イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ラウラ・レプリ著: 『書物の夢、印刷の旅』(1)

以前2011.06.04日~のブログアルド・マヌーツィオ(1~4)でヴェネツィアの印刷・出版について触れました。その当時の歴史的事実を元に、当時の出版文化をフィクシャスに描いた一種の小説というか、ドキュメントがあります。ラウラ・レプリ著『書物の夢、印刷の旅――ルネサンス期出版文化の富と虚栄』(柱本元彦訳、青土社、2014年12月10日)です。
書物の夢、印刷の旅「古典の発見――まず第一にギリシア、そして次にローマの文学――を目的とする明確な企画が、その他無数の印刷者からアルドを隔てていた。そして極めて洗練された入念な装幀によって、またたくまに押しも押されもしない最高の印刷者となったのである。さらに、イタリック体の導入、小型判、頁番号、句読点法、出版の文化的意図を宣言する前書きなど、印刷物に堂々とした存在感を与えるこうしたすべてのことが、普及の促進につながった。マヌーツィオは、どのような人々が読者になるのかを心得ていたのだ。

それだけではない。おのれの企画に活力を注入するため、アルドはヴェネツィアの文人たち、互いに友人同士でもある彼らを身辺に集めていた。ラムーシオ自身もそのひとりであったし、いまや群れをなすイタリア人文主義者たちの先頭に立つピエトロ・ベンボ、博識のアンドレア・ナヴァジェーロなど、他にも大勢いた。印刷待ちの書物の監修を毎回のように彼らに任せ、その意見には進んで耳を傾けたものだ。

ほどなくしてアルドのカリスマ性は誰もが認めるところとなった。ロッテルダムのエラスムスでさえ、1508年、ようやくにして辿り着いたボローニャ大学――古典古代の文化を訪ね歩く彼のイタリア旅行の最も重要な滞在地――から、純粋に尊敬の思いをこめて手紙をしたため、しばらく前にパリで印刷された彼の作品、『アダジア』の出版をアルドに請うたのであった。

その同じ年に承諾の返事を受け取ったエラスムスは、ヴェネツィアのアルドの家にしばらく滞在し、ローマ古典文学の何冊かを監修することになった。アルドが創設したギリシア・アカデミーに通い、高名な印刷所を中心に集まる数多くの文化人たちと交流を深めたのである。エラスムスはまさに、『アダジア』のこの版によって大きな名声を得ることになる。それまで彼の名は、ごく少数の宗教学の専門家に知られていたにすぎなかった。文献学的に正しい聖書を出版するという壮大な計画を語ったからである。

1515年2月6日、病に倒れて何か月もたたない内にアルド・マヌーツィオが亡くなった。享年およそ六十五、かなりの年齢になってから結婚したマリアとのあいだに、小さな子どもが四人残された。マリアの父親は、アソラの印刷者アンドレア・トッレザーニ、つまりアルドの長年の仕事仲間である――例によって例のごとく共同事業者の関係を強化するための結婚だった――。マリン・サヌードは、都市の重大事件を扱う年代記にこの別離のための頁を割き、葬儀の細部にも触れている。
マヌーツィオの碑アルド・マヌーツィオの碑サン・パテルニアーンの地面に置かれた地図[左、マヌーツィオは最初リーオ・テラ・セコンドに印刷所を創設しました。中、サン・パテルニアーン教会裏に印刷所を移しました。右、現在のマニーン広場に彼が葬られたサン・パテルニアーン教会がありました(写真のようにマニーン銅像下に当時の地図があります)。尚、2007.10.31日のエミリアーナ書店、2007.12.13日のサン・パテルニアーン埋立通り等もご参照下さい。]
取るに足りないような些事にも注意を怠らない彼は、わずかな言葉で的確に、サン・パテルニアン教会でおこなわれたアルド・マヌーツィオの告別式を描写している。アルドが生涯をかけて作りつづけた多くの《書物が棺の周囲に》置かれ、厳粛な葬儀だったが、洗練された演出にも欠けてはいなかった、と。

サヌードのこの十数行の文章のなかに、《アソラの印刷者アンドレアの娘婿》マヌーツィオは生前《多数の献本》をおこなったという記述がある。そして自分もまた《数多くの作品》の献呈を受け、ポリツィアーノのラテン語文献やオウィディウスの『変身譚』などを手にしたと書いている。彼の心のなかには抑えきれない不満が染みついていたが、『日記』のこの言葉を読めば分かるように、少なくとも一度は満足の気持ちを味わったのである。

葬儀の機会に、年代記作者サヌードは、かつて受けた評価に返礼するつもりだろうか、アルドを《最高の文人》だったと読んでいる。ともかく現実主義者のサヌードは、アルドの遺体が、最後の旅路に就くその時まで、薄気味の悪い安置所の暗がりに置かれていたことも書き漏らしていない。 ……」 (2に続く)
RamusioAsola[上記に"ラムーシオ""アソラ"があります。Ramusio、Asola と思われますが、Dizionario d'Ortografia e di Pronunzia(Edizioni RAI)によれば、図版のように《ラムージオ》《アーゾラ》と読むようです。イタリアのPCサイトの辞書"Treccani"も同じようにSを濁る指定をしています。固有名詞は特に正確を期したいものです。尚、2013.08.31日のアレッサンドロ・マルツォ・マーニョも参考までに。]
  1. 2017/07/27(木) 00:06:51|
  2. ヴェネツィアに関する書籍
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ヴェネツィアの建物: グリッティ館他

コルネール小館を更に右へ進むと、右隣にグリッティ館があります。E.&W. エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のような事を語っています。
グリッティ「16世紀の終わり頃、建てられた後期ルネサンス様式の建物で、ノービレ階中央に露台付きの三連窓がある。グリッティ家は"新しい"家族(家系)の一つで、初期から護民官として活動を行ってきた。そして1200年からの活躍の歴史が史書に明らかである。1400年代には家系が途絶えた。
[ヴェネツィアの上流貴族は"古い"と"新しい"家系に分けられ、新しい家系(case nuove)はバルバリーゴ、ドナ、フォースカリ、グリマーニ、グリッティ、ランド、ロレダーン、マリピエーロ、マルチェッロ、モチェニーゴ、モーロ、プリウーリ、トゥレヴィザーン、トゥローン、ヴェニエール。一方古い家系(case vecchie)は二つに区分され、一つはバドエール、バゼッジョ、コンタリーニ、コルネール、ダンドロ、ファリエール、ジュスティニアーン、グラデニーゴ=ドルフィーン、モロズィーニ、ミキエール、ポラーニ、サヌード、もう一つはバロッツィ、ベレーニョ、ベンボ、ガウリ、メンモ、クェリーニ、ソランツォ、ティエーポロ、ザーネ、ゼーン、ズィアーニ、ゾルズィの各12家となっているようです。]

他の貴族の全ての家系のように、セレニッスィマに有能な政治家を送り込んだ。中でも最も重要なのは、ルネサンス期の典型的な人物、アンドレーア(1455~1538)であった。
ティツィアーノ画『アンドレーア・グリッティ像』[ティツィアーノ画『アンドレーア・グリッティ像』]  他国語を数多く話し、教養豊かであった彼は、また商業・軍隊・外交の領域で多様な才能を発揮した。肖像画で見るように体格的にも素晴らしく――そうした肉体派の一人として――ティツィアーノが描いた。晩年まで彼の人生を活気付けた女性達の強烈な恋人像であったし、彼が認知した庶出の息子達が何人もいた。

彼は長年ヴェネツィアから遠く離れた土地で生活してきた。特にコンスタンティノープルである。そこでスルタンの信頼を得ていたのだが、1497年セレニッスィマの情報提供者ということが咎としてあったのか、投獄されたのだった。しかし不興を買った訳ではなく解放され、1503年にはトルコとの和平交渉をする程だった。

50歳代になって祖国に帰り、重要な役職に就任し、1523年には功績で総督に選ばれた。しかしながら彼の庶出の息子達が原因で、その選挙への反対者が沢山いた。というのは元老院でアルヴィーゼ・フリウーリが、"この職はトルコで3人もの庶出の息子を作るような人間がいるべき状態にはないのだ"と、異議を唱えたからだった。

彼の総督在位期間、アンドレーアは海からの危機、即ちトルコからの危機に直面せざるを得なかった。更に陸からも全ヨーロッパを巻き込んだフランスとドイツの確執が押し寄せた。というより、むしろ総督になる前、彼はフランス人に投獄され、パリに連行されたが、こうした危険極まりない重大局面でも、何とか生き延びて来たのだった。

1525年に元老院全員が唖然としたことは、引き続く二つの公聴会で総督アンドレーアは、最初フランスへの大使を受理し、皇帝カール5世(Carlo Ⅴ)によりパヴィーア戦争で拘束されたフランソア1世(Francesco Ⅰ)のために熱い涙を、この人物に対して見せたことであった。直ぐ後にドイツ大使を引き受け、フランソア1世に対するカール5世の勝利を彼と共に喜んだ。

そして歓喜して元老院に報告したのである。彼は喜びに沸く人々と共に喜び、苦しみに悶える人々と共に涙する……と言った聖パウルスの言葉に忠実に従ったのだ、と。

強い、決断力のある性格であり、中でもかつて1172年許可され、彼の先任者誰も公に禁じようとしなかった、サン・マルコ小広場の2本の円柱の間での賭博を禁止したのである。

偉丈夫で精力旺盛、絢爛たる魅力の二枚目であった彼は、また大食漢でもあり、当時の人には、今日のように一般的ではなかった大蒜や玉葱に丸で目が無かったと言われている。彼は病気ではなく、串焼きにした鰻を鱈腹食べ過ぎ、83歳で亡くなった。」
ポラッコ館ホテル・カナル・グランデニーグラ館[中、写真中央、ホテル・カナル・グランデ]  グリッティ館を過ぎますと、倉庫に使用されている建物2棟、20世紀の住宅用の建築等2棟と続き、やはり20世紀建築のCasa Polacco があります。現在はこの建物は右のサン・シメオン・グランド広場からアクセス出来るHotel Canal Grande となっているようです。更に右の20世紀住宅を越えると大運河前が庭となったCasa Nigraとなります。
ジェノヴェーゼ館この建物は建築家ジョヴァンニ・サルディが1904年に建てたネオ・ゴシック様式の建物だそうです。ネオ・ゴシック様式の建物といえば、同じ左岸のサルーテ教会手前にある、サルーテ教会の景観を遮るように建つので評判の悪い、大きな建物ジェノヴェーゼ館(左写真――トゥリコーミ・マッテーイ、1892年建設。現在チェントゥリオン・パレス・ホテル)もそれです。
  1. 2017/07/20(木) 00:06:44|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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クシシトフ・ポミアン著: ヴェネツィアの『コレクション』(4)

(続き)
「以上の伝統的な博物館は、したがって、われわれが革命的と呼ぶもうひとつのタイプ(第二のタイプ)に属する博物館とは、いくつかの点で異なっている。革命的タイプとは、政令によって作られ、国家がもとの所有者たちから没収したさまざまな起源の作品を集めたもので、それらの作品とは何の関係も持たない建物、一般には宗教施設を転用し改装して博物館としたものである。このタイプは、ヴェネツィアではアカデミア美術館によって代表される。
コレクションこれは10年間の準備とジャンアントニオ・セルヴァの指揮による古いいくつかの教会と愛徳学校とラテラノ参事会修道院の改築のあと、1817年8月10日、盛大に開館式が執り行われた。展示された絵画は大部分がさまざまな教会や修道院に由来するものであった。もちろん最初に、絵画や古代彫刻の石膏模型からなる美術アカデミーのコレクションが核になっていたことは確かである。それらはフィリッポ・ファルセッティ神父の所有で、1805年にオーストリア政府によって買い取られてしまっていた。
[愛徳学校と訳されている施設――カトリックの対神徳(virtù teologali)にfede(信徳)、speranza(望徳)、carità(愛徳)があります。Scuola di Caritàはヴェネツィアで言われている《同信会館Scuola》のことでしょう。アッカデーミア美術館は同じ場所にあったカリタ教会、カリタ修道院、カリタ同信会館を纏めて、美術アカデミーと美術館に変更されました。カリタは固有名としてカリタ同信会館と訳すと分かり易いでしょう。]

一方、1816年のジロラモ・モリンの遺贈以来、アカデミア美術館はいくつかのコレクションの寄贈を受け――とりわけ1838年のジロラモ・コンタリーニによる188枚の絵画の寄贈がある――、またいくつかの作品の購入によって内容を豊富にしたが、それはまた、のちに問題にする他の二つの公共博物館形成タイプに関係することである。

しかしながら、やはりアカデミア美術館の設立の起源にあるのは、中央集権的で、近代化を促進する国家権力である。絵画館を持った新しい美術アカデミーを設立するという1807年2月12日の政令は、1803年にボローニャとミラノのアカデミーに出した法令をただヴェネツィアに適用するものであった。

この領域において、オーストリアはイタリア王国によって始められたと思われる政策を遂行したのである。政府は、地方都市を犠牲にして王国の首都を特権化するというその本来の目的のために、芸術作品を配置していたのであった。したがってヴェネツィアの絵画はミラノのブレラ美術館に送られていた。ブレラ美術館には全ての地方《流派》のもっともすぐれた代表者の最高の作品を集めようとしたと思われる。

それに対して各地方の《流派》は、それぞれの出身地の博物館でもっと詳細に展示される必要があった。これはアカデミア美術館のコレクションがもともと非常に均質なものである理由を説明してくれる。交換によって他の作品を獲得しようという試みにもかかわらず、そこに収められているのはヴェネツィア派の作品だけであった。
……
ヴェネツィアばかりでなく一般にヨーロッパとアメリカにおいても、以上に述べた二つのタイプ、つまり伝統的タイプと革命的タイプは、少数の博物館によって体現されているにすぎないと思われる。なぜならヴェネツィアで頻繁に(他のいたるところでというわけではないにしろ)見られる博物館は、町に恩恵を与える人物を表す古語(évergéte)から形容詞を作って《恩恵者的(évergétique)と呼ぶことができる第三のタイプに属しているからである。

それは実際、個人コレクションの創設者が、死後、コレクションを公衆の役に立てるために、故郷の町や国家や教育・宗教施設に寄贈するものである。近代ヨーロッパではないにしても、ヴェネツィアにおいて最古のこのタイプの博物館は、考古学博物館である。これはジョヴァンニ・グリマーニとドメニコ・グリマーニのそれぞれ1523年と1587年の寄贈に由来するもので、16-18世紀を通じて何人かのヴェネツィアの蒐集家の遺贈によって補充された。

サン・マルコ大聖堂の宝物庫や十人委員会武器庫に比べて、これは新しいタイプの公共博物館であり、16世紀にはサン・マルコ大聖堂の図書館の控室に作られたが、この図書館もまたある恩恵者(エヴェルジェット)によるものであった。

この博物館はその起源において新しいものであったばかりでなく、とりわけその内容において新しいものであった。つまり、珍品(キュリオジテ)や聖遺物やその材質のために貴重な品物ではなく、古代人の芸術作品がそれ自体として集められたものであったのだ。
……
公共博物館の第四の形成タイプは、他に適当な言い方がないので、商業的(コメルシアル)とでも呼んでおきたい。それは、ひとつの組織(アンスティチュシオン)によって作られた博物館のことで、その組織が博物館を構成する作品もしくはコレクション全体を購入する場合である。

こうしたことが最初に起こったのは、ヴェネツィアでは近代美術館であり、国際芸術ビエンナーレの期間中に展示された作品を購入することによって作られたものである。二番目は東洋博物館であり、これは19世紀末にバルディ伯爵アンリ・ド・ブルボン=パルムによって作られたコレクションに由来する。このコレクションはバルディ伯爵の死後、あるウィーンの古美術商に売られ、第一次大戦後、オーストリアからの賠償の一部としてイタリアに返還されたものである。

この商業的タイプの博物館でもっともよく知られているのは、いうまでもなく大英博物館であり、1753年に英国議会の決議により、ハンス・スローン卿の遺言執行人から2万リーヴルで購入されたコレクションに基づいている。周知の事実なのであえて強調する必要はないが、博物館はその起源がどのようなものであれ、寄贈だけでなく購入によってもそのコレクションを補充している。

作品の購入には間接的な場合もあり、たとえば博物館が考古学の発掘作業を組織したり資金を出したりして、発掘された品物を自身のコレクションに加える場合がそれにあたる。
……
個人コレクションはヴェネト地方においては他の場所よりも早く出現した。最古の二つのコレクションは14世紀後半にさかのぼる。15世紀初めには少なくとも6人のヴェネツィアの蒐集家がおり、そのうちの2人はクレタ島に住んでいた。この時代において、ヨーロッパで蒐集家の数がこれよりも多かった町は、11人が知られているフィレンツェのみであった。

1世紀後、ヴェネツィアにはすでに数十人の蒐集家がいた。そして16世紀後半には、フランドルの古銭学者で版画家のユベール・ゴルツィウスが、ヴェネツィアの古銭蒐集家25人の名前を挙げた一覧を作っている。ゴルツィウスの番付によれば、それは、イタリアではローマ(71人)、ナポリ(47人)についで3番目であり、以下ジェノヴァ(17人)、ミラノ(16人)、フィレンツェ、ボローニャ、パドヴァ(11人)と続く。

17世紀末にマルティノーニは31人の蒐集家に言及している。しかしゴルツィウスの場合と同様、それはおそらく、もっと人数の多い集団の、目に見える一部分にすぎないようだ。もっともその正確な数値を出すのは不可能であるが、ヴェネツィアの古文書が埋蔵している何千もの目録に関する研究を積み重ねることによって、いつの日かそれは可能になるだろう。 ……」
  ――クシシトフ・ポミアン著『コレクション――趣味と好奇心の歴史人類学』(吉田城・吉田典子訳、平凡社、1992年5月13日)より

[追記: 前回マンフレディニアーナ絵画館(Pinacoteca Manfrediniana)について触れました。例えばLibreria marcianaをマルチャーナ図書館とか言いますが、Museo del '700 venezianoをヴェネツィア18世紀博物館と言うように、聖マルコ図書館と形容詞形でなく言うのが訳なのでしょう。その伝で言えば、Federico Manfredini侯爵(1743~1829)の収集作品を基に出来た絵画館ですから、マンフレディーニ絵画館というのが訳と思われます。]
  1. 2017/07/13(木) 00:04:00|
  2. ヴェネツィアに関する書籍
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クシシトフ・ポミアン著: ヴェネツィアの『コレクション』(3)

(続き)
「ヴェネツィアの主要な博物館がそれぞれ歴史上の異なる時代に由来することを確認するためには、設立の年代を付けたその一覧を作成するだけで十分である。サン・マルコ大聖堂の宝物庫は大部分が13世紀に形成されている。十人委員会武器室(サーレ・ダルミ・ディ・コンシリオ・デイ・ディエチ)の起源は14世紀、考古学博物館の起源は16世紀である。

1807年2月12日に創設されたアカデミア美術館は、マンフレディニアーナ絵画館やコレル博物館と同様、18世紀が生みだした成果である。ただしコレル博物館はアカデミア美術館よりあとに作られており、その内容自体に共和国の崩壊が深く刻印されている。1866年以降、この博物館はリソルジメント博物館によって捕捉されることになる。

1868年にはクエリーニ=スタンパリア絵画館が、1897年には近代美術館が、それぞれ開設される。1920年代になると東洋博物館(1923)、カ・ドーロのフランケッティ美術館(1927)が作られ、また1924年にはコレル博物館から自然科学博物館が独立する。のちにやはりコレル博物館から独立するのは、ガラス工芸博物館(1932)とレッツォーニコ宮の十八世紀ヴェネツィア博物館(1935)である。そして1951年には、ヴェニエール・デイ・レオーニ宮にペギー・グッゲンハイムのコレクションが最終的に収められることになった。
アッカデーミアマンフレディアーナコッレールリソルジメントスタンパーリアカ・ペーザロミアーニ・コレッティ・ジュスティ館ガラス工芸博物館カ・レッツォーニコ館ヴェニエール・デイ・レオーニ館[写真はサイトから借用――私の表記法で記します。アッカデーミア美術館(Galleria di Accademia)、マンフレディニアーナ絵画館(Pinacoteca manfrediniana)[この絵画館が入館しているSeminario Patriarcaleの中庭に天正四少年遣歐使節の碑(1585)が移設されています]、コッレール美術館(Museo Correr)、イタリア維新と十九世紀博物館(Museo del Risorgimento e dell'Ottocento veneziano)、クェリーニ・スタンパーリア財団絵画室(Fondazione Querini Stampalia)、近代美術館(Galleria d'Arte moderna)、東洋博物館(Museo d'Arte Orientale)[近代美術館の上階に東洋博物館が入館]、ジョルジョ・フランケッティ美術館(Galleria Giorgio Franchetti)[左隣のミアーニ・コレッティ・ジュスティ館も使用しています]、ガラス博物館(Museo del Vetro―1861年創設)、カ・レッツォーニコ、ヴェネツィア十八世紀博物館(Ca' Rezzonico, Museo del '700 veneziano)、ペギー・グッゲンハイム・コレクション(Collezione Peggy Guggenheim)]
……
公共博物館の形成――第一のものは、伝統的タイプと名付けることができる。それは通常の機能を果たす一方で、公衆に向けて公開されたコレクションを生み出すようなあらゆる制度によって代表される。公開といっても、すべての人々に対する場合もあれば、ある限定された範疇の人々に対する場合もあり、また、前もって定められた時間帯の場合もあれば、特別なハレの状況の場合もある。

13世紀に創設されてからヴェネツィア共和国が崩壊するまでのサン・マルコ大聖堂の宝物庫の場合が、まさしくそれである。年に5回、大聖堂の中央祭壇の上に展示されたその宝物は、外国の重要人物に対しては例外的に公開された。たとえばジョン・イーヴリンは、1645年にフランス大使の随行の一員としてそれを見学することができたし、モンフォーコンも1698年にその特典を受けた。

したがってサン・マルコ大聖堂の宝物庫は1832年に公式に博物館となるまで、長いあいだ事実上博物館の役目を果たしてきたのである。しかしそれがそのように機能したしたのは、ときたまのことでしかなく、大部分の時間は公衆に対して閉ざされたままであった。

博物館としての役割は副次的なものであり、聖域や宝物庫や品物の保管所としての主要な役割に従属するものであった。そこに収められた品物は、聖遺物であれ権力の象徴であれ、それらの威厳にふさわしい宗教的・政治的儀式――そこでは聖人マルコと祖国とが同時に讃えられる――の枠内で展示されるべきものであった。

同様に、絵画や記念物や芸術作品が、何世紀にもわたって集積されてきたような教会は、何か大きな被害を受けていないかぎり、公衆に公開されるコレクションとなっていた。ガイドブックや町の描写や旅行記などは、まさしくこの宗教施設の歴史的・芸術的側面を強調している。数多くの例のなかから、マルティネッリの小冊子(1705)のタイトルを挙げておこう。

『二部構成からなるヴェネツィアの肖像画あるいはもっとも著名な事物。第一部においては、この町にあるすべての教会が、そのもっとも著名な記念すべき事物、石棺、墓碑銘、碑文、並びにもっとも著名な彫刻・絵画とそれらの説明および作者名とともに、略述されている[……]』。

教会が文字どおり博物館と同一視されることことさえも起こる。たとえばA・M・ザネッティ(小)は1771年、サンタ・マリア・マッジョーレ教会は《完全なヴェネツィア絵画の陳列室[……]と呼ぶことができる》と書いている。

しかし公衆に公開されたコレクションは、ただ教会だけに自然発生的に集積されたわけではない。それらはまた、珍しく美しいものに取り巻かれ、それらを大量に集め、また誇示することを自らに課した貴族や王の宮殿にもしばしば見出される。社会的階級制において彼らが占める地位や彼らが演じるべき役割によって要請されたこの義務のために、個人的には何の関心も持たない場合でさえも、彼らはコレクションを形成しあるいは保存したのであった。

権力の発現であるこうしたタイプのコレクションは、ヴェネツィアでは総督宮(パラッツォ・ドゥカーレ)の十人委員会武器庫にあるコレクションによって代表される。最初は武器の保管庫として作られたものであったが、そこにはのちに戦利品、外国の貴族や重要人物によってヴェネツィア共和国に捧げられた贈物、芸術作品が保管されるようになった。

1683年にピエトロ・モロシーニによって国に贈られた古銭コレクションが置かれたのもそこである。厳重に保護されていた武器室(サーレ・ダルミ)は、ときおり、特別の許可を与えられた著名な訪問者に開かれることがあった。サン・マルコ大聖堂の宝物庫と同様、ここも不定期の博物館であったわけだ。……」 (4に続く)
  1. 2017/07/06(木) 00:08:12|
  2. ヴェネツィアに関する書籍
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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