イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ピアニスト、ルイーザ・バッカラ(1)

2016.08.25日のエレオノーラ・ドゥーゼ》(1~4)でドゥーゼとガブリエーレ・ダンヌンツィオの事に触れましたが、ダンヌンツィオの最後の恋人になったのは、ピアニストのルイーザ・バッカラ(1892.10.14ヴェネツィア~1985ヴェネツィア)だったそうです。Bruno Rosada著『ヴェネツィア女達――その愛と評価』(Carbo Fiore Editori)により、2人の足跡を辿ってみます。
ブルーノ・ロザーダ『ヴェネツィアの女達』「《彼女にとっては愛の歴史、彼にとっては一つの歴史》 ルイーザ・バッカラの生涯の最初の章はこうした題名で始まる。アントネッラ・フェデーリチはこの情熱的な女とガブリエーレ・ダンヌンツィオの関係をこう要約した。大体全員というか、彼の全員の夥しい愛人達をこの“神聖な詩人”は楽しませたという。この堂々とした男中心主義者に今後に残された、予想される愛人関係というものがかつてとそれ程かけ離れたものではなかったのではないか、と。実を言えばそれは“NO”であった。

ルイーザ・バッカラとの関係は違った愛だった。しかし違っていたのはそれだけではなかった。どんな女も、彼女ほど諦めと品位のある無視無欲と献身的な自己犠牲に満ち溢れた愛情を注いだ者はいなかったのである。

事実人々、ある文化水準に到達していない人々全てを含めて、ダンヌンツィオの文一行さえ読んだことのない人々もこの不撓不屈の誘惑者の抑えようのないエロティスムを知っている。しかし本当に多くの人がルイーザ・バッカラの名前を挙げるのを全く聞いたことがなかった。一方彼の女達の中でもエレオノーラ・ドゥーゼの名前を挙げるのをよく聞いたのである。

これはルイーザ・バッカラが無意味な人物であったということでは決してない。もし無意味な人物であったなら、ダンヌンツィオが興味を持つ筈がなかったからである。彼女は彼の傍に居て、彼に逆らうなんて1分としてなかったことだろう。と言うより約20年間、彼の仲間であった。ドゥーゼは大女優であることを止めなかったが、それは彼の幾つかの大作を演じるという利点が引き出せたからであったが、ダンヌンツィオにとってのバッカラは大ピアニストであることを止めていた。

しかし彼女のデビューは大したものであったし、満足のいくものであった。1902年のムラーノ劇場での最初のコンサートに同席してみよう。その時やっと10歳で、『Il padrone delle ferriere(鉄工所の親方)』の幕間に2曲演奏した。プロを呼ぶためには十分な資金のない人が、一少女に対して興味深くも満足のいく要請をしたに違いないのである。そして10歳からよく知られるように、詩人と出会う運命の19歳まで成功が続くだろう。特に15歳から18歳の期間、戦争(第一次大戦)があったと考えても、である。

イタリア国内を回っても、それほど多くのコンサートはしなかったが、戦争中もルイゼッラ(ルイーザは家族にこう呼ばれていたが、ガブリエーレはスミクラ(Smikra`)という、ギリシア語で正に“ちっちゃな(picolina)”を意味する愛称を好んだ)は、ソリストとして注目を浴びた。 ……」 (続く)
  1. 2017/02/02(木) 00:08:50|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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