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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの人口(4)

昨日のヴェネツィアの新聞La Nuova紙は次のような事を告げています。
ヴェネツィアの人口「 流出(Esodo)、ヴェネツィアは54,000人を切った
――10月26日、ヴェネツィア本島(チェントロ・ストーリコ)の住民は、53,986人と減少。この1年で約千人の市民を失った――

悲観するような新記録、“出エジプト記(出国)”である。チェントロ・ストーリコの54000人という《城壁》は崩されてしまった。ヴェネツィア市に住む市民の戸籍簿の更新されたデータは、53,986人の住民となったことを語っている。

サン・マルコ、カステッロ、カンナレージョ区に住む人は32,000人以上であるのに比して、ドルソドゥーロ、サン・ポーロ、サンタ・クローチェ、サンテーレナに住む人は約21,000人である。

昨年11月、“Venexodus(ヴェネッソドゥス)”の町のための歯止めが解けてしまった。町の人口減少に対するヴェネツィア市民の表明は、Venessa.com協会に助成され、サン・バルトロメーオ広場のモレッリ薬局のカウンターは、まだ54,926人を示していた。その抗議は55,000人という数字を破壊することに繋がったのだった。今や1年も経たない内に54,000人を下回ったのである。……」
  1. 2017/10/29(日) 12:43:49|
  2. ヴェネツィアの人口
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ローナ・ゴッフェン: 『ヴェネツィアのパトロネージ』(1)

ローナ・ゴッフェン著『ヴェネツィアのパトロネージ――ベッリーニ、ティツィアーノの絵画とフランッチェスコ修道会』(石井元章監訳、木村太郎訳、三元社、2009年3月31日)という本を読んでみました。
パトロネージ「ヴェネツィアのサンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂はまるで小宇宙のようである。この聖堂は壁の内側に、まさしく文字どおり、ヴェネツィア・ルネサンス美術の歴史を含んでいる。それと同時に、フラーリ聖堂の歴史は、13世紀の創設から1517年の分裂に至るまでのフランチェスコ修道会の歴史を縮約している。

この聖堂の祭壇や装飾に表されている神学上の問題と特別な宗教性は、フランチェスコ会特有の関心やこの修道会の性格を示すものであり、また一方では、ルネサンス期ヴェネツィアにおいて教会と国家のあいだに存在した独特な関係を暗示するものでもある。そして、今述べたことすべては、15世紀のヴェネツィア最大の画家ジョヴァンニ・ベッリーニと16世紀絵画の偉大な天才ティツィアーノ・ヴェチェッリオがフラーリ聖堂のために描いた祭壇画に具現されている。
[Frari(フラーリ、単数frar、ヴェ語)=伊語frate(僧)、fratello(兄弟)の意。ここではフランチェスコ会士のこと。]

そのうちの三点は、それらが当初から置かれることになっていた場所に今日も光彩を添えている。すなわち、ベッリーニの手になる聖具室の聖母の三連祭壇画と、ティツィアーノによる主祭壇の《聖母被昇天》、および左側廊の《聖母》である。現在ヴェネツィアのアカデミア美術館に収蔵されるティツィアーノの《ピエタ》もまた、もともとは同じ聖堂のために制作されたものであった。」
……
「その約一年後の1250年4月3日、助祭枢機卿にして教皇庁の遣外使節であったオッタヴィアーノによって新しい聖堂の礎石が置かれた。オッタヴィアーノは、この聖堂の建設を援助した者には140日の贖宥を与える、と宣言した。聖母被昇天を祝うために献じられたこの聖堂は、オッタヴィアーノが説明するように、聖母を奉献対象とするヴェネツィアの他の教会と区別するため、『サンタ・マリア・グロリオーザ(『被昇天の聖母』を意味する[ただし、本来は『栄光の聖母』の意])』と名づけられた。このフラーリ聖堂の奉献はまた、聖母マリアに対する聖フランチェスコとその弟子たちの深い信仰をはっきりと示すものであった。」
……
「教皇によるパトロネージは概してフランチェスコ会を強力に後押ししたが、それは聖母に献じられたこのヴェネツィアの聖堂においても変わりはなかった。1249年3月25日のインノケンティウス4世による大勅書の発布から3年後には、フラーリ聖堂ならびに修道院の建設費用を負担した者に40日の贖宥を与えることが新たに承認されている。

また、インノケンティウス4世の後継者アレクサンデル4世は、1255年、1256年、1261年に公布された大勅書の中でいくつかの贖宥を認めるとともに、フランチェスコ、アントニウス、キアーラの三聖人の祝日におけるフラーリ聖堂への参詣に対して褒賞を授けることで、この新たなフランチェスコ会の聖堂をよりいっそう支援した。そして、これらの後も、贖宥の認可はさらに数多く続いた。」
……
「フランチェスコ会士たちは15世紀後半、すなわち1517年のフランチェスコ会の分裂に先立つ約50年間に、もっとも大きな成功のいくつかを収めた。フラーリ聖堂の装飾の多くはこの時期に完成しているが、それらが少なくとも全般的には、公の賛意と奨励によって助成されていたことは疑いを容れない。

例えば、1475年にヴェネツィアの元老院は、聖フランチェスコの祝日が公的な祭典をもって祝われるべきものであると定めている。しかしながら、フラーリ聖堂をまさしく文字どおり、今日見ることのできる輝かしい記念碑へと仕立て上げたのは、教皇庁でもなければヴェネツィア共和国でも、またいかなる政府機関でもなく、むしろこの聖堂の民間のパトロンたちであった。これらのパトロンの中には、外国およびヴェネツィアの様々な同信会、ならびにサンソヴィーノの述べるような『貴族、平民を問わ』ない多数の寄進者たちが含まれる。

フラーリ聖堂の建設と装飾という大事業はほぼ完全に、そうした民間の寄進者たちによる貢献のおかげでなし遂げられたのであり、そこにヴェネツィア共和国からの支援はほとんどなかった。……」 (2に続く)
  1. 2017/10/25(水) 00:14:37|
  2. ヴェネツィアに関する書籍
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ヴェネツィアの街案内(22): サン・マルコ広場

今までヴェネツィアの中心サン・マルコ広場について、余り触れてきませんでした。ヴェネツィアの古本屋で買ったLeone Dogo編集『Questa strana Venizia(不思議の町ヴェネツィア)』(Novara、1971)というガイドブックに、サンマルコについて簡単な紹介があるので訳してみます。
Veneziaサン・マルコ広場 1500年前、ヴェネツィアは存在していなかった。少なくとも“この”ヴェネツィアは存在していなかった。しかし繰り返される蛮族の侵入から逃れるため、ラグーナ(潟)の中に逃げ場を求めた、多くの政治的難民としてのヴェネツィア人の古い先祖達は存在していた。ある種の同盟で結ばれた小さなセンターが、ラグーナの島に幾つも発生した。人々は特に漁業の収益と塩の販売で生活した。

今やヴェネツィアを起ち上げた、これらの島のグループはこうしたセンターの一つを形成した(Rivo Alto[羅典語Rivus altus―深い川、運河]と呼ばれた島)。門の前に舫った舟があり、木と籐や葦で出来た垣のボロ屋が点在し、運河に架けた木の小さな橋、野生動物が通過出来るような小さな階段さえまだなく、耕された畑に囲まれて貧弱な礼拝堂や小さな教会があり、平らな地では雌羊や乳牛が飼育されていた。

塩田として囲われた区域は仕事に活気があった。運河岸のここかしこには、潮流のゆっくりした流れで動く粉挽きの水車の姿が散見された。これは紀元655年にヴェネツィアに到来して見渡せば、凡そそこに現出している風景であった、はたまた755年にさえまだ……。

修道女の果樹園――サン・マルコ広場なのか? 現在、当然サン・マルコ広場にはそうしたものはない。このエリアには運河と水溜りが走り、近くのサン・ザッカリーア修道院の修道女の所有になる樹木の生い茂る brolo[ブローロ―果樹園]が広がっていたのだ。[下図、サン・ザッカリーア教会]
サン・ザッカリーア教会[総督宮殿の辺りは brolo、brogio (ヴェ語、果樹園)と呼ばれ、サン・ザッカリーアの修道女の所有でした。12世紀、総督宮殿が増築して建てられることになった時、彼女達はその地を総督に譲ったので、総督が年に一度復活祭の日曜日、サン・ザッカリーア教会に表敬訪問をする仕来りが生まれたそうです。
総督宮殿下のアーケードは broglio(伊語)とも呼ばれ、大評議会で採決する前、票集めの買収のためにあのアーケード空間を行き来してひそかに票の売買が行われるのが毎度のことだったようです。そのため imbroglio(伊語、ペテン)という言葉が生まれました。オペラ等でごたごたや陰謀の場をインブローリオと言ったりします。]

809年カール大帝[シャルルマーニュ](伊語Carlo Magno)の息子ピピン(Pipino)が大軍を率いてリード島を平定した(当時そこにヴェネツィア政庁があった)。しかし彼の軍がザッテレまで来るとラグーナの水が退潮し[船が座礁し]、泥濘が罠となって足を取られ、二進も三進も行かなくなった。“水の穴”に足が嵌まり、文字通り全てが沈んだ。

ピピン軍は面目丸潰れで、何の成果もなしに退却したのである。ピピン軍の成果皆無の敗退で、ヴェネツィア人は自分達の中心地を、リードからより安全と思われるリアルトに移すことに決めた。それ故サン・ザッカリーア修道院のバデッサ座下の同意を得て、総督達は、現在総督宮殿が建っている場所に彼らの住居を建てた。
[サン・ザッカリーア教会には洗礼者聖ヨハネの父、聖ザカリアの遺体が祀られています。この遺体はビザンティン皇帝レオ5世(813~820)が友情の印として、ヴェネツィアに贈与したものだそうです。ヴェネツィアには福音史家聖マルコやシラクーザの聖女ルキアの遺体が現存します。]

その代りバデッサ座下は権力の象徴としての角の形をした総督帽(コルノ帽―corno dogale、acidarioとも)を総督に手渡した、総督は年に一度ザッカリーア修道院に表敬訪問する時、それで着飾るという特権を得た。

木の教会――20年ほど後(828年)、2人の冒険好きのヴェネツィアの商人[ブオーノ・トリブーノ・ダ・マラモッコとルースティコ・ダ・トルチェッロの2人]が、エジプトのアレクサンドリアの教会から福音史家聖マルコの遺体を盗んでヴェネツィアに持ち帰った。その時まではラグーナの人々の守護聖人は、ドラゴンを制圧した聖テオドールス(San Todaro)であり、その何年も前の事、ビザンティンの将軍ナルセス(Narsete―ベルサリオス将軍の後任)の兵士達が、修道女の有名な《果樹園(brolo)》にお堂を建立したのだった。勿論の事、ヴェネツィア人は守護聖人の役を聖テオドールスから聖マルコに変更する事を決めた。
[ブオーノ・トリブーノ・ダ・マラモッコとルースティコ・ダ・トルチェッロについては、2008.11.09日の聖マルコ伝説で触れています。]

新しい守護聖人の栄えある教会が、数年後総督の《城》[当時はまだPalazzoになっていなかったようです]の直ぐ傍に建造された。それは当時ヴェネツィアの全ての建造物がそうであったように木の教会で、976年僭主化していた総督に抗議した人民が、総督の館に近い教会に火を放ち、焼失したのだった(この総督ピエートロ・カンディアーノ4世は逃げ出そうとしていたところを、教会玄関で腕に抱えた幼い息子もろ共虐殺されてしまった)。

新総督ピエートロ・オルセーオロ1世はより美しい、未だかつて見た事もない物を再建した。彼は国家財産に全てを注いだ聖なる男だった。だから自費で建てようとし、直ぐ傍に貧しい巡礼者のための施設(救貧院)さえ建てたので、聖地(エルサレム)を目指す全ヨーロッパからの夥しい人間がヴェネツィアに詰め掛けた。
[エルサレムへの巡礼行はヴェネツィア或いはマルセーユから船で行く便が有名でした。ヴェネツィアでは船の出航までの期間、巡礼者達の扱いに色々策を練ったようです。言わば、当時からヴェネツィアには観光業が存在したという事。例えばザビエル(最近はバスク人だったこともあり、シャビエルと表記するようになったようです)が日本に到来する前、イグナティウス・デ・ロヨラがエルサレムへの巡礼行のため、インクラービレ養育院で奉仕活動をしながら船待ちをしていたそうです、それは実現しなかったようですが。]

現実のサン・マルコ寺院は1063年に完成した。

広場の生成――セバスティアーニ・ズィアーニはサン・マルコ広場にその景観を与えた総督である。彼の在任中(1172~78)、《バドエール運河》を完全に埋立て、広場を広げた。この運河は古い“brolo”の真ん中を流れており、プロクラティーエ・ヴェッキエ(旧収入役館)と呼ばれた建物が左に建てられた。総督ズィアーニは“総督城”も新しく、もっと美しいものにしようと考えた。
サン・マルコ広場サン・ジェミニアーノ教会[カナレット画、左、サン・ジェミニアーノ教会側から見たサン・マルコ広場、右、サン・マルコ寺院側から見た旧サン・ジェミニアーノ教会]  1500~1600年の間に広場と小広場は決定的なその姿を形作る事になった。時計の塔が建ち上がり、サンソヴィーノ図書館(総督宮殿前)、プロクラティーエ・ヌオーヴェが姿を見せた。1902年崩れ落ち、“come'era e dov'era(元の姿で同じ所に)”と再建された鐘楼を別にして、新しい建造物はフランス軍占領下に作られた、いわゆるナポレオン翼である。それは1500年代建築のサン・ジェミニアーノ教会を壊した跡に建てられた。」
  1. 2017/10/19(木) 00:53:37|
  2. ヴェネツィアの街
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文学に表れたヴェネツィア――ヴェネツィア文芸本一覧(和訳本)

ブログ満10年となり、この節目に定期的(毎週木曜日)更新を終了することにしました。以前2011.05.07日のヴェネツィア本》(1)~2011.05.28日のヴェネツィア本》(4)とヴェネツィア関連本をリストアップしましたが、この際今まで取り上げた文芸本もリストにしておきます(掲載日、新→古の順です)。

『書物の夢、印刷の旅――ルネサンス期出版文化の富と虚栄』(ラウラ・レプリ、柱本元彦訳、青土社、2014年12月10日)
『カルニヴィア1 禁忌』(ジョナサン・ホルト著、奥村章子訳、早川書房、2013年9月15日)
『ヴェヌスの秘録』第1巻《水底の仮面》(タニス・リー、柿沼瑛子訳、産業編集センター、2007年3月31日、他第4巻まで)
『ストラヴァガンザ 仮面の都』(メアリ・ホフマン、乾侑美子訳、小学館、2010年7月4日)
『水冥き愁いの街(みずくらきうれいのまち)――死都ヴェネツィア 龍の黙示録』(篠田真由美、祥伝社、平成18年5月20日)
『世界紀行文學全集 5 イタリア』(修道社、昭和四十六年九月三十日)、和辻哲郎『イタリア古寺巡礼』(要書房、昭和二五年四月)
『世界紀行文學全集 5 イタリア』(修道社、昭和四十六年九月三十日)、板垣鷹穂『イタリアの寺』(芸文書院、大正一五年一一月)中の《小寺小品》
『世界紀行文學全集 5 イタリア』(修道社、昭和四十六年九月三十日)、牧野英一『海を渡りて野をわたりて』(日本評論社、昭和二年一一月)中の《マルコの広場》
『みどりの小鳥』(河島英昭訳、岩波書店、一九七八年四月二七日)、《イタリア民話選》として
『ヘミングウェイとパウンドのヴェネツィア』(今村楯夫/真鍋晶子、彩流社、二〇一五年一月二十日)
『齋藤茂吉全集』第一巻(岩波書店、昭和四十八年一月十三日)、第四歌集『遠遊』中の《伊太利亜の旅》
『世界紀行文學全集 5 イタリア』(修道社、昭和四十六年九月三十日)、斎藤茂吉『三田文学』(大正一五年八月号)に掲載した《ヴェネチア雑記》
『世界紀行文學全集 5 イタリア』(修道社、昭和四十六年九月三十日)、成瀬無極『夢作る人』(大正十三年七月)中の《伊太利小景》
『世界紀行文學全集 5 イタリア』(修道社、昭和四十六年九月三十日)、河東碧梧桐『異国風流』(大正九年)
『遊び人の肖像』(フィリップ・ソレルス著、岩崎力訳、朝日新聞社、1990年12月20日)
『フロイトのイタリア――旅・芸術・精神分析』(岡田温司、平凡社、2008年7月25日)
『世界紀行文學全集 5 イタリア』(修道社、昭和四十六年九月三十日)、田中耕太郎『南欧芸術紀行』(文藝春秋新社、1952年刊)
『世界紀行文學全集 5 イタリア』(修道社、昭和四十六年九月三十日)、歌人与謝野晶子の夫、与謝野寛(号、鉄幹)のイタリア旅行記《ヴェネチヤ編》(明治45年)
Zeppelin, citta` raccontate da scrittori シリーズ中の『Venezia』(Valerio Bispuri, Luciano del Sette 編)に、メルヴィルの《ヴェネツィア滞在記》
Giuseppe Nalin『Fiabe veneziane(ヴェネツィア昔語り)』(Corbo e Fiore Editori-Venezia、1995)、見開きでヴェネツィア語とその伊語訳が対照的にページアップされたもの。その中の『La fiaba dello sciocco(馬鹿息子の昔話)』
『ヘルマン・ヘッセ全集 16 全詩集』(日本ヘルマン・ヘッセ友の会・研究会編、臨川書店、2007年4月30日)
『老ピノッキオ、ヴェネツィアに帰る』(ロバート・クーヴァー、斎藤兆史・上岡伸雄訳、作品社、2012年9月30日)
『世界名詩集 12巻』(平凡社、昭和四十三年五月二十五日)中、テオフィル・ゴーチエ『七宝とカメオ』(齋藤磯雄訳)
Marina Vlady『Le collectionneur de Venise(ヴェネツィアのコレクター)』(Editions Fayard、1990.05.)
アンリ=ルネ=アルベール=ギ・ド・モーパッサンの紀行文『Venise』(1885.05.05)をティツィアーノ・スカルパはその著書『Venezia è un pesce(ヴェネツィアは魚だ)』(Universale Economica Feltrinelli、2003.10)中に掲載しています
『スターバト・マーテル』(ティツィアーノ・スカルパ著、中山エツコ訳、河出書房新社、2011年9月30日)
Diego Valeri『Guida sentimentale di Venezia(ヴェネツィア・センティメンタル・ガイド)』(Passigli Editori、1997、古い版の新版)
『ジンメル・コレクション』(北川東子編訳、鈴木直訳、筑摩書房、1999年1月12日)/平凡社ライブラリー文庫『ジンメル・エッセイ集』(川村二郎訳、1999年9月)
『表象のヴェネツィア――詩と美と悪魔』(鳥越輝昭、春風社、2012年11月21日)
『ヴェネツィア 詩文繚乱――文学者を魅了した都市』(鳥越輝昭、三和書籍、2003年6月30日)
『ヴェネツィアの光と影』(鳥越輝昭、大修館書店、1994年8月1日)
『生きている過去』(アンリ・ド・レニエ著、窪田般彌訳、岩波文庫、1989年11月16日)
『チャンドス卿の手紙 他十篇』(ホーフマンスタール著、檜山哲彦訳、岩波文庫、1991年1月16日)中の『美しき日々の思いで』
『ピエタ』(大島真寿美、ポプラ社、2011年2月18日)
Aldo Bova『Venezia――I luoghi della musica』(Scuola di Musica Antica Venezia、1995)
『アスパンの恋文』(ヘンリー・ジェイムズ著、行方昭夫訳、岩波文庫、1998年5月18日)
『ヴェニス 光と影』(吉行淳之介X篠山紀信、新潮社、五十五年十月二十日)/學燈社版で再販
『ニーチェ全集 第十六巻』書簡集・詩集(塚越敏・中島義生訳、理想社、昭和45年5月25日)
『齋藤茂吉全集』第一巻(岩波書店、昭和四十八年一月十三日)
『藝術にあらわれたヴェネチア』(平川祐弘、内田老鶴圃、昭和三十七年十月二十日)
Roberto Bianchin『Acqua granda―Il romanzo dell'alluvione(アックァ・アルタ―大洪水の物語)』(Filippi Editore Venezia、1996)
『ピサ詩篇』(エズラ・パウンド、新倉俊一訳、みすず書房、2004年7月15日)
Pietro Buratti『Elefanteide』(Filippi Editori Venezia、1988)
『ヴェネツィアで消えた男』(パトリシア・ハイスミス著、富永和子訳、扶桑社ミステリー文庫、1997年2月26日)
『ヴェネツィアの石――建築・装飾とゴシック精神』(ジョン・ラスキン、内藤史朗訳、宝藏館、2006年10月20日)
『ヴェネツィアの薔薇――ラスキンの愛の物語』(ミッシェル・ロヴリック&ミンマ・バーリア著、富士川義之訳、集英社、2002年1月30日)
『決定版 ロシア文学全集 3』(ツルゲーネフ『父と子』『その前夜』『初恋』米川正夫訳、日本ブック・クラブ、1969年9月20日)中の『その前夜』
『鷗外全集 第二巻』(岩波書店、昭和四十六年十二月二十二日)中の『卽興詩人』
『世界名詩集大成 9巻』イギリス1(平凡社、昭和34年10月20日)、ワーズワース『 ヴェニス共和国の滅亡に際して』(前川俊一訳)
『スターバト・マーテル』(ティツィアーノ・スカルパ、中山エツコ訳、河出書房新社、2011年9月30日)
『ヴェネツィア刑事はランチに帰宅する』(ダナ・レオン、北條元子訳、講談社文庫、2005年4月15日)、ブルネッティ警視シリーズ
『死のフェニーチェ劇場』(ダナ・レオン、春野丈伸訳、文藝春秋、1991年7月)、
『異国に死す』(ダナ・レオン、押田由起訳、文春文庫、1998年3月)
『ヴェネツィア殺人事件』(ダナ・レオン、北條元子訳、講談社文庫、2005年4月15日)
『ヴェニスの街のなんと哀しき――』(ソランジュ・ファスケル、榊原晃三訳、人文書院、1995年6月30日)
『ゆるぎなき心』(フィリップ・ソレルス、岩崎力訳、集英社、1994年5月25日)
『鷗外全集 第十一巻』(岩波書店、昭和四十七年九月二十二日)中のアンリ・ド・レニエ『復讐』
『即興詩人』(アンデルセン、神西清訳、小山書店、昭和33年3月31日)
『ヴェネツィアの恋文――十八世紀、許されざる恋人たちの物語』(アンドレア・ディ・ロビラント、桃井緑美子訳、早川書房、2004年6月30日)
『カザノーヴァ』上・中・下巻(ヘルマン・ケステン、小松太郎訳、角川書店、昭和38年11月20日)
『修道士マウロの地図』(ジェイムズ・カウアン、小笠原豊樹訳、草思社、1998年4月1日)
『歌手コンシュエロ――愛と冒険の旅』上・下巻(ジョルジュ・サンド、持田明子・大野一道監訳、藤原書店、2008年5月30日・6月30日)
『本当の話』(ソフィ・カル、野崎歓訳、平凡社、1999年10月20日)
『デカメロン』その三(四日目第二話)(ボッカッチョ、野上素一訳、岩波文庫、1957年2月5日)
『特命全権大使 米欧回覧実記 四』(久米邦武編、田中彰校注、岩波文庫、1980年8月18日)
『特命全権大使 米欧回覧実記 4 ヨーロッパ大陸編・中 1871-1873』(現代語訳普及版、久米邦武=編著、水澤周=訳・注、米欧亜回覧の会=企画、慶應義塾大学出版会、2008年6月20日)の《後注》
Bruno Rosada『Donne veneziane―Amori e Valori―Da Caterina Cornaro a Peggy Guggenheim』(Corbo e Fiore Editore、Venezia、2005.12.)
『ルネサンスの高級娼婦』(ポール・ラリヴァイユ、森田義之・白崎容子・豊田雅子訳、平凡社、1993年8月25日)
Alvise Zorzi『Cortigiana veneziana――Veronica Franco e i suoi poeti 1546-1591』(Camunia editrice srl, 1986)
『イタリア紀行』上巻(ゲーテ著、相良守峯訳、岩波文庫、1942年6月1日)
『ヴェネツィアが燃えた日――世界一美しい街の、世界一怪しい人々』(ジョン・ベレントン、高見浩訳、光文社、2010年4月25日)
雑誌『ユリイカ』1972年11月号(vol.4-13)の《エズラ・パウンド特集》
雑誌『現代詩手帖 1998年7月号』(第41巻第7号の《パゾリーニ特集》
『世界名詩集大成 第11巻』アメリカのエズラ・パウンド『キャントゥズ(Cantos)』(岩崎良三訳、平凡社、昭和34年5月20日発行)
『オセロ』(シェイクスピア、三神勲訳、角川文庫、昭和47年8月30日)
『ヴェニスの商人』(シェイクスピア、福田恒存訳、新潮文庫、昭和42年10月30日)
『浴室』(ジャン=フィリップ・トゥーサン、野崎歓訳、集英社文庫、1994年11月25日)
Da Ponte『Memorie/I libretti mozartiani』(i grandi libri Garzanti、1976)
Matilde Dillon Wanke編の『Senso e altri racconti』(Oscar Classici Mondadoriシリーズ、Arnoldo Mondadori Editore、1994)
『世界名詩集大成 第6巻』ドイツ1(平凡社、昭和35年6月10日発行)中の『詩集』(川村二郎訳)
『マリノ・ファリエロ』《対訳バイロン詩集――イギリス詩人選(8)》(笠原順路編、岩波文庫、2009年2月17日)
『バイロン詩集』世界詩人選第四巻(阿部知二訳、小沢書店、1996年7月20日)
『赤く染まるヴェネツィア――サンドとミュッセの愛』(ベルナデット・ショヴロン、持田明子訳、藤原書店、2000年4月25日)
『世紀児の告白』(アルフレッド・ド・ミュッセ、小松清訳、岩波文庫、昭和28年6月25日)
『年下のひと』(フランソワ=オリヴィエ・ルソー、吉田良子訳、角川文庫、平成十二年四月二十五日)
『彼女と彼』(ジョルジュ・サンド、川崎竹一訳、岩波文庫、昭和25年5月5日)
『ヴェネツィア――水の迷宮の夢』(金関寿夫訳、集英社、1996年1月22日)
『ヴェネツィアに死す』(トーマス・マン、岸美光訳、光文社文庫、2007年3月20日)
『都市ヴェネツィア』(フェルナン・ブローデル、岩崎力、岩波書店、1986年8月11日)/同書再版、同時代ライブラリー20(フェルナン・ブローデル、岩崎力訳、岩波書店、1990年3月9日)
『ヨーロッパ・二つの窓――トレドとヴェネツィア』加藤周一・堀田善衛対談集(リブロポート社、1986年12月)
『ヴェニスに死す』世界の文学35巻他(トーマス・マン、関楠生訳他、中央公論社、昭和40年6月10日)
『ヘミングウェイ全集7巻――河を渡って木立の中へ・他』(大久保康雄訳・他、三笠書房、1973年12月30日)
Ernest Hemingway『Di là dal fiume e tra gli alberi』(伊語訳とまえがき Fernanda Pivano, una cronologia un'antologia di giudizi e una bibliografia 付き, Scrittori del Novecentoシリーズ、Oscar Mondadori, 2005)
『消え去ったアルベルチーヌ』(マルセル・プルースト、高遠弘美訳、光文社古典新訳文庫、2008年5月20日)
『失われた時を求めて』12巻、第7編「見出された時 1」(マルセル・プルースト、鈴木道彦訳、集英社、2000年9月25日)
『ヴェネツィアでプルーストを読む』(鈴木和成、集英社、2004年2月10日)
『失われた時を求めて』第11巻第六編「逃げ去る女」(マルセル・プルースト、鈴木道彦訳、集英社、2000年3月22日)
『失われた時を求めて』第六篇「逃げさる女」(筑摩世界文学大系59A「プルーストⅢA」、井上究一郎訳、1988年4月30日)
『カサノヴァ回想録2 脱獄の巻』(ジル・ペロー編、大久保昭男訳、社会思想社現代教養文庫、1986年5月30日)
『カザノヴァ回想録』第一巻(岸田國士訳、岩波文庫、1952年4月25日)
『カサノヴァの帰還』(アルトゥール・シュニッツラー、金井英一・小林俊明共訳、集英社、1992年3月10日)
『ヴェネツィアからの誘惑――コルヴォー男爵少年愛書簡』(河村錠一郎訳、白水社、1994年12月25日)
『世界名詩集大成 第3巻』フランス2(アンリ・ド・レニエ、青柳瑞穂訳、平凡社、昭和37年4月1日)中の『水都幻談』
『ヴェネツィア風物詩』(アンリ・ド・レニエ、窪田般彌訳、王国社、1992年1月30日)
Gaspara Stampa『Rime』(Biblioteca Universale Rizzoli, stampare nel mese di febbraio 1994、ガースパラ・スタンパの詩集)
『世界名詩集 10巻 リルケ』《第一の悲歌》(手塚富雄訳、平凡社、昭和44年3月20日)中の『ドゥイノの悲歌』
『新潮世界文学32巻 リルケ』(谷友幸訳、1971年9月20日)中の『神さまの話』《ヴェニスのユダヤ人街で拾ったある風景》
『ヴェニスからアウシュヴィッツへ』(徳永洵、講談社文庫、2004年7月10日)
『新潮世界文学32巻 リルケ』(大山定一訳、1971年9月20日)中の『マルテの手記』
『郷愁のイタリア』海外旅行選書(ヘンリー・ジェイムズ、千葉雄一郎訳、図書出版社、1995年2月28日)
『鳩の翼』(ヘンリー・ジェイムズ、青木次生訳、講談社文芸文庫、1997年10月10日)
『筑摩世界文学大系22巻 ルソー』(桑原武夫訳、昭和48年1月10日)中の『告白』
『世界文学全集 2-5 ルソー』(J.J.ルソー、井上究一郎訳、河出書房新社、昭和39年1月10日)中の『告白録』
Giorgio Bassani『Dentro le mura』の改訂版、『Cinque storie ferraresi』
『フィンツィ・コンティーニ家の庭』(ジョルジョ・バッサーニ、大空幸子訳、新潮社、1969年12月15日)
『ニーチェ全集』第14巻《この人を見よ・自伝集》(川原栄峰訳、理想社、昭和42年4月25日)
『筑摩世界文学大系11巻』(ダンテ、野上素一訳、筑摩書房、昭和48年11月15日)――『神曲』《地獄篇第21歌》

今後は不定期に翻訳等の日本語訓練を試みたいと思っています。長い間、有難うございました。
  1. 2017/10/16(月) 00:54:57|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ヴェネツィアの建物: フォスカリーニ館、フォスカリーニ=コンタリーニ館等

マリーン運河を越えて、右に進むとフォスカリーニ館(casa Riolfo)があります。E.&W. エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のように述べています。
casa Riolfo「フォースカリ家の古いゴシック様式の建物が1951~54年マリーノ・メーオの手により再建されたが、3階開口部や三葉飾り風の窓の配置は残された。」

更に右に進むとフォースカリ=コンタリーニ館となります。
「16世紀前半のルネサンス様式の建物。ファサードは、2階全体が柱にアーチが乗る形の二重構造の開廊で、3階は楣式(まぐさしき)である。両角は扶壁柱で補強されている。1375年総督フランチェスコ・フォースカリがここで誕生したと言われている。古い館があった場所に建っている。現在はシエーナのモンテ・ディ・パスキ銀行が入館している。」
[フランチェスコ・フォースカリについては、2010.09.11日のブログ、大運河の屈曲部に聳えるカ・フォースカリをご参照下さい。]
casa Adolfo更に右へ進むとアドルド館(Casa Adoldo)となります。
「ファサードの中央には二連窓があり、その脇に各々一面窓と一家の紋章を置いている。16世紀前半のルネサンス様式の建物である。今日、INAIL(労災保険の国家機関)の在所である。

貴族のアドルド家はギリシアから大変古く到来したので、900年の終り頃、サン・スィメオーン・ピッコロ教会の創立で、他の貴族達と争った。一家はアンドロス島(Andro)と1432年に死んだ一家の最後の子孫ニコロがミキエールに売ってしまったセルチーノ島の半分を所持していた。館について書かれた文言で、ルチーア・アドルドが教会に建物を贈呈したことが知られる。」

更に右へ進むと、サン・スィメオーン・ピッコロ教会です。
「中央対称性の穹窿の大きな教会で、1718~38年ジョヴァンニ・スカルファロットの案で建てられた。緑の銅板の高い穹窿と広い大階段からコリント式のプロナスの前廊に特徴がある。アドルド家とブリオーソ家によって9世紀に建てられた古い教会と変えられた。」
ホテル・カールトンエーモ・ディエード更に右へ進むとエーモ・ディエード館(Ca' Emo Diedo)となります。
「17世紀末に建てられた優雅な建物で、アンドレーア・ティラーリに帰属する。浮き出し飾りのある切り石積みの礎石の上に、建ち上がった中央の要素と2階の大きな三連窓がファサードの滑らかな表面を際立たせている。それは三角形のペディメントを支える柱と扶壁柱で枠取りされている。現在は信徒会(サンティ・カピターニオ・エ・ジェローザの愛徳修道女会)の建物である。

言い伝えによれば、この館で最後の大艦隊司令長官となったアンジェロ・エーモ(1731~92)が生まれた。彼は僅か20歳で、北アフリカのバルベリーアの海賊との戦いで、セレニッスィシマで頭角を現したのだった。貴族エーモ家は997年ヴェネツィアに到来し、共和国に著名な人物を送り込んだのだった。」
  ――E.& W. Eleodori著『大運河(Il Canal Grande)』(Corbo e Fiore Editori、1993)
パパドーポリ公園2009.06.13日の海の税関岬から始まって大運河右岸を上り、リアルト橋を渡り、左岸をサン・マルコ広場まで下りました。その後サンタ・ルチーア鉄道駅から大運河左岸を下降し、リアルトを渡橋し、右岸をサン・スィメオーン・ピッコロ教会、更にはエーモ・ディエード館まで遡上しました。写真の樹木はパパドーポリ公園のものです。サンタ・クローチェ区命名の基になった同名教会が倒された後、この公園になりました。
これまで大運河に面した、主だった建物の説明をしてきましたが、ここで終了です。
ヴィゼンティーニの『浮絵 紅毛(ヲランダ)フランカイノ湊鐘響図』[左、アントーニオ・ヴィゼンティーニ画、右、それを歌川豊春が摸写した版の新刷」  歌川豊春が遠近法を描く浮絵の勉強のために摸写した『浮絵 紅毛(オランダ)フランカイノ湊万里鐘響図』の基となった、カナレットの絵をヴィゼンティーニがモノクロ版画にした『サンタ・クローチェ教会からスカルツィ教会に向かう都市景観画』の描かれた場所がここなのです。ヴィゼンティーニの版画については、2009.10.24日のヴェネツィアと日本で触れました。
  1. 2017/10/12(木) 00:04:20|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ヴェネツィア室内合奏団(インテルプレティ・ヴェネツィアーニ)(6)

10月3日、紀尾井ホールでのヴェネツィア室内合奏団(インテルプレティ・ヴェネツィアーニ)の演奏を聴きに行ってきました。今年2月にヴェネツィアに行った時は、娘達のカーニヴァル案内やフェニーチェ劇場でのオペラ『ラ・ボエーム』観劇等で、彼らの演奏を聴く時間がうまく取れませんでした。
紀尾井ホール紀尾井ホール2今年は団長のパーオロ・コニョラートさん(チェンバロ奏者)がこのインテルプレティ・ヴェネツィアーニを組織されてから満30年になるそうです。私が初めてこの合奏団を聞いたのは1994年でサント・ステーファノ教会ででした。我々の前に座っていた仏人が“Magnifique !”と叫んでいました。2年後1996年はサン・サムエーレ教会で聞きました。2000年(?)11月リアルトのサン・バルトロメーオ教会でのコンサート時、演奏前、教会脇でこっそり煙草を吸っていたダーヴィデ・アマディーオさん(チェロ奏者)を見掛け、大胆に話し掛けました。

実はイタリア文化会館でニコーラス・デッサルド先生がイタリア音楽についての講座を開設しておられ、私も聴講していました。その年先生に誘われました。9~10月、ヴェネツィアでインテルプレティ・ヴェネツィアーニが『四季』を演奏する時、演奏に合わせて《四季の詩》を朗読するんだけれど、君もヴェネツィアに一緒しませんか、と。私は11月からザンブラー語学校でのイタリア語の勉強を決定していて、二の足を踏んでしまいました。そんな話をダーヴィデさんにしました。

その頃はレオーニ小広場のサン・バッソ教会でティケットやCD等を販売していました。その後、サント・ステーファノ広場のサン・ヴィダール(S.Vitale)教会が定期演奏場となり、ティケットもCDもここで扱うようになりました。奥様のクラウディアさんがそこの係で常駐しておられました。隣の広場のサン・マウリーツィオ教会が古楽器展示場として入場無料で開かれるようになりました。
サン・ヴィダール馬上の聖ヴィタリス  サン・マウリーツィオ古楽器[左側はサン・ヴィターレ教会、右側はサン・マウリーツィオ教会、両者サイトから借用]  合奏団の初来日の年月日を覚えていません(2000年?)が、東京で催されたコンサートへは必ず聴きに行きました。今回は2012年から連続して毎年の来日で6回目になります。ダーヴィデさんは必ず来日メンバーの一人という訳ではなく、銃後の守りでヴェネツィアでの演奏も大切な様子が分かります。2008年横浜みなとみらいホールでの演奏会の時は、父君のジャンニさん(コントラバス奏者)、姉上のソーニアさん(ヴィオラ奏者)と一家全員の来日でした。

今回、30周年記念故かアンコール曲を大サーヴィスしてくれました。その中でダーヴィデさんのチェロの『フォッリーア』もありました(演奏会曲目にはヴィヴァルディのヴァイオリン曲の“Follia”がありました)。終わった時思わず「ブラーボ」と叫びました。CDでは聞いたことはありましたが、この曲の生演奏は私は初めてでした。You tubeに曲があった筈で探してみました。この曲で今回の演奏の雰囲気を感じて下さい。Folliaです。この曲はスペイン生まれのFolliaを仏国チェロ奏者だったマラン・マレーが編曲したもので、彼の映画『めぐり逢う朝(Tous les matins du monde)』が思い出されます。
ヴェネツィア室内合奏団ヴェネツィア室内合奏団2[左はヴェネツィアの演奏会でのパンフレットからです]  演奏終了後楽屋に伺うと少し時間を割いて呉れました。奥様のクラウディアさん(団長のコニョラートさんの妹さんだそうです)が“Aspetta la cicogna”でサン・ヴィダール教会の売店から引退された後、息子のマリアーノ君の誕生をお聞きしました。その彼が今や大きくなって、父の衣鉢を継いでチェロをやってると語るダーヴィデさんの嬉しそうな表情でした。

奥様のクラウディアさんが出産前、合奏団と一緒に来日された時のことも思い出されます。彼女にはサン・ヴィダール教会でのコンサート時、いつもお世話になりました。私の兄妹達をヴェネツィアガイドした時など、6人分の席をダーヴィデさんの直ぐ前に確保しておいて呉れました。リアルト傍が火事で消防のため、狭い幹線の道が通行止めになった時は、大回りしてサン・ヴィダール教会に到着しました。演奏開始直前でしたが、クラウディアさんがダーヴィデさんの直前の席を確保して呉れていました。

私はテレビ東京の番組『Youは何しに日本へ』が何故か気に入り、深夜番組時代から見続けていますが、所謂ツアーの団体旅行をした事がないので、現地の人の情報で動く事が多く、かつて色々質問を発して接触した伊人の事を懐かしく思い出します。物怖じして引込み思案な人間も、未知の土地では口に出して教えを乞うしかなく、偶然の、個人的接触で知り合うという事態は私にとって驚異的な事でした。
  1. 2017/10/05(木) 00:01:05|
  2. 音楽
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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