼の後継者(彼と敵対する画家も含め)は、現在日本に引っ越している。日伊国交樹立150周年記念展に招かれた、その名も高き大使達であり、両国の関係はSol levante(日出ずる国)とイタリアの人民との間に"永遠の平和と恒常的友情"を願って、1866年8月25日条約が締結された。

東京国立西洋美術館での"カラヴァッジョとhis times: friends, rivals, enemies展"はロンバルディーア派の作品11点――1606年の"Maddalena in estasi(法悦のマグダラのマリア)"を含み、それは最近、美術史家Mina Gregori(ミーナ・グレゴーリ) によって彼に帰属したが、彼女はオランダ人コレクターの収集品から割り出した――、更にカラヴァッジョの作品と会話を交わしたその時代の画家の作品50点あまりである。

展示の流れはカラヴァッジョの作品中心に、テーマごとに分けられた(5テーマ=光、静物、幸運、断首、"この人を見よ")。彼の作品の周りに彼によって試みられた描法や図像的革新に光を当てた他の画家達の作品が取り囲み、それは別の感性で受け入れられ、また拒否された。

それは彼らから距離を置いたイタリアやヨーロッパの画家――バルトロメーオ・マンフレディ、リーベラ、アルテミズィーア・ジェンティレスキ、グェルチーノ、オランダ人ヘーリト・ファン・ホントルスト、スィモン・ヴーエ、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールらである。

更に展示のあるセクションでは、彼の非常に個人的な面、ある意味、彼の苦しかった生涯の知られざる面を見出すことの出来る貴重な資料の展示もある。即ち、個人的な争い、ジョヴァンニ・バッリョーネ(同時代の画家)を侮辱した名誉毀損裁判、銃器携帯許可証不所持による逮捕、賃貸借料支払いの困難さ、逃亡せざるを得なかった1606年の殺人に至るまでの資料である。

東京のカラヴァッジョ展は、日伊国交樹立150周年記念を祝う、数ある文化交流行事の一環である。5月にはローマのアーラ・パーチス(アラ・パキス)で土門拳写真展、6月にはクィリナーレのスクデリーエで日本仏教彫刻傑作展、7月には北斎、広重、歌麿展がミラーノのパラッツォ・レアーレで開催予定である。」

私はまだ未見ですが、連れ合いの足が都心まで耐えられるようになる(?)5月末までお預けです。
カラヴァッジョ展カラヴァッジョ展、裏1カラヴァッジョ展、裏2追記: 今日(04..21)カラヴァッジョ展を見ました。図録の巻頭でロッセラ・ヴォドレさんが、カラヴァッジョ家の人々はカラヴァッジョからミラーノに出て来た人々で、ミケランジェロ・メリージはミラーノに生まれ、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョと呼ばれるようになったと書かれています。彼自身はミラーノ生まれが正しいそうです。
  1. 2016/04/10(日) 00:00:10|
  2. 展覧会
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ヴェネツィアの建物: 古ファッブリケ館他

カメルレンギ館の右隣は古ファッブリケ館です。E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のように紹介しています。
古ファッブリケ館「市場の開設に関して、共和国初期の段階から存在した物。1513/14年の大火で焼失したが、焼け残ったものの一部だった。1520-22年スカルパニーノと愛称されたアントーニオ・アッボンディの手で再建された。純粋に機能重視の建物で、大運河に向いて長い簡素なファサードが整然としたアーチの開廊の上で続いている。

2階3階のファサードは、境界となる層と簡素な開口部が滑らかな表面の流れを破る。現在、司法関係の事務所が入っている。」

更にその右には新ファッブリケ館の長い姿が登場します。
新ファッブリケ館新ファッブリケ館、右「古典様式で、長く単調な建物。左隣の古ファッブリケ館との対比で、新ファッブリケ館と通称される。商業関係の司法府として、1554-56年ヤーコポ・サンソヴィーノの手で建てられた。大運河に面したファサードは、大運河のカーブに沿って軽くカーブしており、浮き出し飾りのある切り石積みの開廊上で延びている。

多分全体に比して高い建物だが、工房や倉庫のための、という本来の目的に沿った機能性を持っている。上の階にはティンパヌムを備えた窓があり、全てドーリア式でトニックな付け柱を両脇に従えた長方形の窓が同じように続いている。現在は、司法関係の事務所が置かれている。」

長い新ファッブリケ館の右には、野菜市場の緑の屋台が続き、赤い幕を垂らした魚市場の建物ペスケリーア(Pescheria)が姿を見せています。
ペスケリーア「何世紀もの間、ここは魚市場として長らえて来た。実際にあるペスケリーアの建物は、1907年ネオ・ゴシック様式で、ドメーニコ・ルーポロとチェーザレ・ラウレンティによって建てられた。1階部分は全てオジーヴ式アーチの開廊となっており、上の階はCed のヴェネツィア事務所が入っており、ほっそりした柱が楣(まぐさ)式構造のロッジャを支えている。

開廊左の角にはチェーザレ・ラウレンティ作の聖ペテロの銅像が置かれている。」[聖ペテロは漁師、魚屋、錠前工の守護聖人です。]
Traghetto Santa Sofiaペスケリーア写真に見える木造の桟橋は、対岸のサンタ・ソフィーア広場とリアルト市場を繋ぐトラゲット(ヴェ語tragheto)の乗場です。語学校通学のためにカンナレージョ運河近くにアパートを借りた時は、魚介類購入のためにここの渡しをよく使いました。当時0.5 euro(初めて乗った20年前は300リラ)。ここの渡しが一番利用客が多かった印象です。
  1. 2016/04/07(木) 00:06:26|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ジョヴァンニ・バッティスタ・スィドッティ(シドッティ)

今日の読売新聞に以下の記事が掲載されていました。
シドッチ切支丹屋敷跡の説明書この新聞記事に関連したジョヴァンニ・バッティスタ・スィドッティ(Giovanni Battista Sidotti)の事を2010.02.06日にイタリアと日本の関係として書きました。街歩きで小石川、小日向を歩いている時、キリシタン屋敷跡(小日向1-24-8)に遭遇し、碑石の傍に図右の文書が置いてありました。

事典はスィドッティを次のように紹介しています。
「シドッティ(Giovanni Battista Sidotti、1668[寛文8]-171411.27[正徳4年10月21日]/1715年の史料もあり)――イタリア[スィチーリア、パレルモ生まれ]人のカトリック司祭。禁教令下の日本に潜入した最後の宣教師。1704年[宝永1]マニラに到着して日本語を学び、08年[宝永5]スペイン船で来日。屋久島に単身上陸したが、直ちに捕えられ、長崎を経て江戸へ送られ、小石川キリシタン屋敷に幽閉され、5年後に没した。その間、新井白石はシドッティを尋問し、彼から得た世界情勢、天文、地理等の情報を下に『西洋紀聞』『采覧異言』等を執筆した。これらは鎖国下の世界知識の源となり、実証的洋学再興の機運の礎となった。長崎奉行所取調記録に『羅媽(ローマ)人款状』、新井白石の記録に『天主教大意』『ヨワンシロウテ物語』等。」
  1. 2016/04/05(火) 14:30:40|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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