イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィア街案内(7)

ヴェネツィアの語学学校通学時、ヴェネツィアの街歩きに興味があるなら、お薦めの本があるよ、と言われ紹介された、先生ご推薦の本、Guido Fuga-Lele Vianello著『Corto Sconto―itinerari fantastici e nascosti di Corto Maltese a Venezia』(LIZARD edizioni、1997)を以前紹介しました。その第二弾を紹介してみます。
Corto Scontoサン・マルコ中心案内「 サン・ザッカリーア停留所で1番線から下船
古くから続くホテル・ダニエーリの前で下船する。ここに沢山の人物が宿泊したが、その中にはチャールズ・ディッケンズやジョルジュ・サンド、バルザック、マルセル・プルースト等がいる。壮麗なホールにはエレガントで魅力に溢れたバールがあって、Prattもここで寛ぐのを愛した。

ホテル脇の橋を渡り、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の銅像の前に立つと、天に向かって剣を振りかざしている: ヴェネツィアでは“impiracolombi(鳩も鼻に引っ掛けない)”と囁かれている。

左へ踵を返して、小さな軒下通り(ソトポルテゴsottoportico)を抜けると、15世紀のサン・ザッカリーア教会の美しいファサードの前に至る。最初の建物は9世紀に遡り、10~11世紀に手が加えられた。現実の建物は建築家ガンベッロの作品で、マーウロ・コドゥッチがゴシックとルネサンス様式の美しい混交で最終仕上げをした。

この教会には、他に聖ザカリーアスと聖アタナシウスの聖遺物が保管されており、正に興味深い、古いクリプタ(10~11世紀)はサン・タラーズィオ礼拝堂の下にある隣接の修道院と通じている。

教会内部の左側面には、ジョヴァンニ・ベッリーニの素晴らしい祭壇画がある。1506年かの有名なアルブレヒト・デューラーはこの絵を見て、ヴェネツィアから友人に手紙を書き、ヴェネツィアの画家誰一人として、当時75歳だった“ジャンベッリーニ”のように矍鑠とした老人であると誇れる者は皆無であると断言した。

ここを訪れた後は、教会を後にして我らが辿るべきルートに従おう。軒下通りを潜り、サン・プローヴォロ(S.Provolo)橋へ直行。それを渡橋すると直ぐ左に居酒屋“リヴェッタ”がある。Pratt に愛された所。サンティ・フィリッポ・エ・ジャーコモ(S.S.Filippo e Giacomo)広場に入ると、右手にまた美味しい居酒屋“ラッチュゲータ”がある。

左手には2軒の店の間に、小さな通り(calle)が覗き、ロザーリオ小広場(Corte del Rosario)に通じる。ここには戸の上方に隠れたように、14世紀の悪巧みに長けたような小さなドラゴンの浮き彫りがある。更に我々の案内に従って先へ行き、サンタポッローニア通り(Rugheta S. Apollonia)から同名の運河通りへと左へ道を取り、直ぐ前の門の中へ入る。

ここは町で唯一のローマ様式の例であり、12世紀のベネディクト派の素晴らしい中庭がある。壁面に沿って建築で使われた大理石片の収集物が置かれている。ここでCorto は喧騒を離れて、遠くから聞こえる響きを耳にしながら、隠遁的な時間を楽しんだ。

井戸の周りの今や無用となった初期キリスト教時代の格子模様に囲われた、この調和的な高価な宝石のような一角を後にして、運河通りへ向かおう。カノーニカ(Canonica)橋を渡る時、左手向こうにソスピーリ(溜息)橋が望まれる。総督宮殿とセレニッスィマの牢獄間の中空を渡る有名な渡り廊下である。

橋を進行方向に渡るのではなく、左手の大きな門に入ってみよう。ここも、また別の、町の秘められたコーナーである。15世紀の聖テオドールスの小さな教会があった。かつてファサードは完全にフレスコ画で覆われ、教皇庁の検邪聖省(異端審問所)の在所だった。煉瓦造りのサン・マルコ寺院後陣、特に補強用の扶壁に打ち込まれた各片は素晴らしい。それは寺院修復中に発見された物で、色々のスタイルの物、時代も11~16世紀に渡り、建築的な大きなコラージュ風の装飾のように配置されていた。

カノーニカ運河通りを行くと、レオーニ(Leoni)小広場に通じる通りに出る。そこにはサン・マルコ寺院の前にビヤホール“アイ・レオンチーニ”があり、1920年代ファシスト達の溜まり場だった。 
サン・マルコ広場サン・マルコ寺院は、寺院全体に張り巡らされたモザイクの黄金の輝きに包まれ、三次元的なイコンがその広がりを与えている。床は素晴らしいものであり、またとない素晴らしいパーラ・ドーロ、夥しい聖遺物のコレクション、宝玉類があり、そしてクリプタでは、歴史を思い起こすため、暫し立ち止まろう。

このクリプタには1094年聖マルコの遺骸が置かれた。それは828年、ヴェネツィア商人ブオーノ・ディ・マラモッコとルースティコ・ディ・トルチェッロの二人がエジプトのアレクサンドリアから持ち帰った物である。ある僧院から掠め取り、豚肉の荷の下に隠し、イスラム教徒のチェックを逃れた。更に福音書記聖人の下に隠した物は、ソロモン王の鎖骨やソロモンとシバの女王の宝物を見付け出す秘密の扉を示す神秘の呪文が彫り込まれた魔法のエメラルド宝玉があった。

904年パレルモのサウド・ハルラは最高に高価なエメラルドを自分の物にすることが出来た。それをヴェネツィアのどこかに隠したが、マドンナ・デッロルトかサン・マウチリアーンかサン・マルツィアーレのどこからしい。 ……」 (続く)
[Saud Khalula di Palermoとは?: このアラブ風の名前はスィチーリアに長く君臨したアラブ人の子孫を意味し、漫画家ウーゴ・プラットのシリーズ漫画の中のヴェネツィア篇に登場するキャラクターということでしょうか]
  1. 2016/10/27(木) 00:02:29|
  2. ヴェネツィアの街
  3. | コメント:0

ヴェネツィアの喫茶店: メネガッツォ(Menegazzo)

G. Nissati著『ヴェネツィア歴史奇聞』(Filippi Editore Venezia、1897)から以前にも火事や氷結、飢饉等の面白話を紹介しましたが、今回は喫茶店話です。以前2009.10.10日のゴルドーニ(3)でも紹介した、カッフェ・メネガッツォについてです。
『ヴェネツィア奇聞』「かなり太った男で、メーニコとかいう名の男に経営されていたので、こんな風に呼ばれていたカッフェ。そしてバレッテーリ橋に向かって右側、メルチェリーア・ディ・サン・ジュリアーノ(サン・ズリアーン教会の事)通りの始まる場所に開店しており、ピオヴァーン小広場、現在のサン・ジュリアーノ(サン・ズリアーン)小広場に向かって裏の出入り口があった。

そこには何人かの文学者達、元老院議員ダニエーレ・ファルセッティ、辛辣なバレッティ、ビアージョ・スキアーヴォ・ダ・エステ司祭、レオナルド・マルチェッロット司祭らには利用し甲斐のある場所だった。しかしここの大評判は、その喫茶店にグラネッレスキ・アカデミーが置かれたからであった。次に記すようなことがあった。

1747年サン・ドメーニコ・ディ・カステッロ修道院で、ダニエーレ・ファルセッティとその友人達は、かなり頭のおかしい司祭ジュゼッペ・サッケッラーリの語る聖ヴィンチェンツォ・フェッレーリについての馬鹿馬鹿しい説教を聞き、この人物の持つ“知識”と冗談半分に契約を結びたいと考え、《新しい文学アカデミーを設立したいと思っているのだが、もしご希望ならば、我々のいつもの溜まり場のカッフェ・メネガッツォまでご足労願えないか》と彼に伝えた。

司祭はそこに赴き、喜び勇んでもう一つの馬鹿な話を語った。そしてアカデミーが設立されると、それは片脚を上げると、2ヶの睾丸か小さな2個の玉の梟が看板に描かれているため、グラネッレスキ(granelleschi)と通称された。そこで早速サッケッラーリは“アルチグラネッローネ(Arcigranellone)”の肩書でそのアカデミーの会長に選出された。冗談半分で生まれたこのアカデミーは、ガースパレ・ゴッズィ等の作品を発表したり、強化発展活動に素早く動いた。そして特にイタリア語を破壊しようとするものに立ちはだかり、イタリア語を守り続けた。1761年にはアカデミーは終わった。

カッフェ・メネガッツォの他の評判には、バレッティと司祭ビアージョ・スキアーヴォ・ダ・エステ間の文学的口論等の話に満ち溢れている。数年前、バレッティはあるかなり平凡な修道女に一篇のソネットを書いた。その詩がスキアーヴォの手に落ち、彼はそれを下手な、それも少々無礼なソネット一篇を添付して、無署名の手紙で送付した。

バレッティには色々の状況証拠からその著者が誰か分かり、メネガッツォでスキアーヴォを見付けると、居合わせた人々の笑い者に貶めて、喫茶店から追い払った。

メネガッツォ喫茶店は、トロヴァトーレの看板でこの時代に再開したが、その寿命は短かった。1860年9月7日~8日の夜、火事が発生し、近くの商人は恐怖に駆られ、商品を近くのサン・ジュリアーノ教会(S. Zurianのこと)に避難させたが、教会は何日も聖務を行うことが出来なかった。」

喫茶店メネガッツォについては2009.10.10日のゴルドーニでも触れました。またイタリアのサイト“Altra Venezia”ではカッフェ・メネガッツォについて次のような事を書いています。
地図-1地図下部に④のSan Zurian教会と教会前広場。Merceria通りを通って、リアルト橋方面に。
地図-2「メルチェリーア通りの始まるサン・ズリアーン教会傍の角の建物には、かつてカッフェ・メネガッツォがあった。その建物は持ち主のメーニコがずんぐりと肥満した体躯でこう呼ばれたが、愛想が良く、客対応のいい人柄だった。

この人々の溜まり場はヴェネツィア在住の有名人: ダニエーレ・ファルセッティ、カルロ・ゴルドーニ、ジャーコモ・カザノーヴァ、キアーリ師等が通ったので、特に有名だった。この喫茶店の一室でグラネッレスキ・アカデミーが誕生した。アカデミーの起源である。

ダニエーレ・ファルセッティと友人達は、サン・ドメーニコ修道院で聖ヴィンチェンツォ・フェッレーリについて馬鹿げた説教を聞いた。それは彼らがあまり利口でも知的でもないと思っているジュゼッペ・サッケラーリ司祭が語ったものだった。友人達はふざけて、彼らが設立しようとしているアカデミーに司祭を参加してくれるよう招き、彼にArcigranellone(極大玉玉ちゃん)の肩書で、最高代表者に就任してくれるよう提案した。

可哀想な司祭について、ファルセッティと友人達は冗談で、問題のアカデミーを設立することを決めていた。それはサッケッラーリの偽りの肩書を記憶に留めるべく、グラネッレスキという言い方だったのだった。その結果、看板としても片脚を上げ、玉玉を持ち上げている梟が選ばれた。

アカデミーにはカルロとガースパロのゴッズィ兄弟も参加した。モルメンティは語っている、《アッカデーミアは冗談の下に芸術や思考を損なう美辞麗句の誇張を修正し、増大する言語の不純化に対抗する高貴な意向を持っていたが、古いトスカーナの作家の気障な真似事ではあるかも知れないが、それを達成するには余りにも経立ち過ぎているかも知れない》と。

メネガッツォの店は1800年代まで続いたが、文学的カッフェの役割は今や終わった。1861年7月21日のチコーニャの日記が我々に思い出させるように、結局名前も“トラヴァトーレ”と変わった。」

2012.05.26日のブログダンドロ・ファルセッティ館で、アカデミーについて触れています。
  1. 2016/10/20(木) 00:03:08|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
  3. | コメント:0

ヴェネツィアの建物: ペーザロ館(2)

一方、R.ルッソ著『ヴェネツィアの館』(1998)は、カ・ペーザロについて次のような事を記しています。
ヴェネツィアの館「ヴェネツィア・バロックの傑作であるこの館は、今日近代美術館と東洋美術館が入館しており、東洋館の最初の中核はブルボン家のバルディ公エンリーコがアジア旅行中収集したコレクションで成り立っていた。

建築物は1558~1628年にペーザロが獲得した、隣接した中世の三つの館を統合した物で、1628年建築が始まった。設計はジョヴァンニとフランチェスコ・ペーザロがバルダッサッレ・ロンゲーナに依頼したが、彼は自分の設計案の完成を見ることはなかった。建築は1710年まで掛かり、完成時、建築家も発注者も数年前に亡くなっていた。

ペーザロ家はマルケ州の姓名と同名の町から13世紀頃、ヴェネツィアにやって来た。その地ではパルミエーリの姓で有名だった。ヴェネツィアではペーザロ・デル・カッロとして知られた。カッロ(carro)はブレンタ川からフジーナ近くのラグーナ(潟)までの彼ら所有の水運用船の意である。

一家の最も著名な人物の一人はヤーコポ・ペーザロで、1519年フラーリ教会に一家の大祭壇画を描いてくれるようにティツィアーノに依頼したことである。ヤーコポはキプロス島のパフォス(Paffo/Pafo a Cipro)の司教だったが、次いで教皇代理使節と教皇庁軍の将軍、更には対トルコとの戦に関わるヴェネツィア軍の総大将に任命された。

ジョヴァンニ・ペーザロもまた大運河の館の注文主であり、1643年のヴェネツィア軍の将軍だった(しかしこの時は、教皇庁軍に対抗するもの)。その時、個人の家からの略奪、絵画や芸術品の盗みを奨励したと言われている。彼を裁判に掛けるのが相当だとする声が高かった。

1658年、総督に選出された。コンクラーヴェの時その選出が決まり、ヴェネツィアでは一つの戯れ唄が町中で歌われた。《Viva el Pesaro dal caro/ Che xe sta in preson per laro/ E per ultima pazzia/ G'ha sposa' dona Maria.(ペーザロ・ダル・カーロさんよ、万歳だ/ あんたは盗っ人で獄門入りだった/ 最後の気違い沙汰は/ マリーアという女を嫁っ子にしたことだ)》

事実人々は、陰口を叩いていた。ルチーア・バルバリーゴの鰥夫(やもお)となり、一家の家政婦マリーア・サンタソフィーアとかいう女とお休みになっていた、とか。

しかしながらジョヴァンニの人生の浮沈は、彼の兄弟の荒々しく、流血を好む乱暴者のレオナルドに比べれば、左程驚くほどの事ではない。1601年2月28日、ミノット館での結婚披露宴で高級娼婦のルクレーツィア・バッリョーニの知られた恋人だったポーロ・リオーン閣下を殺害した。事件一ヶ月後、十人委員会はレオナルドの貴族身分と財産を没収し、永久追放に処した。15年間流罪にあり、1616年、100人の兵士を6ヶ月間召集し、武装させ、その維持費用を出すことを条件に帰国が許された。

一家の子孫の一人、フランチェスコ・ペーザロは、ナポレオンが使嗾したフランスとの協定を拒絶した人物として、歴史に名が残った。フランス側からヴェネツィアとの戦争を宣言し、結果共和国の滅亡に繋がった。

サン・スタエの分家の最後の一員であったピエートロはロンドンに移住し(一家のコレクションであった200点以上の絵画を売り払った)、1830年の彼の死後、カ・ペーザロは最初グラデニーゴの手に渡り、次いでヴェローナのベヴィラックァ公に、最終的には将軍ラ・マーザ公へ渡った。彼の妻は、ヴェネツィアの若き芸術家の展覧会を企画するために、ヴェネツィア市に財産を譲った。」
  1. 2016/10/13(木) 00:04:14|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
  3. | コメント:0

ヴェネツィアの建物: ペーザロ館(1)

ドナ館を更に右へ進むと、レ・ド・トッレ運河を挟んでペーザロ館があります。バルダッサッレ・ロンゲーナの傑作建築物だそうです。E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のように紹介しています。
カ・ペーザロ「ヴェネツィア・バロック期の最も壮大な建築物の一つである。そこは以前、サン・マルコ財務官(procuratore)レオナルド・モチェニーゴが3軒の建物を建てていた場所であり、当時の大建築家バルダッサッレ・ロンゲーナの案に委ねられた。  

建築は1652年に始まったが、ロンゲーナが1682年に死去したため、3階の着工のところで中断され、1710年アントーニオ・ガースパリの手で完成した。彼は運河に面した大変質素なファサードの提案もしている。

館はライオンの頭部で細かく飾られた腰羽目装飾とダイヤモンド先端の模様で、高く持ち上がった基礎部で威風堂々としている。その中央部には、1階の天井は生地仕上げの柱で支えられ、華麗なアンドローネ(玄関と階段の間の大広間)に通じる大門が二つ開けている。建物ぐるりに連続して続くバルコニーで目を引く2、3階は、窓のアーチから大きな開口部を持つ双柱の列の中に、マルチャーナ図書館の案を取り込んでいると思われる。

深い開口部と夥しい彫刻群は、基礎部の装飾案と相俟って、バロックに典型的な際立った明暗効果を上げている。オリジナルな装飾としてニコロ・バンビーニの『ペーザロ家の栄光』(1682)のキャンバス画が2階に残されている。

ペーザロ家は富裕で勢力ある一家であり、最初の出身地と同名のパルミエーリと呼称されており、1297年の大評議会の《セッラータ》でヴェネツィア貴族とされた程古くからヴェネツィアに移り住んでいた。

“海の”総大将、外交官、文学者そして総督ジョヴァンニ(1658~59)を輩出した。芸術や稀覯本の収集に情熱を傾けた元老院議員フランチェスコ(1740~99)は、カ(館)・ペーザロで生涯を過ごした。彼は共和国滅亡前、ナポレオンに談判しようとしたが、多分柔軟性と能力の使い分けを間違えた。それが為、古きヴェネツィア人は名を成しているのである。

その後、館はグラデニーゴの手に渡り、暫時アルメニア神父達に貸与された。結局は、総督夫人フェリーチタ・ベヴィラックァ・マーザの所有となり、1889年芸術使用を条件にコムーネ(市)に贈られた。
Elsa e Wanda Eleodori『大運河』(1993)こうして彼女の若き芸術家を支援するという名目で、建物が立ち上がっている。館内は今や、近現代美術館であり、ナルディ公に由来する東洋美術の素晴らしい収集がある。」
  1. 2016/10/06(木) 00:03:42|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
  3. | コメント:0

ヴェネツィア室内合奏団(インテルプレティ・ヴェネツィアーニ)(5)とドイツ人商館

本日、伊文化会館アニェッリ・ホールでの、ヴェネツィア室内合奏団のマチネ・コンサートを聴きに行ってきました。彼らの来日コンサートは何度目になるのでしょうか。イ・ムジチを遥かに越していることでしょう。来年でインテルプレティ・ヴェネツィアーニ合奏団を結成して30年記念(1987年結成)となるそうです。
ヴェネツィア室内合奏団 1ヴェネツィア室内合奏団 2ヴェネツィア室内合奏団 3私がこのグループを初めて聞いたのは、1994年サント・ステーファノ教会ででした。1996年にはサン・サムエーレ教会で聴き、2000年にリアルトのサン・バルトロメーオ教会でチェロ奏者のダーヴィデさんと口を利くようになるまでは、ヴェネツィアの色々な楽団を聴きまくっていました。私にとって、フリードリヒ・ニーチェが言うように、ヴェネツィアとは音楽の代名詞でした。

サン・ヴィダール教会に拠点が定まり、ダーヴィデさんは奥さんのクラウディアさん(彼女が教会に張り付いて、楽団の入場券やCDの販売等を一手に引き受けていました。団長コニョラートさんの妹さんだそうです)を紹介してくれ、座席等をいつも確保して頂いていました、愛息のマリアーノ君の誕生による引退までは。

インテルプレティ・ヴェネツィアーニ(ヴェネツィア室内合奏団)については、今まで次のように触れて来ました。2008.07.15日のインテルプレティ・ヴェネツィアーニ(1)から、インテルプレティ(2)インテルプレティ(3)インテルプレティ(4)と。今年は町田市民ホールとか銀座ヤマハホールとか5ヶ所での公演だそうです。
フォンテゴ・デイ・テデスキまた10月1日ヴェネツィアでは日本でも知られたヴェネットーンが、リアルト橋のフォンテゴ・デイ・テデスキ(旧郵便局)の内部を改造して店をオープンすることが、La Nuova紙で取り上げられていました。ヴェネツィアの新名所の誕生でしょうか。
追記: 10月2日の《La Nuova》紙からフォンダコ内部屋上からオープンした内部と屋上からの眺め
  1. 2016/10/01(土) 23:40:01|
  2. 音楽
  3. | コメント:0

カウンタ

カレンダー

09 | 2016/10 | 11
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -

プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

最近の記事+コメント

カテゴリー

ブログ内検索

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク

このブログをリンクに追加する

過去ログ

フリーエリア