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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

サン・マルコ広場の井戸

現在、サン・マルコ広場には井戸がありません(ヴェネツィアには井戸が900はあったそうです)が、かつて存在したようです。以前、《ヴェネツィアの地震》や《ヴェネツィアの火事》また《ラグーナの氷結》等のブログで触れた、G. Nissati著『ヴェネツィア奇聞(Aneddoti storici veneziani)』(Filippi Editore Venezia、初版1897)がサン・マルコ広場の井戸について書いていますので、紹介してみます。
『ヴェネツィア奇聞』「我々の長老達は社会的な慣例として威厳を以って、というよりは寧ろ気軽に物事を見守ってきた、という事の中で、各世紀に渡って、サン・マルコ広場に種々の井戸を設置してきた。メルチェリーア(Marzaria)通り入口に設置された半月型の口の井戸については、1283年の通達が語っている。1361年の記録は、当時この広場に1ヶ以上の井戸が存在したことを語っている。
正面、時計塔[カナレット画『La Piazzetta verso la Torre dell'orologio』(1730)。正面の“時計の塔”の大門がリアルト橋に向かうメルチェリーア通り入口になりますので、その辺りに1ヶ井戸があったのでしょうか。]  1445年、シニョリーア政庁は通達を発した。広場の高みに美味しい水の、大きな井戸を根底の基礎から作るように、と。サン・マルコ広場に掘られた2ヶの井戸については(多分当時は簡単に修復されたと思われる)、マリピエーロとマーニョが井戸ニュースに限って同じ日付を記しているが、マリーン・サヌード(Marino Sanuto)が1494年に詳しく語っている。

次の世紀には、サン・ジェミニアーノ教会前の広場の井戸について等何も語られていない。1548年には、水が悪臭を放つようになり、飲用不可となっただけでなく、《ma è la causa di far pestifero l'aere con mosoni.(蚊だらけの空気を伝染させる原因)》ともなる程、破壊されてしまったことが判る。

更に1588年には、再びクリーン・アップされたが、《tutto ripieno d'imondite fino alla cima che rendono fetore.(下から上まで悪臭プンプンたる汚物の山)》となったがため、1620年にはまた、その工事を執行しなければならなかった。それ以後、他所の広場の井戸同様、壊れていき、語られることもなくなった。
サン・ジェミニアーノ教会[カナレット画『Piazza S. Marco dalla basilica verso la chiesa di S. Geminiano e le Procuratie nuove』(1735~1740)。この教会前辺りに1ヶあったのでしょうか。]  サン・マルコ広場にあった2つの井戸、特に今上で軽く触れた最後の井戸については、近年、広場の甃を敷き直した折、その痕跡が見付かった。」
  1. 2018/08/30(木) 00:04:17|
  2. ヴェネツィアの広場
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仏人画家、ウジェーヌ=ルイ・ブーダン

今までヴェネツィアを描いた仏人画家として、フェリックス・ジアン、ギュスターヴ・モロー、ポール・シニャック、クロード・モネと触れてきました。また新たに、ウジェーヌ=ルイ・ブーダン(Eugène-Louis Boudin)について触れてみます。ウィキペディアからどうぞ。
Felix Ziem《Canal a' Venise》1884ギュスターヴ・モロー画『ヴェネツィア』Le Grand Canal a` Venise黄昏、ヴェネツィア [左から、Félix Ziem画『Canal à Venise』(1884)。ギュスターヴ・モロー画『ヴニーズ(ヴェネツィア)』(1885)。ポール・シニャック画『ヴェネツィアの大運河』(1905)。クロード・モネ画『黄昏、ヴェネツィア』(1908~12)。ブログ内検索はその名前で検索欄で出来ます] 
   
「ブーダン(1824.07.12日オンフルール~1898.08.08日ドーヴィル)は、戸外で写生した最初の仏国風景画家の一人だった。彼は海洋画家であり、海上や海岸で生じるあらゆる事の描写に秀でていた。彼が手っ取り早く描いたパステル画は、ボードレールの称賛を博し、コローは“空の王者”と呼んだ。

彼は港湾パイロットの息子としてオンフルールに生を享けた。10歳の若さでオンフルールとル・アーヴル間の蒸気船で働いた。1835年一家はル・アーヴルに越し、父は文房具と額縁の店を開いた。ここで彼も働き、後には自らも開店した。こうして父は完全に船乗りと縁を切り、息子も同様だった。

彼は率直さ、順応性、気前の良さといった船乗り気質を晩年まで大いに持ち合わせていたが、以後本当の休日というものを持つことはなかった。

店にある絵は額に入っており、その地域で仕事する画家と付き合いが始まり、コンスタン・トロワヨンとジャン=フランソワ・ミレの絵を展示した。二人はジャン=バティスト・イザベとトマ・クーチュールの仲間だった。トマは当時彼が会っていた人物で、彼に画家の道を勧めた。

22歳の時、店の仕事を止め、画家の道をスタートさせ、パリへ、翌年はフランドルへ旅した。1850年奨学金を得、パリに行くことが出来るようになったが、しばしばノルマンディを描きに戻った。1855年からは定期的にイギリスに行った。

17世紀のオランダの画家達が彼に強い影響を与えたが、彼は既にフランスの芸術家グループに注目されていた。オランダの画家Johan Jongkindに会った時、彼は戸外で描くようにアドヴァイスされた。彼はトロワヨンやイザベとも仕事をしたが、1859年にはギュスターヴ・クールベと出会い、シャルル・ボードレールに紹介された。ボードレールは彼の才能を観衆の前に知らしめた最初の批評家であり、この時1859年、画家としてパリ・サロンへのデビューとなった。

1857~58年、彼は僅か18歳の若いクロード・モネと知り合った。モネに若さ故の諷刺画等止めて、水上の輝くような色相や光の戯れに対する愛を教えようとし、風景画家になるよう勧めた。それが後年モネの印象派的画法になるのは明白である。二人の友情関係は生涯続き、モネは後々までブーダンの若き日の教え(影響)薫陶に尊敬の念を払い続けた。彼はモネと彼の若い仲間達を最初の1873年の印象派展に合流させたが、自分は急進的な革新者等とは思っていなかった。
eugene-boudin[サイトから借用]  彼の評判が上がるにつれ、1870年代彼は幅広く旅行が出来るようになった。ベルギー、オランダ、南フランス、そして1892~95年定期的にヴニーズ(ヴェネツィア)に行った。彼はパリ・サロンに出品し続けた。1881年の国際展では金賞を受賞した。彼の同時代芸術への才能と貢献したとして認められるには、少々遅かりしだったが、1882年レジオン・ドゥヌールの騎士章を受けた。

晩年健康状態不良に付き、引退場所として南フランスに帰ってきた。そして与えられていた救援資金が底をついていることが判り、ドーヴィルの自宅に帰った。そして海峡の光景と幾度となく描いた空とその海峡の下、没した。」
  1. 2018/08/23(木) 01:15:32|
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ヴェネツィアの現在: リアルトの魚市場

ヴェネツィアに行く度に、必ず顔を覗かせる場所の一つにリアルトの魚市場と野菜市場があります。初めて語学学校に手続し、アパートを借りて、食品の調達に通った市場です。語学学校のあるサンタ・マルゲリータ広場にも野菜や魚の屋台が並び、利用した事はあります。カンナレージョのトゥレ・アルキ橋傍にアパートを借りた時も、サン・レオナルド埋立通りに出店する沢山の屋台店を通り越し、サンタ・ソフィーア広場からトゥラゲート(tragheto)の渡し(当時0.5ユーロ)に乗って対岸のペスカリーアまで通いました。何しろ初ヴェネツィア行の時、知り合った当時中学生だったジャンニが魚屋さんで働いているからです。今や彼も小父さんです。

ある日友達になったファビアーナがジャンニの魚屋で、それもジャンニの前で魚を買っていました。ジャンニと知り合いである事に驚いていましたが、パードヴァの友人に魚を買ってくれるよう頼まれたとメモを見せられました。肉食の彼女は魚を買ったことがないらしく、お金が足りなくなったと言って、近くに事務所を持つご亭主に電話していました。ヴェネツィアでも珍しく生食(pescecrudo)する《海のトリュフ》、ヴェネツィア語でカパロッソロ(caparossolo/caparozzolo=伊語cappa verrucosa、まるすだれ貝科アラヌノメ貝。大変高価です)を煮て食するというヴェネツィア人もいるように、全ヴェネツィア人も魚に詳しい訳ではありません。そんなペスカリーアについて数日前La Nuova紙が語っていました。

「 ヴェネツィアの魚市場、危機。《我々を援助して呉れなければ、我々としてはどうしようもない》
――リアルト。かつて屋台が18ヶあったのが、現在、半分。2台が備品込みで4万ユーロで売出し中――

フズィーナへの移転にNOを表明するため、2011年に出来たペスケリーア(魚市場)[ヴェ語ペスカリーアPescaria]の吹き流しの旗が盗まれた。深夜何者かが聖マルコの書の中に書かれた、それにぴったりの訓戒を破ってしまったのだ。《Rialto no se toca》。その場所には、我々を苦しめてくる前兆が残った。それは魚市場が少しずつではあるが、後には何も残らない、ということである。

不動産屋が店頭に貼り出した広告は、危機的状況を裏付けるものだろう。《著名なリアルトの魚市場の屋台2台売りたし。用具一式込みで4万ユーロ》。1台が2万ユーロだが、屋台を売ろうとして最後には譲ってしまったことを声高に言う人には1万ユーロだと。
Pescaria[魚市場、1980年代の賑い]  15年前、1台が10万から15万したことを考慮すれば、最低の値段である。ヴェネツィア人で溢れ返る1980年代の写真と比較すれば、それは警告である。今日では人間よりも鷗のお客さんの方が多い状況で、18台あった屋台が今や2分の1である。

町は人口や歴史的店舗や工房の減少状況に遭遇しているが、魚市場は閉鎖という事態に追い込まれるのだろうか? ……」
  1. 2018/08/20(月) 00:04:42|
  2. ニュース
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英人画家、ジェフリー・ハンフリーズ

8月2日のブログで触れましたフーゴ・プラットの友人でもあったジェフリー・ハンフリーズ(Geoffrey Humphries)は、英国アマーシャムで、1945年生れた画家だそうです。その履歴がウィキペディアにありましたので、訳してみます。

「ハンフリーズは、ハイ・ウィコム美術学校、ロンドン美術カレッジ、チェルシー美術デザイン・カレッジに通った。1963年初めてイタリアを訪れ、ヴェネツィアのアッカデーミア美術学校で学位を取り、1974年には最優秀との栄誉を受けている。
ハンフリーズ[絵はサイトから借用]  その後ローマとフィレンツェでも学んだのだが、1966年にはヴェネツィアに定住して描いている。ジュデッカ運河を見下ろすアトリエで仕事をしたが、この地域は音楽家や芸術家にとってよく知られた“センター”である。そこで彼は自分の描く道、生活の流れを突き進んでいる。

彼はまた、ブルースのギタリストであり、合衆国南部、ニュー・オリンズ、チャールストン、サヴァンナで描き、そこでその展覧会を毎年のように行っている。」

[Geoffrey Humphries で検索し、画像を選ぶと、彼のその他の絵画の様子が判ります。]
  1. 2018/08/16(木) 00:22:23|
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ペルセウス座流星群

先日8月10日の新聞La Nuova紙に8月10日の夜の天体ショーの記事がありました。それに付けてもタヴィアーニ兄弟監督の映画《サン・ロレンツォの夜》が思い出されます。次のような記事です。
ペルセウス座[星座図はサイトから借用]  「 流れ星の夜。ムラッツィやロマーン館で皆見上げた
――ここ数日空からの贈り物。スペクタクルを見損じないためにリード島での試み――
[ムラッツィ(Murazzi)とはリード島からキオッジャ寄りの島ペッレストリーナに、外洋のアドリア海からラグーナ・ヴェーネタを守護するために設置された長い防波堤のことで、1966年の大アックァ・アルタの時はこの高い護岸堤が大波で破壊され、ヴェネツィアに大被害を齎したことは知られています。2013.01.26日のアックァ・アルタ(3)でムラッツィについて触れました。]

サン・ロレンツォの夜の“涙”との出会い、8月のここ数日夜空に見える、待ちに待った流星群である。天文学的にはペルセウス座流星群のことで、伝統的には暦上に記憶される聖人と関わるものである。ヴェネツィアの天体マニア(Astrofili)の団体が各種の試みを企画しており、中でもアスケナージ公園の市立プラネタリウムや際立った汚染が目に見えて減少したムラッツィ堤防に出かけることである。

1976年からリード島でヴェネツィアの天文愛好会は、宇宙、恒星、惑星、地球外に存在するあらゆる天体物質に関わる問題、関心を広めるよう努めてきた。かつてなく活動的になったグループは、サン・ニコロ修道院の空き地に最初の一歩を踏み出すことを許され、1983年にはプラネタリウムの建設に向かうことになった。

自力建設としてはイタリア最大の物で、何千もの愛好家や興味津々の人達を、毎年集めることの出来る魅力ある建設であった。15年前、このプラネタリウムはルンガマーレ・ダンヌンツィオ通りの元ルナ・パークの場所に越した。

《今週末の流星の夜のために準備しています。》このグループのメンバーの一人エンリーコ・ストメーオは言う。《土曜日(8月11日)夕方17時30分、プラネタリウムで準備のための打合せをし、21時30分にはオッキ通りのムラッツィの上で、木星、土星、火星、金星を観測する天体望遠鏡と照準レーザーを用意します。

日曜日は同じ場所、同時刻、望遠鏡は使わずとも、ペルセウス座の星座は観望出来ます。全ては天候状態によりますが。……」

日本では本日13日10時頃に極大となろうと東京天文台広報にありました。かつて私は仲間らともっとよく見たいものと語らって、富士山5合目まで車を飛ばしたことがあります。残念ながら、あるいは僥倖と言えるのか、深夜になって雲が出てきて、流星を確認出来たのは明け方近く、数ヶでした。流れ星に願を掛けるのです。
  1. 2018/08/13(月) 12:07:46|
  2. ニュース
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ヴェネツィアの街案内(46): アッカデーミア橋からジュデッカ島まで

(続き)
「この縄工場ではあらゆる種類の綱を作っていたが、今は個人所有となり、アクセスは出来ない。その墜先は、ロンガ・デ・ラッカデーミア・デイ・ノービリ通りで、直ぐ近くに貧乏貴族の若い子弟のための寄宿学校があった。サンテウフェーミア教会まで行くと、橋の向こうに歴史的にも有名なBarと兄弟的な店、Harry's Dolciがある。
                                  図ー5
図図ー1図ー4図ー3図ー6ここは北のフォンダメンテ・ノーヴェの海岸通りから見るラグーナ風景と異なって、もっと静かで、潟的であり、この島に滞在するように招くという事は、また全く別の感慨があるものである。この地域は外洋に近く、牽引船も前を通り、他所の島々に向かう大きな船が我々を旅に誘う。左手のMulino Stukyの赤レンガの大岸壁を見ていると、このネオゴシック建築で丸でイギリスに居るかのようである。
[2012年1月13日ジーリョ島傍で座礁横転し、死者32人の事故を起こした巨大豪華客船コスタ・コンコルディア号を思い出します。あんな巨船が狭いジュデッカ運河を通るのは恐ろしい感じで、反対運動する人の気持ちはよく判ります。《La Nuovaの紙面に度々登場します。]

リーオ・サンテウフェーミア海岸通りを行き、左折し、ロンガ・デ・ラッカデーミア・デイ・ノービリ通りと交わるサン・コーズモ広場に向かい、右へ曲がって進み、左のデントゥロ小広場へ向かうとコルティ・グランディ通りへ入る。すると17世紀の長い建築物の前に出る。見本帳に描かれたような煙突の見本が13基も建物上に見られる。
煙突この古い民家を後にして、再度運河通りへ出、右折する。ピッコロ橋を渡越し、次の橋まで進むと右手にエルベ通りがある。お腹でも空いたなら、ここに、テラスが運河に面した小さなレストラン“All'Altanella”がある。ジュデッカの友人に招かれた時、年老いたMitterand(仏国第21代大統領?)も憂き世を逃れてこのオアシスにやって来たものである。この美味処と別れ、再び運河通りに引き返そう。

ロンゴ橋を跨越し、我らが歩みを進めて行くと、クラリッセ・デッラ・サンティスィマ・トゥリニタ修道院の脇を通り、壮麗なレデントーレ教会に辿り着く。1576年の黒死病の猖獗の終焉が到来し、救世主に祈願の聖堂としてアンドレーア・パッラーディオの設計で建築が始まり、1592年に献堂されたもの。教会の食堂の骨組みには、木材とレーパントの戦いに参加した軍船の骨格が使用された。
[パッラーディオは1580年に没したため、教会完成まではリアルト橋の建造者アントーニオ・ダ・ポンテが後を引き継ぎ、完成させました。またヴィチェンツァのテアートロ・オリンピコも彼の没後は、設計図を持つ息子のスィッラにパッラーディオの弟子のヴィンチェンツォ・スカモッツィが大協力して完成させました。完成直後の開場公演はソフォクレース作『オイディプース王』で、舞台装置にテーバイの町がスカモッツィにより設置されましたが、それは評判を呼び、そのまま壊されず現代に残ったものを目にすることが出来ます。テアートロ・オリンピコについては2008.04.18日の天正遣欧使節で触れています。
コンペでスカモッツィに勝ったダ・ポンテ設計の石のリアルト橋は、現在ではヴェネツィア建築の模範とも称されていますが、コンペに敗れたスカモッツィは、こんな橋直ぐに崩れ落ちると嘯いていたそうです。]

クローチェ橋を越渡し、運河通りを進む(オステッロ・デッラ・ジョヴェントゥとレストラン“Iguana”の傍を通過)。そしてサンタ・マリーア・デッラ・プレゼンタツィオーネの修道院と教会の場所へ至る(この建物もパッラーディオの手になる)。古くは貧しい少女達のための学院として機能したため、ズィテッレ(独身女性)教会と通称し、彼女達はその仕事として取り分け刺繍に携わった。現在では、各種展覧会を挙行する文化センターであり、大きな庭園がある。

丁度教会前にサン・ジョルジョ島に行くヴァポレットの停留所がある。その島に渡るとここにはベネディクト修道会の研究センターがあったが、古くは“糸杉の島”と呼ばれ、現在でも、1950年代ジョルジョ・チーニ財団創設後、研究センターとなっている。
サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会[サン・ジョルジョ島に掛かる二重虹。サン・マルコ鐘楼から]  サン・ジョルジョ教会はパッラーディオの作品である。実際、彼の設計になる3教会、レデントーレ、ズィテッレ、サン・ジョルジョがサン・マルコ小広場から観望すると一列に並んでいる。

元修道院の寮(128mの長さ)、ロンゲーナの図書館、有名なレフェットーリオの食堂、美しいキオーストゥロの中庭、背後にある庭園、南ラグーナの静かさは我らの街歩きを完璧なものにしてくれる。またもう一つの美しいイマージュ、サン・マルコ広場の甃のレース模様を我々に共感させてくれるのである。」 (終り)
Venezia-Teatro-Verde-Fondazione-Cini[サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会鐘楼上から眺めるサン・マルコ広場がまた美しいのです。我々日本人にとってこの島が関わりを持っているのですが、それについては2009.10.31日のヴェネツィアと日本の関係で触れました。この島の奥の庭園内にあるテアートロ・ヴェルデの野外舞台で能楽のヨーロッパ初の公演が1954年にあったということです。]
  1. 2018/08/09(木) 00:10:41|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィアの街案内(45): アッカデーミア橋からジュデッカ島まで

(続き)
「ジュデッカ島に行くには、ジェズアーティ教会前の停留所から82番線のヴァポレットに乗るのだが、教会内部のティエーポロのフレスコ画を見忘れないで欲しい。
[82番線は現在はなく、ザッテレ海岸通りのZattere停留所からSan Zaccaria方面行き、或いはSpirito Santo停留所からPiazzale Roma方面行きに乗れば、次の停留所はジュデッカ島のPalanca停留所です。]

かつてこの島は、spina longa(長い棘or魚の骨)と呼ばれたが、それは長い形故であって、Zudeca[古名]からGiudeccaになったと思われる。庭園や菜園がこの長い島の一番の特徴で、ルドヴィーコ・ウーギの1729年の植物が存在する。彼はその独特の花壇の様子を正にマニアックなほど詳細に記録している。
 
庭は個人の物で立ち入りは出来ないが、かつては外国渡来の植物が花咲き、色々の植物園の情報が貰えたが、残念ながら今はない。そこでは航海者や旅人が地球の遠隔地より持ち帰った珍しい薬草や植物が栽培育成されていたのである。マドンナ・デッロルト教会傍のパトゥロール庭園(現在消滅)には、180種類の薔薇が栽培されていたという。

緑の生い茂るこの島の話に戻ると、1529年ミケランジェロはヴェネツィア式の浮華虚飾に満ちた儀式に嫌気が差して、それから逃れようとこの島に避難した(リアルト橋を石で作るプロジェクトを提案した時の事らしい)。今では無くなってしまった屋敷や邸宅は色々の尊敬さるべき貴紳を招いたのであったが、中でもダンドロの館(サン・ジョルジョ島の直前の)に到来した有名人がいる。彼は羨望という後光に包まれた"Mamugnà(マムニャ)"という名前で有名な、キプロス島の錬金術師マルコ・ブラガディーンで、銀を金に変換することが出来ると思われていた。

人々の信じ込み易い性格を嘲笑う当時の民間のソネットが残っており、この人物が町で惹き起こした驚嘆にも拘らず、結局“哀れなマムニャ”は幸せな最期を迎えることが出来ず、1年後バイエルン公の客人としてあった時、化けの皮を剥がれ、金の“魂”を取り出すこと等出来ないとされ、調査もいい加減なまま斬首された。
[下掲の書『魔法』(K.セリグマン著、平田寛訳)に、「……錬金術師たちは、物質の魂を抽出しようと苦心していた。かれらはこの抽出物を使って、鉱物にふしぎな効果をあげようと望んだ。」とあります。]

他にも信じ難い人物が、その人柄と持てる秘術でヨーロッパを魅了しながら経巡ったが、それはカリオストロと称したヴィンチェンツォ・バルサモである。彼はペッレグリーニ侯爵と自称し、1788年素晴らしい奥方と共にこの島にやって来た。この島で短期間に奇跡のような事を成し遂げ、人々の好奇心と共に検邪聖省の関心も呼び起こしてしまい、直ぐに他の島に移動した。

出入り禁制の尼僧院や文学と哲学のアカデミー等では、その心地よい庭園の木陰でヴィーナスとキューピッドの像の下に腰を下ろし、人里離れた、この一種のラグーナの桃源郷で不躾な目を逃れ、浮気を楽しみ、色事に耽る。

今では、1800年代末から1900年代初頭の産業革命後の変化で、とりわけ島はその表情を変えた。沢山あった邸宅は、放棄された建築的な工場建築やワイン倉庫の残骸の間、島の南側に長い緑地帯が保存されていたにも拘らず、崩れ落ちてしまった。ニット工場ErionやビヤホールDreher、Junghans(ヴェ語式―ユンガンス)からScalera Film撮影所(ここで“Il ladro di Venezia”やヴィスコンティの『夏の嵐(Senso)』の幾つかのシーンが撮影された)まであり、それはコンヴェルティーテ運河通りに位置するコンヴェルティーティ祈祷所の背後にあった。

そしてこのようにconvertite(回心した)と呼ばれた訳は、前非を悔いる元娼婦や罪人になった女性達を集めたためであった(現在は女性刑務所となっている)。このOratorio(祈祷所)は、最初の司祭はヴァルカモーニカから来た司祭だったが、数年後、単に保護すべきだった迷える子羊(信者)20数人を蔑ろにしたため、サン・マルコの2本の柱の間で斬首された。

ここから右へ抜け出し、数メートル進むと、英国の画家ジェフリー・ハンフリーズの住んだ家の窓の下を通る。フーゴ・プラットの友人で、彼らの共通の最初のスタディオのあった場所である。その先、鉄格子の門の背後に、古い縄工場があるが、このアメリカのキャニオン渓谷のように長々しい区域は、この島を末端まで真っ二つに断ち切っているのである。 ……」 (46へ続く)
錬金術図像大全ルネサンスの魔術思想魔法[ここで触れた錬金術等に関する書を読んでいます。興味があれば読んでみて下さい。サルーテ教会の建築者バルダッサーレ・ロンゲーナの思想の根源にはこうしたカバラ的・錬金術的(?)発想があったのでしょうか。]

イタリアのサイトに、細部を知れば興味津々のこのカリオストロについて簡単な生涯を書いたものがありましたので訳してみます。
「カリオストロ伯爵とは、パレルモで1743年6月2日生まれた稀代の詐欺師ジュゼッペ・バルサモの偽名である。父は幼少時亡くなり、家族は彼が宝石商になることを望んだが、本人はその職業が好きではなかった。それ故ファテベネフラテッリ修道院に委ねられた。そこも自分の居場所にあらずと、彼は逃げ出し、メッシーナに行った。

そこで、師となったAltotasから化学の秘密[錬金術] を学び、他国を旅することになる。マルタ島やローディ、バルカン半島を旅し、エジプトへも行ったらしい。貴族を名乗り、幸先良く、正直者から金を巻き上げた。大金を携え、イタリアへ戻り、ローマに滞在した。偽証明書で大祈祷師として更に稼いだ。降霊術等の心霊会を組織したことが原因で教皇庁から追放され、ヨーロッパを歩き回ることとなり、詐欺師としてのキャリアを積んだ。

イギリスに行き、大フリーメーソンとなったが、脱税が元でロンドンから逃亡せざるを得ず、ローマに帰った。魔術師であり錬金術師としての彼の評判は役に立たず、妻に告訴されて服役し、サンタンジェロ城の獄門に下った。何年か後、ロッカ・ディ・サン・レーオの城塞監獄に移送され、1795年8月26日発作を起こして亡くなった[この記述では彼の面白さは判りません]。」
  1. 2018/08/02(木) 12:08:59|
  2. ヴェネツィアの街
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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