イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

クシシトフ・ポミアン著: ヴェネツィアの『コレクション』(2)

(続き)
「同時代の絵画に対する強い関心が顕著に見られるのは、ヴェネツィア貴族界には所属せず、買い取りや注文を通して自分のコレクションを形成する蒐集家においてであった。それはまず第一に、ヴェネツィア在住の外国人である。たとえば英国領事ジョゼフ・スミス(1674~1770。1700年頃以降ヴェネツィアに在住)は晩年、英国国王にカナレット54点、マルコ・リッチ42点、ロサルバ・カリエーラ38点、ツッカレッリ36点、セバスティアーノ・リッチ28点、ジュゼッペ・ノガーリ9点、カルレヴァリス6点、ピエトロ・ロンギ4点を売却した。
マンジッリ・ヴァルマラーナ・スミス館[スミスが住んだスミス・マンジッリ=ヴァルマラーナ館] しかしそれは、もっとも古い作品の堂々たるコレクションと共に、スミスの宮殿に集められた同時代ヴェネツィア芸術家たちの絵画、素描、版画の一部にすぎなかった。ティエポロが欠けており、一般に歴史画にはあまり関心を示していないのに比べ、ロサルバ、マルコ・リッチ、カナレット、ツッカレッリが大きな位置を占めているのは、当時のヴェネツィア絵画のなかでスミスを特に引きつけたのが、目に見える世界の表象であったことを示している。
[ジョゼフ・スミスについては2012.10.13日のヴィゼンティーニ等で触れています。]

またその装飾的価値ももちろんあっただろう。カナレットの作品のうち、戸口上部の装飾画が13点、ツッカレッリの作品には11点あった。スミスはフランドル絵画もいくつか集めていたが、そこでも特に評価していたと思われるのは、目に見える世界の表象である。ところが古いイタリア画家においては、彼はとりわけ宗教画を好んでいた。

スミスの場合はいろいろな点で例外である。かくも長い期間にわたって、外国人がこれほど多彩な役割をヴェネツィア文化生活において演じたことはなかった。また、知っておくべきことだが、彼に匹敵するようなコレクションを揃えた人はだれもいなかった。けれどもまさにその規模のために、スミス・コレクションはまるで拡大レンズのように、それなくしては見定めることが難しいような傾向(といっても、それは当時の蒐集家たちの傾向でもあるのだが)を明瞭に示してくれる。

同じように、非常に充実してはいるが、もっと小規模で知名度も低いシューレンブルク元帥(1661-1747。1715年以降ヴェネツィア共和国に居住)のコレクションは、スミスとは反対の傾向を明らかにしている。それは実際ピアツェッタ、ピットーニ、ジャン・アントニオ・グワルディの数多くの作品を収めており、歴史画に際立った特権を与えていた。

他の外国人蒐集家たち、たとえばジギスモント・シュトライト(1687-1775)などは、この二つの極のあいだに位置しており、とりわけ古い作品に関心を抱いていた。その何人かについては、のちほどまた触れることになるだろう。

ヴェネツィアの蒐集家を生み出す第二のグループは、《中産階級》という通用範囲の広い言葉で呼ばれる。その中には、歴史の浅い貴族やブルジョワジーもいれば、聖職者階級に属し、懐胎期にあるインテリゲンツィアを代表する人々もいた。それはまた《自由業》に携わっていたり(医師、弁護士、芸術家)、卸売業者、数は非常に少ないけれども請負業者であったりもした。

これらのカテゴリーの第一番目、すなわち事実上の知識人ではあるが公の身分は明らかにそれとは異なる人々の趣味は、18世紀を通して、連続する三つの世代に属する三人の人物のコレクションによって例証されうる。

一番時代が古いのは、医者の息子であり、死の6年前に女帝マリア=テレジアによって伯爵に叙せられたアントン・マリア・ザネッティ(父―1680-1767)である。1720年以前に早くも、ピエール・クロザや、生涯友情で結ばれたピエール=ジャン・マリエットと交友を始めたザネッティは、パリとロンドンに旅行したあと、ヴェネツィアにあって、外国人の何人かの大蒐集家たちの親しい代理人として、彼らの売買の仲売人をつとめた。彼らにとって、ザネッティ以上の相手は見つけることができなかった。

ザネッティは自分自身芸術家で、才能ある版画家・風刺画家であり、古代遺物にも精通していた――彼の所有する彫刻石はジョゼフ・スミスのものよりはるかに優れている。彼はまた、集めた作品によってばかりではなく、美術骨董界で重きをなす全ての人々で構成された交友関係における影響力によっても、当時のヴェネツィア蒐集家のうちでもっとも重要な人物の一人であった。

さて、彼のコレクション中の絵画は、ほとんどが同時代のものであった。なかでも彼の友人であったセバスティアーノとマルコ・リッチのいくつかの作品、またツッカレッリの二枚の風景画、ロサルバのパステル画数点とミニアチュールが含まれている。それに加えて版画のまれに見るコレクションがありレンブラントならびにカロの全作品を含んでいた。また過去の巨匠と同時代の芸術家の素描コレクションもあり、セバスティアーノ133点、マルコ・リッチ141点が含まれていた。……」 (3に続く)
  1. 2017/06/29(木) 00:03:00|
  2. ヴェネツィアに関する書籍
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クシシトフ・ポミアン著: ヴェネツィアの『コレクション』(1)

ヴェネツィアで収集された各種の物、例えば彫刻、骨壺、浮彫、碑文、箪笥、メダル、カメオ、指輪、ランプ、フィブラ、花瓶、蝋燭立て、十字架、香炉、聖遺物容器、祭壇飾り、聖体器、聖杯、楽器、鎧、鍵、籠手、馬用面頬、短銃、矛槍、剣、鉄砲、槍、角笛、版画、花瓶、自然物、とりわけ絵画です。

古代から色々なコレクションがあり、ヴェネツィア(ヴェーネト)とパリのコレクションについて述べた『コレクション――趣味と好奇心の歴史人類学』(クシシトフ・ポミアン著、吉田城・吉田典子訳、平凡社、1992年5月13日)という本があります。
コレクション「アポストロ・ゼーノ(1668~1750)の書簡を調べると、メダル・コレクションの成立を跡づけることができる。つまり値切るための交渉、真贋の吟味(なぜなら市場には偽造や不正取引のメダルが出回っていたから)、専門家への照会、交換である。1708年に創設されたゼーノ・コレクションは、1726年には約5900点のメダルを収蔵しており、そのうち700点はギリシア、700点は金、1400点は銀、1000点は大型ブロンズ、1600点は中型ブロンズ、800点は小型ブロンズであった。

ゼーノと同様ヴェネツィア人であったオノリオ・アリゴーニ(1668~1758)は、メダルを求めてイタリア全土を25回も旅行した。彼は1740年頃にはおよそ20000点のメダルと、それに他の古代遺物――分銅、ランプ、壺、エジプトの小彫刻、護符、供犠の道具――を集めた。けれども、メダルと古代遺物に関してもっとも立派な収穫をあげることができたのは、東方においてであった。

それを示しているのがジャンアントニオ・ソデリーニの例であって、彼は初めエジプト、聖地、トルコ、そしてギリシアの島々、さらには軍隊の指揮を取っていたザーラ(ザダル―アドリア海に面した現ユーゴスラヴィアの港町。15世紀から18世紀までのヴェネツィア領)への旅行を通して、その立派な陳列室を整備したのだった。

同じようにマルカントニオ・ディエードは御用商人(プロッヴェディトーレ)をつとめていた軍隊から戻って、ゼーノに自分の《無数の》メダル、彫刻、碑文、浅浮彫、壺などを見せて驚かせた。ヴェネツィアでは、ギリシアや東方から戻ってくる旅行者がメダルを持ち帰ることがよく知られていた。そこで好事家は、たとえばスポンがその楽しい経験を味わったように船が到着するとそこに買い求めに来たのだった。
……
それから20年間の空白がやってくるが、そこに1630年のペストの影響を見ないわけにはいかないだろう。なるほど、ピニョーリア[PignoriaはSignoriaと同様、ピニョリーアと発音するでしょう]のことを知っていて、その図書室とコレクションの記述を行ったジョヴァンニ・フィリッポ・トマシーニ(1595~1655――Tomasiniはヴェネツィアではトマズィーニ)なる人物がいて、ジョヴァンニ・デ・ラザーラと交際していた。

けれどもこの種のまれな事実だけでは、17世紀初頭の世代と、世紀後半にやってくる世代――その首領はセルトリオ・オルサートである――とのあいだに橋を架けることができない。オルサートはイレーネ・マントヴァ・ベナヴィデス(アンドレアの妹)の夫で、先祖からのコレクションの最後の管理者であり、碑文研究におけるチェルキアーリの師匠であって、ヴェネト地方で古代碑文に関心を持つ全ての人に影響を及ぼした。彼はジョヴァンニ・デ・ラザーラの友人で、他のイタリア都市や外国の多くの学者、古代遺物蒐集家たちと書簡を交わしていた。

彼に直接間接に師事した弟子のなかでは、カミーロ・シルヴェストリが筆頭格で、オルサートの築いた碑文コレクションを受け継ぐことになった。それはパドヴァからロヴィーゴに移され、カミーロの息子カルロ・シルヴェストリによって、音楽愛好家アカデミー博物館のためにマッフェイに売られ、そこでニケソーラの大理石と一緒になった。

カミーロ・シルヴェストリの非常に広範な交際の網目の中には、ジュラントニオ(Giulio Antonioジューリオ・アントーニオの事?)・アヴェロルディ、ジョヴァンニ・マルツィオ・チェルキアーリ、シャルル・パタン、カルロ・トルタ、アポストロ・ゼーノ、シピオーネ・マッフェイといった、われわれがすでに出会った何人かの人物がいる。この最後の二人は――といっても、彼らだけというわけではないが――好奇心と古代遺物学の伝統を、遠く18世紀にまで延長したのである。……」 (2)に続く

この分厚いA5版の濃密な内容の本を要約するのは私には丸で無理です。次回は中心となる絵画のコレクションについてです。
  1. 2017/06/22(木) 00:27:14|
  2. ヴェネツィアに関する書籍
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ヴェネツィアの建物: Palazzo Zen、 P.Corner等(ゼーン館、コルネール館)

マルチェッロ館を過ぎ、更に右に進みますと、ゼーン(ゼーノ)館となります。E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のように教えてくれます。

「ここには1849年のオーストリア軍の砲撃で破壊された古い建物が建っていた。その後、拡張され、再建された。建物は非常に簡素で入口大門とは際立って、上中央部の脇に置かれた長方形の窓がある。

ゼーン家は古い家柄で現在も存続し、著名な人物を輩出し、総督一名も出した。レニエーロ(1253~68)で、彼はレヴァントでジェーノヴァとの商業戦争を不誠実な行為として終りにしようと決め、敵対する相手に最初の戦いを開始した。
ゼン館海軍大司令官として、ヴェットール・ピザーニ以外にカルロ・ゼーンがいた。彼はある嵐の夜、自分の配下とヴェネツィア海軍の援助を得に駆け付けた。そして敗退するまで作戦を指揮し続けた。その時の事である、海兵達が気付いたのは。彼が咽喉に突き刺さった矢を、荒々しく引き抜いたので正に出血のあまり窒息死しかねない状況だったのである。

ヴェネツィアがジェーノヴァとの平和協定を結ぶために、傷が癒えて、栄光に包まれた彼を派遣して彼を称えた。続いて、彼は英国と仏国の外交使節となった。最後にまた、今度はテッラフェルマ(本土)でのパードヴァとの戦争に送られた。

しかしいかなる理由で、突如裏切りの罪で投獄されたのか分明でない。2年後自由の身になったが、哀れゼーンは輝かしい履歴にも拘わらず、寂しく引退し、我が家で生活することも拒絶された。

彼の死に際して、ヴェネツィアは彼の事を思い出したのである。彼を死装束に着替えさせた時、30にも余る傷で彼が苦しめられた瘢痕の多くは確かに酷いもので、彼の傍で戦った者達も気付かないものであった。人々は死後になってようやく、彼の偉大さに敬意を払い、葬列に加わったのだった。」

ゼーン館を過ぎ、更に右、2軒先に、ドナ・バルビ館があります。エレオドーリの『大運河』(1993)は次のように言っています。
コルネール館「17世紀の大きな建物で、非常に古い構造を利用して建てられたもの。ファサードの開口部である窓の配置が、普通でないことを示している。それぞれの階の窓は、右の四連窓から左端の一面窓へと、減少数でグループ化して配置されている。今日、教育監督局の所在地である。」

更に右の20世紀住宅の先に、コルネール小館がある。やはり『大運河』(1993)の記述に従います。

「16世紀後半の建物である。ルネサンス初期の優雅さと軽やかさを持っている。ファサードは非対称で、開口部は左に集中している。コルネール家、あるいはコルナーロ家は古い四福音史家(or福音書記者)家族の一家で、ヴェネツィアを立ち上げた基の家族である。非常に重要な一家で、共和国の生活には多大の影響を与えたのであり、大運河に建つ壮麗な建物の多くは、この名前と繋がっている。

[四福音史家家とはマタイ(Matteo)、マルコ(Marco)、ルカ(Luca)、ヨハネ(Giovanni)を称する、ジュスティニアーン、コルネール、ブラガディーン、ベンボの4家。因みに十二使徒、ペテロ(Pietro)、ゼベダイの子ヤコブ(Giacomo di Zebedeo)、ヨハネ(Giovanni)、アンデレ(Andrea)、ピリポ(Filippo)、ヤコブ(Giacomo)、トマス(Tommaso)、マタイ(Matteo)、シモン(Simone)、バルトロマイ(Bartolomeo)、タダイ(Taddeo)、イスカリオテのユダ(Giuda Iscariota、後マッティアMattiaに変更)を称する家は、コンタリーニ、ティエーポロ、モロズィーニ、ミキエール、バドエール、サヌード、グラデニーゴ=ドルフィーン、メンモ、ヴァリエール、ダンドロ、ポラーニ、バロッツィの12家。金色の長いストーラ(stola頸垂帯)を肩から膝まで垂らし、サン・マルコの騎士と世襲で称する権利を有する、騎士勲位を持つヴェネツィア三大名家は、コンタリーニ、クェリーニ、モロズィーニ。コルネール家はこのコンタリーニ家から出た家だそうです。]

1300年代コルネール家は、驚異的な財産を獲得した。スィニョリーア政庁は2人の兄弟にレヴァントで大々的に事業を遂行し、結婚すれば、“妻達が少しはお金を使う手助けをしてくれるから、そうするようにと勧めた”。

4人の総督を輩出した。その一人、やる気のなかったジョヴァンニ(1625~29)は、重い任務から遁れようとした。しかし共和国の財産のために、彼の肉体的精神的状態がそれに堪え得るなら、権力の座を行使するようにきっぱり要求された。傭兵隊長に戦場から退却するのか、お前は?ということである。哀れジョヴァンニはその暗に仄めかされた恫喝を悟って、総督の座に登ることを諦めたのだった。

しかしこの一家の名前が知られていたことは、譬え著名という事でないにしても、それはカテリーナ(1454~1510)の名前で明確である。コルネール家は塩とキプロス島での砂糖農園の専売権を得ていた。政庁の委員会に、島の為政者ルズィニャン家にたっぷりと財政援助をしており、ピスコピアの領地を与えられていた。

それ故驚くには当たらないのだが、17歳のカテリーナがジャック・ルズィニャン(Jacopo Lusignano)王に嫁いだのである。更に総督トローンは、この結び付きの月下氷人として彼女を“共和国のお気に入り娘“と呼ばせ、この結婚式に政治的お墨付きを与え、将来におけるヴェネツィアの優位性の基をキプロス島に築き上げた。

1年後ジャック王が没し、続いてカテリーナの産んだ息子が父の後を追った。豊穣であり、戦略的土地でもあるキプロス島での支配力を強めることを決めていたヴェネツィアが圧力を掛けたが、カテリーナは退位するつもりはなかった。

これはヴェネツィアの長い歴史の中でも、唯一の事であるが、一人の貴族が元老院の命令に従うことを拒絶した。筋から言ってもそれに従うことは、外れていたのだから、政庁は狡猾な策略を弄したということ。結局最終的には、強硬手段だった。
ティツィアーノ・ヴィチェッリオ『カテリーナ・コルネールの肖像』アーゾロ案内ジェンティーレ・ベッリーニ『カテリーナ・コルネールの肖像』[左、ティツィアーノ画『カテリーナ像』、中、アーゾロのガイド、右、ベッリーニ画『カテリーナ像』]  それは1488年のある日、フランチェスコ・プリウーリ率いる武装した艦隊がファマグスタ(伊語Famagosta)の沖合に現れた。使者が女王にトルコ軍が島を攻撃する準備をしていると告げた。カテリーナはヴェネツィア生まれではなかった。他に方策がないと知り、自分の運命に従った。ヴェネツィアに威風堂々と戻され、彼女はクッションに王位の笏と王冠を置き、総督に渡し、アーゾロの地に引退した。そこは彼女に与えられたものであり、芸術家や文学者に囲まれて生活した。

総督コルネールに関する興味深い記述がある。ヴェネツィアでは、鬘のモードはコッラルト(Collalto)の地の誰かがフランスから持ち帰ったものだった。1668年十人委員会は、この風習に対する通達を出した。しかし当時から、各種意見や保守主義者の不平不満があったが、鬘は抑えようもなく広まっていった。ある歴史家はこんな風に嘆いている。“…1500人の鬘…作法を行使する時、彼らは信用され、部屋のドアが開けられる。そして婦人方や乙女達の奥まった深窓の扉も開けられる。彼らは同様に、厚顔無恥のキューピッドの恋の使者であり、善意は見てくれだけの破廉恥な女衒なのである。”

鬘を被る全ての人に税金を課した1701年の通達にも拘わらず、それを身に付けた最初の総督は、1709年のジョヴァンニ・コルネールであり、最後の貴族は1757年に亡くなったアントーニオ・コルネールであった。」

[カテリーナ・コルネールについては、2013.03.23日からカテリーナ・コルナーロ(1~3)で触れました。]
  1. 2017/06/15(木) 00:03:44|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ヴェネツィアの建物: Ca’ Correr(カ・コッレール)他

トルコ人商館を右へ進み、サッカルド館を過ぎると、コッレール館です。E.& W.エレオドーリ著『大運河』(1993)はこの館を次のように述べています。
カ・コッレール「1600年代の簡素で倹しい建築で、長方形のペアの窓が、玄関大門と上の露台付きのアーチの窓の脇に置かれている。コッレール家は非常に古い家柄で、既に9世紀には共和国政府の重職に就いていた。1297年の黄金文書に記載されており、そこから高位聖職者が輩出し、その中にはグレゴリウス13世(1406~09)となったアンジェロがいる。
[彼には苦行僧の面影が強かったそうです。この記述には間違いがあり、アンジェロ・コッレールはグレゴリウス12世となり、在位1406~1415年で、教会大分裂の混乱期の教皇でした。グレゴリウス13世(1572~85)は、天正遣欧少年使節に謁見し、ユリウス暦を廃し、グレゴリウス暦を採用したことで特に有名です]

彼は外交的才能が豊かであったが、総督としての能力はなかった。ヴェネツィア人は生来の用心深さと警戒心から、教会にべったり傾いた一家に属する人間を総督として選ぶようなことは先ずしなかった。譬え無関係の立場を維持する決意が表明されても、一人の貴族が宗教生活を選ぶなら、そのような人物は直ぐに元老院から追放されるし、高位聖職者の職務を引き受ける前に、ヴェネツィア人としては政庁の承諾を得る必要があったのだ。
[彼は1406年11月30日教皇に選出され、1415年教会の安定を願ってリーミニに隠棲、1417年8月18日レカナーティで亡くなりました。]

この館でテオドーロ・コッレールが1750年12月12日に生れた。彼は1830年現在サン・マルコ広場の新行政館にある、あの素晴らしい美術館を設立した。」

更にボーイア館(Boia=死刑執行人)等を過ぎて、ジョヴァネッリ館となります。『大運河』(1993)の記述は下のようです。
[かつてアパートを借りたテースタ通り、ラルガ・ジャチント・ガッリーナ通りから北へ入り、直ぐ左の角の6216番地の建物壁面に大きな顔の像が嵌め込まれており、1400年代死刑執行人が住んでいたと言われています。当時その像の口に、死刑になった人についてのコメントが挿し込まれたものだ、とか。このボーイア館にもそんな話があるのでしょう。]
ジョヴァネッリ館「恐らく15世紀半ばに遡る、中央に美しい四連窓があるゴシック建築である。オリジンはフォスカリーニ家で、ジョヴァネッリ家が1700年代、後を継いだ。現在は国鉄の事務所が入っている。ジョヴァネッリ家はハンガリーで鉱山業を営み裕福になった、ベルガモ出身の一族である。その功績で貴族に叙された。

その後ヴェネツィアに到来し、1668年の黄金文書に記載された。“お金”で貴族になったのである。共和国には3人の著名なサン・マルコ財務官を送った。」

そしてサン・ザン・デゴラ運河やリッツォーリ館等を越して行きますと、マルチェッロ小館となります。[サン・ザン・デゴラ(S.Zan Degorà=伊語San Giovanni Decollato(サロメによって首を刎ねられた聖ヨハネの意)教会が奥にあります]。『大運河』(1993)は次のように言っています。
マルチェッロ小館「ノービレ階(主人達が使用する階)が唯一つの小さな建物である。その階は中央のセルリアーナ式一面窓に楣式(まぐさ)構造の軒蛇腹が内接してアーチ枠で支える一面窓が両脇に置かれている。17世紀の建物では普通の事であるが、建築はその世紀半ばに始まった。

マルチェッロ家は栄えある古代ローマ起源の、同名の一族である。一家からは2人の総督が出ている。第2代総督テガッリアーノ(717~726)であり、初代・2代2人の内のこの2番目は、ヴェネツィアがビザンティンから政治的に自由になる前、バシレウス皇帝の是認を受けていた。そしてニコロ(1473~74)である。

しかしこの一家がヴェネツィアに輩出した数多い著名な将軍や政治家の中で、その名が燦然と光り輝くのは2人の兄弟音楽家の栄光故である。アレッサンドロ(1684~1750)と更に有名なベネデット(1686~1739)である。

ベネデットはマッダレーナ運河のマルチェッロ館で生まれた。いかなる貴族であったか、ベネデットの生活は共和国の政治に向けられていた。事実彼は重要な職務を熟した。ポーラ(スロヴェニアのPula)の施政長官、そして四十人委員会の仕事、それ故音楽は彼の単なる趣味(情熱)だった。

誇りの中に彼を駆り立て、彼を暗中模索から引き摺り出したのは、父親だった。ある日、既にヴァイオリンの名手だったアレッサンドロがお客達の前で演奏し終わった後、父がベネデットに言った。「お前だって、楽器の収集家ぐらいにはなれるよ」と。

この時以来、この若者は兄に劣らぬ姿を示したのだった。複雑にして、相矛盾する楽曲、生き生きとしてファンタジックな想像力でありながら、内向的でメランコリックな着想、彼はいくつかの作品、今日でも評価され演奏されるオーケストレーションされた楽曲や称賛さるべき詩編歌を書いた。

彼は鋭く、辛辣な評論家としても登場する。彼は芸術的霊感と呼べるに値するやり方で恋をした。ある夜、窓辺を近所の人数人が乗った船が通りかかった。その中に素晴らしい声の娘がいた。ベネデットにはその音楽は、自分の目指すものと同じと思えた。そこで下へ降りて、ゴンドラの人々と合流し、歌手を知った。彼女をレッスンし、結婚することになる。

ある日、相当後の事だが、教会にいた時、墓石が倒れ、彼は膝から穴に倒れ込んだ。起き上がったが、彼の少々特異な性格から、この事件が強迫観念になり、言うに言えない警告となってしまった。このため音楽を捨て、宗教書に没頭するようになった。53歳で亡くなったが、その時ブレッシャの財務官で、青年時代の病が悪化したのだった。

彼の遺書は相続人や子孫に音楽に携わることを禁じている。」
[マルチェッロについては、2008.12.27日のサンタンジェロ劇場や2014.08.14日のマルチェッロ館等、色々触れてきました。Youtubeにマルチェッロの有名なオーボエ協奏曲があります。この作品は現在兄アレッサンドロ作と同定されているそうです。]
  1. 2017/06/08(木) 00:05:46|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ヴェネツィアのヴォガロンガ(43回目)

本日の新聞La Nuova紙に船の長距離漕(ヴォガロンガ)の記事が載っています。少し訳してみます。
サン・マルコ湾の船「 ヴェネツィア、2000艘のヴォガロンガ大会
――今年の大会はリーノ・トッフォロに捧げた大会で、沿岸の声援者は大変な人。例によってカンナレージョ運河は大渋滞――

サン・マルコ湾で9時に伝統的な櫂を高く掲げる、捧げつつの礼、の後、号砲で出発。今年はリーノ・トッフォロに捧げた43回目のヴォガロンガである。彼はムラーノ島の自宅のような大きな船で参加してきた。2000艘で、7700名の操舵者。

海、太陽、風、温度、全ては滑らかに進捗した。河岸では感動の嵐があり、熱い声援が飛び交った。数多くの住民や観光客が操舵者を待ち、色とりどりの、また風変わりな、あるいはアルミニウム製やクラッチペダル推進式の船を楽しんだ。……
……」
これだけの船が集まると、大会関係者の努力は大変なものでしょう。宿泊宿や船の係留地等何か月も前から交渉事が始まって、それが43回続いているということです。船が好きだから出来る事なのでしょう。
  1. 2017/06/05(月) 20:55:34|
  2. ヴェネツィアの行事
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天正遣欧使節(10)

世界文化社の『家庭画報』2017年3月号に次のような特集記事が掲載されていました。即ち「誌上初、ヴァチカン教皇庁図書館の至宝を特別公開」として、特集《天正遣欧少年使節団の書簡》という大変貴重なものでした。
天正使節書簡天正遣欧少年使節については、私のブログでも2008.03.21~2013.11.27日天正遣欧使節》(1~9)と触れてきましたが、その内容とこの雑誌で書かれていることに齟齬があるようです。カトリック大辞典(冨山房)を始め、新異国叢書5の『デ・サンデ版 天正遣欧使節記』(泉井久之助、長沢信寿、三谷昇二、角南一郎訳、雄松堂書店、昭和44年9月30日)、ルイス・フロイス著『九州三侯遣欧使節行記』(岡本良知訳注、東洋堂、1942-49年)、三浦哲郎著『少年讃歌』(文春文庫)、松田毅一著『天正遣欧使節』(講談社学術文庫)等、少年使節の行路はリヴォルノに上陸、西海岸沿いにフィレンツェからローマへ、教皇に謁見し、突如の教皇逝去のためローマに2ヶ月滞在後、東海岸沿いにイタリア各地を経巡って、ヴェネツィアに至り、更にミラーノを経てジェーノヴァから船出し、スペインから帰国の途へ、というのが大まかな行程だったようです。

「……1582(天正10)年に長崎を出発し、1585年にフィレンツェに入った使節団は、各地を歴訪した後、ヴェネチアに到着。サン・マルコ広場で祝典行事が催されるなど大歓迎を受けたといいます。その後ローマにて教皇グレゴリウス13世との謁見を果たした彼らは、ヴェネチアに宛てて謝意を綴った書簡を送ります。日本語の原文と訳文、4名のサインも書き込まれた貴重な《感謝状》。現地で購入したと思われる洋紙に、筆と墨汁を用いて、滞在時のお礼と、彼らが見聞したことを日本で披露し布教を約束する内容が書き綴られています。……」とこの雑誌に書かれています。

雑誌の編集部の文章を逆に、2ヶ月のローマ滞在の感謝状をヴェネツィア滞在10日間に書き送ったとすると、時間的にも合致して来ます。ヴェネツィア政府に布教の約束をする必要は皆無です(教皇庁にはする必要があります)。ヴェネツィアに送られた感謝状がローマにある(その逆も)、ということは両市互いに殆どあり得ない事と思われるのです。誤訳があったのか、編集部の不勉強か、何かがあったとしか私には思えません。《ヴェネチア宛て…》ではなく、ヴェネツィアからローマへの礼状でしょう。

先日も読売新聞でヴェネツィアの観光客の数を「2004年―175万人、2014年―260万人」と書いていました。La Nuova紙によりますとヴェネツィアのベッド数は35000だそうで、ツイン(2人)が基本ですが、一人旅や延泊もあるので、平均365日の4分1、90日に90人が宿泊したと仮定して、ホテルで約300万人(多過ぎるか?)。その他未登録のアパートやB&B、ヴェネツィアに泊まれず、近隣のホテル等に宿泊した人々を含めて、船舶、バス・車、電車で到着する1日の観光客は宿泊数の何倍にもなるそうなので、2000万程度になるのでは、と言われているそうです。いずれにしても、鳥取県境港市が水木しげる効果で観光客が200万を越したと喜んでいた時私が訪れた時の人出とは比べものになりません。

事ほど左様に、人は間違いを引き起こすものであり、誤解・書き間違いはもとより、間違った文献を再び書き写すことも屡ですから(私のブログでも間違いを起こし、後でこっそり訂正しました)、私も心しなければ、と思う次第です。

それは例えば、2008.08.31日の私のブログパードヴァ大学で、パードヴァ大学の解剖教室の設計者を、有名な解剖学者のアンドレアス・ヴェサリウス(オランダ人)と書いたのですが、実際はアクアペンデンテのファブリキウス(伊名ジローラモ・ファブリーツィオ)が1594年に作った物であることを後に知り、赤面して書き改めました。

また他の例では、日本ウィキペディアの《支倉常長》の項で、彼はスペインから陸路でローマに行ったと書かれています。彼は地中海を海路でスペインからローマに行く途中、嵐に遭い、フランスのサン・トロペ港に避難し、仏国の土を踏んだ最初の日本人として、戦後発見されたサン・トロペ侯爵の書簡が翻訳され、明らかになりました。そして伊国のチヴィタヴェッキア港に上陸します。彼らが石巻の月ノ浦港を出発してから400年記念の年2015年、私はチヴィタヴェッキアに行き、彼の銅像やら彼らが辿った道筋が石に刻んであるのを視認しました。こういうオープンのウィキペディアの間違いをインプットされると、信じた人は悲劇です。
[チヴィタヴェッキアについては、2015.10.17日のチヴィタヴェッキア行をご覧下さい。]
  1. 2017/06/01(木) 00:09:41|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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