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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの街案内(23): アルセナーレ近辺

以前コルト・マルテーゼ(Corto Maltese)が案内するガイド、Guido Fuga-Lele Vianello著『Corto Sconto―itinerari fantastici e nascosti di Corto Maltese a Venezia』(LIZARD edizioni、1997)で、ヴェネツィア街歩きをしました。今回3度目となりますが、この地域は私がヴェネツィア語学校通学時、学校のマッシモ先生のお宅をアパートにお借りし、この近辺をあちこち歩き回り、本当に懐かしい地帯です。本を片手に一緒に歩いてみましょう。
Corto Scontoアルセナーレ1アルセナーレ2「このガイドはナポレオン庭園、即ち2年ごとに開かれる現代美術の催し物が開催される、かの有名なビエンナーレの庭園から始めよう。この国際的な展覧会は、詩人リッカルド・セルヴァーティコと評論家アントーニオ・フラデレットのアイデアとイニシアチブで、1895年に始まった。最初展覧会のアカデミック性ゆえに、芸術家達のアヴァンギャルドな運動は拒否され、初めて印象派絵画が認められるのは、1924年を待たねばならなかったし、それは正に1948年のピカソであった。
日本館[日本館 サイトから借用]  各国が自由に使えるパビリオンを持ち、より異質な現代建築には、譬え矮小化されても空間の中にヴェネツィア的感性が表れている。それはヴェネズエラ館のカルロ・スカルパから、オーストリア館のJ.ホーフマンや日本館の吉阪隆正、更にイスラエル館のリヒターから、カナダ館のベルジョイオーソ、ペレッスーティ、ロジャースらまで、そして更にはフィンランドのA.アールトに至るまでが、貴重で象徴的な表現を残している。

運河沿いの岸辺を楽しく歩き、馥郁たる公園の中を、カステッロ区のサンティゼーポ教会[S.Isepo/Iseppo=S.Giuseppe(伊語)]へ向かうと、現在では崩れてしまったサンタントーニオ・アバーテ教会の最後の遺物、素晴らしいサンミケーリのアーチ(16世紀)の傍を通る。

こうしてサンティゼーポ広場に至り、16世紀に再建された上述の教会を見る。それは最初の聖アウグスチノ修道会士[聖アウグスティヌスの作った会則に基づき、修道生活を送っていた人達が13世紀半ばに合同して組織した修道会]の教会であり、更にサレジオ会士[1845年聖フランソワ・ド・サルを守護聖人として聖ボスコがトリーノに創設した修道会]のものとなった。

内部は絵画的には天井全体を覆うフレスコ画が、非凡であると言わないまでも、ジョヴァンニ・アントーニオ・トッリーリア(17世紀)に帰属し、列柱が縦方向に一元化した遠近法擬きで、垂直感と方向性を混乱させる。

テイントレット工房に帰属する絵画作品は別にしても、内陣のパーオロ・ヴェロネーゼの牧者の礼拝や総督マリーノ・グリマーニとモロズィーナ・モロズィーニ夫人に捧げた荘厳な葬儀のモニュメントは左の祭壇にあり、興味深いものである。

レーパントの戦いに捧げられた、この基礎部分は我々がここを訪れる第一の理由である。というのは、この歴史的な船の合戦でのイスラムの影響が明確に表れた、美しい例の一つだからである。祭壇は海軍大将ジョヴァンニ・ヴラーナが注文したもので、彼はその足下に葬られた。

この教会を後にして橋[サンティゼーポ橋]を渡り、[そのまま進み、次を]右に曲がるとセッコ・マリーナ(ヴェ語Seco Marina)通りの突き当りになる手前に小さな祭壇が置かれた古い小広場がある。季節が良いと今でも“真珠を挿した”女達を見ることが出来る。それは首飾り用の小さな真珠の付いた、非常に細い歯で出来た特別誂えの櫛を挿した女達である。
[“真珠を挿した(impiraperle)”とは、imperare(ヴェ語)=infilare(伊語―挿す)で出来た言葉]

来た道を戻り、セッコ・マリーナ通りの反対側まで行き。右へ曲がり、フルラーネ通りへ。そこにはフリウーリの特徴的な建物と全く同じ、1600年代の貧相な建物があるが、彼らはヴェネツィアに仕事を求めてやって来て、定住した。当時のフリウーリの人達は、酒場や洗濯屋、乳母やレストランの給仕等をやり、フリウーリの農民舞踊(furlana)をヴェネツィアに導入し、カステッロ区に大変な支持者を得て、広めた。

続いてサンタンナ運河通りへ行こう。右折し、サン・ピエートゥロ・ディ・カステッロ島と結ぶクィンタヴァッレ橋まで。この長い木製の橋から本当に魅力ある景観を楽しむことが出来る。この辺りは全く観光客の気配がない。長い河岸に舫った沢山の船と古い造船工房、ヴェネツィアの旧司教座聖堂サン・ピエートゥロ寺院の傾いた鐘楼(1482~88年マルコ・コドゥッチによる)、更に左、遠方にはアルセナーレの城壁と塔が見える。カテドゥラーレ寺院脇の建物は、1807年まで総大司教の在所であった。現在では放置されて、中庭(キオーストロ)のみが視認出来る。

左へ行き、1600年代のこの教会前に来ると、パッラーディオ様式建築のオリジナルから色々に改築を重ねていった様子が見て取れる。既に7世紀には、Santi Sergio e Bacco に捧げた教会が存在したと思われる。
[Sergio=教皇セルギウス1世(687~701)は聖人。Bacco=バッコスあるいはディオニューソス]

第一次世界大戦中、大穹窿は焼夷弾を何度か被爆し、越し屋根(ランターン)を破壊された。強調しておきたいのは、優に54m高もある穹窿の偉容で、同名の穹窿、ローマの有名なミケランジェロの大穹窿より、僅か4m少ないということである。

内部を叙述すると、右側に所謂ペトロの説教壇があり、石の玉座はアンティオキアの聖人が使用したと言われている。背板はアラブ・イスラム様式の石の墓碑柱であり、13世紀には多分椅子として使われた。 ……」 (24に続く)
  1. 2017/11/30(木) 00:17:29|
  2. ヴェネツィアの街
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ザネッタ・ファルージ(Zanetta Farusi)(2)

(続き)
「サンクト・ペテルブルグからヴェネツィアに音楽家ピエートゥロ・ミーラ(Petrilloと通称)が、宮廷劇場のために役者や音楽家、歌手達の出演契約のためにやって来た。ファルッスィの契約金の総額(年に800ルーブル)と、更に契約した人達、特にカルリーノと呼ばれたアルレッキーノ役カルロ・アントーニオ・ベルティナッズィ等契約した人達の種類から、彼女がヴェネツィアでその年得ていた評価と人気のほどが証明される。

直ぐ後、サンクト・ペテルブルグに滞在していることが知られているが、ファルッスィを始め、他の喜劇役者達が帰郷することになった理由は知られていない。しかしイタリア演劇に対してロシア女帝アンナ・イヴァノヴナの興味がこの役柄に対してなくなったのは確かである。

1737年再びヴェネツィアにあり、ここでザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世(ポーランド王アウグスト3世でもある)に雇われたアンドゥルパ・ベルトルディと出演契約をした。宮廷劇団には欠けている仮面劇のキャラクターを演じるため、オペレッタ劇と“伝統的な本になった”散文劇を交代で演じる役者として採用されたのであった(o^ Byrn、p.25)。

ベルトルディに選ばれた喜劇役者には、ファルッスィ以外にイザベッラとベルナルド・ヴルカーニがいた。サン・ルーカ劇団のトップであったジェローリマとアントーニオ・フランチェスキーニやパーオロ・カレックサーナがいた。続いて他の役者が入団した。即ちマルタ・バストーナ、ジローラモ・フォシェル、ニコレット・アルティッキオ、ジョヴァンニ・カミッロ・カンツァーキである。

王妃マリア・ヨゼーファ(Maria Giuseppa)と内閣官房長官ブリュール公の庇護の下、1785年5月12日ドレースデンにデビューしたイタリアの役者達は、宮廷と観客と名声の高さのお蔭で、20年近くに渡って活躍出来た。特にファルッスィは1756年まで恋人役で人気を博し(1748年からはマルタ・バストーナと交代しながらであった)、かなりの収入を得た。

中でも注目しなければならないのは、子供達3人がやって来たので、いい仕事に付けるために手助けしたことである。フランチェスコは戦争絵画の画家になった。ジョヴァンニ・アルヴィーゼは絵画教師ジョヴァンニ・バッティスタとして有名である。即ち王立美術学校の教授である。マリーア・マッダレーナ・アウグスタはペーター・アウグスト宮廷のオルガン奏者と結婚した。

ドレースデンにやって来て、名前をジョヴァンナとしたファルッスィの役作りの中で、彼女の長い経歴の中で何度も演じられた、1749年のカーニヴァル用に作られた作品『Amor non ha riguardi(アモール[愛の神エロス]には用心深さがない)』の中のロザーウラ役、1752年2月7日のルイ・ド・カユザック(L. de Cahusac)の『Zoroastre[ゾロアスター=フィリップ・ラモーのために書かれた]』の中のエリニス(Erinice)役が特に記憶されている。

ワルシャワではサルヴァトーレ・アポッリーニ作の音楽劇『王冠を巡るメーストレとマルゲーラの争い(Le contese di Mestre e Marghera per il trono)』が1748年11月6日(あるいは12月5日)演じられた。それはメタスターズィオの幾つかの作品『見捨てられたディードー(Didone abbandonata)』と『許されたセミーラミス(Semiramide riconosciuta)』の特別な手法を利用し、それらのオリジナル性を欠いたパロディーとしてファルッスィが書いた(翻案した)ものであった。

その作品とは、《近代的嗜好に合ったものではあるが、エスプリを欠いたファルサ(一幕物の軽い喜歌劇)のようなもので、そこには“永遠の女性”が存在しないのである。台本は伊語と独語で、仏語と波語のメモが添えられており、ファルサについて批判的に述べれば、美学的には程度の低いものであった。しかしジョヴァンナ・カザノーヴァの内部では、生まれが卑しいことを考慮しながらも、イタリア的な要素は並外れた創作力に達しているという自覚があった。》(o^ Bryn、p. 306)

加齢するにつれて、貴族の母親や性格俳優の役を引き受けることを拒んだため、しばしば笑い者にされ、無能力と見做された。ビュルンが引用したシュツットガルトの匿名の批評家は、ファルッスィについて情容赦のない姿を記録に残している。《四十歳は超えている。……相当肥満した女である。顔は劇場の魔術(化粧と衣装)にも拘らず、老女である……汚らしい女、正に女の悪魔、彼女は恋人役でなければ演じられるかも知れない……若い恋人としては声があまりにしわがれ過ぎている。今述べた魅力とガラガラ声の40女が未だに恋人役を演ずるのは、正に軽率の極みである。》

より寛容なエ・ビュルン男爵は、他でもない、彼女の鮮やかな活気を称賛した。《何であれ、その人となりの優雅さや声の美しさといったものと取って代わることは出来ないが、そうした弱点というものは、正に民族的なもので、調和したエスプリ、ユーモアに満ちた演技で緩和されるだろう。それが年齢や外観のことを忘れさせるのである。》

晋墺の7年戦争が勃発し、帰郷を選んだイタリアの多くの仲間と違って、ファルッスィはプラハに避難した。そして戦闘行為が続く間はそこに留まった。1763年ドレースデンに帰ると、400ターレルという王の寛容な年金のお蔭で、落ち着いた晩年を過ごすことが出来た。

ファルッスィは1776年11月29日、ドレースデンで没した。」

Youtubeにカザノーヴァの少年時代(『Infanzia, vocazione e prime esperienze di Giacomo Casanova』日本未公開。かつて伊文化会館イタリア映画祭で見たことがあります)を描いた映画があり、当然彼の母親が登場します。F.フェッリーニの映画『カサノバ』はチネチッタのベネチアを想定したセットで撮られましたが、この映画は実際のヴェネツィアの街もふんだんに見ることが出来ます。
  1. 2017/11/23(木) 00:40:38|
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マドンナ・デッラ・サルーテ教会の祭り

本日のLa Nuova紙は、昨日21日のサルーテ教会の祝祭の事を報じています。
サルーテ教会橋を渡る信者達[写真はサイトから借用] 「 マドンナ・デッラ・サルーテ教会へのお参りは一方通行で交通制限
――ヴェネツィア警察は大混雑回避のため、信者達の足を制限するかも。ヴァポレットの増発あり――

11月21日は、ペスト・ネーロという黒死病を克服したことを祝う、ヴェネツィア人に最も愛されるマドンナ・デッラ・サルーテ教会の祝祭日である。

“ヴェネツィア人の”教会、マドンナ・デッラ・サルーテで我々の出会いは繰り返される。サルーテ教会の何千という信者達を呼び寄せる参詣は、蠟燭に火を灯し、祈りを捧げるためであり、何千というここの檀家でない市民達も、この最もヴェネツィア的な祝祭に惹かれてこの税関岬までの巡礼行に参加する。

Ponte votivo(ポンテ・ヴォティーヴォ――この日のためにグリッティ館脇のトラゲット広場と大運河対岸のトラゲット通りを結ぶ仮設の奉納橋)は、本日(22日)の22時まで渡橋可能である。ヴェネツィア的な素晴らしい寺院への巡礼行は、何世紀にも渡って繰り返された伝統行事なのである。 ……」

サルーテ教会のお祭りについては、2011.03.26日のヴェネツィア年中行事や2012.08.11日のパトリシア・ハイスミス等でその謂れについてなど、触れました。この日にはカストラディーナという去勢牡羊の煮込み料理を食するのがヴェネツィアの伝統だそうです。2012.08.18日のカストラディーナも参考までに。
  1. 2017/11/22(水) 12:33:33|
  2. ヴェネツィアの行事
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ザネッタ・ファルージ(Zanetta Farusi)(1)

カルロ・ゴルドーニの『回想録』にも書かれた、ジャーコモ・カザノーヴァの母、ザネッタの事に興味が湧き、PCのイタリア百科事典(Treccani)を見ていると、その項目がありました。2009.10.17日のカルロ・ゴルドーニや2011.04.16日のヘルマン・ケステンで少し触れました。あの時代、彼女の息子を含めヨーロッパを駈けずり回ったイタリアの自由人の生きざまが興味深いです。

「Farusi(Farussi)、Zanetta(Giovanna Maria―通称ザネッタ)――靴職人ジローラモと妻マルツィアの一人娘で、1708年の夏(Rasiによると1709年)、ヴェネツィアのブラーノ島に生まれた。ジャーコモ・カザノーヴァの回想録(p.27)の注記に従えば、16歳でその美しさは完璧だったとし、俳優、ヴァイオリン奏者、ダンサーであったガエターノ・カザノーヴァに出会った。彼は平凡な喜劇役者で、家を飛び出してある女優との乱れた関係の後、1724年ある特徴もない喜劇団とヴェネツィアにやって来て、サン・サムエーレ劇場で演じていた。

両親が言う“目付きが忌々しいコメディアン”(回想録1巻p.28)との結婚の同意を得ることに失望して、ファルッスィは自分を連れ出させ(駆け落ちし)、1724年7月、この俳優と結婚した。

父ジローラモの死で胸も張り裂けそうな思いをした後、多分1725年母マルツィアは娘が舞台には立たないという約束――カザノーヴァが注記しているように一般人と結婚した全ての役者は保証はするが守られたことのない約束――を得て、娘夫婦を許すことにした。1726年長男ジャーコモ誕生から1年後、彼女はロンドンと契約を結んだ夫に付いて行き、そこで親との約束はご破算になり、息子を母に預けて芝居を開始し、満足のいく成功を収めた。

1727年の夫婦の移動は不安定で、2番目の息子フランチェスコの誕生地についてある解説者はリスボンと言い、他の人はロンドンと言っている。

1728年はヴェネツィアにおり、ここでガエターノはサン・サムエーレ座の劇団員に新しく雇われた。彼女の舞台活動についての証言は見付かっていないが、カザノーヴァの回想録の一節が指摘しているように、ブラネッラの愛称を使って彼女は演じ続けた(回想録1巻p.29)。《1728年の暮れ頃、母は夫とヴェネツィアに戻り、喜劇女優となり、演じ続けた。》

1728~32年、3人の子供をもうけた。ジョヴァンニ・アルヴィーゼ(1728~98)、幼くして死んだ娘、マリーア・マッダレーナ・アウグスタ[或いはアントーニア(1732~1800)]である。1733年、後に生まれた息子は恐らく異父の子であるが、その名前は知られていない。

1733年12月夫の死で、彼女はジュゼッペ・イメール一座にザネッタ・カザノーヴァの名前で一番手の恋人役で入団した。カルロ・ゴルドーニはその年彼女を知り、“非常に可憐で有能な未亡人”と彼女を表現した。生き生きとした、センス抜群の、朗々たる演技力ある女優だった。

作曲家G・マッカーリとの共作があると書かれており、1734年12月『Belisario(ベリザーリオ―東ローマ帝国の将軍ベリサリウス)』でサン・サムエーレ座に登場した。瞳ちゃん役(pupilla―最愛の者)で大成功だった。イメール座の主たる役者達“3人の内、誰も音楽というものを知らなかった。ザネッタさえ音程はいい加減だったが、3人ともその生き生きした演技で観客に愛された”(Ortolani(オルトラーニ)、p.1225).

同じ人々が、イメール座のために書いたゴルドーニの“インテルメッゾ”を演じた。1735年のカーニヴァルの終り頃には大成功の出し物となった。それは『la Birba(ビルバ―ならず者)』だったが、一緒に演じられた悲劇『Rosmunda(ロズムンダ)』はそうはいかなかった。多分イメール座とうまくいかなかった事と、その公演が大変な収入になった事が彼女をヴェネツィアから去らせることになった。
ロズムンダ[サイトから借用。ランゴバルトの王アルボイーノは妻の王妃ロズムンダに殺される。アルボイーノについては、2014.12.18日のヴェネツィアの歴史をご参照下さい。私の大好きな女優エレオノーラ・ロッスィ・ドラーゴがロズムンダ役、米俳優ジャック・パランスがアルボイーノに扮した伊映画(Rosmunda e Alboino(1961)、米語題名Sword of the Conqueror→日本題名『ビザンチン大襲撃』)が1963年封切られたそうです。Youtubeにその映画がありました。ビザンチン大襲撃です。]

ゴルドーニの悲嘆は大きなものがあった。それは彼女の出発がある種、女優の喪失と思われたし、幕間劇(インテルメッゾ)は観客にとって舞踊と対比で考えられたからである。《……私にとって、ザネッタ・カザノーヴァの出立は大変関心を引くことであったし、彼女は喜劇の出し物の中で、2番手の女役以上に幕間劇中、考えられる空白を埋める存在だった》(ゴルドーニ『回想録』デル・ベッカーロ編、ミラーノ1965、p.171)。

それはファルッスィが歌手としての才能はないものの、音楽劇の、特に演者として留まったという仮説をすれば、興味深い。」 (2に続く)
  1. 2017/11/16(木) 00:24:24|
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ヴェネツィアの聖マルティヌス祭(11月11日)

本日のLa Nuova紙はこの11月11日の聖マルティヌスの祝日の事を次のように語っています。サン・マルティーノについては、2008.12.06日のサン・マルティーノで触れました。

「 街はサン・マルティーノの祝祭で彩られ
――子供達の行進、善きサマーリア人を祝うお菓子(ドルチェ)。チェントロ・ストーリコ(中心街)や本土側で沢山のイヴェント――

町でも大変愛される伝統行事である聖マルティヌス祭の飾り等で溢れた週末、金曜日朝、ヴェネツィアの子供達は鍋等食器類や音を出せる物を手にして行進し、伝統行事の“Bater San Martin(バーテル・サン・マルティーン)”を楽しんだ。
[Bater(ヴェ語)=battere(伊語―叩くの意)。この日子供達はサン・マルティーノの伝統的なドルチェをせしめようと鍋等の底をお玉等で騒音を発しながら、街を練り歩きます。無事獲物を獲得すると音は止み、次の目的地へ去って行きます。
またMartinはMartinoの語尾"o"が省略され、例えばcaffè FlorianはFlorianoの語尾の省略、VendraminやGiustinian等もヴェネツィア特異の語尾省略現象です。アクセントの位置は変わりません。]

10時30分、マルゲーラの自治体当局会議室では、マルゲーラとカテーネの保育園児にサン・マルティーノの伝統的なお菓子が配られた。それはヴェーラ社の協力の下、新カテーネの未来協会主催のイヴェントだった。ヴェネツィアでは、11日の土曜日、15時からカステッロ区サン・ジョヴァンニ・イン・ブラーゴラ広場で聖マルティヌス祭が行われる。 ……」

その他、リアルトのペスケリーアやリード島、ペッレストリーナ島、メーストレ等各地で色々祝祭行事が行われる予定だそうです。

この時期、日本でも良い天気が続いており、《小春日和》と言いますが、イタリアではそれを《estate di san Martino(聖マルティヌスの夏》と言います。それには次のような謂れがあります。
san Martino[サイトから借用] 「マルティヌスはパンノーニア(ドナウ川の南西部のハンガリー地域の古代ローマの属州名)の兵士で、馬に跨り、帝国の監視をして回るという軍務についていた。ある日、ほんの些少の襤褸のみを身に着けた貧しい身形の者に出会った。彼は寒さのあまり歯をガタガタ震わせていた。それを目にした心優しき騎士は、抜刀するや、自らのマントを一刀両断し、そのマントの半分を貧しい丐児に与えた。

伝説が伝えるところによれば、その栗烈たる寒が緩まり、半分のマントだけでも両者が寒さを凌ぐことが出来る程になったのだと言う。その時以来、毎年聖マルティヌスの日(11月11日)の頃の天候は温和となり、夏が戻ってきたように思えるところから、短い“estate di san Martino(サン・マルティーノの夏――小春日和)”という。」のだそうです。

ヴェネツィアのサン・マルティーン教会は、アルセナーレ造船所の大門のライオン像達の前を右に行った前方にあります。私が語学学校に通った時、学校のマッシモ先生のお宅をアパートにお借りしました。それはサン・マルティーン教会から更に奥のド・ポッツィ[do(ヴェ語)=due(数字2)―二つの井戸]広場傍にあり、通学時この教会脇からヴァポレット停留所アルセナーレに向かい、カ・レッツォーニコ停留所(フェルマータ)まで、船通学でした。通学定期にACTVのCartaVenezia(カルタ・ヴェネツィア)を契約しての乗船です。カルタ・ヴェネツィアは必要な書類を揃えれば、ヴェネツィア人以外でも契約出来ます。ヴァポレットが格安に乗れます。
  1. 2017/11/11(土) 21:00:25|
  2. ヴェネツィアの行事
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ローナ・ゴッフェン: 『ヴェネツィアのパトロネージ』(3)

(続き)
「《フラーリ聖堂の三連祭壇画》は、ベッリーニが教会内部の聖母と諸聖人を表した三番目の祭壇画であり、この絵をもって画家はある特定の問題に対する解決法を見出した。その問題とは、説得力のある自然主義的な方法で、間違いなく聖母に適しているがむろん屋内のものである聖堂という舞台の中に、浸潤する陽の光や外気の明るさをいかに描き出すか、ということである。
聖母[サイトから借用]  教会内部を聖母の舞台として用いる、というネーデルラントの着想をイタリアへ導入したとされるピエロ・デラ・フランチェスカは、光源の隠された日光に満ち溢れる、完全に閉ざされた教会内部を表現した(1472年頃)。この方法をアントネッロ・ダ・メッシーナが1476年に《サン・カッシアーノ聖堂の祭壇画》をもってヴェネツィアに伝えたことは疑いない。

だが彼がピエロと同じく、閉鎖された屋内を絵画化したのか、あるいは部分的に空の見える教会を創作したのかは不明である。ベッリーニは、このモチーフを扱った自身の最初のヴァージョン、つまりドメニコ会のサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂のために制作されたが今日では消失している《聖母》(1476年頃)において、壁のない聖堂という別の着想を試みた。」
……
「ティツィアーノが初めてフラーリ聖堂のために制作した作品である主祭壇の崇高な《聖母被昇天》は、フラーリ修道院の院長ジェルマーノ・カザーレによって1516年に注文された。この年はちょうど、フランチェスコ会から穏健派の会士たちが離脱する時期にあたる。教皇レオ10世が1517年にこの修道会の分裂を承認して発した『イテ・ヴォス・イン・ヴィアネム・メアム(和合の大勅書)』は、同会をほとんどその創設時から苦しめてきた危機の終焉を告げるものであった。
聖母被昇天[サイトから借用]  つまり、16世紀初頭における会士たちの苦々しい気分や、1517年の教団の分裂に帰結することになる様々な出来事こそが、ティツィアーノの祭壇画と主祭壇そのものをジェルマーノが極めて公的に発注した歴史的、そしてまさしく心理的な文脈なのである。他方、その神学的および宗教的な文脈は、聖母の無原罪懐胎の議論における会士たちの勝利であった。

聖母の無原罪懐胎の問題は、カトリック信仰のもっとも根本的かつ深遠な争点について論じるもので、何世紀にもわたって神学上の議題であり続けた。すなわち、無原罪懐胎の祝日は1476年に認可されたが、その教義の布告は1854年を待たなければならないのである。中世とルネサンス期を通じて、議論は《修道会の方針》に沿って真っ二つに割れ、フランチェスコ会士たちが無原罪懐胎を断固として擁護したのに対し、ドメニコ会士たちはそれを声高に否認していた。」
……
「ティツィアーノの《聖母》は1519年、キプロス島パフォスの司教であるヤコポ・ペーザロ(1464~1547)によって無原罪懐胎の礼拝堂のために注文された。このヤコポの祭壇は、ペーザロ家がフラーリ聖堂で無原罪の聖母に捧げた二つ目の祭壇にあたる。第2章で見たように、聖具室のペーザロ礼拝堂を飾る祭壇画の中で、ベッリーニが無原罪懐胎の祝日の典礼文をはっきりと引き合いに出していることを考慮すれば、この聖具室の礼拝堂が彼女に献じられていたことは間違いないからである。
ペーザロの聖母[サイトから借用]  しかしながら、フランチェスコ会に属するフラーリ聖堂の修道士たちは、ペーザロ家がこの二つの寄進を行うはるか以前から無原罪懐胎の祝日を祝っていた可能性が高く、またサルトーリの引用する文書記録によると、1361年には、本堂のペーザロ家の祭壇があるのと同じ場所、もしくはその近くに、無原罪懐胎を奉献対象とする礼拝堂が建っていたという。

1498年には無原罪懐胎同信会が、この団体の規則を記したマリエーゴラ[mariegola=伊語matricola(登録簿)]に記録されているとおり、フラーリ聖堂の修道士たちの承諾を得て設立された。この新たな同信会の礼拝堂は、今述べたのと同じ、14世紀にすでに無原罪のマリアへの崇拝に結びつけられていた場所に存在した可能性があり、またその場所は、15世紀の終り以降は継続的に無原罪懐胎に奉じられていたようである。

というのも、ペーザロ家の祭壇の前方に立つ、同家の紋章のついた支柱には教皇グレゴリウス13世がこの祭壇と無原罪懐胎同信会に贖宥を授けたことを記念する銘文が、1582年の年記とともに添えられているからである。」
……
「……サヌートによれば、ヴェネツィアでは総督が聖母マリアに敬意を表し、《聖母にまつわるすべての日》にサン・マルコ聖堂でミサに参列したという。また、ヴェネツィア人たちは二つの主要なマリアの祝日を、この共和国の世俗的な大祝日として祝っており、さらに三番目の聖母の祝日は、ヴェネツィアにおいてとりわけ世俗的な含みを有していた。

まず、第一の祝日から述べると、ヴェネツィア人たちの主張するところでは、この国は421年3月25日受胎告知の祝日に創建されたため、《ヴェネツィアの誕生 Origo Venetiarum》は毎年この祝日に祝われた。ヴェネツィア暦では新年が3月25日に明けるが、これも同一の理由によるものである。

また、著しい政治的意味を持つ教会サン・マルコ聖堂では、聖母と大天使ガブリエルをかたどった浮彫りがファサードを飾り、そこでは彼らが、同じくこの都市の守護者である聖ゲオルギウスと聖デメトリウス、ヘラクレスにつき従われている。ヘラクレスは、ヴェネツィア人の起源に関係を持つとされる神話上の英雄で、二度にわたって姿を現す。

そして、受胎告知はリアルト橋にも表現され、こちらでは、ヴェネツィアの最初の守護聖人である聖テオドルスと、彼の後を継いだ聖マルコその人がマリアとガブリエルの傍らに位置している。そして、こうしたイメージが一段と明快な形で提示されているのが、ボニファチオ・デ・ピターティによって国庫財務管理者庁舎(マジストラート・デラ・カメラ・デリ・インプレスティーディ)のために制作された三連の絵である。

この絵では、大天使ガブリエル、ならびに受胎を告げられたマリアが左右のカンヴァスを占め、中央のそれには、父なる神がサン・マルコ広場に祝福を授ける様子が描かれている。つまり、こうすることで、ヴェネツィアの建国がキリストの受肉に譬えられているのである。

さらに、受胎告知がこの共和国の創建を思い起こさせるという理由から、ヴェネツィアでは必然的に、内陣アーチに伝統的に描写されていたマリアとガブリエルの図像――フラーリ聖堂の聖具室に見られる作例など――がそれ自体で、宗教のみならず政治とも深いつながりを持つことになった。
Frari教会その上、こうした政治とのつながりもあって、ヴェネト地方では、イタリアの他のいかなる土地よりも一般的に受胎告知が墓碑――フラーリ聖堂の内陣に据えられた総督の墓二つを含む――において視覚化されていたのである。……」
  1. 2017/11/09(木) 00:50:34|
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『遥かなるルネサンス』展―これが、天正遣欧少年使節がたどった、イタリアだ!!

私の居住する八王子市の、東京富士美術館で開催されている『遥かなるルネサンス』展に行ってきました。天正の四少年遣欧使節がイタリアで辿った跡を検証する展覧会です。私がヴェネツィアに行った時仄聞し、その後色々知ることとなった彼らの事績を思い起こさせて頂き、感動を新たにしました。彼らについてこれまで、2008.03.21日の天正遣欧少年使節(1)から、2017.06.01日の天正遣欧使節(10)までとか、2014.10.18日の寺崎武男展等で天正の4遣欧使節の事を書いてきました。
遥かなるルネサンス遥かなる、図録[左、パンフレット、右、図録]  今回の展覧会は少年使節達の行動を再確認させてくれました。展覧は彼らが行動した順序、上陸したリヴォルノから乗船したジェーノヴァへの行程に沿って、中心地ごとに関連した書状や絵画等が展示されていました。
ヴェネツィアに関する事で言えば、上陸して直ぐピーザのメディチの城に招かれ、晩餐会の舞踏会でトスカーナ大公フランチェスコ1世妃ビアンカ・カッペッロに誘われ、伊東マンショが踊ったそうです。彼は戦に向かう勇気を鼓して舞踊に臨んだそうです。大公妃は元々ヴェネツィア貴族の娘で、フィレンツェの若者と恋に落ち、フィレンツェに駈け落ちした前歴を持ちます。ヴェネツィア人とダンスをした第1号がマンショでした。
フランチェスコ1世ビアンカ・カッペッロビアンカ[左、フランチェスコ1世、中、ビアンカ大公妃(来日したヴァージョン)、右、同じビアンカ大公妃(富士美術館所蔵―以前このブログでもこの絵を紹介しましたが、このアッローリ工房のヴァージョンを所蔵する富士美術館でこの展覧会が開催されたのも宜なるかなと思われます。今回この二つが並べて展示されていました。]
 
ローマでは教皇グレゴリウス13世が彼らの到着を心待ちにしていました。この教皇は現在のグレゴリウス暦を制定した教皇として夙に有名ですが、彼らに謁見して18日後(4月10日)に没してしまいます。コンクラーベがあり、シクストゥス5世が選出され、新教皇も彼らを謁見しました。3月22日~6月03日のローマ滞在後、イタリアを経巡り帰国の途に就きます。
グレゴリウス13世 ITALIA[左、グレゴリウス13世] 左図のような行程を経て、6月26日ヴェネツィアに到着しました。ヴェネツィアでの行動は次のようです。
ニコロ・ダ・ポンテ[パルマ・イル・ジョーヴァネ画『総督ニコロ・ダ・ポンテ像』サイトから借用。遣欧使節に謁見時、95歳。謁見直後の7月30日没。]
「6月26日=誓願修舎の客室に一泊。夜、教皇使節来訪。
6月27日=ヴェネツィア総大司教、ドイツ皇帝大使及び諸国の大使・貴顕の来訪。市内数ヶ所の聖堂を訪問。
6月28日=総督ニコロ・ダ・ポンテの謁見式が総督宮殿で。日本服1着、刀1振、短刀1振贈呈。その後、武器室、第十参議会[十人委員会の事?]室、宝庫を参観。昼食後ムラーノ島のガラス工場を見学。
6月29日=この日は聖ペテロと聖パウロの祝日であったが、毎年聖マルコの祝日(6月25日)に行われる習わしであったヨーロッパでも著名な豪奢な行列がこの日に延期された、それを参観。
6月30日=大会議室にて歓迎会。
7月1日 =教皇使節の宴会。 
7月2日 =聖母御訪問の祝日でミサを聞き、天主堂で聖体拝領。
7月3日 =造船所、リードの2城塞を訪問。
7月4日 =政庁に告別に赴く。大会議室に彼らの姿を記念に残すことになり、ティントレットに描かせた(マンショの物だけが完成した)。昼食後政庁は一行に贈物をした。=《高価な象牙製の十字架4個、美麗に彩色された鏡4面、立派な種々の硝子器の入った美しい函(硝子器が500個以上)、濃紅色天鵞絨の織物2反、グラン染織物2反、濃紫色琥珀織物2反、繻子2反、金襴の織物2反(1反は濃紅色、他は薔薇色でヴェネツィアで最も珍重される絹地であり、色合いであった)、金襴錦織物2反》。
7月5日 =サンタ・マリーア・デッラ・カリタ大同信会館を来訪、ヨハンネス(希語式バシレイオスBasilios)・ベッサリオン(羅典語式Johannes Bessarion――伊語式ジョヴァンニ・ベッサリオーネGiovanni Bessarione)枢機卿の残された聖遺物を拝観。ヴェネツィアを発つ。」 ――ルイス・フロイス著『九州三侯遣欧使節行記』(岡本良知訳注、東洋堂、1942)より
伊東マンショ今回も来日した、ドメーニコ・ティントレット画の伊東マンショのこの肖像画は、前回発見直後来日し、国立東京博物館で短期間展示されました。その展覧に合わせてイタリア文化会館で、この絵を所有したトゥリヴルツィオ財団の方を始め、ヴェネツィア大学の美術の先生方の講演がありました。2016.05.21日のブログ伊東マンショでその辺の事情を書きました。
マンフレディアーナ天正遣欧使節の碑彼らがヴェネツィアに来訪した事を受けて、その旨が1585年の碑に残されています。最初それは彼らが訪れたサンタ・マリーア・デッラ・カリタ大同信会館に置かれていましたが、カリタの教会、修道院、同信会館がアッカデーミア美術学校と美術館に模様替えになった時、碑は近くのサルーテ教会左隣のSeminario patriarcale の中庭に移されました。ここの門は普通は閉ざされいて一般公開の状態ではなかったのですが、最近ここの蒐集品がマンフレディーニ絵画館(Pinacoteca manfrediniana)としてオープンしたので普通にアクセス可能となりました。私はまだ再確認していませんが、門を入ると中庭で左前方、入口左にそれはありました。

彼らは6月29日は豪奢な行列を見たのですが、サン・マルコ寺院でアンドレーア・ガブリエーリの歓迎のミサ曲を聞いています。それは『四つの合唱隊による16声のグローリア(Gloria a sedici parti, con quattro cori separati)』(1587刊)という大曲でした。アンドレーアはその年の8月30日全力を使い果たしたように亡くなっています。かつて彼の没年月日は辞典等曖昧でしたが、近年古文書が見つかったようです。ヴェネツィアでも東京でもCDが探せませんでした。私は未聞ですが、この大曲を聞かれた方があるのでしょうか。
  1. 2017/11/06(月) 01:00:07|
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ローナ・ゴッフェン: 『ヴェネツィアのパトロネージ』(2)

(続き)
「フラーリ聖堂は、ヴェネツィアと外国双方のそうした同信会によるパトロネージから多大な恩恵を受けた。1361年、ミラノ人同信会は、聖アンブロシウスと洗礼者聖ヨハネを奉献対象とする礼拝堂の寄進に同意している。また、1435年にはフィレンツェ人たちが、ドメニコ会のサン・ザニポロ聖堂に礼拝堂を建てるという当初の計画をわざわざ放棄して、洗礼者聖ヨハネと聖母に献じる自分たちの同信会をフラーリ聖堂で創立する許可を得た。
Frari教会  このようにフィレンツェ人たちがフラーリ聖堂に寄進を行ったからこそ、ヴェネツィアに残る唯一のドナテッロの作品、すなわち彼が1438年に同国人のために制作した多彩色の木彫《洗礼者聖ヨハネ》は、この聖堂に収められているのである。」
……
「すでに1290年代後半の法律制定が、ヴェネツィアの有力な一族からそうした世俗的関心を取り除くとともに、彼らの政治上ないし社会上の持続的な優越性を、少なくとも彼らが男子の跡継ぎをもうけることができる限りにおいて、事実上保障していたのである。その極めつけの法律は『セラータ』で、これは実際に、1297年における大評議会の『閉鎖』であった。

すなわち、大評議会の議員資格が、過去4年間に議員を輩出している一族の男子に限定されたのである。大評議会はあらゆる官職の候補者を供給する排他的な源であったため、その議員資格の限定は、政府のすべての地位と権力にまつわる資格の限定を意味した。1297年のこの法律制定をもってヴェネツィアの貴族階級は自らを生み出したのである。

そして、それから約200年がすぎた頃、ヴェネツィア貴族たちは『貴族としての自意識に極限までみがきをかける』べく、貴族の出生および結婚について記載されるいわゆる『黄金の書(リブロ・ドーロ)』を編纂し始めた。1506年8月31日に十人委員会によって定められた法令により、貴族の父親は出生を記録する義務を負った。加えて、1526年4月26日に公布された法律に従い、貴族の結婚についても登記の必要が生じたのである。

ラータの発布された時期に貴族であった一族の中には、後にフラーリ聖堂の主要なパトロンとなる家柄も含まれていた。ベルナルド家やコルネール家、ダンドロ家、フォスカリ家、ジュスティニアーニ家、マルチェッロ家、ミアーニ家、トレヴィザン家、トロン家、そして言うまでもなくペーザロ家がその例である。いやそれどころか、ヴェネツィア貴族のすべてとは言わないまでも大半は、様々な機会に様々な方法でフラーリ聖堂に寄進を行っていた。

イタリアの他の土地におけるパトロネージをしばしば特徴づけるものであった、自分の居住地の近くに建つ特定の教会への忠誠というしがらみから解き放たれていたヴェネツィア貴族は、立地に関係なく教会に寄進を行っていた可能性が高い。事実、スタンレー・ホイナツキが明らかにしたとおり、1376年の行政上の国勢調査[estimoエスティモ(市民や町の財産評価。その評価に基づく税金や貢納金の意)]は、ヴェネツィア貴族全体の76.9%がこの都市の二つ以上の地区[sestiere(六つの区のこと)]に名を連ねていたことを明瞭に示している。」
……
「フランチェスキーナはピエトロ・ペーザロの未亡人であった。ピエトロは、ファンティーノの息子カローゾの甥にしてアンドレアの息子にあたる人物である。彼は1419年、アレッサンドロ・プリウリの娘アレッサンドラ、通称アレッサンドリーナと最初の結婚をした。この夫婦は、少なくとも四人の息子を含む数名の子供をもうけている。

その後、アレッサンドリーナは1427年に若くしてこの世を去るが、それ以前、おそらくは数回にわたる妊娠期間のいずれかに、万一のため遺言状を公証人に口述筆記させていた。遺言状は非常に簡潔で、埋葬場所については明記しておらず、アレッサンドリーナはその場所の決定を夫ピエトロら遺言執行者にゆだねている。

この最初の妻の死から一年後の1428年ピエトロは再婚した。その再婚相手こそが、サン・ベネット教区に住むニコロ・トロンの娘であったフランチェスカ、すなわちフランチェスキーナで、彼女はニコロ、ベネデット、マルコという三人の息子をピエトロにもたらした。そして、この三兄弟が、フラーリ聖堂におけるジョヴァンニ・ベッリーニのパトロンになるとともに、父よりも10年長生きした母を全面的に記念する、当初は聖具室礼拝堂を極めて豪華に飾り立てていたもののパトロンとなった。……」 (3に続く)
  1. 2017/11/01(水) 00:27:17|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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