イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの観光客

La Nuova》紙に、ヴェネツィアのホテルでの各国旅行者の評価が、先日掲載されました。
裸体禁止[ヴェネツィアはリード島のような海浜ではないので、運河での泳ぎや地べたに座っての食事等も禁じられています] 
「 最低の観光客はイギリス人、日本人が最上
――ホテルの支配人や業界の専門家の意見を基に、旅行者の国民性から《ジェットコスト(Jetcost)》が分類。イタリア人は?――

最上なのはどこなのか? 取り分け、世界で最悪の旅行者は? 調査の原動力Jetcostが、主たる旅行者の良い点・悪い点を選び出した。世界中の最良・最悪の旅行者を決定するのは容易いことではない。調査を何度も繰り返したが、採用した基準によって結果が色々変わり、回答が非常に多様となる。何故ならプラスあるいはマイナスと考えられたことは種々に左右されるからである。

調査の原動力である www.jetcost.it は、最上の飛行便と一番安いホテルを選ぶ以上に、利用客に調査を行い、最近は客への対応態度やいつもの習慣に従って評価する基準を考えた。夏季ヴェネツィアの施設に滞在する観光客について、支配人や受付係、ホテル従業員に問い質した。

国民性を基に評価することを彼らに求めた。次の点である。礼儀・行儀の正しさ、問題となったその原因とは?、騒音・清潔さ・秩序、客室内での出来心による盗みとその損害、苦情(クレーム)、服装・身嗜み、土地の言葉への興味、食事への関心、文化程度。世界各国から来た旅行者が、自国の風俗習慣に基づいての行動態度、最上となるか最低となるかの結果は次の通りである。

最上国: ニッポン人=全く最高に礼儀正しい(educated教化された)人々である。適正な態度を常にする。非常に整理整頓されて、騒音をたてないし、ヘタな苦情を言わない。その上、客室を完全な状態にして立ち去る人々である。ホテル内で過ごすことが多いが、土地の文化に大変興味を示す人々。

2番手はスカンディナヴィアの人々=土地の言葉を敢えて使おうとするのは、多分誰もスウェーデン語もノルウェー語もデンマーク語も知らないから。彼らは優しく控え目。苦情を言ったり、問題を起こしたり、騒音をたてたりしない。サービスが自国に比して30%も安価なため、イタリアでは幸せな観光というものに興味があるのである。

オーストラリア人=土地の料理を味わうことに常に興味津々で、いつもそれに満足している。彼らの性格と多国籍的文化の持ち主故、各国の風俗習慣に直ぐ馴染むことの出来る旅行者である。非常に静かで、躾が行き届いていて(educated)、清潔である。

カナダ人=彼らの教育・躾程度、清潔感、存在のあり様は非常に評価される。静かで、普通あまり苦情など言ったりしない。しばしば大きな心付け(チップ)を置いて呉れる。土地の文化に興味津々の人々である。

ドイツ人=十分に慇懃な旅行者と考えられている。どこにでも赴くが、問題を引き起こすようなことはあまりない(ビールで酔っ払った時を別にしてだが。この点が良き旅行者リストの中でマイナスポイントとなる)。信頼するに足る人々なので、どこかで良い出会いがあれば、お互い好きになって再会のために戻って来るだろう。

最低国: 英国人=他言語は一切話さない、英語のみ。通常土地の食物、飲み物を取ることは好きではない。ただアルコールを飲むだけ。いつも苦情だらけで、無軌道で部屋を壊す。“最悪の服装・身嗜み”という分類リストの頂点にいる。チップは殆どしない。

2番手は仏国人=尊大で、ケチで、礼儀躾がなく、騒々しい上に汚らしい。自国語以外は話そうとしない。与えられている評価は、仏国がこれほど魅力に富む国故、外国へ行く必要はないので、他言語は学ぶ必要はない、としていること。しかしJetcostによれば、土地の文化や料理に興味を示しているという。

露国人=規律は守らないし、礼儀躾は悪い。服装のセンスは悪く、チップにはケチである。立食店では不作法(大喰らいで、時に皆の前で不愉快になる騒音をたてる)。その上バールやレストラン、プールのような公共の場で極めて大声で喋るのが際立っている。しかし良い点もあって、自分達のヴァカンスを過ごすのに共感があって、訪れた場所の文化や福祉には興味を示す。多くの観光客は来伊すれば、芸術的都市、美術館を愛で、ショッピングや温泉に駆けつける。

中国人=異常な行動態度をする人々である(パリ、ルーヴル美術館傍のポスターで、清朝時代の官吏を思い出してしまう、そんな所で禁じられている排泄行為をする人々なのである)。どこでも痰唾を吐き飛ばす、進入禁止のコードを跳び越える、土地の住民に対する知識は殆どない。しかしプラス面もあって、爆買いである。中国人観光客の82%は、旅行の目的がショッピングである。

米国人=Jetcostの分類ではトップではないが、普通世界で最悪の旅行者のトップと考えられている。考えが杓子定規で、礼を失する態度、非情に五月蠅く、服装の身嗜みが悪い。土地の料理に興味は無く(アメリカンレストランのチェイン店で通常は食べている)、文化的訪問(美術館等)はする気が無い。その上、ホテルの備品は持ち帰る物、と公言している。米国人の良い点は、チップが非常に鷹揚な点である。多分置いて行くのが義務的なお国柄故である。  

ところで伊国人=Jetcost調査による分類リストでの位置については、会社の広報課が言っている。《伊国人はそれほど悪くはない。最良と最悪の中間に位置している。長い間、国外で過ごすことが多い旅行者と考えられていた。色々物事が変化したが、特に食べ物のためにであった。土地の言葉を何か学ぼうとする。身嗜みが良ければ、訪問先の土地の習慣や文化や料理に興味を示す。しかし全てがプラスという訳ではない: 静かにしていない、しばしば礼儀的行動が悪い、チップに渋い、使った部屋は乱雑のまま立ち去るし、ある者はホテルの備品を記念に持ち去る悪徳旅行者である。》と。」
  1. 2016/12/29(木) 00:07:54|
  2. ヴェネツィアの宿
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文学に表れたヴェネツィア――メアリ・ホフマン

メアリ・ホフマン著『ストラヴァガンザ 仮面の都』(乾侑美子訳、小学館、2010念7月4日)という児童書を読んでみました。すらすら読めます。現実のヴェネツィアを“ベレッツァ”、イタリアを“タリア”と名付けた架空の国のお話です。《訳者あとがき》から引用してみます。
『ストラヴァガンザ』「遠くアドリア海をのぞむイタリア本土から船で、浅緑の波のゆれるラグーナを行くと、やがて波の向こうに丸い教会の屋根や尖塔が見え、きらめくような美しい町があらわれます。水の都とよばれるヴェネツィアです。

二十一世紀のロンドンに住む少年ルシアンは、ふと手にした手帳を持ってねむりにつき、気づいてみればこのヴェネツィアに来ていた――。ルシアンはそう思ったのですが、そこはヴェネツィアではなく、ヴェネツィアそっくりの、でも町のあちらこちらに魔法の力が働く都ベレッツァで、しかも時は十六世紀でした。不思議な手帳がルシアンに、時空をこえる旅をさせてくれたのです。

ラグーナに囲まれたベレッツァは、ヴェネツィアではないとはいえ、二つの都はそれぞれの歴史も、住む人々の気質も、風習も、建物や風景も、微妙に重なり合います。物語の中ではそれがおたがいにうつし合い、反射し合って、ちょうど、この物語に出てくる「ガラスの間」の幻影のように、どれが実像でどれが虚像なのか、すべてが夢のようにとけ合ってしまいそうな、不思議な世界が現出します。  

読者は現実と幻影の間を行ったり来たりするうち、いつの間にか魔法の世界に引きこまれてしまう――もしかすると、めまいにも似たこの不思議な感覚こそ、本書の最大の魅力かもしれません。

ベレッツァという都の美しさ、不思議さには、本書の中でふれていただくとして、ここでは、現実世界のヴェネツィアをちょっとのぞいてみたいと思います。

ヴェネツィアは水の都、波間にうかぶ夢の都、と人は言います。本土から少しはなれた島にある町、ではありません。ラグーナとよばれる干潟が多いとはいえ、まぎれもない海の中に、人の手で木の杭を無数に打ち込み、石を運んでつくりあげた町です。小さな島をいくつもつなぎ、島と島の間の水路を道がわりにして、大聖堂をつくり、館を建て、ここを拠点として地中海交易にのりだしました。

中世のある時期、ヴェネツィアは、ヨーロッパでもっとも栄えた都市の一つであり、商業だけでなく、学問や美術や文化の中心でもありました。裕福な商人たちが肩で風を切って歩いていたことだろうことは、シェークスピアの『ベニス(ヴェネツィア)の商人』の舞台になったことからもうかがえます。

中世のヨーロッパ社会は、いろいろな意味で、東方世界の影響を受けていました。交易品のほかにも、学問や文化や、そうしておそろしい病気までも、東からヨーロッパに入ってきました。その玄関口だったのが、ヴェネツィアです。ヴェネツィアは死のイメージの濃い町でもあります。夢の都ベレッツァでも、ペストの流行で住民の三分の一が亡くなっています。……」
  1. 2016/12/22(木) 00:10:41|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ヴェネツィア街案内(14)

(続き)
「大運河を背にして、ピオヴァーン通り(Cl. Piovan)を通り、左へ曲がってフェニーチェ劇場裏の運河へ向かう。水路からのアクセスを希望する観客のゴンドラ用の入場口が開いている[現在は舞台装置等の搬入口]。美しいカレゲーリ小広場(Cpl. dei Calegheri)への捩じれ橋(p. Storto)を渡り、右へ行き、カオトルタ橋(p. Caotorta)の手前を右へ曲がり、短い運河通りから魅惑に富んだ運河の辻の上に架かるクリストーフォロ橋(p. Cristoforo)を渡越し、軒下通り(Sotoportego)を潜り抜け、サン・ファンティーン広場(C. S. Fantin)に通じるラ・フェニーチェ通り(Cl. de la Fenice)を進む。
焼失したフェニーチェ劇場正面焼失したフェニーチェ劇場の、現在の裏口フェニーチェ劇場[火災により外壁のみ残る劇場正面と裏口。右、現在の正面] ここには、町でも最も著名な劇場、あの伝説的なフェニーチェ[fenice=phoenix]劇場がかつて屹立していた[焼失]が、再び聳立した。2度も焼失したが、最初は1836年12月[1年で再建・再開場を果たしました]、2度目は1996年1月[再開場2003.12.14日]。その名前に応報して不死鳥の如く、かつてのデザイン通りに灰の中から甦った。
[フェニーチェ劇場の出火については、2009.03.07日のカーニヴァルマーリブラン劇場等で触れました。]

教会の脇にはサンタ・マリーア・ジュスティーツィアとサン・ジェローラモの同信会が入っているサン・ファンティーン同信会館がある。死刑囚の救済活動に身を捧げ、死刑に付き添って精神的な慰めを与え、“安らかな死の同信会”あるいは“ピカーイ(絞首刑になった人)同信会”とも呼ばれた。現在はヴェーネト高等研究機関であるヴェネツィア文学科学アカデミーの在所である。内部の色々の作品群の中には、ティツィアーノの弟子、多作であったヤーコポ・パルマ・イル・ジョーヴァネ(1544~1628)の絵画があり、ティツィアーノ工房で共に目を見張る程の作品を量産した。

バール=リストランテ=ピッツェリーア=タバッケリーア=ジョルナーリ(タバコや新聞の販売とレストランとピッツァ屋もするバール)の“アル・テアートロ”が、アテナイオン高等研究機関の傍にある。
[フェニーチェ劇場右隣のこのバールのキャップ(capo)は以前はアンジェロさんでしたが、定年退職され、現在はファービオさんがキャップです。街歩きでトイレタイムになると、ここのトイレは最高に奇麗だったのとファービオさんが作ってくれるスプリッツは最高の味でよく立ち寄りました。白ワインとカンパリが1/3、1/3で、最後に炭酸水を器械で注ぎ、オリーブの串刺しが添えられます。ちょっとアルコール分が強く、この町で随一の味と私の評価です。摘みにカップ一杯のポテトチップスが無料サービスで付いてきます。2011.11.19日のスプリッツ・コン・ビッテルもご参考までに。]

この広場を後にして、カフェティエール通り(Cl.Cafetier)へ向かおう。軒下通りの左奥に、かつてPrattと彼の黄金時代の友人が通った“パーペロ・ダンシング”があった。右側にはヴェネツィアでも歴史的な場所“アンティーコ・マルティーニ”がある。1700年代後半には有名となったカッフェで、この通りと次の橋の名Cafetier(=伊語caffettiere喫茶店主)はこのカッフェから来ている。橋の袂には“ヴィーノ・ヴィーノ”がある。そこは隣の“マルティーニ”と繋がっているので、ワイン・リストを良く研究してほしい。乾杯だ!

橋の向こう、サルトール・ダ・ヴェステ通り(Cl.del Sartor da Veste)へ向かうと、3月22日通り(via XXII marzo)へ出る(1848年オーストリア人を追い出したこの日を思い起こそう)。通り(calle)や小路(calletto)で出来たこの町で、大通り(via)という格別の格式の通りであり、麗しの道(strada)である。沢山の銀行や株式会社があり、右の奥にはCorto Malteseに愛された古い印刷工房もある。
拡張された3月22日大通りの碑「碑文―市民の願いにより、1880年この道は拡張された。市長ダンテ・ディ・セレーゴ・アッリギエーリ」  [3月22日通り[Calle Larga XXII Marzoとも]については、2007.11.22日のブログダニエーレ・マニーンもご参照下さい。]

右へ曲がって、橋とバロックの教会サン・モイゼにぶつかると、はっきりと対照的で、大きな箱型の機能的スタイルのホテル、バウアー・グリュンヴァルトがある。しかしそれは壮麗なサルーテ教会の真向いで、大運河に面した広い庭と心地よいバールがある、全く悪くない!
サン・モイゼ教会ホテル・バウアー[左、サン・モイゼ教会と右のホテル・バウアー、その庭からサルーテ教会を望む]  右の教会を後にして、大通りを行き、右のヴァッラレッソ通り(Cl.Vallaresso)まで進む。神話的通り! ヨーロッパ初の賭場、1700年代のリドットがあった。“人間は労すること無き労働を発明した。即ち、賭場である”(フリードリヒ・ニーチェ)。道半ば左に、14世紀には既に旅籠ルーナだったホテル・ルーナがある。その先にアッシェンスィオーネ教会が隣接して、テンプラーリ修道院があった。

このぐるぐる経巡った道案内の最後のご褒美は、“ハリーズ・バー”であり、帰宅のためのヴァポレット乗り場[以前はヴァッラレッソという名だったがサン・マルコに変更]の直前、通り最奥にある。ここにはトルーマン・カポーティがそう呼んだ“銀の弾丸(Silver Bullet)”、辛口で氷を入れた、神話的な“マーティニー”、素晴らしいカクテルである“ベッリーニ”(この店のマスターの発明)で、夙に有名である。

皆が知っている“マーティニー・カクテル”は簡単で、イギリスのジンとドライ・マーティニーが三角形のグラスに調合される。マーティニーの量は好みによる。強くて辛口の好きな人は、マーティニーを更に加えたり、ワインで割ってシェイクしたり、マーティニーを止めて凍ったジンを入れたり、とか。それはヘミングウェイ方式が正しい。彼は言っている。冷やしたグラスに凍ったジンを注ぐ。数分マーティニー瓶の側に置いておいてから、飲む。これが胃袋に銀の如く突き刺さる真の"Silver Bullet"である。

ジュゼッペ・チプリアーニがここを開店し、その成功の処方箋は、贅沢と単純をいかに結び付けるかであった。『河を渡って木立の中へ』の場面設定のいくつかにここも利用したアーネスト・ヘミングウェイの友達でもあった。
[ヘミングウェイについては、2009.08.22日のヘミングウェイで触れました。]
ハリーズ・バー[ハリーズ・バール、サイトから借用] しかしここから更に甥達に書いた、短いお話を思い出したい。《優しいライオン》である。父親に会いたくてアフリカから戻ってきた翼のあるライオンの話である。父はサン・マルコ広場の円柱の上に居るのである。そして向かったのはハリーズ・バーのチプリアーニに会うためだった。」 (この章、終り)
  1. 2016/12/15(木) 00:02:27|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィア街案内(13)

(続き)
「橋を渡って直ぐ左にアルバニア同信会館があり、ファサードに同信会の守護聖人の浅浮彫がある。聖マウリティウス、聖処女、聖ガッルスである。更にアルバニアのシュコデル(Scutari)の城を見詰めるマホメットがある。アルバニア人達は以前はスキアヴォーニ海岸通り(Riva degli Schiavoni―Cl.degli Albanesi)近くのサンティ・フィリッポ・エ・ジャーコモ(SS.Filippo e Giacomo)地区に住んだ。そしてサン・セヴェーロ教会に参集するようになったが、セレニッスィマの承認の下、1400年代末頃、この同信会館を造ることが出来た。
アルバニア人同信会館サン・マウリーツィオ教会[左、元アルバニア同信会館。右、サン・マウリーツィオ教会(現在無料の楽器博物館)。左直前にベッラヴィーテ館が見えている] この建物の直前はベッラヴィーテ館で、広場に向いたファサードはヴェロネーゼがフレスコ画を描いたが、長い間に今やその痕跡も残っていない。この建物にジョルジョ・バッフォが住んだ。」
[2009.07.04日のブログカザノーヴァ(1)も参考までにご覧下さい.。この広場で定期的に骨董市が開かれます。]

ここで、このガイドにあるジョルジョ・バッフォについての紹介を訳してみます。
《――特異の好色詩人ジョルジョ・バッフォ(1694~1768)は、ヴェネツィア語で沢山の詩を書いた。その詩は彼の死後に友人達により収集出版された(『ヴェネツィア貴族ジョルジョ・バッフォの詩』(1771)).。事実よく知られていて、カフェで人々に朗誦された。それを読む事は、1700年代の絵画やその他の作品と違って、ヴェネツィアのデカダンスの尺度というものを示すのである。

正にそうした理由でカザノーヴァは熱い愛情で自分の回想録の中で、繰り返し『父の親友であり、偉大な才能の持ち主で、スキャンダルに富んだ詩人であったが、同様にその手の人物の中では独特であり、私をパードヴァの下宿屋に送る事を決めた。だから私の人生は、彼の決定に負っているのである。』

バッフォはヴェネツィア上級裁判所法廷である四十人法廷の一員であり、“処女の如く話し、サテュロスの如く書く”人物として記憶されている。以前の版によれば、ペンブローク卿(Lord Pembroke)の編集により、コンスタンティノープルで印刷出版された第2版がより詳細なものであったという。

伊国では未だよく知られていないが、この再発見は1911年仏訳し、詩の収集を出版した、詩人であり評論家のギヨーム・アポリネールに負うているのである。『バッフォの全作品は、生きる事、彼の特異の世紀に生きる事、水陸両棲の町で、ヨーロッパの中でも湿った女陰のような町であるヴェネツィアで生きる事の喜びを表している。』

バッフォは自分の先祖の中でも、チェチーリア・ヴェニエールを賞賛した。ヴィオランテ・バッフォの娘である。彼女は父母とコルフ島への旅の途中、トルコ人に誘拐された。奴隷としてコンスタンティノープルに連れて来られ、美貌故にフマカドゥナの名前でスルタン・アムラート3世のお気に入りとなった。皇帝の子を14人産み、一人が彼の後継者マホメット3世となり、彼女を大スルタンの母位に押し上げた。

ハーレムに住む母親達の陰謀でアムラートとの関係で厄介事に巻き込まれた時、ヘブライの占い師の助言も得ながら秘薬や魔術を用いて(あらゆる手を尽くして)、一番のお気に入り(Gran Favorita)の位置を再度構築したのだった、と。 …――》

「サン・マウリーツィオ広場を過ぎザーグリ通り(Cl.Zaguri)を通って橋を越えると、フェルトリーナ小広場(Campiello della Feltrina)に至る。ここには古い店(Piazzesi)があって手動印刷機刷りの美しいカードを売っている。この古い店主は亡くなり、取り分け数年前から町中に同じような店が開店し、日本の古い技術マーブル刷りのカードを作る工房がある。

次の橋を越すと、サンタ・マリーア・デル・ジーリョ・オ・ゾベニーゴ広場(Campo S. Maria del Giglio o Zobenigo)に至る。ここに建築家ジュゼッペ・サルディに設計されたゴシックの教会がある。11世紀の先行建築に代わって、それは1678~83年の間に作られた。
サンタ・マリーア・デル・ジーリョ実際この建物はバルバロ家によって建てられ、この家族の海上と政治家としての栄光を称えるが、暗い不吉な大モニュメントを持つファサードとして現されている。色々の人物の中には大門上の中央に、“海の将軍”アントーニオ・バルバロの像が際立つ。

更に船、ガレー船、甲冑一式、基礎部には町や要塞の地図の浮彫がある。ザダル(Zara―クロアティア)、イラクリオン(Candia―クレタ島)、パードヴァ、ローマ、コルフ(Corfu`―ギリシアのケルキラ島)、スプリト(Spalato―クロアティア)の地図である。内部には聖具室に美術品としてペーテル・パウル・ルーベンスの『聖母子と幼児聖ヨハネ』[ヴェネツィアにある唯一のルーベンス]がある。

広場奥にはゴンドラのトラゲット乗り場脇に現在ホテルのグリッティ館がある。ヴェツラー男爵の屋敷となったことがあり、『ヴェニスの石』の著者J.ラスキンが1851~52年招かれ滞在した。 ……」 (続く)
  1. 2016/12/08(木) 00:12:20|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィア街案内(12)

(続き)
「この直ぐ前方の軒下通りまで進もう。1800年代末にも、1655年グリマーニ家によって開場されたサン・サムエーレ劇場があった。カルロ・ゴルドーニはそこでデビューした。右へ曲がりスフォルツァ公の小広場まで進もう。

そこにはキプロス島の女王の父マルコ・コルネールが始めた壮麗な館が建っていた筈である。バルトロメーオ・ボン設計図には長さ55m超にも及ぶ部屋が示され、総督宮殿の大評議会の間より大きかった。現実に大運河に唯一残るオリジナルの設計の基礎部の角の柱や浮出し飾りのある切り石積みの断片がある。ここにはオリエント芸術の興味深いコレクションがある。

マリーノ・ナーニ・モチェニーゴ伯はコーヒーやチョコレート、お茶の茶碗一式に特別の関心を抱いて、1700年代の磁器の収集を始めた。このためCicara伯(チカーラ=ヴェ語デミタスカップのこと)と愛称された。この収集家伯爵の死で妻のカテリーナ・ヴェッルーティは、義兄のルクセンブルク大使ユーグ・ル・ガレが、日本と極東滞在時に集めた東洋の芸術品のコレクションとこの素晴らしい収集を統合し、1962年カ・デル・ドゥーカ(ドゥーカ館)に小さな博物館を開いた。
[ナーニ・モチェニーゴ伯爵夫人はカルパッチョ料理誕生に関わりがあります。以下の、2012.11.03日のブログカルパッチョ(5)をご覧下さい。]

1513~14年ティツィアーノがここの大広間で総督宮殿のために大画布を制作準備したが、1574年と1577年の恐ろしい火災で、ヴェロネーゼとティントレット、ベッリーニの作品と共に灰燼に帰した、ということがあった。

引き返してテアートロ通り(Cl. Teatro)を行こう。直ぐの右の軒下通りへ曲がり、続く橋を越え、そのまま次の橋まで行くと、ヴェネツィアでも広く美しい広場の一つサント・ステーファノ広場(Campo S.Stefano)が開ける。足を止めることなく回って行くこと少々、取り囲まれた生活を楽しむべく、1杯のコーヒーで座る時間がやって来た。“パオリーン”こと、ハーゲン・ダッツのジェラート屋である。
パオリーントンマゼーオ広場中央にある銅像は、文学者で愛国者のニコロ・トンマゼーオである。銅像を見れば分かるように、像背後に積まれた本の山は皆が愛情を込めて、糞本(I cagalibri)と呼んでいる。

この周りにはモロズィーニ家からロレダーン家(現在ヴェーネト科学文学芸術協会の所在地)や素晴らしいピザーニ家まで貴族の館が建ち並んでいる。ピザーニ家はそのサロンに王侯貴族を招いた(この同じ家系の家はストラの田園に美しい迷路のある、有名な館を所持している)。1877年からピザーニ家はベネデット・マルチェッロ財団の音楽院の本拠地である。広場最奥にはバルバロ館やグッソーニ=カヴァッリ=フランケッティ館がある。
[ブレンタ川(運河)沿いのストラのヴィッラ・ピザーニに行った時、この有名な、2m以上もある黄楊が密生した生垣で作られた迷路に入り、中央のミネルヴァの塔までは行けました。復路は迷路に完全に翻弄され、パニクって、解放されるま10分以上は帰路で呪縛されていました。このピザーニ館や迷路(1722年建築家ジローラモ・フリンジメーリカにより)をガブリエーレ・ダンヌンツィオが作品『炎』の中で触れているそうです。]
ピザーニ迷路音楽院[左、ストラの迷路。右、ピザーニ広場のベネデット・マルチェッロ音楽院。写真はサイトから借用] 大運河の尖塔式のバルバロ館は、1800年代末、米国画家ジョン・シンガー・サージェントの家族ダニエル・サージェント・カーティス(ダニエル・サージェント・クルティス)の未亡人が手に入れ、ヴェネツィアの英語話者コミュニティ・センターとなった。中でも英国詩人ロバート・ブラウニング(後1899年カ・レッツォーニコで死去)や印象派画家エドガール・モネ夫妻、『アスパンの恋文』を書いた英国作家ヘンリー・ジェイムズらを招いた。

聖アウグスティヌス修道会隠修士修道院が隣にあるゴシックのサント・ステーファノ教会は、13世紀に建った。1325年には建て直され、1400年代半ば頃まで度々改築された。素晴らしい船底天井はアルセナーレ造船所の有名な船大工達の仕事を思い起こさせる。ここに集められた芸術作品を目にするにつけ、大祭壇の大理石の嵌め木細工的仕上がりを暫時鑑賞したいもの。
サント・ステーファノ広場サント・ステーファノ広場Antonio Visentini のサント・ステーファノ広場[左、カナレットのサント・ステーファノ教会と広場のクロッキー(ウインザー城蔵)、中、カナレットの甥ベルナルド・ベッロットのヴェドゥータ、右、ヴィゼンティーニの版画] 中庭(chiostro)では、ある期間若きカノーヴァが習作を重ね、オルペウスとエウリュディケーの彫刻を石膏で造形した。教会ではしばしばクラシック音楽のシリーズが催される。[私が初めてヴェネツィア室内合奏団(Interpreti veneziani)を聞いたのは、1994年この教会ででした。現在はこの広場一番大運河寄りのサン・ヴィターレ(S. Vidar)教会がメイン会場です。]

この広場で1802年2月22日(サンタ・マリーア・フォルモーザやサン・ポーロでのように)最後の闘牛(牛追い)が行われた。モロズィーニ館近くの観客用の仕切席が崩れ、多くの打撲傷や怪我の人が出た。そのためこうした催し物はこれを機に禁止となった。

夕方、ヴェネツィア人が一杯引っ掛けにやって来て広場が賑わうのは恒例である。特にかの有名なスプリッツ(spritz)を飲みに来る“食前酒の時間(l'apertivo―スプリッツ・タイム)”なのだ。即ち、炭酸水1/2、白ワインとカンパリかセレクト1/2、とお好みで。
[初めての語学学校通学で古モチェニーゴ館にアパートを借りた時、スプリッツ・コン・ビッテルを教わり、サント・ステーファノ教会前のバール“アンゴロ”で2ヶ月間、毎夕食前の一時、赤いスプリッツを楽しみました。カンパリ1/3、白ワイン1/3、炭酸水1/3の割合にレモン。毎夕顔を合わせる知合いも出来て、語学のために話し掛けて伊語を教えられたり。] 

“ハーゲン・ダーツ(Haagen Datz)”の右からスペツィエール通り(Cl. Spezier)に向かって、我らが道を進もう。路の右に小ぢんまりとした庭があり、prattの若き友人のクラシック音楽のCD屋さん“Nalesso”がある。左には町でも最上のお菓子屋さんの一つがある。」 (続く)
[このNalessoのCD屋さんで、1585年ヴェネツィアまでやって来た四天正遣欧使節歓迎のためにアンドレーア・ガブリエーリが作曲し、サン・マルコ寺院で使節の前で演奏された大ミサ曲『四つの合唱隊による16声のグローリア(Gloria a sedici parti, con quattro cori separati)』を探し、尋ねたのですが、その曲はまだCDになっていないのではないかとのことでした。現在はどうなのでしょうか? 2008.04.04日のブログ《天正遣欧使節(3)》でも触れました。]
  1. 2016/12/01(木) 00:02:53|
  2. ヴェネツィアの街
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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