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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの街案内(33): リアルトからザッテレ海岸通りまで

(続き)
「小広場を後にして、右のカ・ブレガディーン通りへ、更に右へデ・ラ・レジーナ通りへ行く。ちょっと離れた所に神話的な“fritolin”(例の黄土色のテーブル・クロスに用意されたポレンタと魚の唐揚げを食べさせてくれる)店があり、今や改装されて、品位あるエコノミックなレストランになった。右には軒下通り下に“Nono Risorto”のトラットリーアがある。
[Nono, Noni, Naniは古いヴェ語で漁師を意味するらしい事を入口に座っていた小父さんが教えてくれました。“復活した漁師”です。]
Nonoレストラン更に進み、直ぐ左へ曲がり、サンタ・マリーア・マーテル・ドーミニ広場に入る同名の橋を渡る。ここはプラットのお話、ヴェネツィア物語で、コルト・マルテーゼがマッソーニカ回廊の天井から飛び降りて、夜の銃撃戦を繰り広げるミステリー溢れる舞台となった所である。左側には、13世紀のヴェーネト=ビザンティン様式の美しい四連窓のザーネ館があり、橋の右前には14~15世紀の美しいゴシック=ルネサンス様式のバルバロ館がある。
ハイデルベルク 絵葉書[絵葉書の新シリーズ]  [このS.M.Mater Domini橋の直前左角には16世紀のゴッズィ館があり、この館に生まれたガースパロとカルロのゴッズィ兄弟については今まで何度も触れています。“ゴッズィ”でブログ内を検索してみて下さい。代表として2008.07.04日のストゥーア広場を掲載しておきます。またザーネ館1階に絵葉書屋さんが店開きしており、近くを通り掛かった時、寄ります。ここの絵葉書を印刷している、日本でハイデルと通称する印刷機は優秀で、手書き絵葉書は非常に美麗で、新シリーズがあった時は何度か購入しました。]

教会脇を右に回り直ぐ左に折れ、クリスト橋を越え、スペツィエール(薬草屋)小広場を過ぎ、サン・スターエ運河に面したグルーエ(鶴)運河通り方向へ左折する。通り半ば左に魅惑的なフィラトーイオ(製糸工場)軒下通りがある。ここにはかつてミステリアスな壁画が見られ、それは尾っぽを数字の8の字に巻いた形に寝そべった蛇だった。尾っぽの下に7つ突起の星形を置き、頭の上に三日月を掲げた永遠のシンボルであった。

運河通りをそのまま進み、左に曲がる前に直前の玄関の上を見上げると、13世紀のヴェーネト=ビザンティン様式の化粧板がある。そこに描かれているのは、2匹の孔雀と走駆する獅子の頭を啄ばむ鷲であり、誰かが鶴と誤解した孔雀が運河通りの名前になったと言っている。
ポンテ・ストルト1ポンテ・ストルト2 [サン・ボルド広場のポンテ・ストルト]  モーデナ通り方向に前進する。橋を渡越し、キエーザ(教会)大通りへ進み、右折しサン・ボルド広場に出る。ヴェネツィアでも小さくて魅力的な一画の広場(Campo)である。古い鐘楼が上部を切断され、グリマーニ館脇のかつて存在した教会共に住居に転じた。運河の交差点であり、歪んだ橋(ponte storto)との景観は、この場所に摩訶不思議な雰囲気を与えている。

パルケータ(peruchetaとも。小さな鬘の意)運河通りへ向けて橋を渡越。ここに店を構えていた商人が被っていた奇妙な鬘から、近所の人々が悪ふざけで言い出したことからの通り名である。
タリアピエーラ[サイトから借用] テントール(染物屋)通り方面へ右折すると、左手の有名なピッツァ屋さん“Ae Oche”の手前に、アーケードの背後にタジャピエーラ(石工)小広場(corte)に通じる道がある。この活気を取り戻した小広場は、下は煉瓦が敷き詰められ、庭全体に植木や花が満ち溢れ、女性の馥郁たる優雅さが辺り一面に発散し、ボッカ・ドラータがここにヴェネツィア滞在を決めたのは宜なる事であった。
[染物屋はTentorだそうですが、ヴェネツィア語ではジョルジョーネをZorzonと言うように、天正使節・伊東マンショの肖像(先頃来日しました)を描いたドメーニコ・ティントレットはTentoreto Giovineとか言うのでしょうか。]

引き返し、運河に面した軒下通りを抜けた後、右手には町の漕ぎ船専用の貸し船屋さんがあった場所。元の道を進もう。こうして美しいサン・ジャーコモ・デッローリオ広場に至る。古い教会の後陣の前に、オリジンが10世紀に遡るものがあるのだが、当時13世紀前に再建され、続いて16世紀更なる改築が行われた。中でも内部にはヤーコポ・パルマ・イル・ジョーヴァネの忘れ難い絵画作品、ゴシックの竜骨構造の天井、ある異教の神殿から到来したイオニア式の柱頭を持つ緑の大柱がある。
[広場北のラルガ通りをサン・ボルド運河沿いに北上すると直ぐメージョ橋です。Rm.megioが右の通りで、左のCa. del Spezier(薬草屋)とFdm. del Megioが左にあり、その角にマリーン・サヌード(伊語Marino Sanuto)の生家があります。サヌードについては2017.08.24日のマリーン・サヌードで触れました。]
サン・ジャーコモ・デッローリオ[サン・ジャーコモ・デッローリオ教会、サイトから借用] 広場左手には、1671年の生理医学研究所の古い建物があった。直ぐ左の橋は、事実“dell'Anatomia(解剖学の)”と呼ばれた(この解剖教室は橋の向こうにあり、1800年代焼失した)。
[2008.08.31日にパードヴァ大学でこの広場の解剖教室について触れました。]

教会後陣に背を向けて左の館に目をやり、ファサードに近付いてみると、窓の抱き枠が奇妙なことに気付く。これは事実通常の四角形ではない。教会に向けてではなく、広場の広がった方向に向けて窓を作ったように見える。好かれてもいないユダヤ人も教会に目を向けて欲しいとこんな作りをしたと言われている。
il Refolo広場内部に足を向け、12世紀のヴェーネト=ビザンティン様式の鐘楼を見上げよう。聖ゲオルギウスを示す盃が興味深い。ピオヴァーン(教区司祭)小広場には教会の入口が口を開け、河岸通りに“Refolo(レーフォロ)”のピッツァ屋さんがある。 ……」 (34に続く)
  1. 2018/03/31(土) 23:27:19|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィアの現在: Actvの運航時間の変更

昨日の新聞La Nuova紙はヴェネツィアの水上バス[ヴェネツィア語“Vaporeto(ヴァポレート)”のWikipediaの項目があります。興味のある方はどうぞ]の運航について述べています。
Vaporetti「 アチティヴ(Actv)の運航に革新的試み。しかし乗船桟橋には行列
――先ず第一のリアクションは、一番線が6分間隔に。復活祭のためのテストと旅行者集団の動きの緩和――

アチティヴの革新的運航の試み。市と交通関係の会社からは、大運河のヴァポレットの時間割は満腔の意で迎えられている。3月29日からヴァポレット1番船は新しい1番船の導入で、9.00時~17.00時は6分刻みの運航となる。

それ故1時間に更に5ルートが追加となり、必要とあれば、リアルト~ピアッツァーレ・ローマ間とジュデッカ運河経由でサン・ザッカリーア~ピアッツァーレ・ローマ間がアンコールされることもある。

最初の間は時間割の新しい繫がり具合を理解することが重要であり、ファルセッティ市庁舎と会社の技術者により何ヶ月も検討されたので、問題なく施行されるに違いない。大運河のある区間では既に運航にパンクが生じているのだが。それ故Actv番線ではなく、一般の通行と直接繋がらないところで、観光客の通行を制限することも必要になるのかも知れない。……」

ヴェネツィア観光の足であるヴァポレットの運航密度が増し、より便利になるようです。
  1. 2018/03/29(木) 12:32:21|
  2. ニュース
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ヴェネツィアの街案内(32): リアルトからザッテレ海岸通りまで

(続き)
『Calli, Campielli e Canali』 の地図Rialto4Rialto3
大運河の 右岸区域Rialto5Rialto2Rialto1
Rialto9Rialto6サント・ステーファノ広場
Rialto8Rialto7「進行方向に戻って、大運河を背に左へ曲がり、ボテーリ通りの端まで行き、そこで右へ折れカランパーネ埋立通り(rio terà)を通過し、同名の通り(ramo)を進み、左タモッシ通りへ曲がり、[rioに突き当たるので]更に右フラートラ(惣菜屋の蔑称)と言う魅力的な軒下通りである運河通りを進もう。
[carampane/aは伊語の“身形のだらしない女”の元になった言葉で、2008.06.27日のカランパーネ埋立通り等で触れています。]

この道の半ばで右へ、この町で最も狭い通りの一つ、ストゥレッタ通りへ曲がると1600年代のアルブリッツィ館のある同名の広場に出る。次世紀になると非常に豊かになった建物である。内部は良く保存されていて、1700年代の最も豪華な建物の一つとしての例証がこれである。気付くのは、三層になった素晴らしい煙突で、色々な様式で我が町の屋根を飾った独特の建造物の事を思い出させてくれる。
[このストゥレッタ(狭い)通りを含めて、ヴェネツィアの狭い通りを調べに歩いたことがあります。2008.09.21日の狭い通りで書きました。ご参考になれば。]

左のアルブリッツィ館を後にして同名の通りを進み、左へ走るカランパーネ埋立通りを行く。この区域はセレニッスィマが1360年から遵守さるべき規範として全娼婦を集めようとした、所謂“Castelletto”(リアルトのサン・マッテーオ教区)の建物に、強制的に収容されることを毛嫌いした娼婦達が集められた地域である。事実、時代と共に町の至る所に散らばって行くことになる。

その上、オリエントからやって来たSodomia(男色)の流行に直面した。共和国は娼婦達の存在に勇気付けられることとなり、夜彼女達が明るいランタンで照らされた戸や窓に、身も露な姿を男達に見せるように命じたのだった、ヴェネツィア男子の下落した男らしい熱情を取り戻させようと。これ故埋立通りの角を曲がると、テッテ(ヴェ語Tete―乳房)という興味深い橋がある。自然の摂理に反する悪徳ということで、セレニッスィマはこのこうした罪を威嚇するためサン・マルコの2本の柱の間で同性愛者を絞首刑にし、それでも不十分とばかり、死体を灰塵に帰すまでに焼き尽くした。
Tete橋[乳房橋――国民皆兵の共和国は男子の出生率の低下を殊の外恐れたようです。ガレー船の漕ぎ手に囚人を使ったりするようになるのは時代が下ってのことでした。乳房(ヴェ語“テーテ”)橋については、2017.08.10日の『書物の夢…』が参考になります。かつてのこの赤線遊郭の雰囲気を描いた映画がありました。『薔薇の貴婦人』というマーウロ・ボロニーニ監督作品で、2008.07.20日にヴェネツィア映画で触れています。]

この小さな橋の上で左を見ると、中空に金属の橋が見える。それはアルブリッツィ館とかつて運河の向こうにあった新カッシアーノ劇場を結ぶものである。
[新カッシアーノ劇場については、2008.06.20日の世界初、オペラ劇場をどうぞ。その跡地が現在アルブリッツィ館の庭園となっています。]

直ぐ右をストゥーア運河通りの方へ行く。更に左の軒下通りを潜るとストゥーア小広場へ入る。独語のstubeから来た stua(伊語stufa)は公衆浴場のことで、そこでは体を洗い、魚の目の治療をしたり、町での流行病(はやりやまい)のための軟膏を貼ってもらったりした。そして多くの場所が直ぐに淫売宿と評判になった(stuer(伊語stufaiolo―公衆浴場主)は学校では外科手術者と関連ありと見られている)。
[ストゥーア小広場は私が3ヶ月語学校に通うために借りたアパートがあったので非常に懐かしい地域です。2008.07.04日にストゥーア小広場を書きました。]

結局今見てきたように、これらの地域は正に最下層の赤線地帯だったのであり、現在でもヴェネツィア弁で“vecia carampana”は鬼婆、糞婆を意味する悪罵の言葉である。このよく知られた地域は、日本のgeishaとも考えられる、洗練された高級娼婦(cortigiana onesta)の世界と対比される。 」 (33に続く)

[日本の芸者さんは花魁などが主役の宴席に侍ったり、酒席で芸事をするアーティストであって、決して娼婦的な存在ではありません。明治時代の文化のない下級武士が政治屋に成り上がり、《芸者遊び》とかの言い方で吹聴したことが、外国に歪に伝わってしまったに違いないのです。語学学校の授業中、芸者の事が話題になり、単語の蓄積がなく芸者さんと花魁の区別を伊語でうまく説明出来ませんでした。我が町八王子の芸者さんは町興しの一端を背負っています。] 
  1. 2018/03/26(月) 17:30:43|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィアの街案内(31): リアルトからザッテレ海岸通りまで

(続き)
「ゴッボを後にすると、1300年代から海上保険の本拠地があったセクルタの通りがある[セクルタ=ヴェ語Securtà/Segurtà=伊語Sicurtà、現在のAssicurazione(保険)].
サン・ポーロ区とドルソドゥーロ区この魅力的な広場の左にはリアルトのアーケード、オレージ通り(Oresi=伊語Orefici(金銀細工師))に沿ってアーチ下の、古い雰囲気を残すパラゴーン(伊語Paragone)通りが走っている。事実、工房の倉庫や市場の露台の収納倉庫になっている。その通りのある角に、小さなバーカロ“Sacro e Profano”があり、飲みたくて仕方のない連中が立ち飲みに足を止める。

アーケード終り近く目を上げると、フレスコ画(1500年代半ばの作品)の描かれた丸天井の、修復で輝きを取り戻した結果を目にするだろう。今やこの辺りは、市場と共に朝5時には人々の活動は始まり、それぞれがこの地域特有の顔を持った元気印で、最高の集中力を示している。

この地域のバーカロに行けば、君達にこの町の真実の局面を発見させられるだろうし、あらゆるものが芳香馥郁たる表情で、この祝祭エリアの虜にしてしまうだろうことは確かだが、糅(か)てて加えて、色々な濃度の美味しいアルコール飲料が世の中全てを薔薇色に見せ、この街歩きを続行する気を萎えさせてしまう。
Antico Doloヴェッキア・サン・ジョヴァンニ通りに出たら、幾つか思い出して頂きたい場所がある。一度は訪れたい“Antico Dolo(アンティーコ・ドーロ)”、更にメルカンティ(商人)同信会館のシンボルを描いた16~17世紀の盃が見付かれば、皆に愛されたバーカロ(Osteria)“Do Mori”[Do=伊語Due]は近い。
Do Moriの鍋[ド・モーリ(二人のムーア人)には、天井に胴製の鍋のコレクションがあります。チケッティ(ヴェ語cicheti)にはmusetto caldo、coppa di toro、fagioli in umido piccanti con l'acciuga等。私はリアルト近辺に宿を取ることが多く、ヴェネツィア街歩きは先ずド・モーリでプロセッコを1杯引っ掛けてから始まりました。ここのプロセッコ、最高! カーニヴァルの時、朝簡単な仮装して行くと、小父さんがカウンターから出てきて「お前の髪は乱れている」と仮装に被っていた白色のナイロンの鬘の髪を鋏で整髪して呉れました。2011.12.31日のバーカリで、ド・モーリを紹介しました。]

ヴェッキア・サン・ジョヴァンニ通りを行き、大運河のヴィン(Vin)通り方向にヴェネツィア人に愛されたレストラン、“アッラ・マドンナ”がある。
[マドンナには何度も行きましたが、ヴェネツィア人が子供の誕生日を祝う風景を見たのはここが初めてでした。♪Tanti auguri a te…♪ 傍にいた日本人にもドルチェのお裾分けがありました。Grazie !]
野菜市場ペスカリーア野菜市場の屋台を経巡った後は、大運河脇のペスカリーア(魚市場)傍まで行くと、その日の旬の食材等の最新情報を顧客達に声高に呼び掛ける声を聞き、ベカリーエ広場の色々の色や芳香に陶然として、ヴェネツィア人にとって海港であるかのようなオステリーア“Pinto”が我々の入港を待ち受ける。特に土曜日は、買い物袋をはち切れそうにしてプロセッコのグラスを傾けながらお喋りに余念がない人々が夥しい。
[知り合ったヴェネツィア生まれのファビアーナのお宅に何度か招かれました。友達の魚屋のジャンニの店で買い物をする彼女にばったり出会い、ジャンニと友達という事に驚いていましたが、魚の値段を知らず所持金が少なく、直ぐ近くに事務所を構える夫にお金を持ってきてくれと電話していました。彼女のお宅で魚料理は見掛けません。また語学校で知り合った日本人は、生食をするホンビノス貝の料理方法を家の女主人に尋ねると煮るように言われたと言っていました。何しろ生食用ですから高価な貝です。火を通したら本当の味が分かりません。魚の事をあまり知らないヴェネツィア人も結構いるようです。魚屋のジャンニについては、2010.04.17日のアッカデーミア橋で触れました。]
Posto Vecieと魚市場ペスカリーア脇の小さな木の橋の向こうに、セレニッスィマ時代の郵便事業の在所であったその場所にレストラン“A le Poste Vecie(古い郵便局)”がある。かつてフルヴィオの経営になり、フーゴ・プラットも記憶すべき宴を催した特筆すべき場所である。
[私も初めてヴェネツィアに来た時、ここで夕食を摂り、最近はここがホテルもやっていることを知り宿泊しています。写真はホテル窓からレストラン入口の飾られた木の橋を見下ろしたところ。向かいは魚市場の建物。]

もし本当にこうしたオステリーア(バーカロ)に興味が湧いてきて、君達に提案するこの迷路のような路地を辿る冒険心が素直に湧くかどうかは分からないのだが……。ベカリーエ(肉屋)橋を渡りカペレール(帽子屋)通りを通り、ボテーリ(桶屋)通りへ行こう。                                                                                       
この道の裏、隠れたように、平行に走る通りと繋がって、(今はなき古劇場)テアートロ・ヴェッキオ小広場の鉄格子の上に、13~14世紀のギリシアの大理石で作られた非常に興味深い浮彫りがある。それは背中に犬を乗せたヒトコブラクダで、我々にも興味を抱かせるお話があるということである。……」 (32に続く)

サン・カッスィアーノ教会(ヴェ語San Cassan)裏のテアートロ・ヴェッキオ小広場のTeatro di San Cassiano Vecchio(古)について――1580年ミキエール家によって建てられた木造建築劇場。パルコ式の観客席で、劇場内部は卵型。スキャンダルに満ちた悪辣な行為が頻繁だったらしく、全てのパルコ席は後背部にドアはなく、オープンで誰でも中へ入れたし、内部を見ることが出来たということです。1500年代末のカーニヴァルの時まで、喜劇の上演で劇場は続きました。
一方、Teatro di San Cassiano Nuovo(新)については、2008.06.20日の世界初オペラ劇場で触れました。
  1. 2018/03/22(木) 16:50:08|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィアの街案内(30): リアルトからザッテレ海岸通りまで

以前、Guido Fuga-Lele Vianello著『Corto Sconto』(LIZARD edizioni、1997.11.)というヴェネツィア・ガイドからアルセナーレ近辺の街案内をしましたが、今度はリアルトからザッテレ海岸まで歩きます。出発は左岸(de citra)のカルボーン運河通りです[右岸はde ultra]。
Corto Sconto「ヴァポレット1番線または82番線[かつては国鉄サンタ・ルチーア駅前から82番線という急行便がありました。国鉄もトレニターリア鉄道となりました。]で、リアルト橋で下船――

このコースは魚市場休日の日、日曜日あるいは月曜日は計画から外すのが良い。
[以前は月曜日も休日だったのでしょうか。現在近くのバーカロ、ルーガ・リアルトに日曜日食事に行くと、大好きなネーロ(イカ墨パスタ)は市場休みで材料なしのため断られたりします。]
リアルト橋から見た大運河[リアルト橋から大運河最奥の、屈曲部(Volta de Canal)にあるカ・フォースカリ館方向を望む。A.ヴィゼンティーニの板刻画]  土産物等の店に囲まれたリアルト橋を上り、橋の高みから大運河を見物しよう。我々が出発したカルボーン大運河通りを左手に見れば右手はヴィーン河岸通りである。向こう岸から右岸に向かい、背後にドイツ人商館(Fontego dei Tedeschi)を目にしながら階段を下る。階段下で、リアルト橋を石で作るという可能性をかつて人々が疑っていたという興味深い古いお話、そして各種柱頭が嵌め込まれたカメルレンギ館のファサード(ロンバルド作)を見よう。

1588~1591年と橋の建造に3年を要した事、土台作りに1万本の杭柱を埋め立てた事、工事に必要な資金(25万ドゥカーテイ)集めるのに、宝くじが始められた事を思い起こそう。

橋を後にすると、セレニッスィマ共和国の経済の心臓部、リーヴォ・アルト島に入る。ここにはかつて、両替屋やあらゆる国の商人がいて、信じがたい量の商品を相互に商っていた。フランドルの布地からショールや衣類、絹のカーテン、オリエントの香水・香油、麝香、サンダルやあらゆる香料まで、また高価な物には胡椒(中世には黒い金と考えられ、貨幣代わりに使われたこともある)からナツメグ、丁子、生姜、肉桂、樟脳、サフラン、カイロのアヘン、アヘンチンキ、赤い根のアカネ属の染料、またセラックと明礬は布類の染めを定着させるための物質。

アーケードの下の通りには、貴金属商や宝石屋があって、ペルシャのトルコ石、インドのエメラルド、アフガンの水晶や青金石、ルビー、サファイア、紅玉髄、黄玉、ダイヤモンド、そして人は所有すればするほど、出来るだけ身に付けたがるものであり、石に魔術的、治療的効力がある事を忘れはしないのだ。

こうした利点に加えて、野菜や果物、魚、鳥籠に入れた鳥を付け加えよう。即ちこの今、歩き回るのはどんな意味があるのか?   色んな意味でパーティーやお祭りがある。かつて知られていなかった色や芳香があっちこっちから到来するのである。

現在でもここは、ヴェネツィア人の最愛の市場として活気に包まれ、屋台の全域に渡って住民達が押し合いへし合いしている。観光客も興味津々で溢れ返っている。自分の行く手をこれぞという方角には決めにくいもので、先ほどの館の右へ行くと、ヴェネツィアで最古と思われる聖ヤコブス(Giacomo)に捧げた教会、サン・ジャーコモ教会の前に出る。最初に人々が居を定めた5世紀頃(リーヴォ・アルトに)、その時代、初の建設になるという。
アル・メルカ[野菜市場のバール――何年か前、ここアル・メルカの前に位置していた野菜市場の前にあった裁判所がテロで爆破され、以来野菜市場は更に奥のペスケリーアの脇に移りました。写真で見るように店内にはお客は3人はぎりぎり立てます。しかし夕方暗くなると立ち飲み客が何十人とこの店前の広場で飲むことになります(夕食前なのでアペリティーヴォ時間とかスプリッツ・タイムなんて言ってました)。知り合ったバーテンのフランチェスコはてんてこ舞いで、グラスを割っていました。勘定をどう処理するのか凄く興味がありました。ローマ等と異なり、勘定は後でというヴェネツィア流作法が今でも生きているのだとか。]

現在の建物は11~12世紀に遡り、続く年に何度か修復の手が入ったが、初めの建物の姿の変更はなかった。ファサードには大きな時計(1410年作)が、あの時代古い教会ではよくそうであったようにゴシックのポルティコの上を飾っている。教会前には布告用の柱があって、リアルトのゴッボ(佝僂(せむし)―Gobbo di Rialto)と呼ばれる階段を支える彫刻がある。……」 (31に続く)
gobo de Rialto[写真、サイトから借用] 『  リアルトのゴッボとは?
1291年コゼンツァ(Acri)からヴェネツィアに持ち帰られた低い斑岩の“柱”である。頂上の低い小さな階段であり、罪の宣告文や追放刑に処された市民の一覧表を告知したりする報道伝達官の役を持つ、弓なりになった彫像の階段で、普段見掛けない姿のため、ヴェネツィア人は Gobbo(ヴェネツィア語でゴーボ、el gobo de Rialto)と呼んだ。

中世には、盗人は罰せられて、鞭打つ人々の間を素裸でサン・マルコ広場からここリアルトまで歩かされた。ゴッボの柱は最終目的地で、柱に到着すると犯罪者達はお互いに抱き合い、彫像に接吻するという苦しみの最後を締め括る場所だった。 

1500年代半ば、柱に聖職者や国の品行の堕落等を批判する辛辣な詩や中傷文書がぶら下げられた。マドンナ・デッロルト教会傍のモーリ広場の“Sior Rioba”と共に、ゴッボはヴェネツィア人の“Pasquino(パスクイーノ)”となった。』 
[“Pasquino”はローマの、現在パスクイーノと呼ばれる広場に立つ古代ローマ時代の1501年に発掘された彫像で、この像に落首の形で批判文書がよく貼られたそうです。]                                                                                                                            
  1. 2018/03/18(日) 23:50:10|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィアの本: ヴェネツィアの今が記述された『対岸のヴェネツィア』

内田洋子さんといえば、『イタリアン・カップチーノをどうぞ』(PHP研究所)以来、イタリアのあれこれを著述出版されて来た方ですが、今回『対岸のヴェネツィア』(集英社、2017年11月7日)を見付け、読んでみました。ミラーノ在住の内田さんはこの本を書かれるに当たり、わざわざヴェネツィアにアパートを借り、生活されたようです。
内田洋子『対岸のヴェネツィア「……日帰りで訪れることができるのに、なぜ住んでみようと思ったのか。
『今さらヴェネツィアでもないでしょうに。二週間もいれば、それで十分ではないですか』
引っ越しを告げると、人から呆れられた。たしかに見知らぬ町を訪ねて相当に魅力的でも、引っ越しまでしてもっと知りたいと思うことは少ない。

ところがヴェネツィアは違った、一泊二泊と滞在日数を増やすにつれ、唯一無二の魅力にますます気圧された。一生のうちでは到底知り尽くせない、とすら思う。いればいるほど、いたたまれない気持ちになる。矛盾した思いで、毎回町を後にしていた。それは、書店や図書館を出るときの気持ちとよく似ていた。

〈生きているうちに、このうち何冊を読めるのだろう〉

読書に冊数の多少は関係ない、と自分に言い聞かせつつも焦る。未読の本が待っている、と喜べばいい。ヴェネツィアも来るたびに、無尽蔵の魅力に打ちのめされる。未踏の地があっての冒険だろうに。

住み始めると、焦燥感はなおさら強まった。足が路地を覚え、風向きや潮の匂いで空模様を当て、運河の水の色で時刻がわかるようになると、町はますます遠のいていった。

ヴェネツィアは、扱い難い女性だ。自己本位の若い女ではない。酸いも甘いも噛み分けた老熟の女性である。知れば知るほど、謎めいている。いま華やかに談笑していたかと思うと、次の瞬間には暗がりで黙って座っている。その揺れ幅と不可解さに惹かれる。追い掛けては見失う。期待と失望を繰り返し、気持ちの休まるときがない。

ヴェネツィアが常に湿っているのは、ただ水に囲まれているからだけではないだろう。この町の奥には、倦怠感が潜んでいる。熟れた吐息が漂う。 ……」

かつて須賀敦子さんの著書を読んだ時、ヴェネツィアに住んでいらっしゃればそんな事は絶対に書かれる筈はないと思われる事が書かれてあり、非常に残念だったことがありました。流石、ジャーナリストは違うと今回思いました。やはり土地を知るには、その地に住まないとその細密な機微に触れることが出来ないのでは、と痛切に教えられました。

私の伊語の先生のお一人はフィレンツェに10年住まわれた方でしたが、ヴェネツィアのザッテレ海岸通り(Zattere―かつて筏等の陸揚げが行われていたことからこの名が残ったらしい)を、単なるzattereと誤解され、通り名でなく訳されたことがありました。ヴェネツィアに一ヶ月でも住んでおられればと思ったことでした。

しかしヴェネツィア観光するにはこんな些末な事は全然関係ありません。
  1. 2018/03/07(水) 18:03:06|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ヴェネツィアの現在: 雪のサン・マルコ広場

昨日3月1日のLa Nuova紙は、2月28日の模様を伝えています。サン・マルコ広場は雪景色です。
リアルト市場「 ヴェネツィアは雪。雪だるまを作り、雪掻きしよう
――この歴史的な町は、今朝積雪5cmでお目覚め。しかしその積雪の激しさは各地で様々ながら、ヴェーネタ平原を全て覆い尽くした―― 」
……
私はスキー好きで東京在住ながら、年に30日も滑っていました。夏は月山や乗鞍で雪渓を歩いて登り、滑るスキーもしていました。私が冬にヴェネツィアに行った初の年は1996年でした。ヴェネツィアの北、コルティーナ・ダンペッツォで1956年の冬のオリンピックの回転で猪谷千春選手が銀メダルに輝きました。コルティーナでスキーをしたいと思いましたが、“魔女の一撃(colpo della strega)”で腰を痛め、思い通り滑れる体ではなかったので、ヴェネツィア観光に徹しました。伝統的アルペン競技でメダル獲得者が出ないのが淋しいですが、渋谷区の星、原大智選手がモーグルで銅メダルを獲得しました。おめでとう!

La Nuova-2》紙で、コルティーナ・ダンペッツォのあるアルプスの写真を掲載しています。クリックして見て下さい。

追記: このMarco Contessa さんの撮られた写真は他にもLa Nuova-3》で取り上げられていました。それはヴェネツィアの言葉で"stravedamento(超透過現象とでも訳すのでしょうか)"と言うそうでその意味するところは、《ラグーナの向こうに見える山々が一目瞭然と見える特別な自然状況があり、ドロミーティまではっきり視線が見届ける。stravedamentoと呼ばれる本当に珍しいその日は、アルプスの峰々がラグーナ潟の額縁となり、潟が平らな鏡池のように現出する。霧が深まっていく山々に、凝らすのに慣れているいつもの目の前に、stravedamento現象はあらゆる制約を吹き飛ばして、アルプスまでの展望が明澄となる。》というほど、空気が透き通るのです。
  1. 2018/03/02(金) 13:03:52|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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