イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

谷崎終平さんの思い出

昨年秋、ヴェネツィアのカ・ペーザロ(東洋美術館)の売店で本を買ったことは以前書きましたが、その本『Tanizaki Jun'ichiro` Yoshino』(Letteratura universale Marsilio、1998、2006)を漸く少しずつ読み始め、関連して思い出すことの幾つかを記してみます。
Yoshinoこの本は《Mille Gru Collana di classici giapponesi diretta da Adriana Boscaro》というシリーズの1冊で、ヴェネツィア大学日本語学科主任教授アドリアーナ・ボースカロ教授の伊訳に寄るものです。ボースカロさんについては2008.01.09日のヴェネツィア大学や2008.01.19日のザッテレ海岸通りで触れました。

これは谷崎潤一郎の『吉野葛』を訳したもので、近年都内に住む娘が吉野古道を歩いてきたよ、と話してくれたのに誘われて、何年か前読み返したものを再度読みました。伊語で読むとまた異なった感懐があります。〝日本的″というとどうしても漢字やひらがなと、感性が結び付いてしまいます。

2009.12.26日日本の災害ニュースと題してブログを書きましたが、それはヴェネツィアのサン・マウリーツィオ広場で定期的に開かれる骨董市で買った古い絵入り新聞が、1938年神戸で起きた大水害事件の絵を掲載しており、この水害事件を谷崎潤一郎が『細雪』の中で物語に取り込んでいると知っての事でした。

谷崎は大東亜大戦中、空襲警報下でも原稿用紙に向かう姿勢を崩さず、只管『細雪』の完成に打ち込んでいたといわれます。谷崎流の韜晦した、戦争反対の意思表示だったのでしょうか。

かつて勤め人時代、私の席の背中合わせに谷崎終平さんという大先輩があり、一緒に仕事をしたことがありました。谷崎潤一郎の末弟と紹介されました。終平さんは気さくな人で、私など若造を隔てなく付き合って頂きました。その内終平さんを頭に他の先輩2人と私にも声を掛けられ、4人で屡々仕事帰りに酒を酌み交わすこととなっていきました。終平さんは日本酒好きで、飲酒後は甘い物を欲しがり、よくアンミツ屋のような所へも連れ回されました。甘い物苦手の私はトコロテン等を食べていましたが。

あちこち飲み歩きましたが、上野の湯島天神下の十字路角に〝シンスケ″という飲み屋(昔は木造の1階屋だったのですが、現在はビルに)があって、お連れした時、「ここはよく健ちゃんに連れてこられたよ」と言われ、「健ちゃんって誰ですか」と問うと、評論家で英文学者の吉田健一氏のことで、終平さんは当時懐具合が芳しくなかったようです。兄に養ってもらっていたと言ってました。

会社の旅行があって、その足ついでにその先に脚を延ばし、塩原、上高地、伊勢などに4人組で行きました。終平さんは終始朗らかで、若い者達の笑いを取る旅でしたが、唯一参ったのは、睡眠中の歯軋りでした。初めて終平さんの歯軋りを聞いた夜は朝方まで眠れませんでした。しかしいつも4人セットの旅でした。

終平さんは我々の酒席では潤一郎の事は話しませんでしたが、『痴人の愛』のナオミのモデルになった、現おばあちゃんが健在の事を話したことがありました。終平さんがお亡くなりになった後の事ですが、おばあちゃん達の皺を克明に描く鉛筆画家の木下晋画伯がナオミおばあちゃんを描きたいと言われ、谷崎家に交渉したことがありました。完成し、無事におばあちゃんのお披露目の展が開かれ、楽しく拝見しました(池田20世紀美術館)。
木下晋 『懐しき人々』終平さん執筆の『懐しき人々――兄潤一郎とその周辺』(文藝春秋、平成元年八月十五日――出版記念会は日比谷公園の松本楼でした)を読んで、初めて一晩中寝ないでお通夜をしたのは、佐藤春夫が亡くなった時と終平さんは書かれ、以後私もお通夜は寝ないで燈明や線香を欠かさないものだと、親父のお通夜を始め、終平さんの範に従っています。

偶々私の娘(終平さんの娘さんが外交官に嫁ぎ、外国で生まれた終平さんの孫の代りに、私の娘の幼児の写真を所望され、定期券の裏に収まっているのを見せられたことがありました)が清州橋の側にアパートを借りていて、訪ねる度に人形町の甘酒横丁近辺を何度も歩きました。潤一郎が生まれたのはこの辺りだったのですね。一杯引っ掛けてのこの界隈の街歩きは楽しいです。

TVでドナルド・キーンさんのお話を聞くと、ノーベル文学賞候補に先ず谷崎潤一郎、2番手に川端康成、次いで三島由紀夫だったとかだそうです。1965年には谷崎は亡くなり、1968年に川端がノーベル賞を受賞します。しかし1958年、1960年と谷崎は候補に上っていたらしいですが、時機熟さずだったようです。終平さんの〝お兄ちゃん″、残念でした。
  1. 2016/06/30(木) 00:05:32|
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ラグーナ・ヴェーネタ(ヴェネツィア潟)の自然(2)

ヴェネツィア潟の自然の変化について6月23日のLa Nuova紙が次のような記事を載せていました。

「 ペッレストリーナとリード島で海月警報。《危険はない、ラグーナは〝海″になりつつある》
――自然史博物館のルーカ・ミッザーンは《潟は海化しつつある、驚くに当たらない》 黒鯛や海亀、更に海豚や鮪、巨大化した海藻まで。植物相、動物相に変化が――

ラグーナの生態系が変化しつつある。この何年もの間、最早、秘密ではなくなった。特に近年、漁師や潜り愛好家は変わってしまった海域とますますその空間を占め始めた海域の間にヴェネツィア潟の変化を見ている。先週リードやペッレストリーナの海岸でいわゆる〝海の肺臓″と呼ばれる海月が撮影された。しかしここでは気候の変化は見られないのである。《気温の上昇とか水の清澄化は事を説明する短絡的なやり方である》 とヴェネツィア自然史博物館館長ルーカ・ミッザーンは言う。《言うべき事、完全に理解すべき点は沢山ある》。

◎この変化をどう説明するか?
《この15年、色々の局面で変化を見た。モーゼ計画の動くダム工事、海岸前の殆どに soffolta(沈むダム壁)を作ることでさえ、潟の入口から入る水の流れを変えた。運河用の掘削で運河を作り、その結果、かつては泥と砂の潟を愛していた動物の海域が、岩礁の間で棲息する他の動物に取って代わられようとしている。海の海胆まで増え続けている》

◎環境変化について、問われる海の生物学とは?
《確かに有用な例証や情報は収集している。原因は多々であり、気候から水の流れまで、気温から他の動物を捕食する食肉動物(非食肉動物も)まで。しかしそうした考えが全て実行可能という訳ではない》

◎ヴェネツィア潟はその総体で危険地域?
《〝海″の湾となりつつあると言える。環境変化は近年増加したということ》

◎例は?
《舌鮃に似た passarini(単数passarin)をヴェネツィア人はよく知っているが、この魚は潟から姿を消した。mormora(鯛科の魚)はかつて殆どどこでも遊泳していた。今や真鯛ばかりが数多く見られる。真鯛の大群は甲烏賊の数を減らす。甲烏賊は真鯛の大好物なのである。我々はこの事に気付いた。……この2年のふた夏に現れた海豹について考えてみると、ある冗談が生まれたが、それは真実なのである。アドリア海では鯨や海豹は全く普通ではないが、出現するようになった。更に毒針を持つ死滅した(と思われていた)種属の例まで再発見され、大騒ぎになった》

◎かつて吃驚して叫んだ海豚はどこでも見られるようになった
《環境は連続して変化しつつある。海藻について考えれば十分である。10年前潟で、sargasso(ホンダワラ属の海藻―Mare dei Sargassi[サルガッソ海]とは北大西洋、西インド諸島北東の海藻の多い海域)を見た人がいただろうか。今やヴェネツィアの海岸通りや島に沿ってどこでも見られ、2、3mにも伸びている。4、5mにも及ぶ日本の海藻と同様の話であり、海底から海面まで広がっている。干潮の時見て考えて欲しい……》
セルジョ・フェーミオ[失神した鱸を手掴みしたセルジョさん(2016.04.09)] ◎最近何か気付いた特別な事など
《潟内や外のsoffoltaの間で捕れたgrongo(穴子)、castagnola、sarago(アフリカチヌ)について考えている。冬でさえbranzino(鱸=伊語spigola)は更に多く見かけるようになった。そして今やプロの漁師になった人々がいる。しかしサンタ・マリーア・デル・マーレの沖合い、潟の真ん中の水中数mの所で、数ヶ月前、200㎏・2m長の鮪が捕れた》
……(後半略)」
海豹[大運河の海豹(2013.06.21)] 2008.10.19日に潟の自然を書きました。更に過去の《La Nuova》紙上のラグーナ・ヴェーネタの動物についての記事を幾つか紹介します。海豹飛魚海亀海豚等。
  1. 2016/06/28(火) 16:01:45|
  2. ヴェネツィアの自然
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ヴェネツィアの建物: ブラガディーン・ファヴレット館他(2)

(続き)
「前記(1)で見たように、この一家(イパート/ブラガディーン)は他の家族と同じように、他のヨーロッパの一家が誇りに足ると思い得る、それ以上の古さを記憶に留めている。この一家から、管理の専門家、外交官、特筆すべき司令官が輩出、中でも1400年代キプロス島(Cipro)を征服したアンドレーア、とりわけ有名なのは不運だったマルカントーニオである。
Elsa e Wanda Eleodori『大運河』(1993)彼は重要な任務の数々を引き受けた後、50歳足らずで、町の最も悲劇的な瞬間に、ファマグスタ(Famagosta)の為政者だった。トルコ軍はニコシアを攻め落とし、2万の住民を虐殺した後、町を攻囲した。1年に渡る激しい攻撃と砲撃で、トルコ軍は10万以上の死者、守るヴェネツィア人は7千の命を失い、700の人々が衰弱し、飢えに苦しんでいたが、死守は責務だった。

この時点でララ・ムスタファは名誉ある降伏を提案した。女・子供達の要望に応えて(さもないと、ニコシアの人々のように皆殺しに遭うかも知れなかった)、総大将マルカントーニオは提案を受け入れた。しかしその前に、彼は親しい人達への手紙や総督に最後の報告を書いた。それは夜の内に攻囲軍の向こうへ、そしてヴェネツィアへ、早船で届けることが出来た。そして10日後、運命の1571年7月31日の朝、彼は部下と共に捕らえられた。

しかしトルコ軍は、イスラム教徒兵士の夥しい損失から凶悪になり、約束を反故にした。キリスト教徒全員惨殺され、当然ヴェネツィア指揮官も同様である。ムスタファは個人的にマルカントーニオの耳を削いだ。それから15日間、過酷で残酷な体刑で責め続け、ヴェネツィア人に慈悲を乞わせ、共和国の軍事機密の吐露を要求した。

このまだ息のある英雄が譲る事はないと分かった時、ムスタファは生きたまま彼の皮を剥がさせた。残酷な責め苦は、ゆっくりと全身の皮膚全てが剥ぎ取られるまで続いた。マルカントーニオは呻き声も上げず、死刑執行人達の顔を凝視しながら、命が尽き、事切れた。

復讐の貫徹のために、皮は鞣され、中に麦藁を詰めて膨らまし、トルコ軍の旗艦の旗竿に吊り下げられてコンスタンティノープルに持って行かれた。数年後、ヴェネツィアの〝指揮艦船″がそれを盗み、ヴェネツィアに持ち帰った。今ではサンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ教会のマルカントーニオ・ブラガディーンの埋葬建造物を飾る棺に納められている。

この皮膚をくすね取ってきたジローラモ・ポリドーロが1587年2月13日元老院に書いた長い手紙の文章を数行引用する価値はある、即ち司令官の恐ろしい最期から7年後、《私、ヴェローナ出身のヒエロニムス・ポリドーロはセレニッスィマの仕事で奴隷となり……そして奴隷時代の私の献身は忘れられないが、どんな危険な目に遭うこともなく、あの幸運の殉教者だった。当時コンスタンティノープルの外交官(Bailo)だった高名なるティエーポロの願いで、あのブラガディーンの皮膚を造船所の箱から取り出し、布に包み隠し、著名なる Bailo の元へ無傷で無事に届けた。価値ある、勇気あるこの行動は確実に死を意味するが、あなた方の総督に限りない献身の思いを捧げるものです。

聞くも悍ましい事がわが身に起こったが……この正当なる盗みの事をトルコのお偉方に許しを乞うものである、私は幾度となくその事で苦しんだ……誇り高い苦悩、それが故に何日も何日も、腹や背中を殴打され、踝から上は縄で苦しめられた……私の身体の自然は打ちのめされ、私は去勢男になってしまった。

こうした苦しみの後、全てが壊れ、破壊され、乞食の身に堕ちた……私は最終的にあなた方の総督の足下にひれ伏します。閣下を希求致します……》。ポリドーロは月に5ドゥカートの年金を得た。」
  1. 2016/06/23(木) 00:04:08|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ヴェネツィアの建物: ブラガディーン・ファヴレット館他(1)

ペスケリーア(魚市場)の建物を過ぎ、16~19世紀の6軒の住宅建築を右へ越すと、モロズィーニ・ブランドリーン館となります。E.&W. エレオドーリ著『大運河』(1993年)は次のように説明しています。
モロズィーニ・ブランドリーン館「ゴシックの大きな建物、サン・カッスィアーン教区にあるモロズィーニ分家によって建てられた物。1層が崩れるなど手酷い扱いを受けたが、中央の素晴らしい六連窓が残り、その上の階は入り組んだアーチである。両脇のオジーブ式の1面窓は細かく彫られた長方形の枠の中に収まっている。」
ブラガディーン・ファヴォレット館更に右へ上ると、ブラガディーン・ファヴレット館(茶色の低い建物)に出ます。上記の『大運河』はブラガディーン家を次のように紹介しています。
「数多いブラガディーン家の館の一つである。ピアーノ・ノービレの美しい四連窓のある14世紀ゴシックの建物で、ヴェーネト・ビザンティン様式から、より古い建物が存在したことが、ファサード両脇の片面窓の枠取りから覗える。

続いて色々、手酷い扱いを受けた。現在はホテル・サン・カッスィアーノである。ここにかつて画家ジャーコモ・ファヴレット(1849~87)が住み、ファサードにその碑がある。

ブラガディーンの最初の姓名はイパートである、8世紀に改名した。ヴェネツィアの基礎を作った24の〝ヴェッキア(古い)″家系の一つで、初期から現在まで未だに続く一家として、セレニッスィマの全歴史に繋がっている。というより4つの〝エヴァンジェーリコ(福音史家の)″家系に属しており、725年のヴェネツィア創立決議書にサインをした。
[ 24の家系: バドエール、バゼッジョ(ブラガディーン)、コンタリーニ、コルネール、ダンドロ、ファリエール、ジュスティニアーン、グラデニーゴ=ドルフィーン、モロズィーニ、ミキエール、ポラーニ、サヌード、バロッツィ、ベレーニョ、ベンボ、ガウリ、メンモ、クェリーニ、ソランヅォ、ティエーポロ、ザーネ、ゼン、ズィアーニ(ソラモーン)、ゾルズィ]

ビザンティンの皇帝(Basileus)の同意を得て選ばれた2人の総督の後、オルソ・イパート[在位726-737。737-742年は総督が選ばれず、軍団の長に政治は委ねられた]は、完全な独立の中で当時の首都であったエラクレーアで726年ヴェネツィア人だけに選ばれたので、初めてのヴェネツィア人の真の総督と考えられる。

新生共和国の重要性として、オルソがビザンツを一つの敵としてしっかり自覚しており、ヴェネツィアが生き残っていくにはそれは宿命的な存在であったに違いなく、ビザンティン人の保護から切れることによって生じるマイナス効果を軽減するために、ラヴェンナから敵ランゴバルト族を追い払い、ビザンツに救いを齎したという事実が特筆される。

742年に選出された2番目の総督はまだイパート姓のテオダート[テオダート・イパート、在位742-755]で、彼は首都をより安定した地帯、マラモッコに移した。 ……」 (2に続く)
  1. 2016/06/16(木) 00:33:10|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ヴェネツィアのゲット

少し前のブログ(05.19)で、ヴェネツィアのゲットについて触れました。ヴェネツィア人は何年もの間ラグーナの中の島を苦労して埋め立て等をしながら、潟の上にヴェネツィアの街を立ち上げていきました。そんな苦労を知らないユダヤ人に、ヴェネツィア人は2つの島を与え、永住を許可しました。郊外に幾らでも土地のある本土側と土地空間に限りのあるヴェネツィアの違いはそこにあります。G. ディステーファノ著『ヴェネツィア史』(Supernova、2010.02)の〝1516年3月29日″の項は下のように書いています。
[ヴェネツィアの語学校で伊語勉強中、バールの人に「どうして日本人は〝ボンジョルノー″とか語尾を伸ばすの?」と諫められました。確かに歌手カルーソーとか伸ばす癖があります。ヴェネツィアでは〝ゲット″ですが、日本人は〝ゲットー″と伸ばしますね。]
ヴェネツィア史Campo%20del%20Ghetto%20Nuovo,%20Venezia「1516年3月29日=元老院は、町のゲットと通称される区域に全ユダヤ人を集めると言うザッカリーア・ドルフィーンの提案を承認した。《ユダヤ人は全て、サン・ジローラモ傍のゲットの家の中庭に集まって住むべきなのである。そして辺りを一晩中うろつかないようになすべきは、それぞれそう呼ばれるように小さな橋(ponteslo)のある古ゲット側からと、同じく2つの門が出来たもう一方の側とから出入りされ、その門は朝マランゴーナ(アルセナーレの職人達を仕事場に向かわせるように、週日夜明けと共にサン・マルコの鐘楼で鳴らされる鐘音)で開門され、夜は12時に閉門される。それはユダヤ人から任され、我々の組合(Collegio)に相応しいと思われる賃金を支払われた4人のキリスト教徒が管理する》と。 

それ故通達はユダヤ人をゲットに隔離することが予想された。城壁を作り要塞島にする(城壁は作られなかった)、水門の城壁(窓を塗り潰すことはなかった)、門の鐵柵は夜には締められ、朝はマランゴーナの鐘の音で開門した、サン・マルコ鐘楼の鐘は町の生活に規律を与えるもので、人々を目覚めさせ、アルセナーレの職人達を仕事場に呼んだ。日暮れには十人委員会の船がゲット島の周りを警戒に回った。

Ghettoという言葉は、geto(ジェート―鋳造)に由来し、3月29日の通達の投票後3日の内に最初にゲット入りしたドイツ系ユダヤ人が、"g"の発音を〝グ音″でしたことによる。Getoあるいはgettoは、隣接した鋳造場を意味し、鐵を溶かし、大砲を鋳造したりしたが現在未使用で、というより大雑把に言えば廃棄場の略称であった。カンナレージョのGeto Nouvo(新ゲット)が、周りの建築中の残滓やGeto Vecchio(古ゲート)に置かれた鋳造場のスラグの残滓の捨て場であったからである。
[gettare(鋳造する)、getto(鋳造―ヴェ語geto)。ユダヤ人の〝ゲット″の発音に合わせてこの島をgheto ghettoと綴る]

宗教上の軋轢のためユダヤ人[外国人として、経済力という背景があった?]を隔離する、疎外するという考えはヴェネツィア的ではない。ヴェネツィア人はただ彼らを管理するために境を設けたかった、商館の商人達がするようにである。彼らを密な監督下に置ける限定空間を設けただけのことだった。ドイツではユダヤ人は町の中心に定住することは出来なかったので、別な場所に向かい、《迫害され、殺され、追い払われて、ヴェネツィアに避難所を見出した》のだった。独系、西系、伊系、東方系……のユダヤ人だった。

大多数がサン・カッスィアーン、サン・スティーン、サン・ポーロ、サンタ・マリーア・マーテル・ドミニ地区、あるいは町の商業活動の中心であるリアルトの大国際中心地の裏手の住みたい場所に住んでいたユダヤ人達との間に境界を設置するという決定は、フランチェスコ・ダ・ルッカが火付け役だった。彼は1514年貴族の許可を得て、ヴェネツィアのユダヤ人の取調べ会社を開いたのである。

ユダヤ人を移動させるという考えは翌1515年には熟したので、今やその提案、あるいは大評議会に提示されたその一部は貴族のジョルジョ・エーモによって読み上げられ、ユダヤ人達は最高に不当な仕打ちだとした。エーモはジュデッカ島に閉じ込めることを提案したが、むしろ全員がムラーノ島に越していいと言っていたユダヤ人の要望で、彼らを邪悪だと非難していた十人委員会委員の別の貴族ザッカリーア・ドルフィーンによって再び取り上げられた決定を先送りした。

コンスタンティノープルではユダヤ教徒もイスラム教徒も城壁で囲まれた自分達の区域を持っているように、彼らを閉じられた空間に置く必要があった。こうしてゲットに送り、跳ね橋で隔離することが決定した。ゲットではユダヤ人は《中古品店や担保銀行》を開いた。しかし1525年追い出され、再びメーストレに戻らねばならなかった、1533年には永遠に居住してよしと再認されることになるが。

しかし新ゲット島は全ユダヤ人を収容するには不十分の広さだったので、キリスト教徒の不動産所有者(ユダヤ人には家の購入は認められなかった)は、家を高くし、8階まで存在する。続いて1560年には、新ゲットに古ゲットが追加されることが決定され、3年後の1563年には隣接地に配置された全20住居として新々ゲットが開かれた。

その間に鋳造場は引っ越しをしていた。ゲットには4000人の住民がいたが、21世紀には500人に減少した。1797年以降ユダヤ人は最早住まいは強制されていない、町中に散らばり、自分の家を購入出来た。……
1516年[デ・バルバリの地図には、1500年には既に城砦のようなゲットが描かれています。1516年との整合性はどうなのでしょうか。]  この古い空間は、かつては町の周辺だったが、基本的に記憶に留める場所、尊敬し訪問に値する場所、また重要な観光地となり、ヴェネツィア観光の中心の一つとして、出身地が同じそれぞれのグループに一つあるスコーラ(教学館)あるいはシナゴーグ(教会堂)が建っている。1528年のスコーラ・グランデ・テデスカ、1532年のスコーラ・カントン、1541年のスコーラ・レヴァンティーナ、スコーラ・スパニョーラはB. ロンゲーナによって改築され、また1575年のスコーラ・イタリアーナがある。」

私が初ヴェネツィア行をした1994年、ゲットに住むユダヤ人家族は6家と言われ、広場には丸で人気がありませんでした。近年ゲット広場に行くと、キッパ帽を被った人や山高帽から上下服まで黒で正装したユダヤ人等色々見かけ、賑わった風に変わってきています。今やこの広場はユダヤを世界のユダヤ人に発信する震源地となったのではないでしょうか。

ヴェニスを書いた作品として『ヴェニスの商人』(シェイクスピア作、1588年頃)は有名ですが、ユダヤ人がゲットに移住することを強制された1516年から70年経って、ユダヤ人が堂々とリアルトで金貸しを営み、商業の事が分かっていない、ヴェネツィア商人落第生の〝ヴェニスの商人″を描き、一休さんの頓智話程度の裁判劇でヒットラーのようにユダヤ嫌いを表明したシェイクスピアという英国作家のこの作品!

ある年のヴェネツィアのコンサートで、写真を撮って上げた3人の旅行者は、後ろの席から日本人と見て態々写真を撮って呉れと声を掛けて来たイスラエルの人。帰国して現像してイスラエルに写真を送ると、一月後ほどして大きな荷物が届きました。イスラエルの現在を撮った、大判で分厚い写真集でした。最初伊語で文章を書き、英語に逐語訳して送った結果でした。イスラエルの国の一端を知りました。

1516年ユダヤ人がヴェネツィアに定住することが法律で認められ、今年が500年記念年です。《La Nuova紙にその事についての記事があります。
プリーモ・レーヴィそのイスラエルが嫌で、トリーノのアパートで5階から身を投げた、ポーランドのオシュヴィエンツィム(独語アウシュヴィツ)を生き延びてイタリアに帰国したプリーモ・レーヴィ。杉原千畝の事、昨秋パリの、ヴェネツィアのソルボンヌ留学生ヴァレーリアさんが殺された同時多発テロもありました。中東の夜明けはあるのでしょうか。
  1. 2016/06/09(木) 00:03:19|
  2. ヴェネツィアの歴史
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ヴェネツィア街案内(6)

(続き)
「少しノスタルジックになって大通りを先へ進み、右手のマガゼーン通りへ曲がろう。そこには大運河の渡し、トラゲットへ至る看板が出ている。まだ休憩する予定がなく、上記のような栄光の過去を愛惜させるような環境で何か美味しい物を座って食べたいなら、左手のファルセッティ埋め立て通りと交差する角まで行き、角を曲がると、居酒屋〝ベンティゴーディ″が顔を出す。
サン・マルクオーラ教会他そこを出て右へ向って、引き返し、クリスト埋め立て通りを横断する。そして左手の教会裏(drio)の埋め立て通り、更に右へサン・マルクオーラ教会まで進む。そこには船の停留所があり、右にゴンドラのトラゲット(渡し―ヴぇ語tragheto)の桟橋(stazio)がある(当時700リラ、07.30~13.30日曜祝日は休み――私の初乗り時350リラ、現在0.5ユーロ、旅行者からは2、3ユーロ貰うべし、という意見もあったりして……)。そこから大運河対岸に運んで呉れる。

この大運河には3本の橋が架かっている(アッカデーミア、リアルト、スカルツィ――2000年第4の橋、評判の悪い憲法橋が架橋)。こうして長々とグルグル歩き回ることなく、容易に渡河出来る幾つかのトラゲットが存在し、町のあちらとこちらを結んでいる。
[アッカデーミア橋は2010.04.17日、リアルト橋は2011.08.13日、スカルツィ橋は2011.08.20日、憲法橋=カラトゥラーヴァ橋については、2014.09.23日のカラトゥラーヴァ橋等で触れました。]

前方を見ると、トルコ人商館が望め、館は1800年代の最悪の修復でひん曲げられてしまった。現在は自然史博物館となっている。近年リガブーエ財団から素晴らしい恐竜類の骨格標本の提供を受け、展示品が豊かになった。

もしゴンドラでの渡しが終了したなら、ヴァポレットでリーヴァ・ディ・ビアージョまで行こう。一度大運河の向こうに渡れば、道を左へ取り、次に右へ。今度は左へ行くとベンボ通りから橋を渡ると、サン・ザン・デゴラ(伊語San Giovanni Decollato―断首の聖ヨハネ)教会に出る。町でも最古の教会の一つである。
サン・ザン・デゴラ教会連続的に改築の手が入ったが、11世紀の柱頭にはビザンティン発のバジリカ様式が残されている。ビザンティンの作家のフレスコ画は多分教会建設と同時代のものである(日曜以外の開門は10.00~12.00、土曜はミサ時19.00)。教会の左へ道を取り、プレーティ通りからフォンテゴ・デイ・トゥルキ大通りへ行く。

その道突き当りの大運河傍に自然史博物館入口がある。提供を受けた物や購入した物を基に興味深い動・植物学のコレクションが集められており、それは教育的配慮の下に配置され、動物、昆虫、人体解剖、鉱物学、地質学の標本、全てはラグーナ(ヴェネツィア潟)の植物、動物に対する特別の関心が払われている。[ヴェネツィアの自然について、2008.10.19日の潟の自然で触れました。]
メージョ倉庫とトルコ人商館[ここに追加すべき物として、探検家G. ミアーニ(Miani)のアフリカの民族学的収集品、デ・レアーリ(De Reali)の大狩猟会での動物の獲物の収集品がある。最近のディノサウルス(恐竜)の骨は最高で、それだけでも訪れる価値のある館である。 」 (終)
Corto Sconto地図 カンナレージョ
  1. 2016/06/02(木) 00:04:39|
  2. ヴェネツィアの街
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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