イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

観光客の礼儀

ヴェネツィアの新聞La Nuova紙は、この夏の観光客の傍若無人を嘆いています。町はリードのように海水浴場やピクニック場ではなく、市民の規律ある生活の場なので、一市民としてのあるべき礼儀を求めています。
海浜にあらず「 観光客への“十戒”: 《ヴェネツィアを蔑ろにしないで下さい》
――グループのメガホンは叫んでいる“我が未来のヴェネツィアは、市を周知するためのキャンペーンに期待して、印刷や掲示をするために商人達を呼び寄せている――

ヴェネツィアでは鐘楼の日陰等でピクニックをすること、自転車やスクーターで街を乗り回すこと、サン・マルコ前等のラグーナに飛び込むこと、等々全て禁止で、もし誰も気付いていないなら、それをどうやって観光客に伝えるか? しかし良識も教養も助けにはならない。処罰する前に、余りにも度を越した人や不注意極まる人に、覚醒して貰わねばならない。……」
……
La Nuova 2》、《La Nuova 3》、《La Nuova 4等々観光客の条例違反が多々あったようです。

サン・マルコ広場での禁止事項については、2009.03.14日のブログカーニヴァルで触れました。
  1. 2016/08/29(月) 18:19:49|
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エレオノーラ・ドゥーゼ(1)

前回、カテリーナ・コルネールとアーゾロの関係について触れましたが、アーゾロでもう一人忘れられないのは、20世紀前半の大女優エレオノーラ・ドゥーゼ(1858.10.03ヴィジェーヴァノ~1924.04.21米国、ピッツバーグ)です。彼女は仏国サラ・ベルナール(1844~1923)、英国エレン・テリー(1848~1928)と共に、当時のヨーロッパ3大女優と謳われたそうです。シェイクスピア女優としてのエレンは、マクベス夫人とも愛称され、演出家の息子ゴードン・クレイグの母でもありました[『ゴードン・クレイグ 20世紀演劇の冒険者』(エドワード・クレイグ著、佐藤正紀訳、1996.11. 平凡社)参照]。
ドゥーゼベルナールエレン・テリー[左から、エレオノーラ・ドゥーゼ、ジョルジュ・クレラン画のサラ・ベルナール、ジョン・シンガー・サージェント画のエレン・テリー。3者、サイトから借用]
灰の1灰の2[2001年イタリア年の『イタリア映画大回顧』図録より] 私がエレオノーラの演技を見たのは、2001年の初の日本におけるイタリア年の時、京橋の国立近代美術館フィルムセンターで見た無声映画『灰』ででした。彼女については、2009.01.17日のブログルーカ劇場で触れました。B. ロザーダ著『Donne veneziane(ヴェネツィアの女)』(Corbo e Fiore Editori)から彼女の生涯を辿ってみます。

「《おゝ、偉大なるアマチュアよ》。それは22歳のガブリエーレ・ダンヌンツィオがエレオノーラ・ドゥーゼに向けた最初の言葉に違いない。1885年の夕べ、ローマの劇場の幕間で、舞台の袖で、彼に突然泣かされたのだった(何故かは分からない)。その神話が真実ならば、ヴァッレ劇場の3月2日の夕べの事だろう。そこでエレオノーラはデュマの『ドゥニーズ』を演じていた(カミッロ・アントーナ=トラヴェルシの言うように『椿姫』ではなかった)。

その最初の束の間の出会いから(しかし詩人の言葉は、既に新しい、初々しい接吻の希求を表している)、歴史が伝えるように、その後、大いなる愛が始まる。他人に対する限りない愛のみならず、何しろ多くの人々の意見にあるように、その愛は女優エレオノーラ・ドゥーゼの美点を隠してしまうようなものだから。後と言っても9年後のことである。ダンヌンツィオとの最初の出会いのその頃、ドゥーゼはアッリーゴ・ボーイトに完全に心を奪われていたのだから。

本題に入ろう。エレオノーラはヴェネツィアで誕生したのではない。ヴィジェーヴァノに生まれた。しかしそれは偶然のことで、世界を巡業して回っている役者で、キオッジャ出身の両親からである。キオッジャで4歳の時、デビューした。ヴィクトル・ユゴーの『あゝ無情』の劇場版のコゼッタ役である。

キオッジャとヴェネツィアの感性的なアイデンティティを考えると、キオッジャ人とかヴェネツィア人とかいうことには、然したる違いはなく、誰も何も盗まれることはないし、エレオノーラ・ドゥーゼをヴェネツィア女として紹介しているようなものである。何度となくヴェネツィアに対する愛を言明しているから、結局それは、彼女のヴェネツィア性であって、養子だとか言えないが、正にそこが由って来る所である。

そして彼女はヴェネツィアに長らく住んだ(当然女優としてであり、巡業の合間の休息時である)。大運河のサン・ヴィーオとサルーテの間のサン・グレゴーリオ教区の古い館バルバロ館で、屋根最上階にオジーヴ式の大きな窓があり、そこから全市が見渡せた。
カ・ダーリオ旧聞に属するその年月の事を次のように語る人がいる。《エレオノーラは骨董的家具は僅かながら、夥しい絨毯で調度を整えていた。部屋に辿り着くまでの長い階段の脇には、緋色の織物が上から吊り下げられていた。》 館の所有者はロシア人の紳士で、アレクサンデル・ニコライエヴィチ・ムロンゾフ(Alexandre Nicolaievitch Mouronzov―あるいはヴォルコフVolkov)、更に詳しくは、サインする時のようにルソフ(Roussoff)という名の類稀なるインテリで、貴重なる絶品の収集家であり、大変仰々しいタイトルの本『批評の中での大まかな事』の著者で、彼女に甚大な影響を及ぼした。

そしてこの人物の興味のお蔭で、エレオノーラ・ドゥーゼはロシアへ最初の巡業をして、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット(Giulietta e Romeo)』で、1891年5月4日サンクトペテルブルグ(San Pietroburgo)のプティ・テアトル(小劇場)で大成功を収め、ベルリン(Berlino)やパリ(Parigi)への道を切り拓いた。 」 (2へ続く)

ニュースによりますと、イタリア、ラツィオ州リエーティ県アペニン山脈ラーガの山々の麓、特にアマトリーチェ近辺を中心に、24日未明マグニチュード6.2の大地震があり、大被害が発生した模様です。イタリア・ブログを書いている者として、現地の方々にお見舞いの意を表明致します。追記: 267人(8月26日)が亡くなられたそうです。お亡くなりになった方々に哀悼の意を表します。200名以上の方が瓦礫の中から救出されたそうです。更なる救出を願うばかりです。
  1. 2016/08/25(木) 00:02:14|
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コルネール・デッラ・レジーナ館(2)

(続き)
「その交換として、カテリーナにアーゾロの領地が与えられた。洗練され、エレガントな小さな宮廷は芸術家や文学者らで活気付き、20年アーゾロを統治した。サロンと上流階級のパーティの女王は、イザベッラ・デーステやベアトリーチェ・スフォルツァの友人であった。カテリ-ナ・コルネールは作家やロマン主義的詩人を鼓舞した。
ティツィアーノ・ヴィチェッリオ『カテリーナ・コルネールの肖像』アーゾロ案内 ベンボ像アーゾロの談論長い間、アーゾロ宮廷にピエートロ・ベンボが通った。彼は、女王と女王の宮廷を対話集『アーゾロの談論』の中で神話化した。[『アーゾロの談論(Gli Asolo di Messer Pietro Bembo)』(仲谷満壽美訳、ありな書房、2013年3月15日)]

カテリーナはしばしばヴェネツィアに戻り、大運河に建つ建物で豪華な歓迎会に招かれた。そこでは数々の結婚式が祝われた。その中には従妹のクェリーニ・グラデニーゴと、弟にパンドルフォがあり、リーミニ領の奪われた権力の相続人カルロ・マラテスタとの結婚があった。

女王は1510年、大運河の彼女の館で亡くなった。そして館は兄弟ジョルジョの手に渡った。

1700年代コルネール兄弟は、流行りのスタイルで自分達の住処を作り直すことに決めた。その案はドメーニコ・ロッシに委託され、建築は1724~28年続いた。内部もその時代の趣味で装飾され、前からあったフレスコ画は外され、代わりにジャンバッティスタ・ティエーポロにも任されたに違いない。

館は1800年までコルネール家の手にあった。最後の子孫カテリーノはその建物を教皇庁に譲ったが、ピウス(Pio)7世はアントナンジェロ(アントンアンジェロ)とマルカントーニオ・カヴァーニスの二人の司祭に贈り、二人は裕福でない階層の若者教育に邁進する信心会を設立した。

ヴェネツィア市は彼らからそれを贈られ、そこを公営質屋とした。1971年にはこの機関はメーストレに移され、館の所有はヴェネツィア信用金庫に移った。

実際にはヴェネツィア・ビエンナーレの管理下にあり、修復の期間を経て、ここに現代芸術歴史資料館が設置された。資料館には資料豊富な図書室と定期刊行物資料室以外に写真資料室もあり、そこには写真の複製品が保存され、1895年[第1回ビエンナーレの年]以来、全ての作品はビエンナーレで展示紹介されてきた。 」
カテリーナ・コルネールの生まれた邸宅「コルネール・デッラ・レジーナ館」カテリーナ・コルナーロについては、2013.03.23~2013.04.06日にカテリーナ・コルナーロ(1、2、3)で触れました。
  1. 2016/08/18(木) 00:05:00|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ヴェネツィアの建物: コルネール・デッラ・レジーナ館(1)

ブラガディーン・ファヴレット館を右へ進むと、右隣にコルネール・デッラ・レジーナ館があります。R. ルッソ著『ヴェネツィアの建物』は次のような話を書いています。
Corner_regina[サイトから借用] 「1454年、この館で有名なキプロスの女王カテリーナ・コルナーロ(ヴェ語Corner)が誕生した。リュジニャン家のジャック2世(GiacomoⅡ di Lusignano、フランス系王家)の妃であった。ジャック2世は王ジャン2世(GiovanniⅡ)の庶出の息子で、正当な相続人で、サヴォイア家のルイージの妻シャルロット(Carlotta)を蔑ろにして、キプロスの王冠を横取りしていた。権力を奪い返されることとトルコの攻撃を恐れていたので、セレニッスィマとの友好関係を強固にしたいと、ヴェネツィアで妻を探すことにした。

マルコ・コルネールには13歳の娘がいた。ルネサンス期の法規では、結婚可能年齢だった。直ぐに少女カテリーナの肖像画が送られた。言い伝えは言っている、王は肖像画を見るや、彼女にぞっこんとなったと。

こうして1468年7月31日、ヴェネツィアで代理の結婚式が盛大に祝われた。カテリーナは、彼女以前にどんな女にも与えられたことのない名誉である、セレニッスィマの娘として養子縁組され、国家は金貨100万ドゥカートの持参金作りに参加した。

4年後、王妃は壮麗な船列を従え、王国に向かった。ファマグスタ(Famagosta)大聖堂で、キプロス、エルサレム、アルメニアの王妃として戴冠した。しかし結婚は長続きしなかった。ザーコ王(リュジニャン[Lusignano]はフランス系なので、ジャック(Jacques)としてのザーコ[Zaco])は、1473年7月亡くなり、全てはカテリーナに遺され、彼女は息子を妊娠中だった。死の床の王は、リュジニャンの全遺産を彼女に託し、王国を統治するのは摂政団に助けられた彼女だった。

しかしその少し後、カテリーナはザーコ王の庶出の息子達に全権を譲るように要求する謀反人の手に落ちた。ヴェネツィアは時宜よく行動を起こしており、セレニッスィマの船団がキプロスに上陸し、謀反人達は逃亡した。

小さなジャック3世はその年、熱病で亡くなった。施政官と2人のヴェネツィア貴族に付き添われ、女王は今や、完全に象徴的な存在であり、1487年元老院はヴェネツィア領にキプロスを併合することを決め、カテリーナを退位させた。」 (2へ続く)
  1. 2016/08/11(木) 00:01:45|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ヴェネツィアの伝説: ノーヴェ海岸通りの7人の魔女(3)

(続き)
「一番若い魔女が一人残って、ニコロは言い訳がましく声を掛けながら彼女に近付いた。彼女は理解が早く、直ぐ様この若い運搬人が何を望んでいるか、悟るが否や、満面に笑みを浮かべ、熱烈な一目惚れに陥ったのだった。即座に愛を告白して二人は結婚した。
フォンダメンタ・ノーヴェ海岸アノニムス[左、フォンダメンタ・ノーヴェ海岸地図、北対岸に墓の島サン・ミケーレ。右、画家不明『1708年のノーヴェ海岸の凍結』]  新郎新婦の間には、“平穏な”結婚生活は長くは続かず、娘は次第に激しくニコロを夜の外出に誘い、友達らとオステリーア(食事処)に繰り出し、明るい月光の下、気晴らしにニコロを夜の散歩に連れ出した。

彼に対してこんなに思いやりのある妻に出会って最初は幸福だった。更にはこうしたニコロに対する変わらぬ思いはますますミステリアスな色合いを帯び始めた。《恋人でも出来たのか? 彼女と一緒に居たい夜に、僕を外に連れ出すのは何故?》。

ある夜、12月24日の金曜日という、魔女には特別の日、食卓に釘付けになって、梃でも動こうとしなかった。《僕は外には行かないよ。家に居るよ。君がする事を見ていたい!》 何か心配になった若い魔女は彼を言い包めようとしたけれど、丸で功を奏しなかった。ニコロは頑として動こうとしなかった。

その時魔女の娘が言った。《いいわ、私がやってる事知りたいなら、一緒に来て頂戴。この呪文を一緒に唱えて〝Corpo de su, corpo de zo(体を上へ、体を下へ)″って、夜12時になった時、驚いては駄目よ。》 厳然たる静寂の中、鐘楼の鐘の音が12ヶ鳴るのを待った。12番目の音が消えようとした時、ユニゾンで唱和した。《体を上へ、体を下へ》。

と、突如、壮麗な王宮の宴の大広間が現出した。そこには特に顔を仮面で包んだ、エレガントな素晴らしい装いの沢山の人々が集っていた。魅力的な音楽が辺り一面に鳴り響いていた。制服姿の小姓達が飲物やデザートを運び、皆は笑いさんざめき、幸せそうだった。

《でも、あの人、誰?》 ニコロが叫んだ。《テースタ・ドーロの薬屋さんだ、ほれ、ご覧、アヴォガドーロ弁護士さん、産婆のジョヴァンナさん、サン・サルヴァドールの仕立て屋さん、サン・ザッカリーアの修道女の看守さん、収入役のドルフィーンさん、ナヴァジェーロ船長だ。でもよく見ると皆悪魔や魔女だ。でも今まで誰かそんな事言った人いるんだろうか?》。

ニコロは驚愕のあまり口をアングリさせて、ホールの真ん中で棒立ちで佇んでいた。そこでは沢山のカップルが音楽の名手達の甘美な演奏に優雅に踊り回っていた。

その時、長身で洗練された、目も髪も黒々として、口と顎に長々とした鬚髯を蓄えた一人の紳士が彼に近付いてきた。快い芳香が漂い、特別の香気を発散させていた。強烈とも言える香だった。《ニコロ君、こちらへお出で。君と話がしたいんだ。》 その未知の人が言った。しかし彼は、それが誰なのか分かっていた。ベルゼブ(魔王)その人だった。

《君の奥さんは真の花ですよ。才能もあり、将来は大貴婦人となられますよ。で、君にはお望みなら、お教え出来ますよ。》 ニコロはその新しくやって来た人物を目を皿にして見詰めた。しかし彼の望んでいる事は、この悪魔が直ぐに立ち去ってくれることだった。《閣下、全く以って、閣下に対して私が何をなすべきか分かっていないのです。》 この荷物運搬人は言い逃れを言った。

《来なさい、ニコロ君、書斎まで付いて来なさい。金貨を一山差し上げよう。これさえあれば、君の花嫁に素晴らしい生活をプレゼント出来ますぞ。それにもっと幸福になれること、請け合いだ。》 金貨の山が舞い込んだ。そんな物、見た人いるのか? ニコロは考えた。でも僕に何を望んでるんだ?

《ニコロ君》 悪魔は続けた。《約束をこう決めよう、私は君にこの金貨を差し上げよう。》 こう言って上着のポケットからポケット一杯のお金を取り出し、人が腰を下ろしているソファーの前の低いテーブルの上にぶちまけた。《怖がらずに、君はこの契約書にサインして呉れたまえ。心配することは何もないよ。事は全て君の死後の事だから》。

それは悪魔がニコロの心を買い取るという恐ろしい契約だった。《嫌です。そんな事受けられません。あなたのような悪魔に魂を売るよりは、惨めな貧乏人として一生を全うする方がずっとましです。僕の愛しの魔女ちゃんは僕がするようにきっとします。何時も口にしているように僕を愛しているなら、この生活に直ぐ慣れますよ。》 こう言うと呪文を順序逆に唱えた。《体を下へ、体を上へ》 その瞬間、自分の家の台所に居た、傍らに若い妻を従えて。

二人は抱き合い、永遠の愛を誓った。ニコロは忘れる事なく、次の日のクリスマスの日、サン・トロヴァーゾ教区の司祭で有名な祓魔師の所に行って、あった事全てを話した。その時司祭は、その若い女を邪悪から解放するには悪魔祓いの呪文で事を行う必要があると言った。魔女の魂を持つ女を解放するには、あるいはニコロがもしそうしたいなら、その魂の分離の瞬間、彼でもやることが可能だ、と。

ニコロは若妻が眠りに落ちる時を待たねばならなかったことだろう。口からか鼻からか毒虫が飛び出すまで、徹夜で彼女に付き添って、分離の瞬間があった。その時魔女は黒蠅となって死んだような少女の魂の抜け殻から飛び出した。その時ニコロは黒蠅が2度と戻らないように、娘の鼻の孔と喉を蠟で蓋をしなければならなかった。夜明けの太陽の曙光と共に娘はデーモンから完全に解放され、新生の命と共に目覚めた。

ニコロはこんな風にやったのだった。新郎新婦は苦楽を共にして自分達の明るい人生を歩んだ。娘は名前を変えたいと、聖処女のようにマリーアと呼ばれることになった(いかなる悪魔も神の母の聖名を持つ女には対抗出来ない)。そして全ヴェネツィアの中で最も善良で賢明なる女となったのだった。」 (終り)
  1. 2016/08/04(木) 00:04:53|
  2. ヴェネツィアの伝説
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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