イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの街案内(16)

(続き)
「二番目の軒下通りを越えると、セコンダ・デル・ミリオーン小広場があり、そこにはポーロ家の家があった。その名前はヴェネツィアの偉大なる旅行者マルコ・ポーロが書いた著名なる作品『イル・ミリオーネ(Il Milione――東方見聞録)』を我々に思い起こさせる。

ヴェーネト=ビザンティン様式のアーチ(11~12世紀)の下を潜り、マーリブラン劇場(当時映画館)の前に出る。1677年グリマーニ家の意向で建てられたが、最初はサン・ジョヴァンニ・グリゾーストモ劇場と呼ばれた。装飾が豊富で、取り分け音楽用の劇場だったが、時代と共に経営と目指す目的が変わっていった。

1834年新しいパトロンが改築し、有名な歌手マリーア・フェリーチタ・ガルシーア(伊語式)・マリブランに対する感謝の印にマーリブラン劇場と呼ばれることになった。
[劇場名はマーリブラン(伊語)となりましたが、マヌエル・ガルシアの娘、パリ生まれの西国歌手マリア・フェリシア・アンナは仏人ウジェーヌ・マリブランと結婚します。1835.04.08日この劇場でヴィンチェンツォ・ベッリーニの『La Sonnambula』を歌った時、この劇場の有様を見かねて出演料を修復のために使ってほしいと辞退した事を受けて、このマーリブランを劇場名とする事になりました。その辺りの事情については2010.06.05日のサン・ジョヴァンニ・グリゾーストモをご覧下さい。]

この劇場はコルト=プラットの世代にとって、重要な役割を帯びていた。事実ここは、フェニーチェ劇場が選ばない、軽い演劇を上演していた。小作品が好まれ、それは『アルレッキーノの三百代言』のような演目であった。パルコは当時の青少年達にとって、絶好のランデヴーの場であり、同じような演目として興味はあっても、それを超越する、といった場所だった。

セコンダ・デル・ミリオーン小広場に戻り、テアートロ橋、そしてスカレッタ通りへ向かおう。その通りの右に20年前まで人々がよく通った、外国渡来の新しいダンスを教える、ロランドによる学校があった。

通り突き当りまで行き、サンタ・マリーナのアーケードを越し、クリスト通りに入り込むまで斜めに突っ切って行く。クリスト橋からの運河の眺めは大変美しい。素晴らしい館が重なり、織り成して我々を魅了する。運河通り(fondamenta)を行くと、コルト・マルテーゼが愛して止まなかった住居の一つの大門の前に出る。ヴァン・アクセル館である。
ヴァン・アクセル館最初はソランツォ館であった。その後フランドルの裕福な商人ヴァン・アクセル(Van Axel)家が所有した。1665年ヴェネツィア貴族となったのである。内部にはヴェネツィア・ゴシックの大変美しい中庭がある。
[地図帳『Calli,Campielli e Canali』は、このソランツォ=ヴァン・アクセル館について次のように紹介しています――オジーブ式建築の最も重要で興味深い物の一つである。1473~79年に装飾的要素が色濃く残るヴェーネト・ビザンティン様式の建物が建っていた跡地にソランツォ家が建てた。15世紀の木製のノッカーを備えたオジーブ式の大門はオリジナルで、ヴェネツィアでの例は唯一。]
ミラーコリ教会カステッリ通り左側は町の宝石のような建築の一つであるサンタ・マリーア・デイ・ミラーコリ教会に通じている(人々のもとで奇跡のような名声で獲得した、ここにある聖母の絵の回りに集められたコインで建てられたかのようである)。このような色とりどりの大理石のボンボン入れのような作品は、ピエートロ・ロンバルドと彼の工房の手になるものである。1481に始まり、1488年に終わり、12月31日の夜、祭壇に素晴らしい絵が齎された。教会前部に数年前からクラシック音楽の愛好家用に適した場所が設置された。
[上掲の地図帳曰く――伝承によれば、カ・アマーイ小広場に居宅のあるフランチェスコ・アマーディが、1477年既にそれが奇跡と考えられていた聖処女の絵をその広場に設置させた。その絵は崇拝され、捧げ物等が豊富だった。アマーディの高潔無私の雅量から、その奇跡の絵を収めるために、1481~89年ピエートロ・ロンバルドの設計で教会が建てられた。外部も内部も色大理石で覆われ、取り分けロンバルドの装飾技法の最良の物となった。]

この素晴らしいルネサンスの建物を曲がり、サンタ・マリーア・ノーヴァ橋を越え、左の通りへ曲がり、広場中ほどに建つ家に沿って曲がると、その建物は6044番地で、“ピッケのエース”考案者で編集者のマーリオ・ファウストネッリが住んだ。ヴェネツィア漫画の創始者である。
[この6044番地の脇道に、通行する人が何故か踏んで通り過ぎるのを避けて行く、座布団大の石板が道に埋め込まれています。その石を踏むと縁起が悪いのだそうです。]

この家の前にベンボ・ボルドゥ館が建ち、そのファサードにはヴェネツィア人を魅了する、多分外国から渡来した彫像を収めた壁龕がある。毛むくじゃらの野人の像Chronosである。その当時の貴人か“太陽の円盤”を手にするSaturno(農耕神サトゥルヌス、希語Kronos)であろう。
[クロノス像はジャンマッテーオ・ベンボ(有名なピエートロ・ベンボの孫)が設置した物で、ここに在住し、像の下に記した羅典語の文言に「この太陽板が回転するまで、Zara(クロアティアのザダル)、Cattaro(モンテネグロのコトル)、Capodistria(スロヴェニアのコーペル)、Verona、Cipro(キプロス島)、Creta(クレタ島)、Giove(ゼウス)の寝床が我が行動の証明になり得よう、と。] (17)へ続く
  1. 2017/03/30(木) 00:45:04|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィアの街案内(15)

今回マーリブラン劇場前のアパートを借りましたので、以前にも紹介したG.フーガ=L.ヴィアネッロ著『CORTO SCONTO』からここを通るコースを紹介してみましょう。
ヴェネツィア地図1「かの有名なヴェネツィアの喜劇作家カルロ・ゴルドーニの銅像に元気も貰える広場サン・バルトロミーオが、我々のこの旅の出発点である。ヴェネツィアの中でも中心となるこの広場は、ヴェネツィア人が出会いの場所として最も好む地点の一つであり、既にご存知のように、その奥まった所に朝から晩まで盃を傾けることの出来る飲み屋さんが色々ある。
ゴルドーニ像今やお歳を召したゴルドーニ老、あらゆる人間の機微を熟知した父親のような温かい彼の眼差しを受けながらお別れして、フォンテゴ・デイ・テデスキ(ドイツ人商館)大通りを行こう。ドイツ人商館はヴェネツィア中央郵便局である。この堂々たる建物は、建築家スパヴェントの作品で、3年前の凄い火事で完全に焼失した商館の跡に1508年再建されたものである。
ドイツ人商館屋上から[ここは最近ヴェネットーン経営の有名ブランド店になりました。以前からのヴェネットーン店はそのままリアルトにあります。郵便局はリアルト近くサン・サルヴァドール通りに越しました。屋上に上がることが出来るようになり、修復なったリアルト橋の向こうに素晴らしい眺めが展開しています。]

ここは13世紀からドイツ人のコミュニティが、ヴェネツィア元老院から住宅や旅客用、輸出入の倉庫用敷地の許可を得て、所有していた。この建物は大運河側が全面ジョルジョーネによってフレスコ画で覆われた。その残存したフレスコ画の一部がカ・ドーロ美術館で保存されている。一方道路側はティツィアーノがフレスコ画を描き、それらは正に素晴らしきルネサンス芸術である。

内部の中庭は総体に同時代の壮大なエレガンスを帯びた、3列のロッジャの規模がリズミックな魅力を醸し、丸でジョルジョ・デ・キリコのメタフィジックな広場空間に入り込んだ感がある。階段を昇り、ロッジャ周りを歩いてみよう。各アーチの基部や石の上に、ある種の引っ掻き図が見られる。そのモティーフは一種のお遊び(tria=伊語tavola a mulinoというゲーム)である。

共和国時代、ここには記憶に値する祭があった。中でも伝統的な仮面のそれは、3日間継続して続き、カーニヴァルの開始に繋がっていった。この素晴らしい中庭(現在は屋根が付けられた)を後にする前に、我々は切手を買って、郵便物を送るために、窓口に行こう。

橋を越し、レストラン“Fiaschetteria Toscana”まで行き、その直後を左へ曲がり、レメール小広場の軒下通りを抜けると、大運河に顔を向ける、13世紀終りの建築的にも目を見張る、上部に見える建物、奥に見えるのはビザンティン様式の味わいがある。
レメール広場[外階段の右は何年か前に開店したバーカロ・レメール。その他にもこの小広場に活気が見えます。]  道を引き返し、ヴェネツィア人がよく通った、“マドンナ”とともに知られるレストラン“トスカーナ”の前を通り越し、教会(サン・グリゾーストモ)の向こうを左に曲がり、最初の右の道モロズィーニを行くと、最初の小広場アマーディ小広場がある。時に鉄格子が閉まっていることがあるが、壁に美しいビザンティンの盃を見ることが出来る。

更に奥に、モロズィーニ小広場があり、かつての冒険や忘れがたい騎士、決闘や闘いといったものを想像させる兜や盾を彫り込んだ、アラブ=ロンバルディーア様式(13~14世紀)の大理石のアーチが建ち上がった入口がある。

この小広場は今でも煉瓦が敷き詰められ、井戸や外階段といった中世の面影を見せるが、ここはかつて町でも一番古くて著名な一族モロズィーニが住んだ一角である(総督4人、総督妃3人、王家嫁入り2人)。

モロズィーニ通りを後にして引き返し、右へ曲がり、軒下通りを抜けてプリーマ・デル・ミリオーン小広場に出る。ここはコルト・マルテーゼと彼の仲間達がよく訪れた一角である。 ……」 (16に続く)
ティツィアーノ展1ティツィアーノ展2ヴェネツィアから帰り、先日漸く都美術館の『ティツィアーノとヴェネツィア派展』に行ってきました。~4月2日までやっています。
  1. 2017/03/23(木) 00:14:03|
  2. ヴェネツィアの街
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マルコ・ポーロ

今回ヴェネツィアで借りたアパートは、知り合ったマウリーツィオが4人用のアパートを作ったから利用してくれという話に乗りました。到着し、電話してそのアパートに辿り着くと、最終の宣伝用の写真撮影の最中でした。リヴィングのソファーをばらすとベッドになり6人まで泊まれるようです。

アパートのロケーションが大変気に入りました。テアートロ小広場のマーリブラン劇場正面入口の左脇の建物です。街歩きにはとても便利しました。サン・ジョヴァンニ・グリゾーストモ大通りの教会右脇を入ると、銀座のイタリアン・レストラン《バラババオ》のシェフが修業された《バラババオ》本店があり、その更に奥に劇場があります。劇場右脇には、ミリオーン[Milionは『東方見聞録』の原名、大風呂敷の意]小広場があり、軒下通りを抜けて、運河前左を見ると、マーリブラン劇場の裏手にマルコ・ポーロがかつて住んだことを示す碑が掲げられています。この劇場は1596年マルコの家が焼失した後、その礎の上に建てられたものだそうです。
マーリブラン劇場ヴェーネト・ビザンティン様式[左、アパートの窓から見たマーリブラン劇場、右、ミリオーン小広場の、一説にポーロ家が所有したと言われるヴェーネト・ビザンティン様式(1200年代)の帯状装飾]  このマルコの碑の直ぐ運河の向こうには、橋を渡って有名なバーカロ《Al Portego》があり、狭い店からはみ出して、ソートポルテゴ(軒下通り)の下で、テーブル代わりに置かれた樽の上にワイングラスを置き、わいわい呑兵衛達が屯してお喋りに懸命です。その直ぐ向こうのサンタ・マリーナ広場に語学校通学にアパートを借りた時はよく通いました。懐かしい一角です。
マルコ・ポーロ ヴェネツィア1ヴェネツィア2そんな訳で今回は日本人も良く知っているマルコ・ポーロについてです。ニック・マカーティ著『マルコ・ポーロ Marco Polo――世界を旅した男』(久松武宏訳、BL出版、2009年1月20日)というビジュアル版伝記シリーズの絵本です。絵や写真が一杯掲載されているので眺めているだけで読んだような気になってきます。私が最初にマルコの事を知ったのは次の本でした。
東方見聞録マルコ・ポーロについては、2008.10.12日の日本の旅や2009.10.31日のヴェネツィアと日本で触れましたように、カステッロ地区のサン・ロレンツォ教会に葬られたそうですが、1600年代には墓の在所が分からなくなってしまったそうです。現在サン・ロレンツォ教会は再生のための修復工事が何年も前から続いており、教会として甦るのは何年先か丸で分かりません。
サン・ロレンツォ教会ヴェネツィア警察前から見た、修復中のサン・ロレンツォ教会。マルコ・ポーロについては2011.11.26日のサン・ロレンツォ教会も参考までに。
ヴェネツィア話は変わりますが、帰国して図書館で谷口ジロー著『ヴェネツィアVenezia』(双葉社、2016年11月23日)という本を見ました。去年暮れに出版されたばかりの本です。ヴェネツィアのイメージがまだ濃密に残っていたので、大変心を刺激されました。著者が描いた場所の大体がどこか分かりました。正確な実景の絵だったのです。先日週刊誌で著者がこの2月に亡くなられたことを知りました。昂ぶった心を揺さぶられました。合掌です。
  1. 2017/03/16(木) 00:07:41|
  2. ヴェネツィアのアパート
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テアートロ・イタリア(Teatro Italia)

前回、スーパーマーケットになったテアートロ・イタリアについて触れました。駅からの一本道サン・ベルナルド埋立通りからプラトール通りと、マッダレーナ埋め立て通りの間、アンコネータ(伊語anconetta)小広場にあるこの建物についてイタリアのサイトは次のような事を述べています。連れ合いが語学留学中、左脇のアゼーオ通り(Cl. de l'Aseo=伊語aceto)奥にアパートを借りていた頃は、いつも大学生が屯していたそうです。
テアートロ・イタリア 地図2地図1「トゥレニターリアのサンタ・ルチーア駅とリアルト橋を繋ぐ人通りの多い道(いわゆるストラーダ・ヌオーヴァ)に建つ、正面にTEATRO ITALIAと書かれたネオ・ゴシックの独特の建物である。

1915年ジョヴァンニ・サルディによって建て変えられ、ラグーナのゴシック様式を採用し、特に一面窓とサン・マルコ広場の総督宮殿とドルソドゥーロのフォースカリ館(現在大学)の三連窓を採用している。

ファサードを見ると、2階に二つの紋章が見え、屋根の手摺りの中央に、有翼のライオンが見える。鉄製の四つの入口の大門は、ウンベルト・ベッロットの設計で、内部のシャンデリアも彼のデザインである。

ヴェネツィアの画家アレッサンドロ・ポーミ(1890~1976)が建物内部の中心のホールの天井中央に、“イタリアの栄光”と称する寓意画をフレスコで描いた。一方、フリウーリ人グイード・マルッスィグが地元の画家達と内部の品格ある装飾をリヴァティー様式で仕上げた。それは鉄筋コンクリートで補強され、建物の最初の例を見るものである。

テアートロ・イタリアの歴史は区々である。最初は映画館に改築され、長い間の閉鎖後、ヴェネツィア大学の持ち物となり、長い修復の期間中開かれたこともあったが、結局スーパーマーケットとしてオープンした。」

別のサイトはもっと古い時代の事を語っています。ビザンティン式の典型的な建物だったそうです。サン・マルコの有翼のライオンが屋根部を飾っています。伝説的な演奏家達が、音楽やオペラの催しを数多くこなしたのです。

劇場は500年近くに渡って、伝説的な演奏家達がその世紀でも際立つ音楽やオペラ等の催しを数多くこなしてきたのです。この劇場は世界でも、その他多くを凌駕する歴史的遺産でありました。
  1. 2017/03/09(木) 00:05:43|
  2. ヴェネツィアの劇場
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ヴェネツィアのカーニヴァル

ヴェネツィアのカーニヴァルに行ってきました。この度は初めて家族全員での旅行でした。かつて夫婦だけで見物したカーニヴァル時代と少し様変わりしてきたのでしょうか? そんな印象を覚えました。1979年、現代のコンパニーア・デ・カルザ・イ・アンティーキ(中世、この名の貴族の若者グループが町を面白く、楽しくしたのだそうです)の人達が町興しのために始めたものが、こんな形で町に根付いたようです。

このグループの人達の催しを探して歩きましたが、ありませんでした。かつて『昔の展示室《バウータ》』というイヴェントを見たことがありました。通学した語学学校の向こうにドナートさんの本屋があり、演劇を見ないかと誘われました。学校の前にはグェリーノ・ロヴァートさんの仮面屋もあり、コンパニーアのグループ長のルーカ・コルフェラーイさん(『図説 ヴェネツィア――「水の都」歴史散歩』(中山悦子訳、河出書房新社、一九九六年一月二五日)の著者)等がイヴェントの協議をするNHKTVを見たことがありました。
[2011.02.12日のカーニヴァル(3)で触れました。] 

ドナートさんは引退されたようですし、ロヴァートさんの仮面屋さんも閉店し田舎に移られ、コンパニーアの人達の第一期の時代は終わったのかも知れません。そんな感じで仮装を見て回りました。フェニーチェ劇場修復に尽力されたロヴァートさんは、海水で消火したフェニーチェの塩抜き作業が大変だったと話されました。絵や彫刻等の修復に携わられました。

昨年のLa Nuova紙で読んだ、サン・ジェレミーア教会のキリスト像が、モロッコ人の回教徒により、腕を圧し折られた事件がありました。腕が接着され、正面に掲げられていました。教会の係の人にも、この像かと確認しました。そんな訳で、回教徒のテロを大変に恐れたカーニヴァルで、鞄などのチェックもあるということでしたが、そこまではありませんでした。
[事件を伝える2016.07.28日のLa Nuova紙]

ストラーダ・ヌオーヴォのかつて大学が使用していた“Teatro Italia”は華麗なスーパーに変貌していました。舞台正面、壁面や天井などの絵画がそのまま残され、華麗なスーパーマーケットです。
[2016.12.30日のLa Nuova(2)紙を参考までに]

カーニヴァル中、フェニーチェ劇場でプッチーニの『La Bohème』の公演がありました。娘達と一緒のこともあり、もしかして劇場に席が残っているかも、訊くだけは訊いてみようと尋ねると、僥倖なことに平土間席があり、楽しいオペラ鑑賞の一夜となりました。
仮面仮面2仮面3仮面・仮装の人達の写真は沢山の人達がブログアップされていることでしょう。
  1. 2017/03/02(木) 00:01:50|
  2. ヴェネツィアの行事
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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