イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの街案内(18)

(続き)
「海岸通りを引き返し(この通りは1766年12月20日の大嵐で、殆ど壊れたのだが、完全に修復された)、ドナ橋の方へ向かおう。町のこの辺りは、色々な競技が楽しまれている。ラケット競技(テニス)、既に触れたサッカー競技、ボッチェ競技(ボウリングに似たベタンク)、劇場(最近小さいけれど素敵な物が開場した)があり、ある家等でトゥルッコ・ダ・テッラ(trucco da terra)が遊ばれた。

そして更に、多分サン・ミケーレ島墓地の整備(1808~26)のために、この辺りはロマンティックというか物寂しい雰囲気を帯びることになった。フリードリヒ・ニーチェが『曙光(伊語訳Aurora)』の執筆のために滞在したのは偶然のことではなかった。
[後で述べますテースタ通りの奥、海岸傍にベルレンディスという通りと小広場があり、6296番地にニーチェは部屋を借りたのではないか、とされています。この辺りはかつてサンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ劇場があった場所だったそうですが、私がテースタ通りにアパートを借りた頃は廃墟の感じでした。2010.03.20日のサンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ劇場を参考までに。]

橋を越えて行くと、右手にドナ館がある。豊かな貴族の住居であり、内部には多数の芸術作品や家族の古文書的な資料が豊富である。入口の、レーパントの戦いに参加したガーレア・ドナの二つのランタン(ヴェ語Fanò―ランプ)は大変目立つ。左の船着き場からは、サン・ミケーレ島、ムラーノ島、マッゾルボ島、ブラーノ島、トルチェッロ島、ヴィニョーレ島、サンテラーズモ島へ船が通う。

ロマンティック精神にお勧めは、船に乗ってサン・ミケーレ島に行き、コルボー男爵、ディアギレフ、ストラヴィーンスキーの墓を訪ねることである。その待ち時間にカフェ・アルジュバジョに寄ってみよう。
[コルボー男爵については、2009.06.06日のウィリアム・ロルフを、ディアギレフ、ストラヴィーンスキーについては、2007.11.14日のサン・ミケーレ島をご覧下さい。尚ここに眠る日本人については、2012.06.16日の鷗外独逸日記を、墓地については2010.08.14日のサン・ミケーレ墓地をご覧下さい。]

サン・ミケーレ島は墓地に改変される前、カマルドリ会[聖ロムアルドゥスが1012年、アレッツォ山中カマルドリで開いたベネディクト一会派]の修道院で、セレニッシマ時代、重要な共和国の研究センターであった。島の探索は次回に回したければ、橋を渡り、最初の通りを右へ行くと道のどん詰まりに、ティツィアーノの家前の小広場を囲む壁の前に出る。

右へ曲がり、直ぐ左のピエタ通りへ入り、更に左へ曲がると、ティツィアーノ小広場に出る。ここにかの有名な画家が住んだ。この家は君主や王侯、各種芸術家を招いた(芸術家の中でも、ヤーコポ・サンソヴィーノやリアルトに住んだピエートロ・アレティーノはせっせと通った)。続いてここにコルト・マルテーゼが住んだ。公表された文書では彼はこの地区の事は語っていない。

この小さな小広場を後にすると、古い居酒屋“ラ・フォスカ”の傍に出る。この古い居酒屋のある、一風変わって楽しげな小広場と別れ、左の通りを最奥フーモ通りまで行く。そこで 右へ曲がりペストリーン小広場へ向かう。そこに二つの食堂が続いて現れる。2番目は“チェーア食堂”で深緑に覆われており、町でも最も美しい井桁(18世紀)がある。

左へ向かいステッラ広場とヴィドマン小広場を斜めに突っ切り、運河まで行く。左にアーケードがあり、右を見るとプラットが“ノスタルジーの橋”と呼んだ橋がある[パスクァリーゴ橋、orヴィドマン橋の事だろうか]。このアーケードの軒下通りを抜け、ずっと左を辿って行くと橋の袂に居酒屋“Da Alberto”がある。橋を越え、ラルガ・ジャチント・ガッリーナ通りを行くと長いテースタ通りと交差するが、テースタ通りにプラットの家族は住んだ(興味を持って忠実に、右へ行き、2本目を左へ行くとフォルノ通りとなり、左の最初の門が巨匠の家の入口だった)。
「ダ・アルベルト」バーカロ・アル・ポンテ[左、ダ・アルベルト、右、アル・ポンテ] 交差地点まで戻り、カヴァッロ橋へ向かうと橋の袂に、その誘惑から逃れようとしても、あなた方を待ち受けているのは、小さいけれど、大変愛想のいいバーカロ“アル・ポンテ”である。橋を越えると街で最も美しい広場[ヴェ語ではサン・ザニポーロ広場]の一つがある。左手にはサン・マルコ大同信会館があり、サンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ教会前には広場中央に、世界でも最も美しい、ヴェッロッキオの『バルトロメーオ・コッレオーニ騎馬像』がある。
サン・マルコ同信会館コッレオーニ[左、サン・マルコ大同信会館、右、コッレオーニ騎馬像。語学校通学のためにテースタ通りにアパートを借りた時、このバーカロ“ダ・アルベルト”やカヴァッロ橋の袂の“アル・ポンテ”に通いました。またヴェネツィアの傭兵隊長コッレオーニは自分の財産を共和国に遺すに当たって、サン・マルコ広場に自分の銅像を建てて呉れるように言い残したそうですが、実際にはサン・マルコ大同信会館前だった訳です。]

美というものを目の当たりにすれば、芸術的宇宙を夢見させ、切磋琢磨させるのにその事が芸術家を手助けするというのは確かな事である。……銅像の背後にコルネール館に属していた16世紀の井戸がある。この素晴らしい広場はサン・マルコ広場同様、町を代表する場所であり、総督の各種の儀式、厳粛なる葬儀が挙行された。」 (19に続く)
  1. 2017/04/13(木) 00:07:37|
  2. ヴェネツィアの街
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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