イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: コッレッジョ館とドナ館

コルネール・デッラ・レジーナ館から更に右へ進むと、隣はコッレッジョ館です。E.&W. エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のような事を教えてくれます。
Elsa e Wanda Eleodori『大運河』(1993)「18世紀の倹しい建物で、1階は浮き出し装飾のある切り石積みであり、簡素な四角い窓は中央部が楣(まぐさ)式の三連窓で、三連窓の中央は三角形の小さな破風を被っている。

ベルガモ出身の商人であるコッレッジョ家は、カンディア(クレタ島のイラクリオン港)での熾烈を極めた、恐ろしい戦いの時、10万ドゥカートの寄附で貴族の位階を得、1700年この建物を手に入れ、再建した。1738年6月25日、最後の相続人ザンドナが亡くなり、建物は一族のある分家に遺贈された。」
カテリーナ・コルネールの生まれた邸宅「コルネール・デッラ・レジーナ館」更に右隣はドナ・サンジャントッフェッティ館です。『大運河』(1993)の説明を聞きます。
「古い構造物の上に築かれた18世紀の小さくて、質朴な建物である。両脇の、お互い隣り合う一面窓に比べて、中央の背丈の少し低い二連窓が、ファサードの発想の調和を狂わせてしまっている。

ヴィチェンツァから到来したサンジャントッフェッティ家は本土側の貴族である。そして“お金”で貴族に参入した。一家はヴェネツィアにカンディア戦争維持の費用としてかなりの額を拠出した。」

永井三明著『ヴェネツィアの歴史――共和国の残照』(刀水書房、2004年5月26日)は、ヴェネツィア貴族のこうした増加について次のように述べています。
ヴェネツィアの歴史「貴族人口の減少によってひきおこされた人材払底の打開策が政府によって講じられた。一六三〇年代、ヴェネツィアの貴族人口減少を埋めるために、本土の貴族(封建領主)がヴェネツィアに移住することが認められ、一六四五年にはクレタ戦争の戦費の捻出のため、それぞれ六万ドゥカーティで五家を貴族に加えることが提案された。

これはいったん大議会において否決されたが(賛成三六六、白票一四〇、反対五二八)、皮肉にも、これ以後大議会はつづく七〇年ほどの間に一二七家を貴族として受け入れている。しかもその条件は六万ドゥカーティではなく一〇万ドゥカーティとなっていた。この額は新貴族の年収を上まわる額で旧来からの貴族の最も裕福な者の年収(四万ドゥカーティ)の倍以上である。

クレタ戦争が終る1669年に新加入の許可が打ち切られるまで約八〇家が新貴族に加えられた。そして約四〇家が1684年から1704年にいたる間に貴族に加わったが、それはトルコに対するモレア戦争の戦費を補うためだった。」
このあとの文章で、色々の一家が貴族となった例、家族名が多数列挙されています。
  1. 2016/09/29(木) 00:04:27|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ヴェネツィア版《愛の南京錠》

若者に人気のある作家フェデリーコ・モッチャ(Federico Moccia)の小説『Ho voglia di te』(2004)が映画化されて(『その愛を走れ』(2007))以後、若者達に爆発的に広まった、愛の誓いとして南京錠を橋の欄干等に施錠して、鍵は河に捨てて、去る風習で、積もり積もったその重みでローマのミルヴィオ橋の街灯は倒れ、パリのボザール橋(Pont des Arts)の金網は崩れたそうです。

ヴェネツィアでは2013.06.05日に書いたブログ美化運動のように、電動チェイン・ソーで全てを切断し、撤去しました。世界遺産の町ヴェネツィアの景観を守るために、市当局は必死のようです。永遠を誓って橋に緊縛された愛は、数日後(?)愛よりも強力な電動チェイン・ソーで、町の美化のために汚らしく切断され、ごみ処理される運命にあるようです。現在、現行犯逮捕されると、ヴァポレットの無賃乗車の罰金よりも高額な金額が科されるそうです。その記事がLa Nuova紙に再度ありました。
愛の南京錠「 ヴェネツィアは100㎏の《愛の南京錠》を撤去した
――地元警察の3ヶ月のチェックの結果: 橋についての“警告”以後の新しい事態――

3ヶ月ちょっと前の、100㎏の南京錠のことと、私服警官と共に《愛の南京錠》現象に反対する、そのキャンペーン(ヴェネツィアでは橋への施錠は初めて禁令となった)は、二つの事態へと移り、違反者には罰金を科すことになった。

ヴェネツィアの橋の欄干に施錠する悪しき風習に反対しようと、現地警察は活動を続ける。作家フェデリーコ・モッチャの『Tre mesi sopra il cielo(『Ho voglia di te』がその続編となる、とか)の映画化作品の一般公開後に生まれた現象である。

地元警察の手術は、警察分署長フラーヴィオ・ガスタルディの協力の元、カステッロ区に興味を湧かせ、特にグレーチ橋、サンタントニーン橋、ピエタ運河橋、この橋の欄干の850弱の南京錠は、剪断器で切除された。その錠は重さが区々で、各々500g位の二つに切断された。……」
  1. 2016/09/25(日) 22:20:08|
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文学に表れたヴェネツィア――篠田真由美著『水冥き愁いの街』

篠田真由美さんの『水冥き愁いの街(みずくらきうれいのまち)――死都ヴェネツィア 龍の黙示録』(祥伝社、平成18年5月20日)というノン・ノベルの、壮大なスケールで描く吸血鬼伝説《龍の黙示録》の一冊に、ヴェネツィアを舞台にオドロオドロした物語が展開します。筋は直接読まれることとし、氏のヴェネツィア知識の豊富な一端を以下に若干引用させて頂きます。

「……イタリア語で広場は通常ピアッツァという。だがヴェネツィアでピアッツァの名をもって呼ばれるのはピアッツァ・ディ・サン・マルコのみで、市内に散らばる大小の広場はすべて本来は畑の意味を持つカンポの名が当てられる。水路が道の代わりであったヴェネツィアでは、家は基本的に水路に入り口を向けて建てられ、中央に残された土地は耕作されて畑になっていた。高密度の都市となり、畑が消えて何百年経とうと、過去に由来するヴェネツィアの地名が変わることはない。
水冥き愁いの街唯一のピアッツァ、サン・マルコ広場は昔もいまもヴェネツィアの中心だ。市場や芝居小屋が立ち並び猥雑な活気に溢れていた共和国の時代から、観光都市として整備され街全体が生きた美術館と化した現代まで。」
……
「ここはヴェネツィア本島の東端近く、サン・ピエトロ島と呼ばれる地域だ。
都市の中核である魚形の本島は、実のところ橋で繋がれた数十の小島の集合だ。呼び名は『運河』でも、土地に水路が掘削されたのではなく、浅い泥と砂の潟(ラグーナ)を流れる天然の水流を残して、その周囲を埋め立てて土地にしたもの、それがヴェネツィアなのだ。

魚の尾びれの中央部、旧国立造船所の東に正方形をやや崩したような形のサン・ピエトロ島も、ただ二本の橋でそれ以外の地域と結ばれる。島の中心部に建つのは、サン・ピエトロ・イン・カステッロ聖堂。それに隣接する旧総大司教宮殿の中の一室で、女ふたりのひそやかな交歓が行われている。

サン・ピエトロ・イン・カステッロ聖堂は、ローマ・カトリック教会における職制の中でも非常な高位である総大司教の座のある教会、カテドラーレである。

ヨーロッパを旅した人間なら、中心部の繁華な広場に面して信仰の中心である司教座聖堂(カテドラル)と、政治の場である市庁舎や王宮がそびえるのが中世からの都市の典型であると気づいたことであろう。ところがヴェネツィアのカテドラルは中心どころか、訪れる人も余り多くない東端部に置かれている。

サン・マルコ広場に金色燦然たる正面を向けて、共和国の政治を司った元首宮殿に並んで威容を誇るサン・マルコ大寺院は、しばしば誤解されるがカテドラーレではない。いかに著名ではあっても、教会内のヒエラルキーではそれは元首の私的礼拝堂という位置づけになる。
[サン・マルコ寺院がヴェネツィア大聖堂と呼ばれることになるのは、共和国がナポレオンに滅亡させられ(1797年)、総督の私的礼拝堂ではなくなり、1807年司教座が置かれたことに始まります。カトリックでは司教座が置かれた教会は大聖堂(Duomo)と呼ばれ、それ以外は単に教会(chiesa)ですので、例えばアッシージの聖フランチェスコのサン・フランチェスコ教会は、守護聖人聖ルフィヌスのアッシージ大聖堂より格段に巨大でも“教会”です。]

事実サン・マルコ大寺院の運営は、政府が選んだ役人によって行われ、集まる莫大な寄付にヴェネツィア総大司教は一切手をつけることが許されなかった。つまりこれほどにかつてのヴェネツィア共和国での、政教分離、より正確にいうなら教皇庁からの独立を形で示す事実もないのだった。」
……
「共和国が繁栄を極めた時代、もっとも重要な祭典は『海との結婚』、壮麗な御座船に乗った元首が舳先から結婚の指輪を投じて、共和国と海との祝福された繋がりを確認するものだった。祭りとは決して個人的な楽しみごとではなく、国の内外に向かって発信する優れて政治的な表現だったのである。

謝肉祭と仮装、仮面が盛んになり、訪れる外国人にも知られるようになっていったのは18世紀、オスマン・トルコとの戦いに敗れてすべての海外領土を失い、欧州貿易の拠点としての地位を手放して、いわば優雅な晩年を迎えた末期のことだった。辛うじて独立国の体裁を保ち、未だ他国の支配を受けないで済んでいるというだけの。

その時代のヴェネツィアの仮面祭りは、教会暦における四旬節前の一週間程度、つまり本来の謝肉祭の期間だけでなく、いくつかの中断期、たとえば降誕祭前などを挟みながらおよそ年の半分は続いていたという。……」
  1. 2016/09/22(木) 00:05:20|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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エレオノーラ・ドゥーゼ(4)

(続き)
「ダンヌンツィオとの関係が始まった時、エレオノーラはヨーロッパでも海外でも著名度は頂点にあった。そして彼女に更に与えてくれる人、彼女を更に受け入れてくれる人、2人の人物から求められていた。彼女こそダンヌンツィオの戯曲[『春の朝の夢』『ラ・ジョコンダ』『フランチェースカ・ダ・リーミニ』『死せる都』『イオーリオの娘』(イオーリオという名前はこの作品から有名となる)]を舞台に掛ける人だった。
ダンヌンツィオに夢中だった[ダンヌンツィオ。以前の展覧会チラシから] 彼女自身がプロデュースに出資し、海外での成功や批評への関心を請け負った。それにも拘わらず、1896年にはダンヌンツィオは『死せる都(La ville morte)』のフランス公演で、関心がサラ・ベルナールに行ってしまった。

1897年7月、ドゥーゼはフィレンツェ近郊の、憧れのセッティニャーノにカッポンチーナ(カッポーニ家の所有だった)と呼ばれた1400年代の古い、小さなヴィッラを“ポルツィウンコラ”と聖フランチェスコ風に名付けて(二人の内、誰がそう呼んだか分からない)借りた。この偉大な愛の月日に、創造的な発想が生まれた。

古代のクラッシック劇場のように、戸外での詩のための新しい劇場が誕生した。そしてこうした将来を見越した環境で、ダンヌンツィオは次のような作品を書いた。1897年『春の朝の夢(Sogno di un mattino di primavera)』、1898年『死せる都(La Citta` morta)』、1899年『ラ・ジョコンダ(La Gioconda)』、1899年『栄光(La Gloria)』、1901年『フランチェスカ・ダ・リーミニ( Francesca da Rimini)』。また1900年には、エレオノーラとの関係で霊感を得た『炎(Il Fuoco)』、『イオーリオの娘(La figlia di Jorio)』。

しかし最初の5作品は成功作ではなかった、というより、その費用を援助したドゥーゼにとって、経済的に悲惨なものだった。一方『イオーリオの娘』は評判が高く、ミラーノのリーリコ劇場で1904年3月2日板に乗った。しかし演じたのはドゥーゼではなく、イルマ・グランマーティカ(ルッジェーロ・ルッジェーリと)だった。彼女は病気だったと言われており、多分仮病だったに違いない。

事実、今や彼女は外国巡業で体が塞がっており、借金の経済的修復を迫られており、それを証明する仕事だった。今や聖なる詩人の生活の中に、侯爵夫人ディ・ルディニが登場していた。未投函のエレオノーラからガブリエーレへの長い手紙の下書きを読むと、《貴方は私を使っては投げ出す楽器に分類したわ。でも多かれ少なかれそんなあるもの、私とは人生の中のちょっとした何かなの。そこに深くて遠い何かを感じるわ。貴方には全てを話した――もう何もないわ。》

そして1917年9月23日『Taccuini(手帳)』の中でダンヌンツィオは書いた。《どんな女もギゾーラ[愛称。ダンヌンツィオが彼女の所に赴くとこう呼びかけた]のように私を愛しはしなかった、その前も後も。これこそが呵責の念に引き裂かれ、哀惜の思いで慰められる真実である。》 しかし彼女はこのフレーズを読んだことはなかった。『手帳』は1965年に出版されたから。彼女はダンヌンツィオとの破局後、すぐに演ずることを止めた。

数年後の1916年、唯一映画で演じた。グラーツィア・デレッダの小説の脚色である『灰(Cenere)』である。1921年舞台に戻り、1924年4月21日アメリカ、ピッツバーグ公演中、最後の巡業途上で客死した。

彼女はアーゾロに葬られた。その地で最後の年月、カノーヴァ通りの小さな館に住んだ。その壁面には詩人の言葉による碑が読める。
Asolo 1Asolo 2数年前マルコ・プラーガが書いた。《アーゾロは美しい、静かな、レースと詩の小さな町である。我が愛するヴェネツィアからさほど遠くない。そこには我が愛する、良き友人達が集っている。グラッパとモンテッロの間、ここは我が最後の老いの避難所である。この地に眠りたい、というか、思い出して欲しい。必要ならば言ってくれ。》 彼女は聞き届けられ、サンタンナ墓地に眠る。》 」 (終り)

ガブリエーレ・ダンヌンツィオについては2010.02.13日のイタリアと日本の関わり(2)や2013.10.26日のベンゾーン・フォースコロ館他等で触れました。 
  1. 2016/09/15(木) 00:03:31|
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エレオノーラ・ドゥーゼ(3)

(続き)
「二人の最初の出会いは1884年5月14日だった。ミラーノのカルカノ劇場で『椿姫(La Signora delle Camelie)』を演じたドゥーゼのための晩餐会の時だった。アッリーゴは彼女の隣に座った。晩餐会にはジョヴァンニ・ヴェルガも出席しており、ほんの数ヶ月前トリーノで、彼の『カヴァッレリーア・ルスティカーナ(Cavalleria Rusticana)』を演じていた。
ボーイトドゥーゼ像[アッリーゴ・ボーイトとドゥーゼ、サイトから借用] 何日か後、ボーイトは彼女に次のように書いた。《貴女は出発した。糸は切れて、我々全員は地面に投げ出された。ヴェルガ、グァルドと私は床に鼻を付けるしかなかった。》 こうして彼らの関係は始まった。7年続き、残された数多くの書簡が証明するように、その関係は濃密で、情熱的だった。

しかし秘密があった。事実、書簡は1979年にやっと出版された。更に二人の間には愛情に溢れた郵便物が証言するように、常に親愛の情に溢れていたし、1918年の彼の死の時まで続いたのだった。

ボーイトと関係の続く年月の間、ドゥーゼはフィレンツェに住んだ。最初はスィニョリーア広場5番地、更にサンタ・マリーア・ノヴェッラ広場1番地。ボーイトは彼女にとって、友人であり、恋人であり、師であった。彼にとって、ドゥーゼとは劇場が文化となり、十全に自覚する大女優であった。

しかし彼の前に、彼女にはジャチンタ・ペッツァーナという偉大なる師があった。彼女は独創性豊かな、あらゆる事に関心を抱くマッツィーニ主義者で、男女同権論者だった。彼女は近代劇の1800年代型の主役というものを、新しい役柄として理解し、また19世紀初頭のヴェリスタとして彼女を指導した。エレオノーラはその教えを深く吸収した。土地は肥沃だったのである。その見習い期間、早熟で、実り豊かなものだったのだから。

1870年12歳の時、病気の母とペッリコの『フランチェスカ・ダ・リーミニ(Francesca da Rimini)』と、マレンコの『ピーア・デ・トロメーイ(Pia de' Tolomei)』の主役を交替した。以後1873年には、父の劇団で安定して役を演じていたが、2年後ペッツァーナ=ブルネッティ劇団に2番手の役柄で移動し、1878年(20歳)までチョッティ=ベッリ=ブラーネス劇団でプリマの役で演じた。

しかし彼女は満足していなかった。1 年後ジャチンタ・ペッツァーナと一つの劇団を立ち上げ、1879年ナーポリのフィオレンティーニ劇場で、ゾラの『テレーズ・ラカン(Teresa Raquin)』で大成功を収めた。その時以来、彼女の成功は数え切れない。その時代の最も偉大な女優として、サラ・ベルナール(Sarah Bernhardt)と共に考えるのは当然である。

1889年エジプト巡業と共に世界的な巡業を開始し、ドゥーゼは全ヨーロッパ、ロシア、3度は合衆国へと渡った。それに先立って、1885年チェーザレ・ロッスィ劇団と南アメリカへの巡業があった。帰国して夫と別れ、ローマ市のドランマーティカ劇団をフラーヴィオ・アンドと共に立ち上げ、座長となった。」 (4に続く)
  1. 2016/09/08(木) 00:03:10|
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ヴェネツィアのレガータ・ストーリカ(歴史的レガッタ)

9月最初の日曜日には、恒例のレガータ・ストーリカがあります。昨日の新聞La Nuova紙は、次のような記事を掲載しています。
ルーディとイゴール「 レガータ・ストーリカ、ライヴァルなしのルーディXイゴール組、14回目の勝利、記録
――サンテラズモの従兄弟同士は、常に先頭を切った。一方、櫂漕の女王はアンナ・マーオXロミーナ・アルティットゥが9回目の勝利。6人漕はジュデッカ島の紫のカオルリーナ舟が写真判定で。若者組はマラゴーンXヴェッキアート組――

それは誰にもないこと。ルーディとイゴール・ヴィニョット組は終始、他を凌駕。青のゴンドリーノ舟はレガータ・ストーリカの歴史を作り、14回目の真紅の優勝旗を得た。2番手はベルトルディーニXヴィアネッロ組、アンジェリーンXバルザーギ組、オルティカXアッレグレット組と続いた。

《俺達はやった! ゴールに届かないと思われた。何年もその準備をしてきたが、その努力が報われた。》とイゴールは語る。肩にフラシ天布の小猿のワッペン。《2009年に娘が呉れたんだ。俺達はいつもうまくやってきたんだ。》ルーディは語る。……」
アンナとロミーナチームマラゴーンとヴェッキアート
最終戦のゴンドリーノ舟の戦いは、かつてその判定等で揉めたことが幾度かあり、市長さんが匙を投げたこともありましたが、今年度は勝利チームが終始リードを奪って優勝し、レガータ・ストーリカ史に奇麗な歴史を刻んだようです。
  1. 2016/09/06(火) 16:30:30|
  2. ヴェネツィアの行事
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エレオノーラ・ドゥーゼ(2)

(続き)
「バルバロ館から僅か2m強離れてダーリオ館があるが、この不幸な館はラウール・ガルディーニの最近の不幸を含む、不吉な呪いが罹ったのか、多くの不運の痕跡を示して、深刻であると言われている。
ブルーノ・ロザーダ『ヴェネツィア女――愛とその価値』ここ数年ダーリオ館には、ラ・ボーム公夫人が住んで、知的友人達との小さな社交場を開いていた。そこにダンヌンツィオが彼の翻訳者ジョルジュ・エレルに連れて来られた。このサロンに足繁く通う友人達には事欠かなかった。例えば、アンジェロ・コンティ、当時ヴェネツィアの国立レジエ絵画館の館長に任命されたミスティクス医師、スペインの変幻自在の画家で舞台美術家のマリアーノ・フォルトゥーニ、そしてマリウス・ピクトール、即ちダンヌンツィオが定義を下したように“風変わりな聖なる画家”のマーリオ・デ・マリーアである。彼にジュデッカ島にオリジナルとなるデーイ・トレ・オーチ館が建てられ、そこからサン・マルコ湾が望めた。そして時にヴェネツィアにいる時、ドゥーゼもそこに出かけなければならなかった。

ある人が、正確に言えば大監督ラインハルトの事だが、家の門(水門の事)近くで不眠で夜遊びしている二人、ダンヌンツィオとドゥーゼのヴェネツィアでの偶然の出会いについて語っている。2艘の別の船で来て、同じ場所で船を降りたに違いない。ラインハルトは書いている。《彼女は彼を知っていた。彼は彼女に近付いた。そして一緒にヴェネツィアの夜明けの中、歩いていった。》

ロマンティックなことだ! 誰に分かろうか? 真実だったかも知れない。二人の間で愛について語られたかも知れないのは確かである。10年前のローマでの束の間の、儀礼的な出会いではなく、1894年の黄金色に紅葉した秋に、ここヴェネツィアで生まれた。

この愛の推移に従うことは、彼と彼女をより理解する助けとなる。そしてガブリエーレとエレオノーラの書簡が、劇作家の姉妹で、友人のテレーザ・ジャコーザに処分を頼んだエレオノーラ本人の意志で、消滅させられたのは真に残念である(否――言われているような事ではない――彼女の娘の意志だった)。

しかし、エレオノーラという存在をガブリエーレ・ダンヌンツィオとの関係で貶めることはない。彼女は偉大な女優であったし、あの伝説的な最初の出会いの時、詩人が幸運な直観で彼女を定義したように、偉大なるアマチュアでもあった。そしてもし、生き生きとした、色々な感情生活を送られたなら、自分の芸術のためにその恋愛体験を利用することが出来た筈である。

地味な役者テバルド・ケッキとの結婚後、1882年には娘エンリケッタが生まれた(彼女はイギリスの大学教授と結婚することになる)が、若い役者フラーヴィオ・アンドと短期間関係を持った。
メフィストーフェレメフィストーフェレ 2[左、オペラ『メフィストーフェレ』CD、右、その役柄] しかし1884年詩人で音楽家のアッリーゴ・ボーイトと結ばれた。文化的な広がりと深さを兼ね備えた男である。彼は音楽台本『メフィストーフェレ』の作家で、ジュゼッペ・ヴェルディの数多くのオペラ台本『オテッロ』『ファルスタッフ』の著者であったが、中でもミラーノ蓬髪主義運動の状況の中で、関係文書が沢山あり、それは1800年代末のイタリア文化の最も活発で創造的なマニフェストと考えられる。

ボーイトは彼女のために、ウィリアム・シェイクスピアの『アントニーとクレオパトラ(Antonio e Cleopatra)』を脚色したが、それはミラーノのマンゾーニ劇場で、1888年11月22日上演された。

そして少しずつエレオノーラの脚本とレパートリーが増え、またジュゼッペ・ジャコーザの演劇台本も増えていった。ジャコーザはボーイトの大親友であったし、ドゥーゼの親友でもあった。」 (3に続く)

ボーイトについては、2010.03.27日のカミッロ・ボーイトでも触れました。
ジュゼッペ・ジャコーザはプッチーニの『ラ・ボエーム』や『蝶々夫人』等の台本を書いた作家です。
  1. 2016/09/01(木) 00:02:08|
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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