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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの街案内(44): アッカデーミア橋からジュデッカ島まで

(続き)
「この橋は渡越せず、このままゲラルディーニ運河通りを進み、通り終りでスポルカ・デ・レ・パツィエンツェ(Sporca de le Pazienze)通りへ左折する。更にその先をロンガ通り方向へ左折。この通りに小さなレストラン"La Furatola(フラートラ)"がある。
Fujiyama[ furatola(ヴェ語)は、Pizzicagnolo(ピッツィカーニョロ―惣菜屋)等の小さな店の事。このロンガ(Longa)通りで、日本の伊大使館職員を長年されていた方が帰国され、Bar と B. & B.を《富士山(ふじやま)》と言う名前で経営されています。通りに《Fujiyama》の看板が目立ち、語学校帰り時、Tea roomに何度か寄りました。日本国での《表彰状》等も店内に貼られ、1度泊めて頂いたこともあります。]

右のトゥルケッテ通りへ曲がる所まで進むと、その角にバーカロ"Da Piero"があって、内部にビリヤードの台が置かれている。その少し先にも改築されたばかりで、とても親しみの湧くバーカロ"Da Sandro"もある。そしてこの角を右折してTurchette通りを進む。ここには古くトルコ人(Turco)用の監獄としてサン・ロッコ信者会に属した収容所があった。修道女達はこうした少女達を気遣い、改宗させるための準備をし、最低でも持参金を与え、ヴェネツィア共和国という異質の文化状況に、これらの少女達が解け込むようにした。

オスマントルコとの海戦でヴェネツィア海軍に捕まったハーレムの女達は全てここにやって来た。しかしこの通り名の起源には別のより"hard"な説もある。それはトルコ人処女、特に娼婦は男に着飾らせられ、トゥルケッテ橋の袂の家で彼女達の商売に従事させられたというものである。橋を越え、ボルゴ運河通りを進む。道を進むこと半ばで、ロカンダ(安宿)“Da Montin”がある。
[語学学校の課外事業で、午後希望者には伊語聞き取りの耳の訓練のためにマルコ先生と街歩きをしながら、建物等の説明を受けました。この橋の左に建つ家についてそんなトルコ関連の話を聞きました。ヴェネツィア街歩きの楽しさを知ったことでした。
ロカンダ・モンティーン中央の赤っぽい絵が画伯の物またロカンダ・モンティーンについては、ロカンダとして営業をしているとの話を聞き、Fax して尋ねたことがありました。現在は宿の営業は止め、レストランをしているので食べに来て下さいとのことで、2度ほど食事に行きました。最初の時、壁に展示されたある絵の前に案内され、この絵を知っているかと問われ、絹谷幸二画伯の物があると聞き知っていたので、その旨答えました。2度目の時はここに日本人がよく食事に来るようになったらしく、部屋の中央に配置替えになっていました。2010.11.27日の文学に表れたヴェネツィアで画伯について触れています。画伯はアッカデーミア美術学校に留学され、ボローニャの画家ブルーノ・サエッティの元でアフレスコ画(画伯は伊語式に"affresco"と発声されます)の研究をされたとのこと。サエッティのヴェネツィアの工房はサン・ヴィダール広場に面した2864番地にあり、《太陽と希望の画家ブルーノ・サエッティ(1902~1984)はここで仕事をした。ヴェネツィア市、1981.08.31》という碑があります。画伯の絵は中央の赤っぽい絵柄の物。]

オンニッサンティ運河に出るまで運河通りを進み、そこで左折し、プラットにとって非常に懐かしい運河通りに面したフランス領事館を越えて進む。こうしてサン・トゥロヴァーゾ広場に到着、ここはある日、コルトがヴェネツィアの猫協会と口を利いた所である。教会の周りを回ってみると、教会の向こうに街でも最高に美しい、ブランドリーン館の緑の庭園がある。ファサードがサン・トゥロヴァーゾ運河に面して大学の建物となっている。

かつてこの緑のオアシスは、人々に愛された外国渡来の珍しい植物で有名で、1545年、パードヴァ大学植物園の植物育成に協力していたアントーニオ・ミキエールの所有になるものであった。右手の橋を渡る前に、1925年に作られたこの館のファサードの、ブラス家によって設えられた、非常に興味深い一連の神盃と建築的な浮彫りを見過ごさないこと。
「Cantine del Vino gia` Schiavi」ジャ・スキアーヴィ橋を渡り、バーカロ"Da schiavi"で一休みしよう。
[このバーカロ"Cantine del Vino-già Schiavi"は、NHKのヴェネツィア街歩き番組でこの近辺を通る時には必ずと言っていいほど撮影されていました。squero等、近所を歩く時は立ち寄りましょう、しかし典型的なバーカロはBarと違い、バーカロの最古参《ド・モーリ》でのようにコーヒーはありません。]

右へナーニ運河通りを進もう。ゴンドラの修復もする、素敵なスクエーロ(ゴンドラ造船所)を対岸に見る。これはこの建築・建造という世界の中で何か山野的な雰囲気を醸し出している非常に絵画的な一郭である。そしてここを通り掛かった多くの画家達によって不滅の景観となった。

ザッテレ海岸通りに戻ってくると、バールやジェラート屋がのんびりするようにと誘ってくるが、直前にある、左の停留所からジュデッカ島に向かってヴァポレットに乗船しよう。 ……」 (45に続く)
  1. 2018/07/26(木) 00:50:26|
  2. ヴェネツィアの街
  3. | コメント:0

ヴェネツィアの街案内(43): アッカデーミア橋からジュデッカ島まで

(続き)
「ニコでジェラートを味わった後は、ジェズアーティ教会脇のジェズアーティ埋立通りへ右折する。コルトが『ヴェネツィアの御伽話』の中でステーヴァニとガブリエーレ・ダンヌンツィオ率いるファシスト隊に遭遇するサンタニェーゼ広場脇を通る。アントーニオ・フォスカリーニ埋立通りを行き、ラルガ・ピザーニ通りへ左折し、その先を右へ、直ぐに左の狭いピストール通りへ入り、プリウーリの海岸通りへ抜け出ると、右へ曲がってマラヴェージェ(ヴェ語白粉花の意)橋まで行く。この名前にはここに住んでいた“マラヴェージャ”一家の記憶が刻まれている。

しかしこの橋の仇名にはお伽噺的伝説がある。その内の一つは一晩でこの橋が架設されたのだが、それは無名の人々の手によるものであったということであり、工事を始める前に近所に建設資材を運んでおいた物を使用したという用意周到さであったということである。

橋を渡り、対岸のトレッタ通りへ入る。更にその先に続く、2番目のトレッタ通りの終り近くに、小さな橋の先にオステリーア“Ai vini padovani”、“Ai Fioi”としてよく知られたレストランがある。
[Toletta(ヴェ語Toleta)とは伊語Tavoletta(小さな板)のことで、この運河沿いの通りはかつては運河に長い板を渡して橋代わりにしていたのでしょうか。“Ai fioi”は語学学校ヴェネツィア学院の生徒は学生証を提示すると割引があると言われ、何度か食事しました。書籍の割引は語学学校裏の、ヴェネツィア大学前の書店が可でしたが、このトレッタ通りの書店(下で記述あり)でも何度か本を購入しました。]

“Ai Fioi”に寄らないならば、右のチェントプレーレ通りからチェルキエーリ通りへ向かおう。そこには桶を締める輪っかの職人の工房があった。その先左にコマール小広場に通じる軒下通りがある。その隠れた一画は素晴らしい。ちょっと引き返し、小さなオステリーアの前を通り、スクエーロ(ゴンドラ造船所)運河通りを行き、スクエーロの小橋を渡り、トレッタ運河通りへ出る。

この橋の直ぐ左にトレッタ書店がある。我々の興味を引く何かについての割引本を見付けるのは造作もないことである。立ち寄ってみる価値は十分にある。もし寄り道が嫌ならば、橋を右折し、ロンバルド橋を越え、カジーノ・ヴェニエールについて以前話した個人のリドッティ(賭博等の遊興場)のあったカジーン・デイ・ノービリ(貴族の館)の軒下通りを抜ける。

こうしてサン・バルナバ広場に出る(ここは、かの有名な英雄物語の第三話で地下からやって来たIndiana Jones(日本ではインディ・ジョンズ)が抜け出してきた広場)。ここには選りすぐりの音楽レコードを置く小さな店やヴェネツィア式贅沢を味わうべく、カッフェがある。運河に沿って左へ行くと、神話的なプーニ(拳骨)橋の傍の運河に、船上、販売台に果物や野菜を並べた八百屋がある。
サン・バルナバの八百屋さん キオード(釘)橋[右、米映画『旅情』でも撮影されたカンナレージョ区のキオード(釘)橋――広場脇のサン・バルナバ運河に、『旅情』でキャサリーン・ヘップバーンが落ちたシーンは有名です。この映画は『ウエストサイド物語』を書いたアーサー・ローレンツのドラマ『The Times of the Cukoo』の映画化で、ヘップバーンは大量の予防薬を飲んで運河転落を敢行したのだそうです。ヴェネツィア本島唯一の欄干のないキオード橋等まで、ヴェネツィア名所を隈なくシーンに収めた映画で何度も見ました。その故か、ヴェネツィアは飛び込みを禁止しているのですが、後を絶ちません。7月9日のLa Nuova紙は罰金450ユーロと書いています。]

この橋の名前は、ここで行われていた古い習慣を思い起こさせる。9月からクリスマスの日まで、町の二つの地域の党派の戦いである。Castellani派(カステッロ区の住民)とNicolotti派(サン・ニコロ・デイ・メンディーコリ教区の住民、ヴェネツィアでも貧しい人々)。後者は貧しい漁民達で、死亡税なるものを制定したため、“死の司教”と呼ばれたカステッロ[大聖堂があります]の司教を14世紀暗殺した後、激しい対抗意識を燃やしていたと思われる。人民の半分の命を奪った1346年のペストによりこの聖職者が稼いだ富に怒り心頭で、彼の10番目の王国、あの世に彼を送ってしまえと考えたのであり、こうしてカステッロの住民の怒りも燃えたのだった。
アントーニオ・ストーム画『拳骨戦』ガブリエール・ベッラ画『サンタ・フォスカ橋の棒戦』[左はアントーニオ・ストーム画『拳骨橋の戦い』、右はガブリエール・ベッラ画『サンタ・フォースカ橋の棒戦』]  橋の上に登ってみると、橋の隅に大理石の4つの足型を見ることが出来る。闘いを始めるために勝負相手の位置が設定されており、欄干はなく、このためある者は、相対する両岸に蝟集した観客の笑いや嘲笑を引き起こしながら、運河に飛ぶように落下すること、しばしばである。

こうした闘いはここだけでなく、この対立する二つの地域が1年に一度、正に野戦のようにぶつかった。1705年の血塗れの闘いでは、群衆と狂乱の中で、死者さえ残された。以後この闘いは決定的に禁止された。 ……」 (44に続く)
[拳骨橋の戦いについては、2008.05.02日の拳骨橋の戦い(1)と2008.05.09日の拳骨橋の戦い(2)で触れています。その他カンナレージョ区の、ヴェネツィアの知恵袋だったパーオロ・サルピの銅像が建つサンタ・フォースカ広場に架かる同名の橋やレオーニ小広場近くのサン・ズリアーン教会裏の戦争橋(ponte de la guera)でも闘いがあったようです。]
  1. 2018/07/19(木) 02:21:21|
  2. ヴェネツィアの街
  3. | コメント:2

レデントーレの祭り

昨夜は恒例のレデントーレの祭りの夜宮でした。La Nuova紙でその様子をどうぞ。
レデントーレの夜宮「 レデントーレ祭、伝統は更新される
――花火スペクタクルは40分間、夜空で華開いた。スペクタクル終了後、2艘の船が衝突、1艘は損傷を受けたが、怪我人無し――

2018年7月14日[7月第3日曜日の前夜祭]は、レデントーレ祭の宵宮で祭りの伝統を更新した。そして40分間の連続花火打ち上げ。およそ10万人の観客が海岸通り、家の屋上、船上から、ヴェネツィア人に最も愛される、最も伝統ある行事に参加した訳である。

花火[伊語fuochi=ヴェ語foghi] 打ち上げは、23.30分に始まり、00.10分に最後が打ち上げられた。種々様々、色々の形: 螺旋形、ハート形、首飾り形等、音無しのものがいくつかあり、全くユニークだった。  

レデントーレ祭は降雨、稲光、雷鳴を押しやり、満天は花火の華で彩られた。船に乗った人は穹窿天井下にあり、螺旋形や円形、ハート形等、数多の形で観衆は魅了された。最後は古典的な大喝采で有終の美を飾った。 ……」
ponte votivo Redentore本日はレデントーレ教会の本祭の日です。写真のようにジュデッカ運河に仮設されたPonte votivo(救世主に捧げた橋)を渡ってジュデッカ島の教会にお参りします。私もあるバールの人達が花火観賞のためにジュデッカ島に設置した席の仲間に入れて頂き、花火を堪能しました。始まりは23.30分ですから、それまで夕方から飲めや歌えで花火打ち上げ頃は皆さんベロンベロン状態。私も初めてのジュデッカ島であちこち見て回る内、珍しい日本人とあり、覗くグループからグラッパ等を振る舞われました。バールの人達は最終的にはリードの海岸まで行き、水平線に日の出を拝し、祭りを締め括るのだと言っていました。後片付けにテーブルや椅子の撤去が残っています。
  1. 2018/07/15(日) 12:10:00|
  2. ヴェネツィアの行事
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ヴェネツィアの街案内(42): アッカデーミア橋からジュデッカ島まで

(続き)
「陸地から届く商品のためには、2番目の税関がリアルトに設置された(この運河通りの終りの末端にサン・マルコと繋がるトラゲットの渡し場がある)。岬突端に到着すると眼前に美しいパノラマが展開する。絵葉書用には過ぎたものに違いない。しかし疑いなく、肩越しに素晴らしいものがあり、上を見れば二人の巨大神アトラースに支えられた黄金の玉がある。その上の運命の女神が風見となってバランスを取っている(ベルナルド・ファルコーネの作品)。
[以前この岬に白亜の“蛙を持った少年”像が立っていましたが、市民多数のヴェネツィアには相応しくないとの声で撤去されました。その時のニュースが、2013.03.22日の蛙を持った少年です。谷口ジロー画の漫画『ヴェネツィア』(双葉社刊)はその少年像の立つヴェネツィアを描いた貴重な物です。2017.03.16日のマルコ・ポーロでこの本について触れました。]
地図地図―5
地図ー2地図ー3地図ー4右へ回り、ジュデッカ運河沿いに進む。少し行くとブチントーロ櫂漕船協会の在所である。ここの前の一つの船に、経済的危機に陥った詩人コルヴォー男爵が眠っている。
墓地地図[コルヴォー男爵については、2009.06.06日のウィリアム・ロルフをご参照下さい。猶、彼の墓はサン・ミケーレ島にあります。墓地で頂いた地図には右端にRolfeとあります。]

太陽の下、長いこの散歩道を前進する前に、盛夏、コルトがこの散歩道を通過するのは好きではなかったことを思い出しておこう。彼には霧や夕闇の中で、ここから独り冒険的な歩みを繰り出す方が好ましかった。事実彼は明白に太陽型の人物だったが、夏の午後の蒸し暑さは耐え難く、太陽はここでは朝から晩まで彼を容赦なく打ち据えるのだった。

その上この運河通りの“Zattere”という名前は、彼に『塩辛い海のバラード(Ballata del Mare Salato)』の始まり、炎天下、海に繋がれた監獄を思わせる、あの"zattera"を思い出させたのだった。
[ザッテレ海岸通りのザッテレ(単数はザッテラ―筏の意)は、ヴェネツィア共和国の北部カドーレ等で切り出された木材をピアーヴェ川を筏に組んで下し、この海岸で陸揚げしたことがこの名の由来になったのだそうです。前回紹介したサルーテ教会の礎を支えるために地中に打ち込まれた支柱は森のような数の柱でしたから、毎日夥しい数の支柱が荷揚げされたことでしょう。]

コルトは確かに熱国アフリカを愛した。とある美しい庭園の木陰は、コルドバ(Cordoba)やマラガ(Malaga)、ジブラルタル(Gibilterra)にもありそうな芳香馥郁たる香りに満ち、またアイルランドの光と緑に満ちた爽やかさであり、新鮮な甘露たる飲み物を味わいながら、また別の海岸を夢見るのである。

我らが主人公はどこでも寛げるかのような気分を与えてくれる。しかし何か覚束無いような感覚があって、どんな所であろうとそこに居合わせたいとばかりにこの地から彼を待つ人の居場所に出立する。

この通りを進もう(春秋の爽やかな朝であることを願おう)。古い塩倉庫の脇を行く(倉庫はビエンナーレ会場として何度か使用されたことがある)。カ・バラ橋を越えると、また別の秘所を見ることになる。橋の名前はヴェネツィアに到来したことのない、あるバラ家に由来するものでも、近くにあった"baccalà(塩漬け乾燥鱈)"倉庫でもなく、“cabala”に由来する。この橋から右へカ・バラ運河通りを行くと米詩人エズラ・パウンドが50年に渡って住んだ通り[最初の右のクェリーニ通り]がある。[cabala=ユダヤ教に基づく神秘論で、中世に南仏、西国のキリスト教思想家に影響を与えた。また数字、文字等による占い、の意]
エズラ・パウンドの碑[エズラ・パウンドが住んだ家については、2015.08.06日の文学に表れたヴェネツィアで書きました。彼については、2010.08.17日のエズラ・パウンド(1)~2013.01.05日のエズラ・パウンド(3)で触れています。更に塩倉庫は現在、2009年頃エミーリオ・エ・アンナビアンカ・ヴェードヴァ財団の美術館となったそうです。未見です。]

秘密が明かされて、光を帯び始めたこの地域から、スピーリト・サント同信会館まで進もう、そこからスクオーラ通り、その先のモナステーロ通りに入り、サン・ヴィーオ埋立通りまで行く。左折し、ヴェーチャ小広場まで行くと、銃眼のある美しい大きな門が前方にあり、通り終り近くにもう一つの大門のあるサビオーン小広場が開けている。

角の家の前の高みに、格子に収まった美しい十字架があり、その上部にビザンティン渡来(6世紀)の半月形の浮彫りがある。更に貝殻飾りの下に置かれたクリスト・リゾルトの角にある、二番目の彫刻(1681年)のあるプリーモ・アッリ・インクラービリ通りへ左折する。

小広場を斜めに突っ切り、左折すると、ドゥリーオ・アッリ・インクラービリ小広場で、壁面に少々色あせたジュデッカ島のフレスコ画がある。旧インクラービリ養育院に沿った気持ちのいい通りを行くと、ザッテレ運河通りへ出る。病に苦しむ貧しい女達のためのこの1500年代の収容所は、その後未成年者の教育施設に充てられ、現在は何年も倉庫に眠っているアッカデーミア美術館の絵画作品展示用に改築中である。
ex ospedale元インクラービリ養育院[左のインクラービリ養育院(サイトから借用)については、2013.08.03日のインクラービリ養育院で詳しく触れました。現在、美術館の更なる展示場になるのではなく、アッカデーミア美術学校の方がここへ引っ越しました。]

更に道を進み、カルチーナ橋を渡越して右に、1877年英国のジョン・ラスキンが滞在したカルチーナ荘が見える。更にその先にヴェネツィアののらくら者達に非常に愛されたジェラテリーア・バールがある[ここニーコのジェラートは大変美味しいです]。 ……」 (43に続く)
[ラスキンのカルチーナ荘については、2012.07.14日の文学に表れたヴェネツィアで、彼の著作については、2012.07.21日のジョン・ラスキンで触れています。]
  1. 2018/07/12(木) 02:07:41|
  2. ヴェネツィアの街
  3. | コメント:0

ヴェネツィアの街案内(41): アッカデーミア橋からジュデッカ島まで

(続き)
「この教会の設計図の発想は、以前にも触れたことのあるフランチェスコ・コロンナ僧の作品『Hypnerotomachia Poliphili(ポリフィルス狂恋夢(澁澤龍彦訳題)――サン・マルコ図書館蔵)』中のVenere Physizoa神殿のイメージから来ているように思われる。一種のギリシア的な理想主義的初期キリスト教のキリスト教の母と異教の母が融合したものとして、ルネサンス人文主義に言及したものである。
サルーテ教会venere physiozae[右図、サイトから借用]  この類い稀なる建築物の背後に隠された秘密に新しい光を当てようと、ドイツ人教授ゲルハルト・ゲーベル=シリングの研究室がその労をとってくれたのであるが、それは平面測量法によるものと実際の建物の寸法を計測したものとであった。全てをヴェネツィア・ピエーデ(1ピエーデ35.09cm)で測ると、係数として2つの数が反復する。即ち8(教会の基部をなす同じ8角形は再生の象徴である)とその倍数と共にある数である11とである。

8という数字はキリスト教象徴学に属している(聖母マリアの神秘的王冠とエルサレムの聖墳墓教会(Santo Sepolcro)、復活、永遠の生命)、しかし11という数字はネガティヴな意味合いを持ち、事実十戒を、正確に言えば、大罪[七つの?]を検討しなければならない。また異なる言い方をすれば、ユダヤのカバラ(Kabbalah o qabbalah)を参照すること。正にこの数字は十戒の起源を示しており、10本の命の樹(sefirot)に取り囲まれた神自身なのである。

数字11はヘブライのアルファベット(kaf)の半分、タロット・カードの神秘的な数22の2分の1であり、同じようにダンテが『神曲(Commedia――ダンテが最初に書いた時は"Comedia"と"m"が1ヶだったとか)』を歌った1行の詩句形は11音節詩句のエンデカスィッーラボ(endecasillabo)だった。

バルダッサーレ・ロンゲーナ(Balthasar Longinus)はブレッシャ出身で、知られるところは僅かだが、洗礼証明書は未だ発見されていない。唯一知られるところは彼の父が石工をしていたということ、メルキセデク(Melchisedech)と呼ばれ、この名はユダヤ人を想起させ、建築に秘められたこのカバラ的諧調の中には、ユダヤ教・キリスト教的世界における、異教的Venere(ヴィーナス)神殿から来る神秘的融合的建築物を思わせる。

ロンゲーナはその神殿と同じこの建築物の基準尺度の中にその持って生まれた数字学で正確なメッセージを組み込みたかったのであり、教会はこのフォンダメンタ(Fondamenta―運河通り)に建設されるべきであった、言わば、ペスト猖獗を前にした人類の状態とは正に全カトリック世界のものであったということである。
階段の浮彫教会前の階段の両脇には夫々天使が顔を見せており、下から全体を見渡すと、例えば船の上からは、引き込まれてしまいそうなイメージであり、二人の天使は空を介してあの神殿から直接に運ばれて来たかのようである。

大クーポラ(穹窿)下の中央の床の上には、薔薇の王冠とその他10ヶの薔薇の中で一番大きな2番目の王冠、更に"unde origo indi sakus"という文字の入った丸い金属板(もしかすれば11番目の薔薇か)がある。その表記は《薔薇の十字架》の秘儀伝授の神秘をも秘めたこの教会の伝説を豊かにしてくれる。

しかしこれで終わりではない。外部、教会建物周りを鉤十字の帯状装飾が取り巻いている(卍[svastica]というサンスクリットの言葉は健康の意味を持つ)。そして"dulcis in fundo(楽しみは最後に取っておこう)"、教会建設の設計図とは"Clavicola di Salomone"[ソロモンの鎖骨――『ソロモンの鍵』(実はこの本は中世の古典的魔法の書である偽ソロモン文書と言われているそうです)] に他ならない。
レッゼ館浮彫[浮彫りの写真、サイトから借用。ヴェネツィアでよく見掛けるこの様な浮彫りをPatera(パーテラ)と言います] 今や早、疑いはない。そしてミゼリコルディアのレッゼ館ファサードのあの策を弄したような浅浮彫りの事を考え直してみよう。ロンゲーナは既にそこで秘教的な事柄を仄めかしていたのである。
[ミゼリコルディア運河前のレッゼ=アントネッリ館は、ロンゲーナによる1600年代後半の堂々とした建築物。]

閑話休題、この素晴らしい建物の話題に戻ろう。16段の階段上に建ち、その階段が大穹窿を持つ壮大さをより際立たせ、外洋からラグーナに入って来ると、ジュデッカ運河と大運河の分岐点の役を果たしている。この石の大建造物を支えるために、支柱が森のように地中に打ち込まれたのである。

内部では、大祭壇にフランチェスコ・モロズィーニがクレタ島のイラクリオン(Candia)から運んで来たビザンティン派の“聖処女”、ティツィアーノのもの、聖具室には15世紀の美しいつづれ織りがある。ティントレットの『カナの結婚式(Le nozze di Canaan)』、更にサント・スピーリト島の教会のために描かれたヴェチェッリオ(ティツィアーノ)の一連の作品が、1656年修道院に住んでいた僧の修道会が廃止されたためここに移動した、その作品等がある。
カナの結婚式[『カナの結婚式』、サイトから借用]  毎年11月21日はマドンナ・デッラ・サルーテ教会の祭日である。ミサのために押し寄せる市民が参詣し易いように、サンタ・マリーア・デル・ジーリョ・オ・ゾベニーゴ広場とトラゲット通りの間に、参詣の浮き橋(ponte votivo su chiatte)が設けられる。寺院の周り一帯は献納の蠟燭や我らが些細な楽しみである美味しいお菓子の屋台が一杯出店である。
サルーテ教会へのお詣りの浮橋。Alvise Zorzi『Venezia ritrovata』から借用[以前の船の浮橋時代の写真。現在は浮橋ではなく、支柱でしっかり支えられた木造の仮の橋です。私は二度渡りました。これについては、2009.11.21日のオーリオ・セミテーコロ・ベンゾーン等で触れました。]

このロンゲーナの壮大な建物を出て右折し、この運河通りを進もう。そこは1400年代からセレニッスィマの海の税関の所在地であった。ここで遠国から到来した船荷を降ろし、関税を徴収されるのである。 ……」 (42に続く)
マンフレディアーナ近年サルーテ教会左隣のSeminario patriarcaleと言われていた建物が、保存していた美術品が整理されたのか、マンフレディーニ絵画館(Pinacoteca manfrediniana)としてオープンしたそうです。絵画館は未見ですが、ここの大門を入ると直ぐに中庭があり、中庭最奥に天正遣欧使節がカリタ大同信会館にベッサリオン大主教の聖遺物を見学に来た事を記した1585年の碑があり、10年以上前に見学に来たことがありました。現在もそこにあるでしょうか。元々はアッカデーミア美術館に変わる前のカリタ大同信会館にあったものが、美術館へ変更に伴ってこちらに移されたようです。この碑については、2009.06.20日のSeminario patriarcaleで触れています。絵画館については、2017.11.06日の『遥かなるルネサンス』展で書いています。
税関岬ヴィゼンティーニ板刻「海の税関、塩の倉庫、サルーテ教会[右、ヴィゼンティーニの銅版画『海の税関、塩の倉庫、サルーテ教会』]  追記: 書き漏らしましたが、マンフレディーニ絵画館の左向かいに玄関が並ぶ、プンタ・デッラ・ドガーナ現代美術館があります。ヴェネツィアは外観の変更は禁じられていますが、内装の設計は安藤忠雄さんに委ねられました。2009年6月開館し、一度展示の現代美術を楽しみました。トレヴィーゾにあるヴェネットーンの《ファッブリカ》といい、ここといい、AndouTadao-ismといったものを濃厚に感じます。
  1. 2018/07/05(木) 00:08:59|
  2. ヴェネツィアの街
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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