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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの街案内(40): アッカデーミア橋からジュデッカ島まで

(続き)
「レオーニ運河通りを進もう(向こう岸には小奇麗なレストラン“Ai Gondolieri”がある)。マックス・エルンストと結婚し、絶対に見逃してはならない素晴らしいコレクションを創設した、アメリカの現代美術の有名なコレクター、ペギー・グッゲンハイムの館の鉄格子門の前を通り過ぎ、通りの終りで左折する。
ドルソドゥーロとジュデッカ ヴェニエール・デイ・レオーニ館現在ではこの変わった人物の死後、1階部分のみを残す、建築的にも魅力ある館は、ニューヨークのグッゲンハイム財団の美術館コンセプトに従い、組織された。しかしこの変更にも拘らず、美しい庭と愛された犬達の小さな墓地があって、訪れる魅力が残っている。彼女自身もその犬の墓地の脇に葬られることを望んだ。
[2010.12.05日のヴェニエール・デイ・レオーニ館と2017.09.07日~ のペギー・グッゲンハイム(1~4)をご参照下さい。]
ダーリオこの館での目眩めくような時間の後は、素晴らしい15世紀のカ・ダーリオ館を背にして、サン・クリストーフォロ橋へ向かう。その館はファサードが、ロンバルド工房作品である多色大理石で飾られ、大運河の建物の中でも最も魅惑的な物の一つである。ここに仏国詩人アンリ・ド・レニエが住んだ。この美しい建物には以前から、呪いと死という忌まわしい雰囲気が付き纏い、事実全ての所有者は呪わしい最期を迎えた。
[アンリ・ド・レニエについては、2009.05.23日~ のアンリ・ド・レニエ(1~4)等で触れています。]

眼前のバルバロ小広場は、“el marangon(大工) de soase/ze(額縁)”[額縁屋]ならずとも、この一角は一幅の絵である。先ず左折し、続いて右折。フォルナーチェ運河のサン・グレゴーリオ橋を跨越し、サン・グレゴーリオ広場へ向かい、対岸のサンタ・マリーア・ゾベニーゴの広場に通ずるゴンドラ渡しのあるトラゲット通りへ左折する。
[ここのゴンドラ渡し、トラゲットに関して、2012.08.11日の文学に表れたヴェネツィア等で触れています。]
サン・グレゴーリオ修道院サン・グレゴーリオ教会[左、修道院。右、サン・グレゴーリオ教会後陣、サイトから借用]  更にアッバツィーア軒下通りを抜けると同名の橋である。そこでは1400年代のサン・グレゴーリオ教会の美しい後陣がサルーテ通りにその姿を映し出している。傍には11世紀のベネディクト派の修道院が、大運河に1300年代の大門を向けており、内部には1350年頃のゴシック式の中庭がある。

こうして健康の聖母(Madonna della Salute)に捧げたバルダッサーレ・ロンゲーナの大伽藍の前に辿り着く。古くはここに修道院と至聖トリニタ(三位一体)に捧げた教会が建っており、この教会は1256年、ジェーノヴァとの戦いでドイツ騎士団が助力してくれたことを受け、共和国が彼らに贈呈しものであった。
[ドイツ騎士団とは、日本ではチュートン騎士団として知られ、テンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団と共に中世の三大騎士修道会の一つ。聖地パレスティナに巡礼するキリスト教信者の護衛と病院設立の目的で設立されたもの。1291~1309年本部がヴェネツィアに置かれていたそうです。ヴェネツィアとマルセイユはエルサレム巡礼船便の2大拠点だったということに関連があったのかも知れません。]

テンプル騎士団とマルタ騎士団のようにこの騎士団はエルサレムとパレスティナのキリスト教徒の聖地を守護するための騎士団で、1190年アッコン(S. Giovanni d'Acri)でシュヴァーベン(Svevia)のフリードリヒ(Federico)によって創設された。ドイツの騎士団に維持され、ポーランドのヴィスワ川(Vistola)ドイツ領に移り、バルト海周辺の国のリヴォニア騎士団(Portaspada)と混和していった。

ヴェーネトの修道院長は1592年までこの修道院に留まり、その年クレメンス(Clemente)8世は、セレニッスィマと騎士団管区長であったオーストリア皇太子マクシミリアン(Massimiliano)の紛争を取り仕切り、それを終わらせた。そしてこの建物はヴェネツィアの総大司教に渡された。

続いて1630年の元老院の選挙に当たり、もしサンタ・マリーア・デッラ・サルーテ(健康の聖母)がペストという罰から我々を解放してくれるなら、彼女に捧げる大きな教堂を建立いたしますとし、1631年疫病の終焉とともに、直ぐに木造の教会が建てられた。しかし崩れ落ち、元ドイツ騎士団の修道院は現在見る壮麗な神殿の建設(1631~1681)となる。やはりロンゲーナの設計で修道院脇に建てられた。ここで1742年カザノーヴァが物理を学んだことが知られている。 ……」 (41に続く)
  1. 2018/06/28(木) 04:27:36|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィアの街案内(39): アッカデーミア橋からジュデッカ島まで

以前、Guido Fuga-Lele Vianello著『Corto Sconto』(LIZARD edizioni、1997.11.)というヴェネツィア・ガイドでリアルトからザッテレ海岸までの街案内をしましたが、今度はアッカデーミア美術館からジュデッカ島まで歩きます。出発は右岸(de ultra)のアッカデーミア橋です。
Corto Sconto 旧、鉄製アッカデーミア橋現在のアッカデーミア橋[中、鉄製の旧橋、右、現在の木製の橋] 「橋上から素晴らしい景観を楽しめる木造の大橋を降りよう。この橋はかつて鉄製で、町で遭遇する全ての鉄製の橋と同じく、オーストリア人の占領時代、彼らによって造られた。橋前にカリタ大同信会館(scuola)があり、それは貧者援助に捧げたスクオーラで、ヴェネツィア最古(1260年)であり、6大同信会館のうち最重要なものであった。今日、アッカデーミア美術館の在所で、美術研究所(アカデミー)が創設された(1750年)後、1807年創立された。美術アカデミーは脇のゴシック式大門のラテラーノ司教座聖堂参事会員修道院内に設置されている。
[2005年頃、美術館は長い間工事中でした。美術アカデミーをインクラービリ館に移し、展示室数を増やすという話でした。下掲のパンフレットは工事前の物ですので、今や装丁は変更になったことでしょう。美術館の前身については2010.04.24日のアッカデーミア美術館で、同信会館については2012.10.27日のカルパッチョ(4)で触れました。]
『アッカデーミア美術館』カタログ 元インクラービリ養育院[左、アッカデーミア美術館図録、右、現在美術アカデミーはインクラービリ養育院に移りました]  人は全世界の区々のコレクションの中でも失われてしまった素晴らしいあらゆる財産に対してノスタルジーを抱くのだが、この蒐集された絵画作品を鑑賞しようとやって来る、文化参観の生徒達の行列が、譬えなかろうと参観の価値はあるのである。ここで我々は絵を愛で、美的センスを学ぶ。これこそ全ヴェネツィア絵画を特徴付けるものである。

その名はベッリーニ、ジョルジョーネ、ティツィアーノ、ヴェロネーゼ、ティントレット、ティエーポロ、カナレット、グァルディであり、大運河の日々の生活を描いた、以前にも触れたことのある絵画、我らの大のお気に入りの作品『十字架の聖遺物の奇跡』と共に聖ウルスラ(Orsola)に捧げた、ヴィットーレ・カルパッチョの一連のずば抜けた作品群である。
十字架の奇蹟[カルパッチョ画『リアルト橋における十字架の聖遺物の奇跡』]   一般的に言って、芸術について他の地方で起きた事と異なって、ヴェネツィアでは詩歌は花咲かなかったと記憶されているのは興味深い。1400年代末、全ヨーロッパのどこの地よりも数多く、書籍が印刷出版されたのであり、実用に供する実際的な現代の書籍を発明したのは歴史的事実である。しかし1700年代のデカダンスも知って欲しい、ゴルドーニ、ゴッズィ、バッフォ、ダ・ポンテがいた。
[ダンテ、ペトラルカ、ボッカッチョの3大詩人はフィレンツェが育てたのですが、書籍については今まで色々に触れています。次のブログ2011.06.11日ヴェネツィアの印刷・出版(1~4)等他もご参照下さい。ゴルドーニやバッフォ等についてもあちこちで触れました。]

ヴェネツィアでは、映像、造形美術、建築、モード、そして風景を支配し、全てを現実の汎神論的ヴィジョンで包む色と光が常に支配していた。人間とそれを取り巻く自然は比類なく不思議なハーモニーで溶け合った。例えばジョルジョーネの『嵐』の中で、左の兵士を見ると、彼を包む風景の繁茂した葉群と彼は不思議と溶解し合ったかのように見える。
ジョルジョーネ『Tempesta(嵐)』アッカデーミア美術館ジェンティーレ・ベッリーニ『サン・マルコ広場の祝祭行列』veronese-レヴィ家の饗宴[左、ジョルジョーネ『嵐』、中、ベッリーニ『サン・マルコ広場の祝祭行列』、右、ヴェロネーゼ『レヴィ家の饗宴』(サイトから借用)]  しかしこの絵の傍に立てば、ピアッツァ広場を正確にリアリスティックに描いたジェンティーレ・ベッリーニの『サン・マルコ広場の祝祭行列』(1496年)とそれに命を吹き込んだ人間性、そしてサンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ教会のドメニコ会士の修道院食堂に最後の晩餐として描かれたが、検邪聖庁裁判で検閲され、芸術家の自由の保護に関しては嘆かわしい結果の後、若干の変更、『レヴィ家の饗宴』と題名を変えた絵画、ヴェロネーゼの巨大な《晩餐》を見るにつけ、ヴェネツィア絵画の合唱のような局面が思い起こされるのである。
カナの[ルーヴル美術館にある『カナの婚礼』]  もう一つの絵に関して次の事を思い起こそう。サン・ジョルジョ教会の食堂に置かれた巨大画布(その部屋は正にこの絵が置けれるように設えられた)は、ナポレオンによって強奪され、現在はパリのルーヴル美術館にあり、移動すると壊れるという言い訳で未だ返還されていない。
[パリでこの絵を見た時は、感動よりも腹立たしさが先に立ちました。ヴェネツィアと長年争っていたジェーノヴァの持ち物だったコルシカ島(現、仏語Corse)生れのナポレオン(Napoleone)に略奪された絵です。またニッツァ(現ニース)地方等もナポレオン3世の要求で、イタリア統一を認める代償に、カヴールはフランスに割譲せざるを得ませんでした。私のフィレンツェの友人は測量士で、伊国建国150周年記念の会に招かれ、国が作ったA全版のイタリア地図(会の記念品)に興味があるだろうと、送ってくれました。その地図は世界地図と異なり、コルシカ島もニッツァも空白になっています。見る度に不思議な感慨があります。]

この美術館を後にして、右折して橋近くまで行き、更に二つ目の通り(ノーヴァ・サンタニェーゼ通り)を右へ折れ、その通りを越す(ここの左手に有名なフリウーリのスリッパを見ることが出来る)。右手にピッシーナ・ヴェニエール、その先にピッシーナ・サンタニェーゼの通りがあって、泉の前にマドンナの家があり、1630年猖獗を極めたペストの恐ろしい発生を思い出させる家のファサードが顔を出す。

ノーヴァ・サンタニェーゼ通りを橋まで、更にサン・ヴィーオ広場まで進む。運河通りにレストラン“Cantinone Storico”がある。キエーザ通りを進むと終り近くにマルチグラフの工房ギャラリーがあり、そこでフーゴ・プラットの2枚のグラフィック・ポスターが誕生した。1枚はイギリスの手榴弾兵を扱ったものであり、もう1枚はコルト・マルテーゼのものであった。 ……」 (40に続く)
[サン・ヴィーオ広場に渡河する橋サン・ヴィーオ橋の左手に、近年チーニ財団所有の絵画作品を展示するチーニ美術館がオープンしています。景観画等が展示されており、パンフレットを買ってみました。]
Vedutismo ヴェロネーゼの家[右、ヴェロネーゼの家(サイトから借用)――私がヴェネツィアで語学留学を3ヶ月に渡って初めてしたのは、大運河に面した旧モチェニーゴ館のアパートを借りてのことでした。館の脇門からモチェニーゴ・ヴェッキア通りを抜け、サン・サムエーレ大通りに出ると直ぐ左の3337番地の建物に次のようなプレートが掛かっていました。《Paolo Veronese/ pittore sovrano di Venezia/ trionfante maestro immortale/ per mutare di secoli dimorò/ lungamente in questa casa e vi/ morì. IL XIX APRILE MDLXXVIII》。この家に、ヴェロネーゼが長い間住み、ここで亡くなった事を知りました。以来毎日、前を通る度に見上げたものでした。その故か、この辺りは画廊など絵画関係の事務所も多い区域と聞きました。当然彼の檀那寺サン・セバスティアーン教会にも行かねばなりません。]
  1. 2018/06/21(木) 03:56:54|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィアの高級娼婦の結婚

先日ヴェネツィアの高級娼婦、ヴェローニカ・フランコについて触れましたが、マルチェッロ・ブルゼガーン著『ヴェネツィアの神話と伝説』(Newton Compton editori s.r.l. 2007)には、ヴェネツィア貴族と結婚した高級娼婦の話が掲載されています。
Marcello Brusegan『ヴェネツィアの神話と伝説』「1581年の聖フランチェスコの日[彼の聖名祝日は10月4日です]、サンタ・マリーア・フォルモーザ教区で23歳の貴族マルコ・ダンドロと高級娼婦としては最高位にあった20歳のアンドリアーナ・サヴォルニャーンが結婚した。結婚式は町で大スキャンダルを惹起したが、特に新郎新婦間の社会的階級の隔たりが余りにも過度であったがためであった。一人の貴族が好き勝手で一人の高級娼婦を扶養するということは、極普通のことであったが、結婚し、彼女を貴族階級に引き上げることは常識外れであった。

《確かに》と、コメントされている。《ダンドロ家は愛の妙薬に取り憑かれていた。高級娼婦達は財産のある夫を手に入れるために、こうした事をやっている!》。怖れをなした十人委員会さえも行動を開始し、若い二人に対して逮捕令を発したが、二人の結婚を取り仕切った司祭の司祭館で、胡散臭い世相を感じ取った二人が雲隠れしてしまったため、どんな成果も得られなかった。

若者は両親を亡くしており、多分少々単純なお人よしであり、彼女の方はウーディネ生まれで、貴族サヴォルニャーンの召使いの娘で、この貴族から姓を貰っていた。(父親がセレニッスィマのガレー船の漕ぎ手として仕えていたが窃盗で罪に服し)幼くしてヴェネツィアに引っ越さざるを得ず、子供の時から苦しい生活で、11歳から公娼となり、ヴェネツィアやパードヴァで商売をしていた。

彼女の幸運は、1576年の大ペスト蔓延に生き残ったことであり、競争相手がひどく少ないということから、沢山のヴェネツィアの老若貴族との接触が可能になった。その中には令名高き姓の若き芽があった。即ちコンタリーニ、コルネール、カナール、アヴォガードゥロ、ダンドロ、ソランヅォである。こうした人達の中で最もよく通い詰めたのがマルコ・ダンドロその人だった。彼はある時から若い娼婦の家で同棲を始めたのだった。

兄弟のフランチェスコや姉妹、全ての親族はこの不名誉な関係に全面対立しており、この2羽の小鳥に目を光らし始めた。こうして判ったことがあった。アンドリアーナは自宅に数十のホスチアという聖体を小箱に収めて持っており、それはキリスト像を刻印した物であり、宗教的魔術的呪文の類いで、胃痛の時など彼女はそれを食べていた。人々が期待したことは、サヴォルニャーン嬢が直ぐに魔女になってくれることだった。

《で、あなたもあの魔女がマルコにもあのホスチアをこっそり食べさすところを見たいの?》。親族達は言った。《きっと何か悪魔の儀式で魔法をかけられたんだよ》。

魔法という鋭い武器で何も判らない純真なマルコ・ダンドロを彼女に首ったけにさせているとして魔女に対する裁判の下準備をしようと総代司教に申し立てたのは直ぐだった。こうして区々の証拠が直ぐに現れた。《結婚して2時間後には、もうアンドリアーナはベッドで他の男と横になっていた。》と小間使いが言った。《彼女が死人の頭を持っているのを見た。》とゴンドラ漕ぎが話した。《空豆を投げて未来を予言した。》と誰かが断言した。《魔法の草で媚薬を調合している。》 《アヴォガードゥロ公妃を殺そうとした。》等々。結局全ては予想とは逆のものであった。

確かな事は、空豆の話は彼女が作り上げたものであり、正しくこれはこの種の魔術においては最も適正なものの一つであるということ。また確かな事は、“黒”と書かれたホスチアは祝別された神聖な物で、サヴォルニャーンがフラーリ教会の教区司祭から手に入れた物であったこと。更に確かな事は、《彼女が悪魔に取り憑かれ》、同一の司祭に何度も悪魔祓いの儀式で、彼女は祓い清められたということ。その上、他の女達と一緒に、幾つかの祭儀に熱心に参加したということも確か。それは奇天烈な神像を持って歩く奇天烈な行列であり、大きな深鍋で煮え立たせるために入れられた死人の摩訶不思議な頭のことについて言っているのか? 全て本当の事のように思われた。

結果は? 裁判での証言は披露されなかったし、陰口など考慮されなかったから、それについては事実上何もない。サヴォルニャーンは誤解を避けるために最初パードヴァに逃げた、更により安全な別の場所に。ダンドロはローマ教皇庁に助けを求めたが、結婚を無としないだけでなく、妖術の告訴を全て排除してくれた。二人の若者はこうして、ヴェネツィアに意気揚々と帰還することが出来、幸福に愛の生活を全うすることが出来た。

マルコ・ダンドロは人生を進展させ、続いてセレニッスィマの公的生活を栄光あるキャリアで飾り(中でもフェルトレの行政長官)、1616年8月、58歳で生まれ故郷で亡くなった。アンドリアーナ・サヴォルニャーンについては、貴族としての生活が続かなかったとしても、知られていることは僅かである。当時のヴェネツィアの中傷話が定義するように、我々も断言しよう、確かに彼女は“成り上がり者”ではあった、と。」                         
  1. 2018/06/14(木) 00:22:22|
  2. ヴェネツィアの娼婦
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リアルト、サン・ジャコメート教会の時計

先日、6月5日のLa Nuova紙に次のようなニュースが掲載されました。
サン・ジャコメートの時計「 リアルト、サン・ジャコメート教会の古い時計の修復にロッククライマー達
――有翼の獅子が付いた時計の針が撓み、1422年製の歯車が損傷の危機――

6月5日、二人の修復師がサン・ジャコメート教会に設置されている、ヴェネツィアで最も古いと考えられている1422年製の時計の針を修復した。作業はアクロバット的技が求められ、通行人や物見高い人々の関心を呼んだ。事は太陽と時計の針の問題である。これは太陽の熱線で針が撓み、廻りながら時計の他の部分も傷付けてしまう惧れがあるためである。

リアルトのサン・ジャコメート教会の古い時計の修復作戦は、この芸術的な針が時の経過と共に摩耗したということ。太陽の熱線で、中央の有翼のライオン飾りの付いた針が撓み(多分悪天候故に)、1422年に遡る、24時間を刻む時計の文字盤が傷付けられ始めたのだった。 ……」
サン・ジャコメート教会[カナレット画『サン・ジャーコモ・ディ・リアルト教会』] [ヴェネツィアでは、サン・ジャーコモ・ディ・リアルト教会は、サン・ジャコメート(S. Giacometo)と愛称されています。]
  1. 2018/06/10(日) 10:00:20|
  2. ニュース
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『ヴェネツィア幻視行』

ジャネット・ウィンタースン著『ヴェネツィア幻視行』(藤井かよ訳、早川書房、昭和63年7月31日)を読みました。ナポレオンに憧れ、彼の召使いとなったアンリは、ヴェネツィア生まれの娘ヴィラネルと出会い、恋に落ちます。ヴィラネルのヴェネツィアとはどんな?
ヴェネツィア幻視行「……わたしは夜が好きです。ヴェネツィアではずっと昔、わたしたちが独自の暦を持ち、世界に超然としていたころでは、一日は夜始まったものです。わたしたちの商売も秘密も外交も暗闇が便りという時に、太陽が何の役に立つというのでしょう? 闇の中で人は変装しますが、ここは変装の都なのです。

あの頃(わたしにはそれを時の流れの中に置くことができません、何故なら時間は昼の光と関わりあっているからです)、陽が沈むとわたしたちは戸口を開け、火屋(ほや)をつけた明りを舳先にかかげ、滑るように漕いでいったものです。

その頃はここの船は全部真黒で、止まっても水に跡一つ残さなかったものでした。わたしたちの町が取引きしていたのは、香料や絹。エメラルドにダイヤモンド。国家機密。わたしたちが橋を造ったのは、水の上を歩いて渡るのを避けるためだけではありません。そんなにはっきりしたものじゃないのです。

橋って人の集まる場所です。中立的な場所です。気のおけない場所です。仇敵同士が出会いの場に橋の上を選び、この中立の場で決着をつけるという場所なんです。一人は向こう側に渡れる。もう一人の方は戻ってこないでしょう。恋人たちには、橋は一つの可能性であり、自分たちのチャンスの隠喩なのです。そして、ひそかに品物を運搬するためには、夜の橋ほど適当な所が他にあるでしょうか?

わたしたちは哲学的な人間で、貪欲と欲望の本質に精通し、神と悪魔の双方と手を握っています。そのどちらも離したくないんです。この生きもののような橋が全てをそそのかし、人はここで魂を失ったり、見つけたりもするのです。……

大運河(グランド・カナル)[普通はカナル・グランデと言っています]はもう野菜船で賑わっています。遊びにきているのはわたしくらいのもので、他の人は積荷を固定したり、友達と議論する合間に、物珍しげにこっちを眺めています。あの人たちはみんなわたしの同朋、だから気のすむまで眺めても結構です。

わたしはリアルト橋の下まで漕いでゆきます。この風変わりな橋は途中で切れていて、街が二つに分れて戦闘状態になったとき、
街の半分との往来を止めるために、引き上げることができるのです。この橋が上げられれば人々は封じ込められて、ついには親子とか兄弟ということになってしまうでしょう。だが、これが逆説の運命というものでしょう。

橋は結び合わせるのが、分つものでもあります。……

大時計のムーア人の人形がハンマーを振りあげ、交互に振りおろします。まもなく広場には人がおしよせ、暖かい吐く息が立ちのぼって、頭上に小さな雲ができることでしょう。わたしの息は火龍のように、まっすぐ前に吐き出されていきます。先祖たちは水辺のあたりから叫び声をあげ、サン・マルコ寺院のオルガンが響き始めます。

凍結と融解のはざまに。愛と絶望のはざまに。恐怖と性欲の間に、情熱は存在しています。わたしは櫂を水の上に平らに置きます。一八〇五年の元旦です。 ……」
  1. 2018/06/07(木) 00:51:33|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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書籍『ヴェネツィアの高級娼婦』(4) 

(続き)
「“カタログ”の中で低額の娼婦の傍で(210人中79人の娼婦は1スクードで満足している。《セルヴィのエーレナ・ロッサ》は正に0.5スクードであり、そんな人が4人いる。《アゼーオ橋のキアレッタ・パドヴァーナ》《サント・アポナールのラウレッタ・カヴァルカドーラ》《カステッロのルグレーティア・モルテジーナ》《ピストールの真ん中のマリーン通りのマリエータ・ヴェレーラ》で、彼女達に客は欲しがるものを与えることが出来る)、当時のお金を稼げる可能性に関して、全く些細な幸運を求める少女達に客達は出会うのである。

20スクード稼ぐ《サン・トーマ[San Thoma―当時はS.Tomàではなく、サント・ステーファノもSan Stefanoと言われたりしました]のチェチーリア・カラッファ》から、25スクードのリーヴィア・アッザリーナや、実に30スクード要求する《サンタ・ルチーアのパウリーナ・フィーラ・カネーヴォ》までいる。

トゥッリア・ダラゴーナに関しては、1535年に刊行された“娼婦料金表”は“カタログ”印刷時に指導的役割を果たし、出版意向と類似の実用性を込めて編集されたということではないけれども、7スクードの額を彼女に割り当てている。譬えジョヴァン・バッティスタ・ジラルディ・チンツィオが言うように、彼女が一晩過ごした独人から100スクードも稼いだことがあったにしてもである。彼女の立場に立てば、空想ではあるが、アントンフランチェスコ・ドーニは贅を尽くした、素晴らしい館に共に宿泊したかった美女の一人の好意を得たいがため、最高額として25スクードを提示した。

ヴェローニカについての浩瀚で資料豊富な研究書の著者アルトゥーロ・グラフは、彼女の職業が明白であるにも拘らず、“カタログ”においては、その能力があるのに彼女の要求する額が余りに低いので、“手引書”の著者の中に誹謗するような意味を感じ取っている。

問題となることは殆ど重要でないが、“カタログ”が1566年と思われるように(確かにそれは1570年以前であるが)本当に出版されていたならば、我らが高級娼婦詩人はその若い年齢からしてまだ駆け出しであったに違いない(彼女は多分1546年に生まれた)。しかしそれは彼女の人生で、より以前に記録された職業的、文学的成功からは程遠いものであった。

18世紀初頭、愚かしさが頂点に到達する。G. カノーニチ・ファッキーニの「15世紀から現代までの文学における、有名イタリア女性の伝記的側面」は、《この美しい、能弁で輝く女性は……若い年頃で書くという喜びと文化の、正に愛の隠れ家を作り上げていた。若い身空で未亡人となり、引き篭もり、文学に専念する……》。

もっと用心深く言えば、前世紀のヴェネツィアの博識なるネストルである、エマヌエール・チコーニャは、この職業の際どい話は避けるようにしていた。そして断言した。《ヴェローニカは独特の美しさを持った女性だった。だから沢山の恋人達がおり、彼らにかなり喜んで身を捧げた》。
[ネストル(Nestore)はトロイ戦争におけるギリシア軍の最も賢明な長老。]

ヴェローニカを、彼女自身とは違った人間であるとする、洗練さに欠ける試みの前では、改心後は品行方正に生活すると称賛するといった風に彼女に関わってきた、1700年代の唯一の評論家、ジョヴァンニ・デッリ・アゴスティーニ師の試みは殆ど悲愴的とも言える。

もう一人のセッテチェントの碩学フラミーニオ・コルネールによって、受容された伝承を基にすれば、彼女は聖ゲオルギウス(S. Giorgio)への祈願として、悔いた娼婦を収容する《救護の慈善院》を創立したかったのである。それは[彼女以外の人物により]最初トレンティーニに設置され、その後サン・トロヴァーゾ教区に、それもサンタ・マリーア・カルミネ教会からほど遠からぬ所に設置された。

このため直ぐに次のように言われた。1570年11月1日に書かれた彼女の第2の遺言状の中でヴェローニカは、相続人が自分より前に死んだ場合は、自分の財産は次の人に贈られる。即ち《善良な若い娘に贈る。しかしこの仕事を捨てたいと思う娼婦が二人見つかったなら、それに値する、或いは修道女になるなら、その場合はその二人の娼婦を受け入れ、若い娘は止める》。

そして1580年に、総督とセレニッスィマ政庁に見せるための《秘密のaricordo(形見)》を書いていた。その中で、救護院あるいは収容所の設立を提案していた。そこでは生活を変えたいと望んでいる娼婦をその子供共に受け入れることが出来るのである。しかし《秘密のaricordo(遺言)》にも書かれていることであるが、その中でフランコは、自分の相続人のための年500ドゥカートの年金と引き換えに彼女自身が提案した企画の実現を申し出ており、彼女の進言のお蔭で掻き集めることの出来る金額を引き出せるのである。その《秘密の遺言》は救護院の古文書館に存在し、チコーニャに出版された文書の余白のメモから判るように、公にされなかった。

そして正にこの考えから、その後そうした機関が奏効的に設立される芽が吹き出す可能性があっても、想像であるが、ヴェローニカはその組織とその発展に積極的に参加するということはなく、そこから身を引いていたのである。……」 (引用終り)
  1. 2018/06/01(金) 00:05:41|
  2. 文学
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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