イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

所謂《ゲットー》について

今までヴェネツィア或は違った土地の“ゲットー”について触れてきました。特にはヴェネツィアのゲットです。2016.05.19日のユダヤ人や2016.06.09日のゲットで触れました。ヴェネツィアのゲットの語源が違うと言う本が現れました。今はこの説を全面的に信じています。

アリス・ベッケル=ホー著『ヴェネツィア、最初のゲットー』(木下誠訳、水声社、二〇一六年三月一五日)は、例えば私が信じていた、そこが鋳造所(gettoジェット―ヴェ語getoジェート)であった島をゲットと呼ぶようになったという説を根拠なしとして否定しています。次をご覧下さい。
ヴェネツィア、最初のゲットー「……1516年に、元老院は《ユダヤ人を町の中で隔離し、サン・ジローラモ小行政区の小島に移送する決定》を行った。そして、三月二十九日に、政令が公布され、《ユダヤ人は全員、サン・ジローラモの近くのゲットー所在の一群の家に集まって住む》ことを命じたが、この文言はリッカルド・カリマーニが引用した最初の版のもので、やや後に、それは《サン・ジローラモの近くのゲットーにある一群の家々》と訂正された。
……
このジェトもしくはゲト(g(h)eto)という語が示す場所は、ヴェネツィアで慣例となっていたように、コントラーダ(小行政区―行政上の下位区分)――この場合、カンナレージョ地区(セスティエーレ)(ヴェネツィアの六地区の一つ)の中にあるサン・ジローラモ・コントラーダ――への所属によって場所が画定される既存の街区(カルチェ)であり、おまけに、そこには、その街区がユダヤ人に譲渡された時にはすでに建物があってヴェネツィア人の住民が住んでいたにもかかわらず、いったいなぜ、その語は、ユダヤ人の定住の後にしか現れないのか?
……
ヴェネツィアはそのために、あらゆる外部からの干渉を排除した経済商業政策を確立し、きわめて早い段階から、唯一の人間の手に絶対的権力が握られる危険を制限した(ドナテッラ・カラビが明確にしたように、《総督(ドージェ)政府は、複数の権力の関係と均衡と保証の緊密な網の目の上に築かれた共和制政体である》。

Al.ル・マッソンは、こう記している。《あらゆる公職に就き、いかなる勲章も求めず、自分の名にいかなる称号も付けなかったヴェネツィアの貴族たちは、事業を指導し、国家に献身的に仕え、国民の頭脳であると同時に腕でもある特権以外の特権は手に入れなかった。[……]すべては民衆のためだが、何も民衆によってなされるのではない、というのがこの貴族階級のモットーだった。》さらに、アルヴィーゼ・ゾルジは《ヴェネツィアの文化においては、専制君主のための場はなかった》と断言している)。

そして、最後に、ヴェネツィアは、ビザンティン帝国の最良の伝統に従って、外国人商人の居住を促進し、適切な司法官職を作って彼らの結社を管理するとともに保証したのである。《共和国は、自らの周縁性を意識して、人々を引き寄せる極、必ず通過せねばならない場所、商品を一時的に降ろす寄港地、首都の商業交易の活気あふれる中心地という評判を常に強く求めてきた。》

自らの利益をよく考えて守りながらも、ヴェネツィアは、その町の威信と富に魅かれてやって来るあらゆる種類の外国人を常に断固として、名高い歓迎の態度でもって扱ったが、彼らがその町に魅かれたのは、その場所で商売を行い、豊かになり、要するに他のどこよりも――すなわち、戦争と追放によって自分たちが追われた国々よりも――良い生活を送る可能性がそこにはあったからでもある。そうでなければ、なぜあれほどの外国人の流入があったのだろうか?
……
ゲットーはと言えば、ドックについて見たように、それはフォンテゲットー(fonteghetto―イタリア語のフォンダケット(fondachetto)の後半部分にほかならないことは明らかである。フォンテゲットーは、アラブ語のフォンドゥク(fonduq)の直接の借用語であるフォンテゴ(fontego)の指小語で、外国人の共同体に住居として割り当てられた委譲地――隊商宿型(キャラバンサライ)の――を意味する。ラビのヴェルトハイマーが立てた仮設は、それゆえ、あらゆる仮説のうちで、もっとも真実に近かったのである。……」

現在《ゲットー》という言葉は押し込まれて隔離されたマイナーな空間が普通イメージされます。そうでなければ、ヘブライの言葉で疎外とか隔離とかマイナーな意味合いの言葉から発生した等の発想はなかったでしょう。ヴェネツィア以外の地では、《ゲットー》はイタリアでもアルプスの北でも強制収容所的な閉ざされた場所だったのでしょう。ヴェネツィアのゲット内部は明るい、自由な空間だったようです。

それはドイツ人商館やトルコ人商館が残っているように、商館(フォンテゴ――Fontego dei Tedeschiのように)は商業の場所であり、宿舎であったので、指小辞の-ettoを付けたユダヤ人達のヴェネツィア語のFonteghettoも商売のハレの場であり、慰安の我が家だったのでしょう。ゲット入口に門衛が置かれたことは彼らの大きな財産が守られることにもなりました。そうでなければ、拳骨橋の殴り合いにヴェネツィア人と一緒になって参加し、楽しむなどということは起こらなかったでしょう。リボルノのユダヤ人の歴史を勉強しなければと思った事でした。

訳者は巻末の訳者解題で次のように述べています。
「……ゲットーを《鋳造所》《隔離》《離縁状》《格子》《小地区》と見るか、《倉庫》《宿舎》と見るかは、ゲットーを否定的なものと捉えるのか肯定的なものと捉えるのかという二つの世界観の戦いを反映しているのである。……」と。

[1938年頃、ゲット人口は約1200人位だったそうですが、ナチとファシストに負われるようにUSA等に逃げ出しました。私が初めてここを訪れた1994年には片手位の家族しかユダヤ人はいないのではないか、と言われました。商店など皆無で閑散と明るい広場でした。現在500人以上の人が舞い戻って来て、キッパ帽を被ったり、黒いユダヤの上下スーツと山高帽で正装した人々が闊歩し、商店も出来て賑わいを見せています。かつての商館的なゲットの雰囲気で世界にヘブライを発信している感じです。ここは強制収容所的《ゲットー》ではなかったのです。Youtubeの《Storia del Ghetto a Venezia(ヴェネツィアのゲットの歴史)》が参考になります。]
  1. 2017/05/18(木) 00:05:36|
  2. ヴェネツィアの伝説
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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