イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

『ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち』展

国立新美術館で開催中(07.13~10.10日)の、ヴェネツィア・アッカデーミア美術館所蔵の絵画展に行ってきました。来日した中で、最大の絵は、ティツィアーノの晩年の傑作と言われている『受胎告知』でした。リアルト橋傍のサン・サルヴァトーレ(S. Salvador)教会の右壁面の角にあり、何度か見ましたが、いつも暗く、今回は明るい照明の中、細部の色合いまで視認堪能出来ました。この教会には祭壇左上に、カルパッチョ作品と言われたこともある『エメイウスでの晩餐』(現在は同定せず)もあります。
アカデミア展1裏1
アカデミア展2パンフ裏2アッカデーミア展 パンフレットアカデミア展図録[左、チラシ、右、図録] 私は初めてヴェネツィアの語学校に通った時、借りたアパートが 《モチェニーゴ・ヴェッキア館》 だったので、“モチェニーゴ”と聞くと反応してしまいます。来日したヤーコポ・ティントレット画 『アルヴィーゼ・モチェニーゴの像』(1世、1570~77―下図)を掲げてみます。今回展示を見て回りながら感じた事は、作品達に初めての出会った感じがしなかったことです。3回はアッカデーミアに入館しているせいか、名状しがたい懐かしさのような感を抱いてしまいました。
アルヴィーゼ・モチェニーゴ像 ドメーニコ・ティントレット[右、ドメーニコ・ティントレット画『キリストの復活』] 先日伊東マンショを描いたティントレットの次男ドメーニコ・ティントレットについて書きましたが、今回彼の描いた肖像画ではない作品を見て、親に引けを取らないと感じました。
講演講演2実は展示物を見る前に、陣内秀信先生の 『水を現代的に生かすヴェネツィアの都市づくり』 という講演を聞きました。専門的な中身に、先生一流の楽しいヴェネツィア話が盛り込まれ、またヴェネツィア観光に出かけたい思いに取り付かれながら、絵画鑑賞の心構えが整ったのでした。

つい先日もNHKのイタリア街歩き撮影番組のベストを放映していましたが、またこのイタリア特集でヴェネツィアがベスト・ワンに輝き、私自身、大いにその思いを煽られて、ここにUPするためのヴェネツィア話のネタ探しに励まねばと思っているところです。
旧、鉄製アッカデーミア橋元インクラービリ養育院[左、アッカデーミア美術館(古い絵葉書)、右、アッカデーミア美術学校新在所] 2010.04.24日に、ナポレオンの意向もあって宗教施設がアッカデーミア美術学校とアッカデーミア美術館になったその前史について触れました。近年、その時以来あったアッカデーミア美術学校がザッテレ海岸通りにあったインクラービリ養育院跡に本拠地を移し、その空いた空間を美術館に模様替えするために、長い間修復のテントを被っていました。以前と展示方法が相当異なったことでしょう。
  1. 2016/07/31(日) 00:03:34|
  2. ヴェネツィアに関する展覧会
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ヴェネツィアの伝説: ノーヴェ海岸通りの7人の魔女(2)

初期化してPCが直りました。 ウインドウズ10にUPしたのが原因かも知れません。――[続き]を続行します。

「幾晩かサンピエロータの船首の隙間に蹲り、帆と横静索の下に身を潜め、魔女の到来を待っていた。4晩の間、彼の待機は虚しく、5番目の夜、あの妖術使いの一団が乗船して来た。畏怖に囚われ、動かないようにしても、ニコロは恐懼に打ち震え、小さく小さくなっていた。

舵取りの魔女が例の決まり文句を唱えた。《一番手開始、二番手開始、三番手開始……》 と、七番手まで進んだ。しかし今回は舟は動かず、飛翔しなかった。《どうして?》 舵を握る老魔女が叫んだ。《何故、この(sta)阿呆な舟は動かないの?》 ニコロは震え始めた。今、多分魔女達は中を覗き込んで彼を見付けるかも知れない。しかし幸運なことに舵手はどうでもいい事を話し始めた。

そして《一番手開始、二番手開始、三番手開始……》 と、今回は八番手までいった。八番目で舟は動き始め、舵を握る老魔女は次のように付け加えた。《私は考えたんだよ、畜生女めが、お前達の誰かが妊娠したんだよ、誰にも分らんが……》 皆は笑って、お互いを探るように見、誰が身重なのか知ろうとした。そして人間が聞いたこともないような悍ましい言葉で、止めどなくお喋りを始めた。

舟は船首を南に取り、静かにスピードを上げ、飛んで行った。こんなに素晴らしい運行はかつてなかった。目的地に到着するのに約2時間だった。その時魔女達は、色々の形や大きさの船が一杯繋がれた大きな開廊の、船を隠すように守られた場所に舟を舫って、直ぐ様舟を降りた。

その時点でニコロは勇を鼓して隠れ処から出ると、周辺を見回した。そこはオリエントの大きな町の港だったが、どこだろう? 彼も舟から下りると身を潜めて土の固められた広い道を進んだ。よろよろ歩く2人の見知らぬ人とすれ違い、ここはどこか訊いた。しかし2人は返答もしなかった。

その時再度、周りを見ると、一つの教会に気が付いた。何度も聞いていた話のお陰で、サン・マルコの教会のように理解され、結局それがどこか分かった。何と、何と、そこはエジプトのアレクサンドリアだった。
棗椰子[棗椰子、サイトから借用] その時近くにあったナツメヤシから実の付いた小枝をちぎり取って上着の下に隠した。それから急いで元の道を引き返し、サンピエロータに乗って帆の下にうまく隠れ、7人の魔女の帰りを待った。待つも程なくして女達はお喋りしながら笑いこけて帰って来た。もしかしたらそれは魔女達の安息日の宴のようなものであったのか、あるいは悪魔達と何か約束でも交わしていたのか。

舟に乗り、自分の場所に腰を下ろすと、仲間を率いる老魔女が例の呪文を唱え始めた。《一番手開始、二番手開始、三番手開始……八番手開始》 そして高らかな声で嘲笑いながら付け加えた。《あんた達、猥らな女が一人、子供を孕んだんだ。》

約1時間半の飛行で、サン・マルコ広場の大鐘楼が直ぐに突然現れた。ヴェネツィアに帰還したのである。舟はフォンダメンタ・ノーヴェに停まって通常通り繋がれた。魔女達は下船すると立ち去った。

ニコロも降りると、この旅の戦利品、今までこの町では未見で、新鮮な未熟の棗椰子の小枝を握り締めた。それは彼の驚天動地の旅を証明する証だった。こうして皆彼の話を信じた。神父は彼の舟を聖水で清めに行き、以来魔女には使われることはなかった。

ブラーノ島では同じような話が伝わっており、詳細には異同があるが、本質は同じである。舟は輸送の人の物ではなく、漁師の物であり、当然ブラーノ島に係留された。魔女の数も7人ではなく12人である。飛行の呪文も、当然13番まで数え、飛行はエジプトのアレクサンドリアではなく、コンスタンティノープルである。この二つのもののオリジナルのヴァージョンはどういうものか、誰も正確には知り得ない。

あるヴァージョンによれば、この伝説から派生したものがあるかも知れないと言っておかねばならない。事実若いニコロは彼の舟を使った7人の魔女達の中に、ほっそりと元気溌溂した表情で、然るべき部位はちゃんとした曲線美を備えた、好感の持てる、一番若い魔女に気付いていたようである。こうしてエジプトのアレクサンドリアへの飛行後、帰還した夜、立ち去るのではなく、少し打ち解けた気持ちを抱いて魔女達に付いて行こうと決めた。」 (3に続く)
  1. 2016/07/27(水) 00:00:00|
  2. ヴェネツィアの伝説
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レデントーレの花火大会

7月の第3土曜日の夜は恒例のレデントーレ祭礼前夜の花火大会でした。《La Nuova紙は次のような記事を載せています。
レデントーレ「 レデントーレ、夜空には2種の《三色旗》、そして静寂の中、ニースに対してヴェネツィアのオマージュ
――ニースの犠牲者追悼のため、予定は変更された。スペクタクルな花火、終わりには驚きがあった。夜空に描かれた〝ヴェネツィア″の文字、9万以上の観客と湾には1700艘の船。レガッタもあった――

イタリアとフランスの2つのトリコローレ(三色旗)が静寂の中、花火で夜空に描かれた。これは悲しみに沈む、国境のヴェンティミーリャからそんなに離れていない町、ニース(Nizza)の悲劇に対するヴェネツィア人の哀悼の意だった。そこでは人々は祭りのために海岸に集まっていた。花火のスペクタクルに集まった人々の所に殺戮の狂気が炸裂した。

こうして連帯の思いが始まった。レデントーレを中止する事は、狂気とテロへ敗北を意味するだろう。昨夜深夜前、花火は4分半中断された。夜空の〝三色旗″は、静寂の1分間花開いた。再開後、大喝采が起った。……」

ダッカでのテロで、伊人9人、日本人7人が殺され、ニースでは84人の犠牲者でした。islamici のテロリスト化していく層が拡大傾向が見える現在、かつてヴェネツィア共和国が islamici との戦いで、降伏すれば助けるの約束を破られ皆殺しに遭った歴史が幾つかあります。ヴェネツィア人は彼らを信頼していないでしょう、この祭り1日前からリベルタ橋前で大検問が敷かれ、警備に万全を期そうとする姿勢がヌオーヴァ紙からも感じられました。大群衆の中で爆弾を抱え、自爆ということも考えられます。無事に終わり meno male でした。

この祭りについての謂れ等については、2011.03.05日の年中行事(8)で触れました。
  1. 2016/07/17(日) 22:38:30|
  2. ヴェネツィアの行事
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ヴェネツィアの伝説: ノーヴェ海岸通りの7人の魔女(1)

以前ヴェネツィアには幽霊話が似つかわしいと、そんな伝説を幾つか書きました。今回は魔女のお話です。M. ブルゼガーン著『ヴェネツィアの神話伝説』(Newton Compton editori、2007.10)から次のお話をどうぞ。
Marcello Brusegan『ヴェネツィアの神話と伝説』「伝説が伝えているのは、カンナレージョ区のフォンダメンテ・ノーヴェに沿って、かつて7m以上もあるラテン帆を張った素晴らしいサンピエロータという美しい舟を繋いでいると、誰かが繋舷した場所を移動させてしまうというような事がよくあったということである。ということは、舟が舫っている時は特に監視の目を光らせていた(それはヴェネツィアの古い俚諺 barca neta no vadagna――もし舟が綺麗に清掃してあれば、最近漁に出ていないから櫂は水に浸かっていない、の意――を無視してのことである)。

《サンピエロータ舟: 独特の型の舟でこう呼ばれ、たっぷり6~7mの大きさと変化があり、誕生したのもペッレストリーナ海岸のサン・ピエーロ・イン・ヴォルタ地区が起源である。ラグーナの古い舟の中でも比較的最近の物で、19世紀から作られるようになった。櫂かラテン帆で運行され、典型的な形をしている(元々起源であった流線型のサンドロ舟(sandolo)に比べて胴が膨らみ、幅広になっている)。ラグーナでのちょっとした漁のために生まれたもので、波が荒れる度に左右され、港の入口に避難する。》(囲み記事より)
sanpierotasanpierota%20Venezia[サイトから借用]  [ウィキペディアで説明を補強しますと、《ヴェーネタ潟伝統の木製平底、潟での漁用としての起源の舟。舳、艫に漕ぎ手2人、あるいは艫の1本櫂、又はヴァレザーナと言う2本櫂漕、あるいは外部にモーター付き、あるいはラテン帆で進む。帆は主墻に掲げるスパンカー(主帆)とマスト上に飾り帆を着ける、か、舳の板の上の帆柱にフォアスル帆で形成される。サンドロ舟の進化形で、そのラインはトーパ舟(topa)のようで、舟身も似て短く幅広で浅い。波を受ける舳は高く、広い。製造もトーパ舟に似て簡単、舟体は火で形の湾曲を求めることなく、板の柔軟性をそのまま生かしている。》]

舟はよく磨かれた板で蓋がされ、舷側は青と赤で色が施され、最大帆のスパンカーは黄色地に赤と黒の罫線が入り、最小帆のフォアスルは白と橙色である。結局、運河というものは譬え大きいものでなくとも見たくなるものであるし、特に風が横風で強く、小止みなく吹いた時など、帆で〝手綱を引き締め、トロットで進む″ことが出来る。
ブリコラ頁サンピエロータはニコロの情熱そのものであり、運び屋と呼ばれ、彼にはこの舟ほど価値あるものは何もなかったから、殆ど熱狂的な思いで舟を扱った。だから所有者(paron)ニコロにとって、ある朝、夜間知らない内に誰かがそれを使ったと気付いた時、それは彼にとって青天の霹靂だったというのは驚くに当たらない。傷が付いたとか汚れたとかではなく、パリーナ(palina=運河に立つ1本棒の繋舟用の杭、一方bricola(ブリコーラ)は数本セットの潟の航路標識用の杭)に舟を繋ぐ繋舟用の索の結束法が、彼が常々やっている方法とは異なっていた。

ところで何が起こったのか? 明確な解答には至らなかった。それだけではなく、何度も毎週終わり驚くべき事が繰り返された。酷過ぎた! そしてニコロは今や調べる時と思い、こんな悪ふざけの張本人を現行犯逮捕しようと決めた。如何にして? 近くの隠れ家に潜んでいるだろう者を上手く見つけ出す方法も、このならず者を現場で捕獲する方法も思い浮かばなかった。

長い間待った。深夜の鐘の時、何かが起こった。襤褸を着て、汚らしい女が7人、海岸通りをお喋りしながら、下品に笑い転げ、舟を舫った桟橋に近付いていった。一人ずつ大袈裟にサンピエロータに飛び乗った。6人は3人ずつ大鍋のような台に腰を下ろし、一番長老と思しき7番目の老女が艫に座り、舵を掴んだ。

マストロ・ニコロは誰か悪党に出遭ってもどうしていいか分からなかったし、7人の女に遭うなど思いも寄らなかったので、混乱のあまり、自分の正体がばれるのを恐れて、この際自分のなすべき事は何だろうと思っていた。

その間、舟上では2人の女が舟の舫いを紐解こうとしており、舵を握る長老が呪文を唱え始めた。それは《一番手開始、二番手開始、三番手開始……》 そして《七番手開始》 で終わった。その時舟は船脚を進め始め、宙空に持ち上がり、南の方向に軸足を向けた。

《何て事だ! この女達、魔女だ!》 ニコロは呆然と恐れ慄いて思った。《神様、この邪悪な者からお守り下さい》 そう言いながら十字を切った。恐ろしさのあまり、一晩中倉庫に隠れていたが、夜明け前、舟は飛んで行き、彼の桟橋には戻って来なかった。

その後戻って来ると、魔女達は宙空から下りてじゃれ笑いしながらお互いの肩を叩き合って、海岸通りを慌ただしく遠ざかって行った。

あぁ、哀れなニコロ! お前は何をなすべきか? 何が口に出して言えるか? 誰にこんな驚くべき体験を話せるか? 誰も信じないに違いない、皆は彼が気が違ったと思うだろう。事実こんな風に事は起ったのだ! 彼が見た夜間の体験を語った人全ては、彼の顔を見て嘲笑したのであり、教区の警官や神父達は彼を不憫に思った。

しかし事はそれだけでは済まなかった。魔女の一団もあの彼の美しい舟を勝手に使うことを許さなかったので、あの7人の魔女がどこへ行くのか探るために、勇を鼓して舟の中に隠れてみることにした。……」 (2へ続く)
  1. 2016/07/14(木) 00:03:13|
  2. ヴェネツィアの伝説
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詩人、吉増剛造さん

その年、語学学校ヴェネツィア学院に通学していた時、私のクラスにはチリ、アゼルバイジャン、トルコ、モロッコ、スペイン、オランダ、ドイツ、日本の老若男女が学んでいました。国籍が種々だった故か、その日の授業は何の話からそうなったか記憶にありませんが、ニコ先生は自分の国の詩人の名前を挙げるように求めました。

私の隣に座っていたチリ出身のアナがネルーダと言ったのだけは記憶にあります(彼女はご亭主がマルゲーラで仕事、メーストレ奥のMiranoに住み、伊語習得。私と馬が合いました)。《Neruda》はチリ人なのだと初めて知りました。私は《Gozo Yoshimasu》と答え、伊語での彼の説明に苦慮しました。

何故この名前を発声したのでしょうか。詩人の名前は沢山あります。私の住む町内には、夭折した立原道造の弟さん夫妻がいて、後ろ姿など何度かお見掛けしており、彼の詩集も時たま覗いたりしていましたから、立原道造には愛着があったので、東大裏の《道造記念館》には2度は行っているのですが。
草書で書かれた、川私の好きな詩集『草書で書かれた、川 吉増剛造詩集』(思潮社、一九七七年七月一日)の中の一節に《「ゴーゾーさん」 不思議な声が木魂している》(『窓辺にて』より)とありますので、以後は「ゴーゾーさん」と書かせて頂きますが、多摩川、高麗川が歌われ、私の住む八王子、そこを貫流する浅川や、また福生が歌われます。
黄金詩編静かな場所『静かな場所』(書肆山田、一九八一年四月二五日)という紀行書に次のような一文が。
「現代アメリカの生活のなかの音をとらえようとするのだが、なかなかむつかしい。まず考えつくのは、これは日本でもそうだがクルマの走る音、そしてテレビ、ラジオの音だ。いつかめずらしい静寂のなかにいるなとおもったことがある。数年前に訪れた水の都ヴェニス。当りまえのことだが、水路が主な交通手段だから、クルマのはっとする音が聞こえない。そして、クルマがここには入ってこられないのだと考えると、不思議と落着きを覚える。……」

「ゴーゾーさん」は都内の阿佐ヶ谷で誕生され、以後、都下の基地の町〝福生″で成長されたそうです。私は八王子に住む前、福生の多摩川沿いの福生団地で生活しました。福生では、アメリカン・グッズの店から、「ゴーゾーさん」の実家前、多摩川岸へとよく歩き回りました。そうした風景が『草書で書かれた、川』を読む度に、眼前します。
マリリアのパフォーマンス盤上の海、詩の宇宙奥さんのマリリアさんと「ゴーゾーさん」トークによるコラボレーションによるパフォーマンス、またTVで見た、天才棋士羽生善治さんとの対談は録画して何回か見ました。そして羽生善治・吉増剛造対談集『盤上の海、詩の宇宙』(荒木経惟写真、河出書房新社、一九九七年八月二〇日)が出版されました。激しく刺激を頂きました。
剛造展パンフ表剛造展パン裏表声のま 図録[右、図録カバー] そんな訳で、『声ノマ 全身詩人、吉増剛造展』(2016.06.07~2016.08.07、東京国立近代美術館)を見にいって来ました。疾走してきた詩人の言葉は爆裂し、爆裂し、爆裂し、その飛散した片言、片言、片言を拾い集め、私なりの構築をしたいと思ったことでした。美術館売店に寄ると「ゴーゾーさん」のコーナーに詩集『怪物君』を始め、関連の書籍が爆発していました。その中の1冊『我が詩的自伝』(講談社現代新書、二〇一六年四月二〇日)は、「ゴーゾーさん」のユーモアに満ち溢れ、大変楽しい本でした(下、何方でも楽しめる新書版[カバー]です)。
オシリス、石の神我が詩的自伝gozoCine`を見ながら、「ゴーゾーさん」の詩の謡いによる《詩能》を思っていました。
  1. 2016/07/07(木) 00:15:29|
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サンタ・マルゲリータ広場

私が伊語を学んだヴェネツィア学院はサンタ・マルゲリータ広場にあります。その広場についてLa Nuova紙が、1900年代の写真の展示について書いています。
アックァ・アルタ「 ヴェネツィア、サンタ・マルゲリータ広場を愛でるための、周知の写真の展示
――1900年代の36枚の写真は広場の同数の場所を撮影したもの――

《広場全体での、1900年代のサンタ・マルゲリータ広場での撮影写真》は、36箇所撮影としてピエール・ディケンス・ピッツァ屋(ドルソドゥーロ3410番地)から始まった、サンタ・マルゲリータ広場での撮影写真の展示である。

再評価: サンタ・マルゲリータ広場の都市的・社会的構造を再評価する試みの中で、ヴェネツィア学院はイタリア・レジスタンス運動と現代社会の歴史のためにであり(Iveser)、市コミュニケイション資料館とサンタ・マルゲリータ広場住民委員会は、サンタ・マルゲリータ広場の個人企業家やヴェネツィア、ムラーノ、ブラーノの自治体当局の協賛を得て、19世紀の広場の生活の事件や変遷について、広く知られた写真による独自の展示会を行うことになった。

広場のショーウインドー等各所に展示される、《広場全体、サンタ・マルゲリータ広場のノヴェチェントの写真》展示は、36点を予定している(1930~1991年撮影)。観覧の流れは個人の判断に任される。一方、展示される写真から、それが撮影された同一の場所や建物が引き出せる。写真はジャコメッリ王立写真資料館と都市写真資料館、更にIveser(イヴェゼール)古文書館と個人コレクションから借り出された。

展示は7月17日までの予定。この試みは、市の中でも活気ある中心的場所として、サンタ・マルゲリータ広場の見直しと再評価に貢献するとみられている。」 新聞の中をクリックするとその古い写真を見ることが出来ます。

尚、2012.01.21日のサンタ・マルゲリータ広場(1、2)でこの広場について種々触れました。私にとっては4年間数ヶ月ずつ通った語学学校があり、偶に買い物をした八百屋や魚屋の屋台が毎日出店し、毎日のように〝ロッソ″等のバールでカッフェを飲み、知り合ったドナートさんの書店で本を買い、最近新しくバーカロが出来たこの広場は生活の場であったような感慨があります。
またYou Tubeに古いヴェネツィア写真集Vecchie foto di Veneziaがありました。
  1. 2016/07/03(日) 17:13:20|
  2. ヴェネツィアの街
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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