イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィア街案内(11)

(続き)
「右の酷い近代建築(銀行)を過ぎ、広場を横断しよう。近くにElecta芸術出版があり、行止まりの路にはバール“Vitae(ヴィテ)”がある。かつては70年代の歴史的な場所“アル・ケルビーン”があったが。

教会の小広場へ、そしてヴェネツィアののらくら者達の神話的飲み屋“アル・ヴォルト”のあるカヴァッリ通り(Cl. Cavalli)へ進もう。そこにはPrattもしばしば訪れ、何か特別のワインを引っ掛けて、当然の如く近くのロッスィーニ劇場に向かう。老いた経営者カルボーンは、バッカスに捧げる、親しく飲み慣れた《果物の汁》の熱愛者だったが、各地方のワインをそれも念入りに選りすぐって1000種以上集めた。

当時美しい絵画としてのHugo Prattの『砂漠の蠍』という水彩画があった。今やこの絵はもはや見当たらない、所有者と多分正に特別の酒瓶と共に本土へ行ってしまった。しかし残りは全てそんな風に残って、この飲み屋はワインを愛するヴェネツィア人の心の中にあり続けている。

あなた方も楽しんだだろう。一杯のワインとチーズの塊等々の後は、ヴォルト軒下通り(Sotoportego del Volto)を通り、左の奥、更に右へ、ロッスィーニ映画館前の運河通りへ進もう。[ロッスィーニ映画館については、2012.11.17日のブログターナーで色々触れています]
旧ロッスィーニ劇場[ロッスィーニ劇場は現在スーパーマーケットに]  サン・ルーカ教会の前を通る。この教会には人生を思い通りに楽しく過ごしたピエートロ・アレティーノが埋葬されている。橋を渡って映画館前に出る。フェニーチェ劇場が出来る前、この劇場は町で最も重要な劇場だった。そして直ぐの軒下通りを潜り、最初を右へ行くと、大理石の浮彫のあるサンタンドレーア小広場(Corte S. Anndrea)に出る。古いレンガを敷き詰めた空間に大きく夾竹桃が成長して、中央に井桁がある。

更にテアートロ大通り(Salizada del Teatro)へ進むと、右のサン・ベネデット広場(Campo S. Beneto)に至り、1400年代のペーザロ館(P. Pesaro)がある。ここは大運河に建つ壮麗なペーザロ館に越す前の館で、アポッリネーアと通称されたオルフェーイ学会の在所で、音楽研究を深める団体だった(その後、アポッリネーア研究室と通称されてフェニーチェ劇場の研究室に越した)。

この住まいは1800年代末、グラナダからヴェネツィアに母親や姉妹とやって来たマリアーノ・フォルトゥーニ・イ・マドラソ[本名Maria' Fortuny i de Madrazo(1871.5.11~1949.5.3)カタルーニャ生れ]という素晴らしい多才の芸術家が手に入れた。この館の中庭の美しい階段を下りて、この興味津々の館を後にしよう。
フォルトゥーニ美術館中庭[フォルトゥーニ美術館、かつてはこの美しい中庭側が美術館入口でした]  右へ曲がり、直ぐに左のマンドラ埋立通り(Rio Tera' de la Mandola)へ。交差点まで行き、右へ行くのだが、その前にアッサシーニ埋立通り(Rio Tera' dei assassini)の入口に安い古本の素晴らし店ベルトーニ(Bertoni)があって、Prattもよく通ったことを思い起こそう。[ここで本2冊買った時、1冊は是非読んでもらいたいから進呈すると、1冊の本代だけ請求されたことがありました。]

アッサシーニ通りという名前は、昔、夜の闇の中で刺殺された可哀想な人の遺体が、朝方発見されるとかいうことがよくあったという事に由来する。そしてこうした暴行を思い止まらせ、闇の路を少しでも明るくしようと、当時小さな明りの点いた誓願の小さな祭壇が設置された。

1128年の布告によれば、政庁は犯罪者が自分の変装のために付ける、いわゆる“付け髭”を禁じた。ドイツ占領時代、この通りにはSSの将校がそんな理由から存在したのだった。“Assassini(殺し屋)”について、今日この名前の居酒屋がこの通りの奥にあるが、若者達の典型的な待ち合わせポイントであり、美味なワインが味わえる場所である。

サンタンジェロ広場へ向かって我らが道を進もう。橋の手前、右に行くと奇想天外な名前で呼ばれる、広場を回る通りがある。いわば法則のようなもの、“Calle va in Campo(道は広場へ通じる)”という通り名。

前の橋の脇にサント・ステーファノ修道院の中庭の大門があり、その上に聖アウグスティヌスと付き従う修道士達を彫った、非常に美しいポリクロミーの大理石の浮彫がある。

フラーティ橋(ponte dei Frati)を越え、フラーティ通りを進み、右へ曲がって直ぐ左の数段の石段を上がると、ノーヴォ・オ・デイ・モルティ小広場(Campiello Novo o dei Morti)に入る。実はここは古くは墓地であった。ナポレオン到来前は、死者は教会やそこに隣接した、どこにでも埋葬された。

更に進み、ボッテーゲ通り(Cl. Boteghe)を右へ行くと、左にエレガントな靴の浮彫がある。それはここにドイツの靴職人の家があったことを示しており、有名なサン・サムエーレの“靴職人(calegheri)”のことである。その浮彫はPrattの友人、イギリスの画家ハンフリー・ジョフリー(Humphry Geoffrey)のアート・ギャラリーである建物の上にある。[かつて靴職人は“El calegher(靴直し)”と呼び売りする連雀だったとマルチェッロ伯爵はTVで語っておられました。]

左へ曲がり、サン・サムエーレ大通り(Salizada S. Samuele)を進み、モチェニーゴ通り(Cl. Mocenigo)まで来ると、バイロン卿が住んだモチェニーゴ館へ通じる。そしてヴェロネーゼと通称されたパーオロ・カリアーリが住んだ家がある。
[旧モチェニーゴ館のアパートを借りて語学校に通学した時、この辺りはよく歩いたので懐かしいです。ヴェロネーゼの家の碑には《Paolo Veronese/ pittore sovrano di Venezia/ trionfante maestro immortale/ per mutare di secoli dimoro'/ lungamente in questa casa e vi/ mori' il XIX APRILE MDLXXXVIII.(ヴェネツィアの最高の画家パーオロ・ヴェロネーゼは、その後の世紀を変えるほどの大成功を収めたマエーストロだった。この家に住み続け、1588年4月19日ここで死んだ)》とありました。]

この地域のムネーゲ通り(Cl. Muneghe)にはかつて淫売宿が多く、その一帯は娼婦が溢れていたという。右へ行き、カロッツェ通り(Cl. Carozze)へ入り、どん詰まりの大運河まで行くと、展覧会にとっても重要である、グラッスィ館が聳えている。しかしより魅了されるのは、未だに手垢に染まることなく、我々の前に姿を現す、12世紀のサン・サムエーレの小さな鐘楼である。
カザノーヴァの碑教会をぐるりと回り、マリピエーロ大通り(Salizada da Malipiero)を行き、直ぐ右のマリピエーロ通りへ入る。ここでジャーコモ・カザノーヴァ(1725~1798)は生まれた。このLigne(人の行くべき道?)の王は書いた。《あらゆる事物事柄を愛し、欲した。全てを手に入れた後は、何も無しで済ますことが出来ることを学んだ。》 ……」 (続く)
[カザノーヴァについては、2009.07.04日のカザノーヴァ(1)で触れました。]
  1. 2016/11/24(木) 00:45:53|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィア街案内(10)

(続き)
「この美しい17世紀の小さなボンボン入れのような場所を後にし、サン・マルコの方向、バラッテーリ(Bareteri)橋へ戻ろう。このメルチェリーア(Marzaria)通り、フーゴ・プラット(Hugo Pratt)(ヴェネツィアの友人達の古いグループをそう呼ぶ習慣があったのだが、McPratt司令官のhalabardiersに属していた一人であった)の少年時代の旧友ジルベルト・ファビアーノの宝石店(そこには楽しかった思い出、当時の紙不足を記録する、両側にインド人の最も初期のデッサンを満載した頁が貴重に保管されている)の傍を通ろう。
アルメーニ軒下通りかつてそこでは何でも目にすることが出来、欲しい物が何でも見付かったメルチェリーア通りを行こう。直ぐに右へ曲がり、フェラーリ(Ferali)橋を渡る。その後数歩で再び右にアルメーニ軒下通り(Sotoportego dei Almeni)がある。そこに1600年代の小さな宝石が潜んでいる。二つの十字架とアルメニア語の文字のある大扉。サンタ・クローチェ・デッリ・アルメーニの美しい小さな教会がここに隠れている証しである。前室には小さな墓地があり、穹窿内部には魅惑的な満天の星がある。

この扉が開く時に出会うのは非常に難しい。確かなのは、日曜朝11.15分アルメニア式典礼のミサが執り行われる時間。間違えないように、町の隠された美しさを見るのはミサが終わるのを待つ事。軒下通りを出て、ファッブリ通り(Cl. dei Fabbri)との交差点まで左へコロンネ埋立て通り(Rio Tara' delle Colonne)を行こう。服飾店の所で曲がり、再び右へ。ここからアルメニア教会の鐘楼を望むことが出来る。

道どん詰まりまで行くと、正に井桁の中でも唯一風変わりな、15世紀の井桁にぶつかる。籐の大きな蔓で作られた籠のようである。その特異性、しかし非常に美しく、ヴェネツィア警察の在所は知っている、更にこのグレゴリアーナ小広場の名も知るヴェネツィア人の大半も気付かないものである。
井桁サイレンの浮彫[左、グレゴリアーナ小広場の井桁、右、魚を手にするサイレン像] 路を進もう。辻の角の後、右の壁面に13世紀の美しい酒盃が幾つか嵌め込まれている。中でも本当に不思議な物は、サイレン(sirena)が魚を手にし、鳥の脚で、鶴の頭をした尾っぽの像である。

ファッブリ通りへ戻り、右へ曲がって四辻を越え、次の最初の右のサン・ガッロ通り(Cl. S. Gallo)へ折れる。そのまま右の通りを進み、トローン橋(Ponte Tron)を渡るとゴンドラ用の小さなオルセーオロ・ゴンドラ溜まり(Orseolo bacino)がその向こうに見えるオルセーオロ運河を越える。この風景は『ヴェネツィアの童話』の中にも描かれている。

左手の碑がここにコーヒー店主フランチェスコーニ(フロリアーン)の家があったと語っている。彼はこの家で亡くなったカノーヴァを自家に招いたのだった。橋を降りてそのままフレッツェリーア通り(Cl. Frezzeria)と交差する所まで進む。フレッツェリーアの名前はこの通りで矢(freccia――vicus sagittarius)を見ることが出来ることに由来している。

イギリス式の薬局1676番地の上階に織物商の家があり、そこにある期間バイロン卿が住んだ。彼は名もなき店主の美しい妻と愛の三角関係に陥った。この道は戦後陽気な女達の隠れ家、正確に言えば、成熟した若き婦人達の隠れ里となったのだった。
ダ・イーヴォ[ダ・イーヴォは運河から入店可能] 右へ曲がり、更に左へ曲がってフゼーリ通り(Ramo dei Fuseri)を進むと橋の手前、右にレストラン、ダ・イーヴォがあり、その直前はゲーテが泊まった館である。
[2010.09.04日のブログゲーテ(2)》でゲーテが宿泊した宿等について触れました。]

橋の向こう、丁度正反対の位置にレストラン、ダ・ゾルズィがある。かつてヴェネツィア人にとってこれは泡立った生クリームとホット・チョコレートの同義語だったが、現在はその場所は経営が変わってしまい、ヴェネツィア料理を作っている。先へ進み、左のコルテ・コッポ通り(Ramo di Corte Coppo)へ入り、同名の軒下通りを抜け、直ぐ右へ曲がると、別の軒下通りがあり、潜って行くとラ・ヴィーダ通り(Calle de la Vida o de le Locande)となる。道なりに左へ進むと次の道がマルテーゼ小広場(Corte del Maltese、現在はCorte Contarini del Bovolo)に通じる。

1800年代初期コンタリーニ館はアルノルド・マルセイユによって貸し出されたが、彼は“イル・マルテーゼ”という宿屋を開き、この小広場の古い名前はそこから来ている。しかし我々をここに引き付けるこの愛称の楽しい親密な響きは別にしても、我々が訪れる主たる理由は、この小さな小広場に隠れた、貴重な素晴らしい螺旋階段のためである。
コンタリーニ・ボーヴォロボーヴォロ(Bovolo螺旋の意)階段には、1400年代終わりのルネサンスの面影がある。しかしビザンティンの魅力的な影響もある。基礎部には小さな庭があり、11世紀ビザンティン風の幾つかの井桁のような建築的要素を備えた石の片塊が置かれている。

左へ曲がって、マニーン広場まで行こう。ここにはこの町で、恐ろしく酷い近代建築である銀行が建っている。その銀行が建っている場所に、アルド・マヌーツィオのアルディーナ・アカデミーがあった。マニーンの銅像の傍近く、今では無くなったサン・パテルニアーン教会や建物があったことを示す碑が、地面に埋め込まれている。ここは町の激しい変化を真面に受けた広場であった。 ……」 (続く)

[2007.11.22日のブログマニーン広場と2007.12.13日のブログサン・パテルニアーン埋立て通りを参照して下さい。マニーンやマヌーツィオの碑(写真も)について触れています。現在はどうか分かりませんが、以前そこに居た人にお願いしたところ、この階段を登らせて頂きました。私は高所恐怖症で、同伴の家族が代わりに登りましたが。]
  1. 2016/11/17(木) 00:06:07|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィア街案内(9)

(続き)
「こうしてサン・マルコ地区を後にして、時計塔の下を潜り、最初の道を右へサン・マルコ大通り(Calle Larga S. Marco)、更に左の2番目の道を曲がり、スペキエーリ通り(Cl. del Spechieri)へ。その通りに最近マエストロに愛されたレストランがある、ド・フォルニ(ai Do Forni)。

ピッシーナ・サン・ズリアーン通り(Piscina S. Zuriian)、ここに通じる次の角まで道を進むと、左に小さな軒下通り、ルカテッロ小広場(Ct. Lucatello)に通じるプリモ・ルカテッロ軒下通り(Stp. primo Lucatello)がある。その広場には中央に小さくて魅力的な井桁と外階段がある。軒下通り上の2階のリドット、即ちカジーノ・ヴェニエール直前のバレテーリ橋(P. del Bareteri)を越えよう。

背後には橋の前に魚の目治療師エウジェーニオ・ジェーネロの療所があった。彼は詩人で足の専門医であり、ヴェネツィアの戦闘ファッシの設立者であった。Hugo Prattの叔父もそうであった。

カジーノ・ヴェニエールは、賭博が主たる仕事であった楽しい寄合所に貴族達を歓待する、こうした私的場所が1700年代どのようなものであったかの貴重な証拠を代表している。

こうした風俗が最大に普及した時代、1797年それは136ヶ所にも及び、同じ一家で夫が一軒、妻が一軒持ち、と正に社会的に顕著な傾向となっていた。結局賭け事に対する情熱が全社会階層に広がり、その流行を抑えるどんな禁令も功を奏さなかった。

各人自分なりの賭け事や危険性に対する嗜好があった。賭博は油の染みのように広がった。ヴェネツィアのどんな街角、広場、橋、路、教会の隠れた場所では聖職者や僧侶と結託して、と、どこにもある、個人の家、カジーン(賭博場)、倉庫(magazeni)、居酒屋、商店、店(furatole)、床屋の倉庫室、娼婦の居間であらゆる種の賭博が歓迎された。

こうして10以上の賭博が蔓延していた: picchetto(トランプ32枚でするゲーム。ヴェ語picheto)、biribissi(数合わせのゲーム、ヴェ語biribis)、zecchinetta(トランプ賭博の一種)、cressiman(ヴェ語。二人で戦われるカードゲーム、カードは各二つに分けられる)、bazzica(タロットカード・ゲーム)、slipe slape(ヴェ語。同信会等、多数で遊ぶカードゲーム)、meneghella(同信会等、多数で遊ぶカードゲーム、メネゲーラの強い札は剣の2の札。ヴェ語meneghela)、camuffo(古いカードゲーム)、gile alla greca(ジュコーネ(giucone)と似たカードゲーム、ヴェ語giule/gile)、tresette(4人2組のカードゲーム。ヴェ語tressete)、ombre(西語。3人でするスペイン到来のゲーム、ヴェ語rocolo)、tric trac(伊国の双六のようなもの)、bassetta(ヴェネツィア式タロットカード・ゲーム、ヴェ語basseta)、faraone(カードの賭博、人数に制限はなく一人が銀行になる。ヴェ語faraon―zogar a faraonファラオンで勝負する)。この最後のものは賭博者の情熱に火を点けたし、ヨーロッパの最初の公的カジノであった、この輝かしき状況の時代のリドットは、最初の賭場だったのである。そこはサン・マルコ近くのヴァッラレッソ通り(Calle Vallaresso)にあった。
グアルディ『リドット』.『ヴェネツィアのリドット』賭場の胴元[『ヴェネツィアのリドット』(左、フランチェスコ・グァルディ、中・右、ピエートロ・ロンギ)] セレニッスィマ共和国は1522年にロッテリーア(福引所)を作り、1638年リドット(賭博場のある休憩場)を許可した後、数世紀後、国の凋落傾向を知って、賭博の広がりから収入を増やそうとした。館内部は規則通りであるとはいえ、カーニヴァル・シーズン(当時6ヶ月続いた)は賭博が行われた。

胴元を務める人物は、貴族で鬘を被り、黒いトーガを纏い、仮面は身に着けていないが、客は逆に、正装している。我々は直ぐに想像出来るが、テーブルの周りにはあらゆる招待客が座っている、貴族、女衒、娼婦、外交官、高利貸し、他に誰あろう。今やヴェネツィアとカーニヴァルはヨーロッパの賭博と歓楽、欺瞞のシノニムになった。それ故、貴族達、冒険家、ペテン師達の各種のツアーのお気に入りの目的地となったのだった。

毎晩のように、全き幸運が瞬く間に懐に飛び込んだ。アルブレヒト・デューラーはそこで出会うヴェネツィア人と客について語っている、“……この地上で本当に悪意のある、嘘吐きで、不誠実な輩達”と。倫理的な衝動の中で共和国は1774年、こうした施設を閉鎖し、仮面の商人や旅籠屋の主の主張する各種の禁止保護令を立ち上げたが、この蔓延した熱狂を全く排除することは出来なかった。しかし雨後の筍のように増殖する個人のカジーンの内部に閉じ込めた。

これはロレンツォ・ダ・ポンテ、特にカザノーヴァのような人物には好まれたものである、カザノーヴァは彼の回想録の中で区々の場所やファラオーネ(faraon)で、成功を収めた賭場について記述している。
[賭博熱については、2014.02.19日のブログバウアー・グリュンバルトでも触れました。]

こうした賭け事やバッセッタ(basseta)について、オルテス師や経済学者チェーザレ・ベッカリーアのような啓蒙学者が胴元と客の間の勝ち負けの確率を分析している。ある点こうした賭け事に対する情熱は魔力の一つとして、他の物に向かうこともり、“ファラオーネ”は合衆国に移動し、“fara”の名前で、金採掘者の間で有り触れたものになった。

我々が訪れた、かの素晴らしきヴェニエールのリドットは17世紀の手付かずの魅力が保存されており、また3部屋の一つの部屋では角に置かれた戸棚が隠している秘密の通路は今や閉鎖されてしまたということは別にしても(そこからは玄関を通らず、出入りが出来る)、全ては同じように保存されているのである。床のタイルの下に隠された覗き穴が今でも残されている。そこから入館する階下の人を見張る事が出来る。

3部屋以外に、小サロンと一角の戸棚に隠された給仕用のワゴン通路で繋がる台所があり、そんな風に主人と使用人は分けられていた。 ……」 (続く)
[初めてヴェネツィアに行き、ゴルドーニの館を訪れた時、運河側のメインルームの床に覗き穴風の物があり、見下ろすと階下の運河からの玄関口が見下ろせ、ゴンドラで誰が訪れたか明確に分かるシステムになっている事を知りました。]
  1. 2016/11/10(木) 14:06:57|
  2. ヴェネツィアの街
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イタリアン・フェア: 大阪

昨日の新聞La Nuova紙に次のような記事が掲載されています。
マウリーツィオ「 日本での主役、ヴェネツィアの職人、マウリーツィオ・ロッテル氏のお話
――在日30年。ムラーノ・ガラスで真珠を製作。姉妹のコンステーロ氏は仮面職人。アットンブリ氏の首飾りも評判が高い――

大阪。イタリア祭のヴェネツィアの主役は今や30年前からの活動である。今年も日本の最も著名な商業センターである、梅田の阪急に呼ばれた。イタリア工芸品の最上の物を集める、イタリア祭の長老は、ヴェネツィア人マウリーツィオ・ロッテル氏である。彼はムラーノ・ガラスで、真珠や首飾りといった物を創造するために、大阪に彼のアートを持ち込んだ。

マウリーツィオは在日30年となり、2人の子供も大学を卒業し、2ヶ月毎にヴェネツィアに戻り、製作に必要な材料の探求に余念がない。大阪では、ヴェネツィア・カーニヴァルの仮面のデザインを教える、妹のコンスエーロ氏もいる。「毎日、私の創作ワークショップに行列が出来るんですよ」と、コンスエーロ氏は満足気に笑う。「この技術を学びたい人は多いんですよ」

イタリア祭ではまた別のヴェネツィア人ステーファノ・アットンブリ氏を紹介。氏はリアルトのアトリエで独特の首飾りを発表している。

大阪のイタリア祭は毎年何万という人を引き付けている。東京のICE責任者のアリスティーデ・マルテッリーニ氏とイタリア大使館初期の参事官ピエルルイージ・トロンベッタ氏の元に始まったのだった。」

阪急うめだ店では、11.02~08日までイタリアフェアをやっているそうです。今年は30年目、それが凄いです。
  1. 2016/11/06(日) 18:15:41|
  2. 行事
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ヴェネツィア街案内(8)

(続き)
「この比類なき寺院のアートリオ(柱廊玄関)に暫し足を留めて、頭を上げると、モザイクで描かれた古い“漫画”を目にすることが出来る。旧約聖書の一連の物語である。発見者によれば、フィンランドの研究者ティッカネンは大英博物館の木綿聖書の中にあった5~6世紀の初期キリスト教のミニチュアを正確に模写した、即ち、それはコンスタンティノープルの占領があった12世紀にはヴェネツィアの芸術に流れ込んだ、キリスト教の初期ルネサンス思潮の中での作品であった。

これらのモザイクは、創世記からアダムとイヴの誕生、カインとアベルの物語、ノアと大洪水の話、バベルの塔の建造、ヘブライ民族の始祖アブラハムと、ヤコブとラケルの子ヨゼフの物語を語っている。こうした作品群の第一群は、バジリカ寺院の最初の装飾である。
モザイク画聖マルコ寺院の4頭のブロンズ馬[左、サン・マルコ寺院入口のフレスコ画、サイトから借用。聖マルコの遺体をアレクサンドリアから持ち出す時の模様] 狭い急な階段を上ると馬のロッジェッタに着く。内部には何年も前から、修復された素晴らしい動物が保管されている。外には魂の抜けたそのコピーだけが置かれている。この四頭立て二輪馬車用の馬は、元々金箔で覆われていた。総督エンリーコ・ダンドロが第4次十字軍(1204年)の時の戦利品として、コンスタンティノープルから、その他の物と一緒に手に入れた物だった。

事実ビザンツから到来した、この寺院の区々の物は多岐に渡るが、建物全体を通してオリエントの面影が、寺院に連続的に手が加えられたにも拘わらず、瑕疵を受けることもなく、イスタンブールのサンタ・ソフィア教会との親族的類似性を明白に示している。

既に示唆したように、コルトの愛した第2の扉口の列柱からは、1400年代の帆船の航跡が、残念ながら寺院の遥か彼方へ姿を消した。寺院内部の最近の柵組のため、中央身廊左の小祭壇の赤い大理石の筋模様に潜む小悪魔の姿を見ることも同じように不可能である。

正に時の旅といえるこのモニュメントを後にして、素晴らしい全体像を観覧するために、長蛇の列もなく、雲一片とてなく天晴朗なれば、第一になすべきは、鐘楼に昇り、その高みからヴェネツィアを賞賛することである(更に魅力的展望は、直前の島サン・ジョルジョ島の鐘楼からのそれである)。

プラット(Pratt)はこの鐘楼が好きではなかった。これは1902年7月14日朝10時崩れ落ちたものを再建した物で、以前のスリムな物に比べて、ひどくずんぐりした物と思われたからである。その上これは総督宮殿のサン・マルコ広場への出入口である布告門の景観を疵付けるものであると。

総大司教側にとっては、その考え方の方が良かったかも知れない。こうしてプラット(Platt)はこの場所に鐘楼のスケッチを描いている。

この広場はセレニッスィマ共和国の最高の素晴らしさの表現であり、その権力の中枢には、総督宮殿あり、時計塔あり、2本の石柱あり、サンソヴィーノ図書館あり、鐘楼のロッジェッタあり、新・旧 の行政館がある。現実の配置は、舗装や若干の手直しは別にしても、寺院正面にあったサン・ジェミニアーノ教会を、1807年ナポレオンがいわゆるナポレオン翼建築のため、解体したことがあった。
サン・ジェミニアーノ教会2本の柱のあるピアツェッタ[左、サン・ジェミニアーノ教会(カナレット画)、右、聖マルコと聖テオドールスの円柱(ターナー画)] モーロ岸壁に向いた2本の巨大な石柱の間で死刑が執行されたが、興味深いのは、この石柱は12世紀オリエントから運ばれた物で、元々3本だった。しかし陸揚げ作業中、1本がラグーナに沈み、引き上げる術がなかったため、2本は長い間陸地に放置されていた。その後木造の、最初のリアルト橋の建造者ニコロ・バラッティエーリとかいう人物が、問題を解決し、現に見るように、直立させることが出来た。バラッティエーリはその返礼に、この2本の柱の間で、街のその他の地域では禁じられていた賭博商売を営業する権利を得た。

ドージェ(総督)の館については、それについて一章を設ける価値があるが、内部の秘められた箇所の訪問を予約して赴くことがお勧めである。そうすれば、この輝かしい政庁の権力がいかに機能していたか少しは明らかになる: 拷問部屋、ボッシュの絵画、カザノーヴァが逃亡した鉛の牢獄。

長さ54mの大評議会会場の天井を支える梁の興味深い構造は、アルセナーレの工人達が実現したものである。この天井の全構造図は、日常の感覚が、マジックのように天地逆に引っ繰り返って見えることである。事実それは、地は無の空間であり、天は構造物に満ち満ちて。

最も興味深い収集品や豊富なコレクション(コッレール美術館、サンソヴィーノ図書館、考古学博物館等々)について唯一のお勧めは、各時代の物が収集され、保管されて、その時代に再度帰還することが出来ることであって、決して皮相的で無用な訪問にしないように、ということである。

結局コルト・マルテーゼも朝方にはここに舞い戻り、サン・マルコ図書館内部で提供される迷宮のような研究の中に迷い込むことであった。ここでは特筆すべき事の中に、ドメニコ会士フランチェスコ・コロンナの手になる『ヒュプネロトマキア・ポリフィーリ』やラテン語と伊語の混交体という貴重な言葉で書かれた『夢の中の愛の闘い』や1400年代末、アルド・マヌーツィオに印刷製本された物があるということである。
[アルド・マヌーツィオや『ヒュプネロトマキア・ポリフィーリ』について、2011.06.11日のヴェネツィアの印刷・出版等で触れました]
カッフェ「フロリアーン」このエリア、この寺院の中で我々は限りない表現の海原で迷い、自分を見失うかも知れない。しかしコルト・マルテーゼが選んだ少し特殊な、我らの基準を携えて進もう。他のガイドは我らには関係ない。既にして斯くなされたのだ。こうして我々はカッフェ・フロリアーンのオリエンタルな居心地のいい部屋で寛げる。美味のコーヒー一杯でリフレッシュの一時を楽しもう。

あまり公的とも言えず、少々軽薄でもある場所へ向けて、我らが道を辿ろう。ヴェニエール家の行政官夫人のリドット(集会場)である1700年代のあの素晴らしい溜まり場である。最近仏人に修復され、アリアンス・フランセーズ(Alliance Francaise)の本拠地となった。 ……」 (続く)
  1. 2016/11/03(木) 00:04:10|
  2. ヴェネツィアの街
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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