イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィア街案内(5)

(続き)
「古くはゲット・ヴェッキオの門を閉める鐵柵のあった開廊を出ると、右の角、古い居酒屋〝ダ・ダンテ″のあった場所に、ヘブライ・レストラン〝ガン・ガン(Gam Gam)が開店した。カンナレージョ河岸通りを右へ行こう。そこにフランス大使館だったスリアーン・ベッロット館が建っており、モンテギュ仏大使の秘書だったジャン=ジャック・ルソーが住んだ。
スリアーン・ベッロット館ルソーの碑[サイトから借用―ルソーについては、2009.03.21日のジャン=ジャック・ルソー(1、2)で触れました。] 続いてカザノーヴァの友人であり、援護者であったデ・ベルニス司教が住んだ。カザノーヴァは司教とムラーノの二人の修道女とのアヴァンチュールを楽しんだのだった。彼は1800年代に崩れたマドンナ・デッロルトのヴィゴンザ館に引っ越した。上記の館の前には、オルソーニのモザイクの工房に通じるソットポルテゴ・デイ・ヴェデーイがあり、そこのモザイク職人は、タイのゴールデン・パゴダからバルセロナのガウディのサグラダ・ファミリアまで全世界の重要な仕事に1900年初頭から呼ばれている。
Francesco_Guardi[フランチェスコ・グァルディ画『トゥレ・アルキ橋』]  この河岸通りを行くと、全ヴェネツィアで唯一の3アーチ橋(トゥレ・アルキ)があるが、『ヴェネツィアの民話』の中で水に映る一つの光景を思い出させるものである。
[私はこの橋の前にあるアパートから、スリアーン・ベッロット館の前を通り、3ヵ月語学校に通ったので、この近辺は大変懐かしいです。]

(サン・ジョッベ教会が)ピエートロ・ロンバルドと彼の工房の手になるものとしても、あまり知られていない教会を訪れたいならば、トゥレ・アルキを渡橋すれば、直ぐにこのルネサンスの宝石に出会える。左の第2礼拝堂の天井はデッラ・ロッビアのテッラコッタで飾られた聖具室は本当に素晴らしい。サポネッタ橋の向こうに小さな〝ダッラ・マリーザ″の食事処がある。
サン・ジョッベ教会[サイトから借用―サン・ジョッベ教会についてはシェイクスピア関連で2010.06.26日のヴェネツィアの建物で触れました。]
Ponte_delle_Guglie[グッリエ橋、サイトから借用] 先程通過したカンナレージョ河岸通りに並行して走る対岸のサン・ジョッベ河岸通りに戻り、その終点でグッリエ橋を渡り、サン・レオナルド埋め立て通りに入る。この通りには活気ある露天市が立つ[毎日魚屋、八百屋等……]。道の両側には色々のバールや食事処等が快適な空間の姿を見せるのだが、左側の、町での珈琲焙煎の最新の店の前で立ち止まってみて欲しい。ジュートの袋が堆く積み上げられ、珈琲の芳香が酔い痴れそうに漂い、芳味の珈琲だけではなく、最高のフラッペまで味わうことが出来る。

この近辺には沢山のレストランや居酒屋があったが、それらに代わって今や急流のように急ぎ行くマス化した旅行者によって容赦なく様変わりしてしまった。コルト・マルテーゼの時代、素敵な居酒屋があってそれぞれ独自の料理(スペチャリタ)で特色があった。〝ダル・ブリンディズィーン″には佳味な薄切りサラミソーセージと〝フォレスト(外国産)″酒、マンドゥーリアかトゥラーニがあり、タンニンのくすんだ赤色で、白い大理石の台に丸い赤のシミを付けたものである。

〝アル・ガート・ネーロ(黒猫)″は、老人達が御贔屓で、時間によって、また身体の調子で、只管黙っていたり、口角泡を飛ばすお喋りだったりだった。ダ・ブルーノには内臓(spienza)や第1反芻胃(rumegal)、トリッパ(牛の胃)を戸外で食べさす〝アル・スカリネート″があり、いい季節には黄色紙のテーブルクロスの上にこの酸甜滋味なる物が供された。

伝説的な揚物屋〝アッラ・ヴィットーリア″はポレンタやフライにする魚用の大きな俎板を備えているが、魚はラグーナから直に届き、新鮮である。居酒屋〝アッラ・カンパーナ″は客垂涎の的を揃え、〝ジャンバーラ″は魚が本当に美味しいレストランである。」 (6に続く)
  1. 2016/05/26(木) 00:01:49|
  2. ヴェネツィアの街
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天正遣欧少年使節: 伊東マンショ像展

昨日、上野の東京国立博物館へ行ってきました。日伊国交樹立150周年記念で来日した Ito Mancio 像展『特別公開 新発見!天正遣欧少年使節 伊東マンショの肖像』展(05.17~07.10日)が始まったというので見学に行きました。生きている内に、正にこの絵を見ることが出来たとは!使節団について語られ、描かれたと言われていた絵は未発見と知って以来、想像だにしたことはありませんでした。公開に先立って読売新聞(05.17)に記事が出ました。東京の後、長崎や宮崎へ回るそうです。2014.10.18日の寺﨑武男展で、この像の初めての発見について触れました。
読売新聞シンポジウム  マンショ像展パンフマンショ展パンフこの展覧会の開始に当たって、イタリア文化会館で《イタリアと日本、初めての出会い ドメニコ・ティントレット作「伊東マンショの肖像」の発見について》というシンポジウムがあり、聴講させて頂きました。日伊のパネラーの先生方のお話で色々教えられました。使節がヴェネツィアを訪れた時、政庁は総督宮殿の外交使節等を招く4つの扉の間を飾るために大ティントレットに使節の絵を注文したそうです。

使節案内役のローマ一辺倒のイエズス会とは折り合いが悪くなり(数年後ヴェネツィアから追放されます)、その注文が有耶無耶となり、父ティントレットが描いていた絵を息子で肖像画家であったドメーニコが切り取って、Mansio の像を完成させたのではないかとされていました。そのため絵は一度も総督宮殿に飾られることはなく、ドメーニコの娘が財産処分で、スペイン大使ドン・ガスパール・デ・アーロに売却し、その後の転々としてトリヴルツィオ財団に至る顛末を財団会長が語られました。

その追究調査の過程で、キャンバスを額から外し裏面を見ると"D. MANSIO…"の銘文とか〝1585″の年記等の記述があり、イタリアの史料から伊東マンショ像であると特定出来たようです。その淡々とした講演の背後に、マンショ像を特定出来た人々の悦びの在り様がひしひしと伝わってくるような気がしました。そうした事実を知ると、当時16歳くらいだった日本人青年の姿に、丸で昔からの知り合いであったような懐かしささえ感じてしまいます。
マンショ像正像ティントレット画『ヴェローニカ・フランコの肖像』このシンポジウムで私が教えられたことの一つ、2010.09.25日に書いたブログヴェローニカ・フランコに載せた絵がティントレットと書いてあり、そのまま載せたことがありましたが、それが大ティントレットの息子のドメーニコだったということを知ったことです。肖像画家でもあったドメーニコには客に高級娼婦(コルティジャーナ)もあり、数多いコルティジャーネの中にヴェローニカ・フランコの肖像があったのです。大ティントレットではありませんでした。
[追記: 講演中、ドメーニコが描いたとされる高級娼婦の絵の中にこの絵も示され、てっきりドメーニコの物と早とちりしたのですが、1573/1575年作とあるので、1560年生まれのドメーニコの物というのは聞き違いでしょう。以前はこの絵の帰属はティントレットではなかったようです。]

イタリアの新聞《イル・ソーレ・ヴェンティクァットロ・オーレ》紙はこの絵の発見の報を受け、〝東京はイタリアに派遣された最初の日本人の、発見されたばかりのこの肖像画を見せて欲しいと言っている″として、2014.04.08日のIl Sole 24 Ore紙上に次のように書いています。

「 イタリアへ派遣された最初の日本人(1585)の肖像画の発見。日本はドメーニコ・ティントレットの絵の鑑賞を願っている

イタリアに到来した最初の日本人の、油彩による肖像画の最近の発見は、日本の知識階級に大反響を興した。伊東マンショは九州大名のプリンスであり、イエズス会巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノによってヨーロッパに送られた4人の若者日本人侍派遣団のリーダーを務めた(1582~1590年続く旅を行った、その時代の名前で、日本では《天正遣欧使節》として知られる)。

トゥリヴルツィオ財団のパーオラ・ディ・リーコは『トゥリヴルツィアーナ』誌の論文の中で、その発見と絵の帰属〔ティントレット(1519ヴェネツィア~1594ヴェネツィア)と呼ばれた画家ヤーコポ・ロブースティの息子で、芸術の相続人であったドメーニコ・ティントレット(1560ヴェネツィア~1635ヴェネツィア)に帰属〕の詳細を報告した(高さ54㎝X幅43㎝、絵は切断されており、残りの3人の絵もあっただろう)。ディ・リーコは個人コレクションを整理するに際し、キャンバス裏の Mansio の表記と広範に渡る調査研究により、オリエント風の顔立ちの若者のこの絵を発見したのだった。

東京大学文学部の小佐野重利教授は、イタリア文化の大知識人であり、流布した思いを代表して、この絵は将来日本で、賞賛されるに違いないと表明した。伊東マンショ後30年弱で、仙台藩主伊達政宗が公式の使者としてヨーロッパに派遣し、アルキータ・リッチが描いた支倉常長の、ボルゲーゼ美術館の大きな肖像画が展示された時と同様である。

その絵は2011年の大津波の犠牲となった人々への、イタリアからの連帯感(追悼)の表明として、東北地方を代表して仙台で展示され、その後、東京の国立博物館で展覧された。

《イタリアとの古い絆である、発見したての伊東マンショ像が来日出来ることになれば、それは喜ばしいことです。ドメーニコ・ティントレットに帰属したことは根拠あるものであり、ヴェネツィア派の重要な画家である人のこの肖像画は、今日我々を驚かし、生き生きとした、丸で生きた人のように、見るからに無邪気であどけなさを持つ、日本人使節を示しています》と、小佐野教授はコメントしている。 ……(以下略)」
若冲展パンフ若冲展パンフ裏この日は欲張って、『生誕300年記念 若冲展』も3.30時間並んで見てきました。見終わって外に出ると20.00時、まだ長蛇の列が並んでいました。見終わった時は、22.00時を軽く回ったことでしょう。
  1. 2016/05/21(土) 22:39:31|
  2. ヴェネツィアに関する展覧会
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ヴェネツィアのユダヤ人

このガイドの特集に《ヴェネツィアのユダヤ人》という囲み記事があります。百科事典等にはゲットにユダヤ人を押し込めたのは1516年3月29日の通達によるとありますが、このガイドの筆者は1527年の事としています。

昔の事ですので色々異なった考え方があるようです。ある独文学者の本で、ユダヤの〝疎外″を意味する言葉がゲートで、そこから〝ゲットー″が始まったとする意見を読んだこともありました。このガイド本の考えを読んでみます。
Sinagoga_grande_tedescasinagoga1[シナゴーグ(ドイツ大教学館)、現在は博物館。サイトから借用――ヴェネツィア人にはシナゴーグ(教会堂)だとは言わず、ヴェネツィア人の同信会館(scola)のように教学館(scola)だと言っていたのでしょうか?] 
「海の支配を開始して以来、ヴェネツィアは数多くの外国人を受け入れ、歓迎したが、数多の人々と交易し、またサン・マルコの旗印は有効な擁護となることを意味するようになったので、他の人々に支援保護も提供した。これらの事は全て起源の古いことであり、亡命者に由来するものであった。こうしてヴェネツィア人は多くの異教徒を受け入れたので、町の発展に価値ある貢献となったようである。

その共同体は、ギリシアのものと同様に当然の如く夥しい数があり、ヘブライのものであったし、現在もそうである。時に受け入れられ、時に拒絶された。宗教的な熱中度に応じて、ユダヤ人が数多くヴェネツィアに定住した。12世紀以来セレニッスィマ共和国は、当時彼らが他の共同体に認められていたように、ある場所を提供することを決めた。こうしてユダヤ人が住み付いていたので、後にジュデッカと呼ばれることになるスピナルンガ島が許された。

1500年代半ば頃、元老院はカンナレージョのある島を許可した。そこには最終的にアルセナーレに移動する前の、セレニッスィマの鋳造場があった。そこでは鉄を溶融して大砲を鋳造(gettavano)していた。こうして、getto(ジェット―鋳造)という言葉の発音違いから、ghetto(ゲット)という最終的な共通語となった。
[アシュケナージ達(ドイツから下りて来たユダヤ人)は"ge"を〝ゲ″と発声し、ヴェネツィア人が彼らに合わせて"ghe"と表記したのでしょう]

しかし他の由来として、ghettoは分離を意味するタルムード本の"ghet"に由来するとか、ヘブライの中世タルムード学者の言う、宗教放棄を意味する"get"とか"gita"に由来すると断言する向きもある。……最初のコミュニティにやって来たのは、東方と西方のドイツ系ユダヤ人で、改宗せざるを得なかった可哀そうなマラーノ(Marrano)達も含まれる。
[1492年のスペインの財産略奪目的のユダヤ教徒追い出しはマラーノ(西語のマラーノは豚、キリスト教に改宗したユダヤ人の事)も含まれました]

共和国は決してユダヤ人に優しくはなかったが、彼らが他に抜きん出ている分野、商業活動や医療行為を自由に許した。しかしゲットの門の閉鎖とかキリスト教の祝祭の時は街を歩き回らない等の制約があった。

にも拘らずゲットは繁栄し、拡大の仕方も見付かった、と言ってもそれは建物の高さのことである。空間が必要だったので、ユダヤ人達はヴェネツィアの通常の階に更に更に上へと階を重ね、大胆にも信じ難い高さの建物を建てたのだった。
[ヴェネツィアの軟弱な地盤にも拘わらず、最高9階が存在したとか言われています]

結局ヴェネツィア政庁は、シナゴーグ(ユダヤ教会堂)は作らないという約束で、街のゲット島地区以外にもユダヤ人地区を作ることを許した。その地区は5つを数え、シナゴーグはないが、schola(スコーラ、scolaとも―教学館)と呼ばれる物はあった。最も古いのが1528年のドイツ大教学館。続いて4館、1532年のカントン教学館、1575年のイタリア教学館がゲット・ノーヴォ地区に、1538年のレヴァント教学館、1555年のスペイン教学館がゲット・ヴェッキオ地区に出来た。

スペイン・シナゴーグは1654年バルダッサーレ・ロンゲーナによって再建されたもので、最も大きな物であった。レヴァント教学館の外側の建造物もロンゲーナに帰属する。一方内部は、著名な木彫彫刻家アンドレーア・ブルストローンにより、1600年代末バロック式の修復の手が入った。」
  1. 2016/05/19(木) 00:05:31|
  2. ヴェネツィアの歴史
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ヴェネツィア、櫂漕船マラソン

今日のLa Nuova紙は、ヴェネツィアのヴォガロンガの模様を報道しています。
ヴォガロンガ「 ヴェネツィア、8000の操舵者でヴォガロンガの記録
――数日前から新登録は終了。カヤックからビッソーネまで1800艘。波を蹴散らすモーター船に反対して42年前に誕生――

ヴォガロンガ(櫂漕船マラソン)の記録だった。登録は締め切られたが、受け入れ続行の要望が続いた。櫂漕船によるマラソンはラグーナの限界、国としての限界も越えた。この数年の間に、何千という愛好者によって手漕ぎの〝クラシック″となってしまった。

日曜日サン・マルコ湾を通過する第42大会は、1800艘、8000の操舵者であった。初期の発想は多分少々ぼやけてしまった。1974年に生まれた、波を蹴散らすモーター船に対抗した上品な抗議であったものが、今や緊急事態となってしまった。

今やラグーナと、モーター船、大型船、大型観光、観光客満載のヴァポレットが共存不可能となっている。しかしヴェネツィアの天職というものはある。ヴォガロンガの当日、運河やラグーナは手漕ぎ櫂に戻って来たのである。 ……」

ヴェネツィアのヴォガロンガについては、2011.02.05日のヴォガロンガでその歴史等を書きました。
  1. 2016/05/15(日) 18:20:51|
  2. ヴェネツィアの行事
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ヴェネツィア街案内(4)

(続き)
「右にあるセンサ海岸通りを行くと、橋の後、この未だよく知られていない地域に、かつて〝ルーチ″があった。そこはプラットの古き友人がやっていた居酒屋《ラ・ペルゴラ》があったが、残念ながら今はない。更に海岸通りを進もう。〝赤い(Rosso)" 橋を越すと,もし食事をしたければ、新しく出来た〝アニーチェ・ステッラート!″か、直ぐ近くに〝イ・クァランタ・ラドローニ″がある。後者はかつてラスプーチンの遠戚の者の所有だったもの。

その脇のカピテッロ通り行こう。橋を越すとサンタルヴィーゼ広場に出る。ここにはゴシック様式の同名の教会が建っている。内部は1600年代の改築の様子が見られる。ティエーポロの美しい画布とテンペラで描かれた1400年代の板絵は別にしても、我々に興味あるのは柱と扶壁柱で支えられた宙空の聖歌隊席で、1700年代に7本の鉄の格子が嵌め込まれ、立ち入り禁止の修道院を隠すように窓で守られている。
1280px-Chiesa_Sant'Alvise[写真はサイトから借用]   祭壇右の、厚い赤い幕で覆われた小さな窓の格子は、聖体拝領式の間、上述の修道女を守るのである。絶対者との婚姻に身を捧げたこの女達の世界を疎外されたその空間の中で対比出来るかも知れない(しかしある尼僧達は、家族から排除され、嫌々ながらやって来た、もしかすればある罪を贖罪するためかも知れず、また拒絶された色男達は元愛人の顔を盗み見ようと聖体拝領の時を待って教会に赴くということもあったかも知れない)。

そしてイスラムのハーレムに隔離される、そこでは魂の昇華とか喪失といった形とは逆に、香油、軟膏、香水、遊び、冗談といったもので突き動かされる情欲的な共犯関係・敵対関係が支配的なのである。事実、有力貴族の貴婦人達、家で最初娘は隔離されて、修道院に送られたという事を知る、しかし修道生活への召し出しがこの修道院組織を支えたものであったとは言えない。

サンタルヴィーゼ橋に戻り、マルヴァズィーア橋を渡橋し、オルメズィーニ海岸通りを進む。セレニッスィマ時代、上流階級に愛されたアーミンの毛皮(ormesin)やペルシャ風絹織物(ペルシャのホルムズ(Ormuz)到来)を作る工房があった(衣服は当然として、枕、シーツ、カーテンにも使われた) 。ここには親方連に大変好まれた居酒屋〝アンティーカ・モーラ″がある。

更にオリエント風の、小さなシリア居酒屋〝バラーダ″にも行ってみよう。そしてゲット・ヌオーヴォ橋を渡り、この区域に入ってみよう。ここは1527年、町に常住していた、更に町以外在住の全てのユダヤ人が集められ、次第にジュデッカ島に移って行った。こうして町の内部にアシュケナージ(aschenaziti―独系ユダヤ人)やスファラディ(sefarditi―西系ユダヤ人)、四散していた全ての子孫達が集まって来た。
Campo%20del%20Ghetto%20Nuovo,%20Venezia[写真はサイトから借用]  こうして再び集まった人々は、夫々のグループが引き継いできた、古い隠れた不思議な歴史を比較検討し合った。ここで彼らは違った言葉・方言を話した。種々の説話が融合し、坩堝となって、新しく研究者が更に隠れたものを見出そうとそこから出発した、賢者の石、ゴーレムを生み出すための生命の言葉(カバラの呪文)、ソロモン王の鍵(clavicola di Salomone)へ向かって。

(最古の呪文の全体は、スレイマン・イブン・ダウド〔Souleyman Ebn Daoud―砂漠を支配する者〕、即ちソロモン王に帰属し、聖書とはオリエントやエジプトの息子達の中で最高の賢者であり、魔人〔Ginn o Djinn〕、即ち善心と悪心に命令を下すことが出来るものであり、全自然という王国に恭順するのである。) 

これほど異質な地域では、どう少なく見ても特異で、確実に興味津々の人物に屡々会うのである。〝カバラ(Qabbalah)″学徒(ヘブライの言葉qabol―口承による聖伝から得た《智慧》から派生)、光彩の書"Sepher ha Zohar"や形成の書"Sepher Jetzirah"のように、ある文章の中に解釈の鍵を含有する、秘密の哲学体系を研究するラビ(律法学者)、そして魂の純粋性と秘密の呪文を通して、不老長寿の妙薬と物質の結合を変更し、銀を金に変化させる鍵を模索する錬金術師達である。

古くはゲット・ヴェッキオの門を閉める鐵柵のあった開廊を出ると、右の角、古い居酒屋〝ダ・ダンテ″のあった場所に、ヘブライ・レストラン〝ガン・ガン(Gam Gam)が開店した。 ……」 (5に続く)
  1. 2016/05/12(木) 00:23:38|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィアの海との結婚式

先日の日曜日(5月8日)行われた、ヴェネツィアの海との結婚式についてLa Nuova紙は次のように伝えています。今年は復活祭が3月27日と早かったので、やはり移動祝祭日のキリスト昇天祭(Ascensione、ヴェ語Sensa)も早く到来しました(センサ直後の日曜日挙行)。
海との結婚式「 ヴェネツィアは《海との結婚式》を祝う
――セレニッスィマのビッソーナ舟に従い、櫂漕船の水上行列。市長は祝福を受けた輪を水中に投げた――

大パレードとなる櫂漕船の水上行列は、セレニッスィマのビッソーナ舟に従い、サン・マルコ湾を出発し、今日のヴェネツィアの《海との結婚式》を挙行した。千年に渡る儀礼は、センサの日の祭礼となる。この町の伝統的な行事は、キリスト昇天祭に祝われるが、恒例の行事はヴェネツィアと海との関係を思い出させる。

行列には市や宗教関係のVIPの参列があるが、フィレンツェ市長ダーリオ・ナルデッラの姿もあり、昨日総督宮殿で《アドリア海海洋姉妹都市》としての承認を受けたのだった。 ……」

2013.04.27日~の海との結婚式(1~4)で歴史や謂れについて触れています。
  1. 2016/05/10(火) 21:07:30|
  2. ヴェネツィアの行事
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ヴェネツィア街案内(3)

(続き)
「この海岸通りを進むと、運河に面したマステッリ館、駱駝の館がある。ファサードの浅浮彫が目につく。これはムーア人の国から1112年やって来たマステッリの3人兄弟、リオーバ、アファーニ、サンディの家で、彼らの商売の本拠地とした。そのためアラブ人商館として語る習慣が定着した。[2010.07.17日にマステッリ館について触れました。]
マステッリ館1400年代の館は基本的にビザンティン様式の帯状装飾を見せており、柱としての左角の露台にはローマ式の祭壇が置かれている。しかし上記の浅浮彫よりもっと東洋的なものは、ファサード右の基礎の部分に置かれたアラブ式の小さな水飲み場である。泉は何年か前まで機能しており、ゴンドリエーレやこの運河を船で通過する人達の便となっていた。

このレヴァントの商人の名前は、彼らの明らかに大きな富と彼らの生き生きしたイメージから来たものと思われる、マステッリ(mastelli)とは彼らが所持する金貨銀貨の山盛りの盥を意味するのである。
マドンナ・デッロルト教会[ティントレットの絵があるマドンナ・デッロルト教会。サイトから借用] 更に歩みを進め、15世紀のゴシック様式の教会の建つ広場に至る。先ず注目すべきは色々の画家の中でも特に、家が直ぐ近くにあるヤーコポ・ティントレットの素晴らしい画布である。彼はモーリ河岸運河通りの、直ぐ前に住んだ。彼の絵画的構成力と重々しい描写力は著名となり、正に素晴らしい。

この教会を後にして目前の橋に上ると、オリエント風のレンガの穹窿の、美しい鐘楼が望まれる。この橋はパレルモのサウド・カルラ(Saud Khalula)が溺れたマドンナ・デッロルト運河を渡河する。こうしてモーリ広場に到達すると、左の鉄柵の向こうにカンメッロ(駱駝)館の入口を見る。

同じ側に、壁に嵌め込まれた三つの彫刻を見る。所謂モーリ達の像で広場はその名を冠し、民間の言い伝えによれば、マステッリ兄弟、リオーバ、アファーニ、サンディを示している。この身元確認するに当たっては、難しい問題(第4番目の人物)がある。このムーア人はティントレットの家の下の角、1400年代の壁龕の中に納まっているのである。
[リオーバ、アファーニ、サンディについては上記のマステッリ館(1、2)をご参照ください。]

ある人が言うには、この第4番目の人物は有名な駱駝を連れ歩く人物、彼らの忠実なる召使を表わしているやもしれない。古い石柱の欠片の上に置かれた、鉄の義鼻のムーア人、アントーニオ・リオーバ氏はリアルトのゴッボ(傴僂――他の章で紹介)とある種ヴェネツィアのパスクイーノとして町の風刺の捌け口としての役割を分かち合っている。
gobbo di Rialto[リアルトのゴッボ、サイトから借用] [パスクイーノ=ローマのブラスキ宮殿の傍に置かれたメネラオスとパトロクロス像を模した大理石像(パスクイーノ)に反教皇等の風刺詩等を毎年1回貼り付けるのが16~19世紀流行した、と辞書にあります。]

かつてこれらの像全て着色されていたことに気付くと楽しい。町が最高に輝いていた時代は色が勝ち誇っていたのである。戸外のフレスコ画、彩色された石、祝祭日にはあらゆる種類、限りない色のつづれ織り布が露台に掛けられた。
リオーバの写真の頁この点に関して、ポンペーオ・モルメンティの私生活の中で、ヴェネツィア史から抜き出された、リオーバの1800年代のイメージをこのガイドの唯一の写真として掲載しよう。快適な季節であれば、ここいらで今や珍しくなったキオスクででも多分タマリンドの実の美味しいフラッペで気分一新元気回復出来るかも知れない。 ……」 (4に続く)
  1. 2016/05/05(木) 00:16:18|
  2. ヴェネツィアの街
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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