イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: Palazzo Bellon Battagia(ベッローン・バッタージャ館)他

カ・トゥローンを更に右へ進むとベッローン・バッタージャ館となります。E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のように言っています。
メージョ倉庫他「海軍最高司令部のシンボルである2柱の方尖塔が見えるので、それと分かる建物である。館はバルダサーレ・ロンゲーナが1645~48年に建てた物で、それ以前にあったゴシック様式の建物を改築したもの。規模を縮小したにも拘わらず、装飾的要素が豊富で、バロックのファサードを特徴付けている。

即ち、浮き出た曲線のティンパヌムは区切られて、コンポジット式の扶壁柱で支えられ、壁面を活気付ける木目模様や大理石の二つの大きな紋章で2階窓の枠取りを構成している。内部は19世紀に再び手が加えられ、ジュゼッペ・ボルサートとジョヴァンニ・バッティスタ・カナールのフレスコ画が保存されている。

今日、イタリア貿易振興会が入っている。

バッタージャ家はロンバルディーアから到来した一家で、スフォルツァ家と縁続きであり、1500年頃貴族を許された。その時ピエートロ・アントーニオはクレモーナ城の城主であったが、セレニッスィマ共和国の要塞を任されていた。その機会にヴェネツィアは彼に大運河の館を与えた。

この一家から多くの著名な軍人が輩出し、ジェローラモは1667年カンディア(クレタ島の港)の施政長官であった。1604年ピエートロ・パーオロ・バッタージャは酷い不和のために兄弟のジャーコモを人手に殺させたが、その夜にはあるパーティから帰宅したのである。」

その右隣はメージョ(Megio=伊語miglio(粟)、biada(飼葉)の意)倉庫です。E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のような説明をしています。

「15世紀の建物で、粟や飼葉等、即ち広い意味で穀類の貯蔵倉庫として共和国が使用した。何世紀もの間に、1階の三つの大門と上の階の、3層のアトランダムに置かれた小さな窓がある簡素なファサードの素の煉瓦の赤い色がくすんで来た。全て白い大理石が打ち込まれた、狭間胸壁仕上げで洗練され、中央にはセレニッスィマ共和国のシンボルである有翼のライオンを彫った大きな大理石の板が置かれている。

共和国には、穀類が充分足りている事を確認することは日常的な必須事項であった。それ故、係の執政官は常に在庫量をチェックしていた。飢饉の酷いある期間には、いつもの無遠慮な現実感覚で、彼らは正に穀物獲得のためには海賊行為にまで赴いたのであった。」
[ヴェネツィアの穀物倉庫については、2013.02.23日の飢饉や2014.03.26日の小麦倉庫で触れています。]

更に右はトルコ人商館(Fondaco[=ヴェ語Fontego] dei Turchi)です。今度はR.ルッソ著『ヴェネツィアの館』(1998)の記述を借ります。
トルコ人商館「今日トルコ人商館として知られるこの館を、1200年代ヴェーネト=ビザンティン様式で建てさせたのは、一人の商人貴族であったペーザロ領事のジャーコモ・パルミエーリという人物だった。

オリエントや西欧の商品、大量の生姜や胡椒の袋、中国絹やイングランド布の梱を大きなガレー船が着岸して、陸揚げが可能なためにわざわざ作らせたと思われる。1381年共和国が手に入れ、フェッラーラ侯ニコロ・デステに、キオッジャ戦争の時に彼が示した忠誠のために与えた。その時以来、館はエステ家の一種の流動的財産となり、関係に罅が入るとセレニッスィマは押収し、改善されると戻された。

こうして1483年、フェッラーラは後背地に領土拡張政策をするヴェネツィアに反対し、1509年にはカンブレーの反ヴェネツィア同盟に加わった。共和国は著名な外国の訪問客とそのお付の家来を歓待するのにこの建物を利用した。

1438年2月のフェッラーラ宗教会議の折、ビザンティン皇帝パライオロゴス公ヨハンネス8世(Giovanni Ⅷ Paleologo―在位1425~48)が、2ヶ月以上の船旅でコンスタンティノープルからギリシア正教会総主教と650人以上の聖職者に付き添われ、館に宿泊した。

館にはパンドルフォ・マラテスタ[リーミニの狼と呼ばれた、リーミニ領主シジズモンド・パンドルフォ・マラテスタ]、ヴァラキア王[古代ダキアDaciaと呼ばれたルーマニア南部の王]、ポルトガルのペドロ卿――女達をバルコニーに呼び出すように喇叭手やファイフ奏者が前触れ役で奏し街を回った――ハプスブルク公フリードリヒ3世(Federico Ⅲ d'Asburgo)、アンジュー公ルネ(Renato d'Anjou)、ポーランド王妃ボーナ・スフォルツァ等が宿泊した。

17世紀初めになって、トルコ人が滞在するためやって来た。その時、新しい所有者であった総督アントーニオ・プリウーリ(1618~23)が、トルコ商人に貸すことを決めた。政庁が何年も前から考えていたことは、トルコからだけでなく、コンスタンティノープルの君主に従う、あらゆる地方からやって来る商人、事業家、色々事業を企む人々を一つの場所に纏めて、集めたいと考えていた。

門と窓はイスラムの習慣で閉じられ、モスクと風呂が設けられた。しかしキリスト教徒の女や若者の入館の禁止は、トルコへの偏見が執拗だったことを示している。オリエントとの交易が下火になり、商品数が減少し、結果賃借料の利益が減り始めた。建物の状態も悪化し、1732年には建物の崩れも大きくなった。トルコ人は1838年まで住み続けた。最後のサッド=ドゥリズディとかいう人物は、マニーン家がペーザロ家から遺産として得たこの建物から、出て行かざるを得なかった。

1860年以来、市の所有となり、博物館となった。最初はコッレール市立美術館、続いて自然史博物館である。」
  1. 2017/05/25(木) 00:02:49|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
  3. | コメント:0

所謂《ゲットー》について

今までヴェネツィア或は違った土地の“ゲットー”について触れてきました。特にはヴェネツィアのゲットです。2016.05.19日のユダヤ人や2016.06.09日のゲットで触れました。ヴェネツィアのゲットの語源が違うと言う本が現れました。今はこの説を全面的に信じています。

アリス・ベッケル=ホー著『ヴェネツィア、最初のゲットー』(木下誠訳、水声社、二〇一六年三月一五日)は、例えば私が信じていた、そこが鋳造所(gettoジェット―ヴェ語getoジェート)であった島をゲットと呼ぶようになったという説を根拠なしとして否定しています。次をご覧下さい。
ヴェネツィア、最初のゲットー「……1516年に、元老院は《ユダヤ人を町の中で隔離し、サン・ジローラモ小行政区の小島に移送する決定》を行った。そして、三月二十九日に、政令が公布され、《ユダヤ人は全員、サン・ジローラモの近くのゲットー所在の一群の家に集まって住む》ことを命じたが、この文言はリッカルド・カリマーニが引用した最初の版のもので、やや後に、それは《サン・ジローラモの近くのゲットーにある一群の家々》と訂正された。
……
このジェトもしくはゲト(g(h)eto)という語が示す場所は、ヴェネツィアで慣例となっていたように、コントラーダ(小行政区―行政上の下位区分)――この場合、カンナレージョ地区(セスティエーレ)(ヴェネツィアの六地区の一つ)の中にあるサン・ジローラモ・コントラーダ――への所属によって場所が画定される既存の街区(カルチェ)であり、おまけに、そこには、その街区がユダヤ人に譲渡された時にはすでに建物があってヴェネツィア人の住民が住んでいたにもかかわらず、いったいなぜ、その語は、ユダヤ人の定住の後にしか現れないのか?
……
ヴェネツィアはそのために、あらゆる外部からの干渉を排除した経済商業政策を確立し、きわめて早い段階から、唯一の人間の手に絶対的権力が握られる危険を制限した(ドナテッラ・カラビが明確にしたように、《総督(ドージェ)政府は、複数の権力の関係と均衡と保証の緊密な網の目の上に築かれた共和制政体である》。

Al.ル・マッソンは、こう記している。《あらゆる公職に就き、いかなる勲章も求めず、自分の名にいかなる称号も付けなかったヴェネツィアの貴族たちは、事業を指導し、国家に献身的に仕え、国民の頭脳であると同時に腕でもある特権以外の特権は手に入れなかった。[……]すべては民衆のためだが、何も民衆によってなされるのではない、というのがこの貴族階級のモットーだった。》さらに、アルヴィーゼ・ゾルジは《ヴェネツィアの文化においては、専制君主のための場はなかった》と断言している)。

そして、最後に、ヴェネツィアは、ビザンティン帝国の最良の伝統に従って、外国人商人の居住を促進し、適切な司法官職を作って彼らの結社を管理するとともに保証したのである。《共和国は、自らの周縁性を意識して、人々を引き寄せる極、必ず通過せねばならない場所、商品を一時的に降ろす寄港地、首都の商業交易の活気あふれる中心地という評判を常に強く求めてきた。》

自らの利益をよく考えて守りながらも、ヴェネツィアは、その町の威信と富に魅かれてやって来るあらゆる種類の外国人を常に断固として、名高い歓迎の態度でもって扱ったが、彼らがその町に魅かれたのは、その場所で商売を行い、豊かになり、要するに他のどこよりも――すなわち、戦争と追放によって自分たちが追われた国々よりも――良い生活を送る可能性がそこにはあったからでもある。そうでなければ、なぜあれほどの外国人の流入があったのだろうか?
……
ゲットーはと言えば、ドックについて見たように、それはフォンテゲットー(fonteghetto―イタリア語のフォンダケット(fondachetto)の後半部分にほかならないことは明らかである。フォンテゲットーは、アラブ語のフォンドゥク(fonduq)の直接の借用語であるフォンテゴ(fontego)の指小語で、外国人の共同体に住居として割り当てられた委譲地――隊商宿型(キャラバンサライ)の――を意味する。ラビのヴェルトハイマーが立てた仮設は、それゆえ、あらゆる仮説のうちで、もっとも真実に近かったのである。……」

現在《ゲットー》という言葉は押し込まれて隔離されたマイナーな空間が普通イメージされます。そうでなければ、ヘブライの言葉で疎外とか隔離とかマイナーな意味合いの言葉から発生した等の発想はなかったでしょう。ヴェネツィア以外の地では、《ゲットー》はイタリアでもアルプスの北でも強制収容所的な閉ざされた場所だったのでしょう。ヴェネツィアのゲット内部は明るい、自由な空間だったようです。

それはドイツ人商館やトルコ人商館が残っているように、商館(フォンテゴ――Fontego dei Tedeschiのように)は商業の場所であり、宿舎であったので、指小辞の-ettoを付けたユダヤ人達のヴェネツィア語のFonteghettoも商売のハレの場であり、慰安の我が家だったのでしょう。ゲット入口に門衛が置かれたことは彼らの大きな財産が守られることにもなりました。そうでなければ、拳骨橋の殴り合いにヴェネツィア人と一緒になって参加し、楽しむなどということは起こらなかったでしょう。リボルノのユダヤ人の歴史を勉強しなければと思った事でした。

訳者は巻末の訳者解題で次のように述べています。
「……ゲットーを《鋳造所》《隔離》《離縁状》《格子》《小地区》と見るか、《倉庫》《宿舎》と見るかは、ゲットーを否定的なものと捉えるのか肯定的なものと捉えるのかという二つの世界観の戦いを反映しているのである。……」と。

[1938年頃、ゲット人口は約1200人位だったそうですが、ナチとファシストに負われるようにUSA等に逃げ出しました。私が初めてここを訪れた1994年には片手位の家族しかユダヤ人はいないのではないか、と言われました。商店など皆無で閑散と明るい広場でした。現在500人以上の人が舞い戻って来て、キッパ帽を被ったり、黒いユダヤの上下スーツと山高帽で正装した人々が闊歩し、商店も出来て賑わいを見せています。かつての商館的なゲットの雰囲気で世界にヘブライを発信している感じです。ここは強制収容所的《ゲットー》ではなかったのです。Youtubeの《Storia del Ghetto a Venezia(ヴェネツィアのゲットの歴史)》が参考になります。]
  1. 2017/05/18(木) 00:05:36|
  2. ヴェネツィアの伝説
  3. | コメント:0

ヴェネツィアの建物: プリウーリ・ボン館他

サン・スターエ教会を右へ進むと、プリウーリ・ボン館です。E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のように紹介しています。

「13世紀終わりか14世紀初めに遡る、小さいながら興味深い建物である。高く持ち上がった1階大門(一部は塗り込められて壁になった)のヴェーネト=ビザンティン様式からゴシック初期様式への推移が理解されるが、2階の五連窓に真似た、5ヶのビザンティン式の大門は上部が屈曲し、一種の尖塔状である。
プリウーリ・ボン館プリウーリは“新しい”家系の一家で、ヴェネツィアに著名な司法官や軍人を輩出した。現在も存続する一族である。バルバリーゴ家としてプリウーリの2人の兄弟は、続いて総督宮殿の王座に就いた[マルコ(1485~86)、アゴスティーノ(1486~1501)の事]。

最初のロレンツォ(1556~59)は大変な威信と権力を得たが、父親は不幸にも息子の邪悪さが心配のあまり、死んでしまった。彼の後任となったのは弟のジローラモ(1559~67)で、彼は正に熟慮の人であり、元老院の多数から尊敬された。というのは彼自身慎重で、冷厳な人物であり、貴族階級に対し、厳しい姿勢を貫き、人々は、彼は彼の一族の一人の非行に対して責任がある、そういう一家の一員であるとは考えなかった。3番目の総督アントーニオ・プリウーリは教養ある法曹家だった。」

プリウーリ・ボン館の右隣は、バッキーン・デッレ・パルメ館前部に庭があり、更にその右はドゥオード館です。エレオドーリの『大運河』は次のように述べています。

「14世紀終わりから15世紀初めにかけてのヴェネツィア・ゴシック建築の変遷の様相を示す、屋根裏部屋を持つ小さな建物である。ピアーノ・ノービレ(2階)の中央に屈折したアーチの美しい四連窓が開け、露台が突き出して、両脇に一面窓を従えている。1階と中2階は次の世紀に模様替えされた。左隣には壊れたコンタリーニ館の庭(バッキーン・デッレ・パルメ館前部の事)がある。

ドゥオード家については1000年代から史料があり、数多くのキャプテン達が何世紀にも渡って一家の名声を高めた。1704年、ピエートロの死が大きなスキャンダルになった。修道女の嫉妬のために、パーオロ・ドナに殺されたのだった。」

更に右隣はトゥローン館です。前掲書の記述を借ります。
ドゥオード館ほか「16世紀終りのルネサンス様式の美しい建物である。この建物以前の、非情に古い建物の上に建てられた。トゥローン家が10世紀にサン・スターエ教区に属すると確認されて以来のことである。ファサードは露台で強調され、柱の上のアーチとなった大きな五連窓[写真で見る限り、四連窓に見えます]で、2階、3階の中央に開けている。そして一面窓で両脇を固めた[四連窓の両脇に一面窓、更にその両脇に一面窓がバランスを外してあるように見えます]。現在は建築大学が入っている。

トゥローン家はヴェネツィア起源の“16護民官家”の一家である。裕福で影響力のある一家であったが、トルコとの戦争に凄まじい量の血を注いだ一家でもあった。総督ニッコロ(1471~73)は優秀な政治家で、当時17歳だったカテリーナ・コルネールがキプロスのルジニャン王ジャック2世との結婚に際しては大変面倒を見た。この重要な島とヴェネツィアの合法的な合併を画策し、事実そうなったのだった。

彼は市民達から珍しい贈物を貰った。それは、“トゥローン総督閣下は性悪だが善人だ”、という呼称である。彼はサンタ・マリーア・デイ・フラーリ教会に葬られ、墓の彼の像は主祭壇の左に置かれた。大きな口髭を目にすることが出来るが、それは彼の一人息子が死んだ時、生えるに任せ、永遠の喪に服する印として決して剃らなかったものである。

トゥローン家の権威と富は斯くも大きなものであったので、1775年皇帝ヨーゼフ2世のヴェネツィア訪問の折には、自分の館にお招きし、豪華な晩餐会の後、有名なパーティを催す栄誉を許されたのだった。サン・スターエ教区のトゥローン家は1800年ヴィンチェンツォで血筋が途絶えた。」
  1. 2017/05/11(木) 00:21:53|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
  3. | コメント:0

ヴェネツィアの街案内(21)

(続き)
「この広場ではサン・ポーロ広場やサント・ステーファノ広場でのように、古くは闘牛の祭が行われていた(実際、とりわけ牛伝説があったのである)。周りには素晴らしい館が建っているが、それはプリウーリ館であり、ドナ館であり、ヴィットゥーリ館であり、かのマリピエーロ・トレヴィザーン館である。1800~1900年代に公妃ハッツフェルトの所有で、国際色豊かな、人気の文学サロンを主宰した。

この住居の傍に、ルーガ・ジュッファ(Ruga Giuffa)橋があり、記憶によれば、Julfa(or Culfa(アルメニア―アゼルバイジャン)から来たアルメニア商人の事であるが、古い資料ではGagiuffaという名前は、gajufusから、そしてダルマティアのgejupkaから来ており、ジプシーを意味している。ここからgaglioffo(悪党)という言葉は来ているだろう。これらgajuffosというのは、あたかも助けを必要としている善男善女、の振りをしている連中である。病院や修道院、同信会館等を回って、寄付を乞うのである。
カナレット『サンタ・マリーア・フォルモーザ広場』パルマ・イル・ヴェッキオ画『聖バルバラ』(部分)[左、カナレット画『サンタ・マリーア・フォルモーザ広場』、奥にフォルモーザ教会が見える。右、パルマ・イル・ヴェッキオ画『聖バルバラ』(部分)]  この教会の内部は7世紀に作られたが、M.コドゥッチによって再建(1492年)され、聖バルバラに捧げられたヤーコポ・パルマ・イル・ヴェッキオの多翼祭壇画のあるボンバルディエーリ(砲手)同信会館の教会である。

教会背後はクェリーニ小広場に、クェリーニ・スタンパーリア財団があって、蔵書豊富な図書館、絵画の注目すべきコレクションがある。ここの収集品について触れるのは止めて、唯一ヴェネツィアの生活を描いた、ガブリエーレ・ベッラの興味深い69点の作品(1700年代半ば)があることに触れておこう。

サンタ・マリーア・フォルモーザ広場に戻り、カッフェで一服し、周りの景観にうっとり等したくないなら、鐘楼を後にして、プレーティ運河通りへ出て、直ぐ最初の橋を横切り、次の橋の上に建つゴシック式の素晴らしいアーチを眺めよう。そしてパラディーゾ通りへ入る。これは扶壁を備えた建物の二つの翼に挟まれた中世の面影を残す通りであり、通り終りにもゴシックのアーチがある。
[一階軒下の梁を支える桁が露出した様子が興味深い通りです。日本の組物の一手先(ひとてさき)のような雰囲気です。これが中世の面影でしょうか。]

この通りにヴェネツィアとその伝統文化について専門に書かれた本の編集出版のフィリッピ書店がある(フィリッピ氏はウーゴ・プラットをよく知っていた)。この魅力的な通りを後にして、サン・リーオ大通りを右へ行こう。その右手には、13世紀の小館がペアーで建っている。サン・リーオ広場にはビヤホール“オランデーゼ・ヴォランテ”がある。
パラディーゾ通り Poeta LibertinoPietro Buratti『Elefanteide』ジュゼッペ・タッスィーニ『ヴェネツィア興味津々』[左、サイトから借用。右3点、フィリッピ書店出版の本、ここでジュゼッペ・ボエーリオの『ヴェネツィア語辞典』等買いました]  広場は右にそのまま置いて真っ直ぐ行き、サンタントーニオ橋を越え、ビッサ通りをサン・バルトロメーオ広場に出るまで進む。今や足を休め元気回復する時である。選択肢は様々で刺激的だ。即ちゴルドーニの銅像を背にして右の通りを選べば、テントール小広場に出、バーカロ“アイ・ルーステギ”がある。
[バーカロについては、2011.12.24日のバーカロ(1~3)で触れました。]

これには選択が色々、右へ行けば、エキゾティックな料理が好みの向きには中華飯店“アル・テンピオ・デル・パラディーゾ”、そしてヴェネツィアの新しい世代の夜のランデヴー用に典型的なバーカロ“アッラ・ボッテ”がある。

もしこうしたカオスがお好みでない方は、近くのビッサ通りの歴史的総菜屋、永遠の鰯入りのモッツァレッラ・イン・カッロッツァ[モッツァレッラ・チーズのはさみ揚げパン]のある歴史的総菜屋(月曜休み)に逃げ出そう。

この近辺で、狭いボンバゼーリ通りの一角の背後に、町でも歴史的なレストランがある。ウーゴ・プラットのお気に入りのレストランであった“アル・グラスポ・デ・ウーア”である。現在では経営が変わって終ったが、かつてはグイード・モーラの伝説的レストランであり、氏は特別の機会には店を閉め、友人達のために夜の7時前には決して終わる事のなかった素晴らしい午餐を用意した。芳香馥郁たる料理からはあらゆる種類の美味なるものが立ち上り、高揚感とシャンペンに満たされて最高気分になり、陶然として軽やかに幸せな心地で“グラスポ”から外へ出ると、それはもう“ウーゴ・プラット王”の時代であった。

この店で“パヴィーア”とかいう人がカメリエーレとして働いていた。彼はマエーストロに昇るまで、コルト・マルテーゼに彼の一面を描いてくれるよう、紙とマーカーを差し出した。プラットは細緻な絵を描いたが、それは女性の美しいお尻であった。事は何年も続き、ある年、コルトの自画像を描いてもらえないという、パヴィーアの不平不満にマエーストロは、彼に次のような事を思い出させて納得させようとした。彼が彼の英雄の像を手にしていないのは本当だが、その代わり今や世界でも第一のプラットのお尻のコレクターであり、いつの日かこの特異のコレクションで思い出されるに違いないことは確実である、と。 ……」 (終り)
  1. 2017/05/04(木) 00:05:23|
  2. ヴェネツィアの街
  3. | コメント:0

カウンタ

カレンダー

04 | 2017/05 | 06
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -

プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

最近の記事+コメント

カテゴリー

ブログ内検索

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク

このブログをリンクに追加する

過去ログ

フリーエリア