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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの魔女

G. ニッサーティ著『ヴェネツィア奇聞』(Filippi Editore Venezia、1897)は《La Catramonachia》という話を載せています。
『ヴェネツィア奇聞』catramonachia「この言葉、Catramonachia(ヴェ語―カトゥラモナーキア)という言葉はギリシア語から来たもので、malia(マリーア=蠱い)、fattucchieria(ファットゥッキエリーア=魔法)、stregoneria(ストゥレゴネリーア=妖術)、ammaliamento(アッマリアメント=魔法を懸けること)と同じ意味の言葉である。これを使って人が食べたり、飲んだり、寝たりを阻止することが出来ると信じられている。

人を震え戦かしたり、野獣の重みや知られてない病で人をベッドに釘付けにしたり、性の喜びを生み出したり楽しんだりする能力を奪ったり、欲望や憎悪、愛情に反した状態に人を突き落したりする。

ギリシアから到来した、民間信仰によるこうした手練手管故、病を患うある人達は、悪魔祓いに関する事についてはギリシア正教の僧侶の元に赴いたのであった。

記述された迷信に夢中になることは、古い史料の中で、facere barbariam(外国風を真似る)、faturariam、eppure facturamをすることだと言われている。そして主に薬草から作られた秘薬は素晴らしいが故に、それは道理として正しい。中でも良かったのは、そこに奴隷が雇われていたことであった。それ故1410年10月28日の通達が規定していたことは、全ての奴隷、あるいは外国風を真似る等(barbariam vel facturam)したり、あるいは他人の心や身体の健康を害する物を食物として与えた者は、晒し刑の台に晒されたり、追放という刑に処された。
[年表によりますと、《1410年10月28日から妖術の類いをする者に対して厳しい措置が講じられ始めた、と。》あります。]

妖術や占い師の裁判沙汰は、Esecutori contro la Bestemmia(世の悪口雑言等に対する警邏隊)に委ねられた。多くの人々は共和国政府の流れの中で興味津々で見ていた。

1749年のカテリーナ・デッリ・オッディの裁判は、ムティネッリが触れている。そしてアルマンド・ボスケットが自分の回想録でその資料について扱っている。26歳の美女、カテリーナ・ファブリース・デッリ・オッディは神聖な蠟燭の前で自分と数多の愛人達が結ばれるように、不思議な呪文を唱えながら、蠱いを行った。

最初投獄されたが、その後彼女の蠱いの儀式は、カトリックの秘跡[洗礼、堅信、聖体、告解、終油、叙階、婚姻の7つをいう]を侮蔑するようなことはなく、罪に問われることはなかった。しかし悔い改めるようにと、清廉潔白なる家族の家に預けられた。」

図版のヴェネツィア語は次のようです。
「Son qua chi vol la strolega mi crio, / Per veder de becar qualche traireto, / Massime ale putazze da mario. 」(訳不可です)
  1. 2018/09/27(木) 00:04:47|
  2. ヴェネツィアの民俗
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美術館での服装

先日の新聞La Nuova紙に次のような記事が出ていました。

「 ヴェネツィアのティントレット展で、安全のために帽子は禁止
――総督宮殿で行われた宝石展で、大量の宝石類が略奪されたことを受け、入場者全員顔を晒すこと――

ティントレット展で帽子は禁止。作品から安全な距離を越えないことは、あらゆる美術館で有効であるが、新しい規則は総督宮殿の展覧会場での態度振舞いを制することとなる。観客は頭にいかなる物も被ることは禁止となる。 ……」
マハラジャ今年1月5日のブログで書きました、総督宮殿で催された《ムガールとマハラジャの宝石》展で大量の宝玉類が盗難に逢い、監視カメラにその模様は撮影されていたのですが、帽子を被った盗人の表情は知れず、未だに犯人捕獲は出来ずにいます。それを受けて、今後は展覧会等はこの被り物禁止の方向で処されることになるのでしょうか?
  1. 2018/09/23(日) 10:34:08|
  2. ニュース
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ヴェネツィアの夜間の徘徊

G. ニッサーティの『ヴェネツィア奇聞』に、夜間ヴェネツィアで街灯の無かった当時、街歩きはどのようであったか記述があります。

「昔ヴェネツィアは、夜は漆黒の闇に閉ざされていた。暗闇には[街の角々にあるマリア様等の小さな祭壇の]聖像の前に吊るされた微光(龕燈)が唯一の明かりであり、それはcesendelo(チェゼンデーロ―小さな明かり)と呼ばれた。
『ヴェネツィア奇聞』コーデガの道案内闇の中で何が起きるか不明の状態を明白にするために、1450年政庁は通達を出した、夜になって3時間後に街を歩きたい人は皆、明かりを用意しなければならない、と。そして貴族や裕福な人々は召使いに前を歩かせ、蠟燭や2枝燭台、あるいはカンテラ(洋灯)を持たせるようにまでなった。

そのような風習の記憶が、いわゆるcodeghe[コーデゲ(男性複数)、道案内人の意]として我々に近い近年まで残されている。即ちある種のポーターの事で、我が家まで送ってもらいたい人へのサービス業として、火を灯したランタンを持ち、雨が降りそうであれば傘を持ち、サン・マルコ広場の行政館(Procuratie)のカッフェ近くか他の人の出入りの激しい場所で夜間待ち受けている。
[codega(コーデガ、男性単数)―希語のOdegos(案内人)から来たものと思われる。カンテラを持ち、夜その人の家まで付き添う、サン・マルコ広場の道案内人を言う。サン・マルコ広場の提灯持ち(Feralante)の事。――ヴェネツィア語辞典より]

ある人が希語のodegos(ガイド)に由来する言葉とする、コーデガという職種の考案は、ピエートゥロ・q.・オズヴァルド・ダル・カーポのお蔭だと、グラデニーゴは記している。」

図版に添えられた伊語は次のようです。
「De notte ora ai teatri, ora al Redutto / Son quel che col feral serve de lume; / E pur che i paga mi so andar per tutto. 」

総督ドメーニコ・ミキエール(1118~1130)政権下の1128年初頭から、建物の壁面に一晩中灯す目的で、更に遠方からでも通行人が識別出来、勇気付けられるようにと、微光ながら燈明が出現し始めたようです。当時の要望に応えた事ではあったのですが、要求の中身に全的に対応した内容という事からは程遠い通達だったようです。そこで年表から1128年の項を見てみましょう。
1100~1399「市民の安全性を確保するために、当時の世相の風潮にケリを付けることが決定された。即ち、ギリシア風の付け髭を付けることの禁止(晒し首の刑)、更に夜陰に乗じる危険行為から人を守るために、共和国の公費で壁面に吊り下げた、小さな油の燈明―cesendeli(チェゼンデーリ)で、安全性が希薄と思われる通りに明かりを設置する、その明かりの保全は教区司祭に委ねられる。教区司祭には、悪党共を意気阻喪させるために、奉納の小祭壇や祠の聖像の前にcesendeliを置くように求めている。
[ここで使われているcapitelli(柱頭、複数=ヴェ語capiteli)とは、ヴェネツィア語では“祠”の意です。]

この種の明かりでは殺人、暴力行為、強奪等類似行為にブレーキを掛ける効力は充分ではなく、ヴェネツィアの町をコントロールするFante(Famulo di Curia―法務局の人員)の員数を増加させる事を決定することになる。」

ヴェネツィアの街歩きをすると、通りの角や折れ曲がった箇所に、歩く目線の行く先に聖女様等を祀る小祭壇が目に付くものです。その数だけでもヴェネツィア人が非常なる篤信家であったことが判ろうというものです。ナポレオンがこの地を占領した時、宗教施設の多さに驚き、相当数の教会や同信会館等を潰させたと言います[ナポレオンは1806年、Scuola(同信会)の活動を禁じています]。そのために絵画作品が四散することになりましたが、潰されたサン・マルコ広場のサン・ジェミニアーノ教会といい、残念な事でした。
  1. 2018/09/20(木) 09:53:06|
  2. ヴェネツィアの民俗
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サン・ジャコメート教会の時計

2018.06.10日のブログに書いた、リアルトの1422年製のサン・ジャコメート教会(伊語はサン・ジャコメット)の時計が修復に入った記事から3ヶ月。摩耗した内部の機械部分を含めて修復が完了し、時計は再び次の600年の稼働を開始した記事が、La Nuova紙に出ました。
サン・ジャコメートの時計「 サン・ジャコメット教会の修復、古い時計の修復も完了
――6世紀弱の命が蘇る。ザーネ曰く《技術者の方々、有難う。皆全員でお祝いしましょう》――

サン・ジャコメットの時計が救われた。修復のデリケートな仕事、スポンサーに経済援助され、一つの仕事が完了した。文字盤の針はこの種では特殊であり、また元の場所に戻されるが、多分先週には仕事は終わっていただろう。 ……(以下略)」 
サン・ジャコメート教会[カナレット画『Campo S. Giacometto(サン・ジャーコモ・ディ・リアルト教会)』――ヴェネツィアでは、サン・ジャーコモ・ディ・リアルト教会は、サン・ジャコメート(S. Giacometo―ヴェ語)と愛称されています。]
  1. 2018/09/17(月) 12:45:54|
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ヴェネツィアのアルターナ

ヴェネツィアの屋上にアルターナ(altana)という、日本で言えば物干し台風のベランダがあります。設置されている建物は、許可を得て設置され、外観変更禁止のために新しく設置することは禁じられているそうです。かつてそれがどういう風に使用されていたかについて、G. ニッサーティ著『ヴェネツィア奇聞』に次のような記述があります。
『ヴェネツィア奇聞』「ルネサンス時代、我らが貴婦人達は、多分ブロンドの鬘を被っていたローマ婦人の風を真似たいがために、ある溶液で髪を染めていた。そのためその液はビオンダ(bionda)とか若さの水(acqua di gioventù)と呼ばれた。

そのやり方は次のようである。屋根の上に設置された、現在でも altana と呼ばれる、例の木製の屋上テラスへ行く。そこで上記の液に浸した sponzeta(小さなスポンジ)で頭を濡らし、紡ぎ車形の物の先端に接着させる。
アルターナの貴婦人こうしてから、両肩を schiavoneto と呼ばれる絹のバスローブか、柔らかい布で覆い、solana と呼ばれる山の部分のない帽子の鍔だけの麦藁の輪っかを頭に被り、太陽光線で乾かすためにその鍔の上に髪を広げる。

その姿は当時のヴェネツィアの画家の絵の中で、描かれた殆ど全ての女性が赤みを帯びたブロンドの髪であることに気付かされるのである。」と。

Cucciolaさんが『ルネサンスのセレブたち』というブログの2010.07.04日の《ルネサンスの美容読本》という欄で、かつての化粧についての歴史や化粧品について詳しく述べていらっしゃいます。参考までに。

またVeniceWiki にアルターナの説明があります。
「アルターナとは屋上に設置された、全シーズン太陽や風雨に晒された木製の板のお盆のような物で、テラスとは全く違う物。木の柱が支えで、脇は屋根裏部屋で固定され、頭をぶつけたりしながら内部の屋根裏部屋を通ってから、外に出る。
アルターナ[あるアルターナの例、サイトから借用]  アルターナとは床が光や空気が抜ける、隙間が空いた簀子状の板で作られている。愛用の指輪等は持っていかない。運河に落ちるか鷗の口に入ってしまう。また鉢植え用のものでもない。傘など置きっ放しにすると、雨風や太陽の餌食となってしまう。ここは地球外の場所であり、奉仕の場である。大運河から見えるのは僅かであり、主要なパラッツォのファサードの上からも見えない。

ヴェネツィア人の髪のブロンドや赤毛は、アルターナで太陽に晒して獲得されるのであるが、sponzetta ligata e in cima ad un fuso の後、独特の作り方で、自分で煎じた浸剤を準備し、solana という、山の部分のない広い鍔の帽子で頬には日差しが当たらないようにし、山無し帽の中央の穴から髪を出して太陽光に晒す。

アルターナは物干し場の役もするし、遠望したり、現在では仲間とプロセッコの飲み会や月光下でのお喋り、レデントーレの夜の花火を見たり、冷えた西瓜を味わったり。」

サン・カンツィアーン教会傍のファビアーナさんの家は88段階段を昇ります。暗くなって彼女の家のアルターナから、ワインを片手に眺めるヴェネツィアは格別でした。彼女が広場の屋台で買ったというレーザー光線はサン・マルコ鐘楼へ一直線の銀白線を描きます。
  1. 2018/09/13(木) 00:06:17|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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サン・マルコ広場の舗装

前回サン・マルコ広場の井戸について書きましたが、今回はこの広場の舗装についてです。G. ニッサーティ著『ヴェネツィア奇聞』(1897)からどうぞ。
『ヴェネツィア奇聞』「サン・マルコ広場の初期は菜園であり、そこでは野菜や果樹が大量に栽培されていた。ダンドロ年代記によれば、1267年初めて煉瓦で舗装された。
[サン・マルコ広場の“菜園(brolo)”は、brogio、broglioなどとも言われ、特に総督宮殿のアーケード下(broglio)は大評議会の選挙が近付くと、富裕貴族が貧乏貴族の票を買収しようとその空間を行ったり来たりして、買収活動が行われたそうです。その事から、imbroglio(インブロッリョ―ぺてん、ごたごた等の意)という言葉が生まれ、イタリアのオペラや演劇の陰謀等の場面を指すようになったそうです。2007.10.23日のサン・マルコの菜園で触れています。]

それ以後年代記作者は1392年までこの件については書いていないが、その年代記の中で総督アントーニオ・ヴェニエール[1382~1400]がこの広場を、大理石で煉瓦を四角に縁取りし、デザインに従って角形に集める形で舗装させた、と語っている。

ある年代記作家は次のように書いている。《Facevano quei quadretti bellissima vista perché, essendo partiti l'uno dall'altro con lastre di pietra viva, et havendo essi eminentia, et come una certa rotondità, parevano proprio al guardar monticelli, ma grande incomodo portavano al caminare, e grandissimo al spasseggiare, perché quel continuo montare e dismontare dava noja alle persone. 》(これらの四角形の物が大変美しい眺めを現出していた。何故ならそれぞれが硬い石の板面で、優れており、ある種の丸味を帯びた物として、小さな山々を眺めるかのようであった。しかし歩きに連れて行くには快適という訳にはいかなかったし、散歩には更にそうであった。何故なら登ったり降りたりを続ければ、人によっては嫌気が差すからである。)

碑文に、土曜の市で場所取りをする同業組合に属した幾つかの登録者が読み取れた。そして最後の舗装でもi Calegheri(靴職人)とi Zavateri(靴修理職人)の例があった。
ティラーリの甃デザイン1495年と1566年と広場舗装が続く。1626年の補修と、ティラーリのデザインに基づく1723年の、全てを硬石での舗装工事(この舗装は1893年に完成した全面的リフレッシュの時まで続く)は1723年に始まり、1735年に終わった。ティラーリに提示された広場の細長い帯状を示すプロジェクトは、かなり変わったものだった。今日でも目にすることの出来る模様は、小広場の方の建築家もその案を繰り返しているのである。」

ヴェネツィア語に、far el liston(リストーンする)という言葉があります。サン・マルコ広場を散歩する、という意味です。伊ウィキペディアに説明がありますので訳してみます。

「都市のある特殊の場所、通常は広場かそれに準ずる場所を示すため、ヴェーネト地方の色々の都市や近隣地域、古いヴェーネト地域で使われているヴェーネトの言葉で、Liston(複数Listoni―伊語listone)という言葉は広場の石畳の舗装のために使われた硬い大理石の長い平らな板石の事をいう。そこから、far el listonという熟語が生まれた。
2本の柱のあるピアツェッタ[ターナー画『雷雨下の2本の円柱の見えるピアッツェッタ』]  ヴェーネトの色々の町にはそれぞれに使い方があり、ヴェネツィアではサン・マルコ広場の散歩を指し、時計台下から二本の石柱、聖マルコ(有翼のライオン)とサン・トーダロ(龍を退治する聖テオドールス)の間を歩くことを言う。」
  1. 2018/09/06(木) 00:09:50|
  2. ヴェネツィアの広場
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ヴェネツィアの現在: アッカデーミア橋修復完成

2018.02.20日のブログでアッカデーミア橋の修復工事の開始を書きましたが、半年近くで工事は完了し、この程市長のテープ・カットで普通に渡橋が可能となったそうです。La nuova紙でどうぞ。
アッカデーミア橋完成「 アッカデーミア橋、御目出度う。Luxotticaの修復のお蔭
――8月29日(水曜日)朝、総大司教モラッリャの代理オルランド・バルバロは、完成を祝福した。市長とLuxotticaはテープ・カットをした。そして人々は最早足場等なくなったアッカデーミア橋を渡った――
旧、鉄製アッカデーミア橋[ヴェネツィアを占領していたオーストリア軍が造った初代の鉄橋]  (関係者のセレモニー記事は略)
1933年に完成したアッカデーミア橋は、緊急に修復を要した事態だったのであり、唐松材を使用して完成した。この機会に市長は、この企業が自社の名前を全然表明しようとしない謙虚さに言及した、《大いなる高潔さと謙虚さを示している》と。

ブルニャーロ市長は更に付け加えて、修復作業とは、ヴェネツィアが独り誕生したのではなく、内部に大都市としてのシステムを内蔵していたことの証である、と。 ……」
[アッカデーミア橋の歴史については、2010.04.17日のアッカデーミア橋で触れています。]

ヴェネツィアの甃(他のイタリアの街の甃同様)を歩いていると、人は大抵その硬さに足の裏が疲れるものです。この木製の橋を踏んだ時、そのタッチの柔らかさにほっとするものです。資金不足で石の橋に出来なかったのですが、それ故か実際この橋を渡った人々の感想は、木製の方が良かったというものだったそうです。
  1. 2018/09/03(月) 01:02:02|
  2. ニュース
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サン・マルコ広場で絵を描く

先週の土曜日(8月25日)、一人の英人画家がサン・マルコ広場で写生をした顛末が次のニュースです。La Nuova紙からどうぞ。

「 画家ハワード、サン・マルコ広場から追い出される
――現地警察は、プロクラティーエ行政館下で画架を構えている彼に気付き、そこから立ち去るよう要請した。彼の妻《何て馬鹿馬鹿しい!》――
サン・マルコ同信会館[サン・マルコ大同信会館(現、市立病院)の絵です。painter Ken Howardで検索すると彼のその他の絵が見れます。]  田舎の人の観光という事に異を称えてか、最近サン・マルコ広場に導入された沢山の事の一つに、広場で描くことの禁止ということがあるに違いない。今回一人の国際的評価を得ている画家が、その犠牲者になったのである。彼は50年前から、ロンドンからこの広場に絵筆と画架を携えて来ている人物だった。

86歳のケン・ハワードに降りかかったのは、土曜日朝(8月25日)の事である。英人画家として2003年まで新英国芸術クラブの会長であった彼は、1993年からか王国アカデミーの会員であり、2010年からは“大英帝国”幹事である。彼の絵は国立軍隊美術館やロンドン市庁舎美術ギャラリー、アルスター美術館、帝国戦争博物館に収蔵されている。取り分け、王立油絵研究所と英国芸術協会の名誉会員である。

彼の妻ドーラ・ベルトルッティと共に、ヴェネツィアには定期的に来市している。2人はヴェネツィアに家があり、このラグーナとコンウォール(Convaglia)、ロンドンとに生活の拠点がある。描くための用具一式は嵩張り、場所塞ぎではある。だからこの夫婦は別行動でヴェネツィア行をしている。

妻はロンドン-ヴェネツィアの長い行程を車に荷物を積んで、運転して行く。一方夫の方は、骨の折れる仕事は敬遠して飛行機便である。《私はこの仕事嫌じゃありません。彼は苦労はしないでいても、それでもこれはちょっとした一仕事です。》とドーラは言う。《本当のところヴェネツィアで彼の状態が悪くなったら、それは問題なんです。》

ハワードが描きに外出すると決めたのは土曜日である。スキアヴォーニ海岸通りに画架を設置すると、空は降り出しそうな気配である。数分すると降り出した。そこでサン・マルコ広場に移動することにした。行政館のナポレオン翼の下には平らな“mattonella(板石)”がある。

一番奥に見えるサン・マルコ寺院、そして右手の鐘楼、これは彼のお気に入りの広場のシーンである。見慣れた景観であり、いずれにしても今や彼の熟知したものである。彼にとってヴェネツィアとは約束の地であり、四季それぞれの風景を描くことが出来る。

数分して2人の警官が近付いて来た。《彼らは私達に介入して来て、夫に言ったんです。ここに居てはいけません。》妻は続ける。《その訳を説明して、と夫は言い返そうとしました。でもどうしようもありませんでした。2人は夫を立たせました。夫は86歳です。夫にとって画架や用具一式を片付けるのは簡単ではありません。身体の調子が悪くなってしまいました。》

画家は全てを荷造りせざるを得ず、立ち去った。《全く不愉快です。》ドーラは説明する。《何十年とこんな事、彼に起きた事ありません。》彼女はこの町が変な方向に向かっているのが心配だと言う。ヴェネツィアという街だけが作り出す色の“スフマトゥーラ(色が次第に変化していく様、陰影、濃淡、明暗、暈し等の絵画技法)”の研究に、毎年夫は全世界の友人や画家達とヴェネツィアにやって来るのだと彼女は語る。オーストラリア、中国、アメリカ、イギリスからやって来るし、来週もこの町に上陸の予定である。

しかしこの出来事を考えるに、町で描くにはどうしたらよいか? 《今日までこうした問題は起こりませんでした。安全のための、あるいはそれに類した他の方策があるのかどうか、それは判りません。確かなのは、“音楽”が代わってしまったということです。》破壊に対する闘いに、誰も真面に向き合っていないようなのである。

他に50年間もヴェネツィアを描き続けてる人はいない。《やっぱりそこに帰ります。でもこの事件は私達に残念だった思いを残しました。》 」

何日か前La Nuova紙の記事に、サン・マルコ広場に大きな手提げ袋が置かれていると通報があり、広場から人々を排除し、爆薬処理班が赴き、処理したという報道がありました。何時間かの広場規制後、物件は観光客の忘れ物とされ、広場の規制が解かれたとありました。事ほど左様に、人の蝟集する広場などは常に警戒体制のようです。

暫く前、妻が年末から新年に掛けてヴェネツィアに行った時、12月24日サン・マルコ寺院を訪れると、右手の普段は開いていないドアが開かれているので、初めて入室して、見ました。めったに見る事が出来ないと思い、写真撮影は禁止なので、手にしていた雑記帳に、廻りの様子を写生していると、背後からトントンと係の人に肩を叩かれました。スケッチも駄目、見るだけだったのです。
  1. 2018/09/01(土) 00:03:45|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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