イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ラウラ・レプリ著: 『書物の夢、印刷の旅』(3)

(続き)
「16世紀を通して――たしかに16世紀だけではなかったが――ヴェネツィアは、流通する商品、文化、そして悦楽の代名詞だった。いつの時代も、この年は喜々として歓楽に向かったというのが決まり文句である。例えば裕福な遊女であったヴェロニカ・フランコのことは、今なお語り継がれている。ヴェロニカと文学論争を戦わせたマッフィオ・ヴェニエール大司教は、十一音節詩行で《ヴェロニカ、唯一無二の娼婦》と、かなりあけすけに彼女を咎めたものだ。
[ヴェローニカ・フランコについては、2010.09.18~2010.10.09日のブログヴェローニカ・フランコ(1~4)をご参照下さい。]

何千もの娼婦たちが伝説を残しているが、彼女たちの多くはカランパーネ地区に住み、テッテ{乳房}の橋に面した窓に立って胸をはだけ、男色に走る海の男たちを誘惑したのであった。観光客に洗われて水臭くなったとはいえ、カーニバルとその自由な習俗は残りつづけた。ジャコモ・カサノヴァのことは言わずもがなである。
Tete橋[写真の“乳房橋(ヴェ語ではponte de le tete)”はサイトから借用。尚、2008.06.27日のカランパーネ通りと2008.07.04日のストゥーア小広場で、“乳房橋”周辺のかつてのヴェネツィア赤線地帯について触れました。伊語の caranpana(身形のだらしない女)はこの“カランパーネ”埋立通りから来たようです。]

その輝きの頂点でヴェネツィアは、まるで寄せては返す波のように、セックスと金銭の流れの只中にあった。人々はますます自由奔放に暮らし、奢侈と風俗紊乱に対して引き締めをはかる共和国政府の再三の試みも空しく、条例の効き目もなく、多幸症的な傾向に引きずられるがまま、禁止は侵犯されつづけた。

未婚であろうが既婚であろうが、ヴェネツィア婦人は派手で積極的で機知に富んでいた。どのような法律をもってしても、彼女たちの陽気さ、魅力的なコケットリーを止めさせることはできなかった。

そういうわけで、彼女たちは髪の色を明るくするために、《ソラーナ》という縁ばかりの帽子をかぶり、屋上テラス――屋根の上に架けた木造のテラス――で何時間も陽にさらした髪を、葡萄と大麦が原料の抽出物あるいはカモミール水でつねに濡らしていた。帽子の目的は顔の白い肌を保護することだった。
[この木造の屋上テラスの事をヴェネツィアではアルターナ(altana)と言い、古くは lobia と言ったそうで、現在新しく設置することは禁じられているそうです。夏、Fabi さん宅のアルターナで飲んだビールの美味しかったこと。]

顔の皺や染み、肌の手入れや化粧に関する最初の出版物も、上記のような処置を推奨していた。ヴェネツィアの婦人たちは、肌をますます白く滑らかにするため、牛乳に浸して柔らかくした肉片を顔に貼りつけたのであった。外出するとなると、顔にはさらに、キプロスの粉を塗るのを忘れてはいけないし、頬には、ハエとも呼ばれた付け黒子も必要だった。サン・パンタロンの界隈へ行けば何でも買えたものだ。それが流行だったのだ。

近頃また彼女たちは、みみたぶに穴をあけ、繊細な金の輪に純白の真珠を嵌めたものを吊るしはじめた。汚らわしい《ムーア人の風習》とマリン・サヌードは軽蔑を込めてかたっているが、ヴェネツィアの婦人たちは、銀の締め金に貴石を散らした豪華な帯を締めた上、耳飾りまで付けだしたのである。彼女たちが快楽と贅沢に走るのを抑えることは不可能だった。 
……
怪しげな女たちの社会的地位をもち上げるためには、すでにピエトロ・アレティーノの書物があった。愛に関する洗練をきわめた対話、ベンボの『アソロの人々』のパロディである。女たちが語りあう『六日間』で、ナンナは、娘のピッパにいかにして立派な娼婦となるかを、この職業の筆舌にしがたい詳細にいたるまで、母親らしく懇ろに教え諭している。
ラジオナメンティピエトロ・アレティーノの肖像[ピエートロ・アレティーノの翻訳作品には、『ラジオナメンティ』(結城豊太訳、角川文庫、昭和五十四年六月三十日)や澁澤龍彦文学館1『ルネサンスの箱』中、『好色談義(六日物語)(抄)』(河島英昭訳、筑摩書房)があり、彼についての『ティツィアーノ ピエトロ・アレティーノの肖像』(フランチェスコ・モッツェッティ著、越川倫明+松下真記訳、三元社、2001年11月15日)があります。尚、ヴェネツィアのアレティーノについては、2012.01.14日のブログボッラーニ・エーリッツォ館もご参照下さい。]

すでにお分かりの読者もいらっしゃるはずだが、ヴェネツィアの方言で書かれた作者不詳の五幕の喜劇、韻文の幕間劇も備えた『ヴェネツィア婦人』のことである。おそらくは靴下同盟の誰かが、余興のために制作した作品と思われる。制作年代は1535年の終わりから38年のあいだと考えられている。年代を推定させるさまざまな状況証拠のなかでも、とりわけ重要なのは、本作品についてマリン・サヌードが何も述べていないことだった。
『ヴェネツィア女』[作者不詳『La Veniexiana(ヴェネツィア女)』(ジョルジョ・パドアーン監修、Marsilio Editori、1994.01)は、左頁伊語、右頁ヴェネツィア語の左右対称の形の本で出版されています。サヌードの日記に記されていないという事はサヌード没(1536.04.04)後の事らしく、このドラマの発見後、イタリアの百科事典にも項目として掲げられているように著名な作品のようです。その事について2008.07.20日のブログヴェネツィア映画で触れています。]

だがわれわれの濃厚に官能的な《本当の出来事》の登場人物は、身分の低い下賎な者たちではない。それどころか、この喜劇の主人公二人は――未亡人と若妻、彼女たちがひとりの若い兵士の逞しい肉体を奪いあう――、ヴェネツィアでも評判の良い裕福な貴族の家柄に属していた。

1520年代に上演された数多くの作品をサヌードは語っている。ビッビエーナの『カランドリア』、アリオストの『カッサリア』、マキャヴェッリの『マンドラゴラ』、ルザンテの初期作品など……。『マンドラゴラ』――《フィレンツェに住む老いた医師とその妻、子どもができずに云々》――は、1522年2月にクロセキエーリの修道院で上演された。そこでは実験的な演劇がよく取りあげられ、貴族も商人も庶民も1マルチェッロ払えば観劇できた。サヌードにしたがえば、『マンドラゴラ』は満員御礼で、《あまりに多くの人が入場したので、第五幕を演じることができないほどだった。》

ヴェネツィア市民生活の完璧なバロメーター、サヌードは、あらたな現象に立ち会っているのだ。 ……」 (4へ続く)
  1. 2017/08/10(木) 00:09:58|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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