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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアのロット(Lotto)籤

ヴェネツィア人は賭博が好きだったようで、それについての記述は結構あるようです。2014.02.19日のバウアー・グリュンバルトや2016.11.10日のヴェネツィアの街案内等で触れています。また、Lotto(現在でも多くの都市で行われている富籤のようなもの)という賭け事が行われていたそうです。リアルト橋の建設の時には資金が足りなくて、このロット籤で資金を調達したという話を読んだことがあります。前にも紹介した『ヴェネツィア奇聞(Aneddoti storici veneziani)』(G. ニッサーティ著、Filippi Editore Venezia、初版1897)から紹介してみます。
[小学館の伊和中辞典によれば、Lotto籤とは1から90までの数字の中から2つの数字(ambo)、3つの数字(terno)、4つの数字(quaterna)、5つの数字(cinquina)の組み合わせを当てる賭け事、と。Bari、Cagliari、Firenze、Genova、Milano、Napoli、Palermo、Roma、Torino、Veneziaの10都市でruota(回転式抽選機)を使って抽選する、ものだそうです。]
『ヴェネツィア奇聞』「最初は政庁の許可を得て、次いで誰か著名な人物の監督の下、個人的に行われた。数字の抽出が行われた場所は、大抵の場合、サンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ(愛称サン・ザニポーロ)修道院で、そこの僧達の嫌々ながらの協力の元だった。サヌード(Sanuto)の証言によれば、ロット籤は罪であると説教壇から説教を垂れていたという。

1521年まで、ヴェネツィア市民のBambararaと呼ばれたジローラモ・フランコが主宰する、tappetoやspalliera、金のrestagnoの富籤が行われた。更に1523年までは、10ドゥカートの受け渡し証を持つ席料で、ジョヴァンニ・マネンティが采配した。

時々富籤所は政府の管掌となったが、それは政府の資金が戦争で激減した時だった。1525年6月10日の通達がその事を証明している。上記のジョヴァンニ・マネンティが引き受けて、サン・サムエーレ教区のカ・デル・ドゥーカ館で富籤を行ったのである。その政庁所有の館は現在では崩れ落ちてしまった。
サン・マルコとサン・ザニポーロ[ 写真はサイトから借用。左、サン・マルコ大同信会館(現在は市民病院)、右、サン・ザニポーロ教会。右端にアンドレーア・デル・ヴェッロッキオ作の『バルトロメーオ・コッレオーニ騎馬像』が見える]  7月29日サンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ教会隣のサン・マルコ大同信会館で籤引きが行われ、アゴスティーノ・ドルチェの息子アルヴィーゼが、4540の領収書のある籤を獲得した。

ピエートゥロ・アレティーノは彼の相棒であったこのジョヴァンニ・マネンティ宛に楽しい手紙を書いている。その文中、自分の頭上に降り掛かってくるあらゆる不運について仄めかしている。富籤をやると自分の将来が失望に満たされるのだ、と。この手紙は籤引きというものが、高い、飾られた演壇で行われ、その数字は現代でも殆ど同じように子供の手で引き出されるということを能く判らせてくれる。

後の世、1720年には、1traro(トゥラーロ)の富籤の領収書を見る。それは教会の再建のためであって、サンティ・スィメオーネ・エ・ジューダ・アポーストリ教区のマメーラと通称されたG. バッティスタ・モリーンが年に14回も僥倖を見たのだった。

14年ほど後には、ヴェネツィアに公共富籤が導入された。そして最初の籤引きは1734年4月5日に行われた。籤が入札で請負契約になり、関連事務所がボルゴローコ橋傍のサンタ・マリーア・フォルモーザに移り、一般にPonte dell'Impresaと呼ばれた。50人の職員がCaseletti とComputisti に分けられたが、それはチコーニャの手書きの表から判ることで、その事務所にはそれ用の祭壇のある部屋があって、聖処女マリアの像が掲げられ、崇拝されていた。

最初から年に9回籤引きが行われ、1758年には10回に増えた。続いて更に回数が増えて、儲けを町の街灯設置費用に振り当てた。

何か特別の富籤が行われたという記録がある。それは1796年12月30日に発表され、1797年1月14日に承認されたのだが、廃止されたサンタ・マリーア・デッラ・カリタの教会司祭館の財産を共和国の必要のためになされたロット籤だった。 」
  1. 2018/11/29(木) 05:12:59|
  2. ヴェネツィアの民俗
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11月21日: サルーテの祝祭

例年11月21日はマドンナ・デッラ・サルーテ教会の例祭です。ヴェネツィアの新聞Il Gazzettino紙は次のような記事を載せています。
canaletto madonna della salute[カナレット画『Ingresso del Canal grande』]  「 マドンナ・デッラ・サルーテ、総督の誓いを守るべく、何千もの巡礼者

3世紀以上毎年のように総督の誓いを信頼するために、今年もマドンナ・デッラ・サルーテ教会に何万の人が参詣した。それはヴェネツィア、メーストレ、更にイタリアやイストラ、ダルマティアのセレニッスィマ共和国の全領域の人々。サン・マルコの古い領土には、本日11月21日の時点で100以上の教会があり、マドンナ・デッラ・サルーテ教会へ巡礼行をするのである。

ヴェネツィアでは、クレタ島の現イラクリオン(Candia)からセレニッスィマの地に到来して崇拝されるマドンナ(聖女マリア)の聖母像“メゾパンディティッサ(Mesopanditissa)”の飾られる主祭壇の前で、総大司教フランチェスコ・モラーリャに祝福されるヴェネツィア最大の祭礼である。
Madonna[“メゾパンディティッサ(Mesopanditissa)”とは、1670年2月26日、総督となるモロズィーニ(この時の総督ドメーニコ・コンタリーニ)がクレタ島のカンディアから持ってきた聖母像で、サルーテの主祭壇の中央に飾られた物。]
サルーテ教会へのお詣りの浮橋。Alvise Zorzi『Venezia ritrovata』から借用[1939年以前のPonte votivo] 午前中から人の流れは途絶えることなく、大運河上に渡河用に設置された、伝統的な船橋(ponte di barche)を渡越し、サルーテの大バジーリカに向かう。深夜まで人の流れは途切れることなく続くだろう。 ……」

サルーテ教会の祭礼の始まりについてはヴェネツィア年中行事で触れました。この日には伝統料理“カストラディーナ”を食べます。

  1. 2018/11/22(木) 13:22:55|
  2. ヴェネツィアの教会
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ヴェネツィアのニュース

先日のヴェネツィアの新聞《Il Gazzettino》や《La Nuova》紙に次のような記事がありました。
カッフェ・ドーリア「 70年続いた歴史的バールが閉店。中国人がレストランに改装
ファッブリ通りに開店していたもの。ヴェネツィア人はここで美味のコーヒーやアペリティフを味わった。温かい態度でサービスされ、リアルトとサン・マルコの間に住む住民や職業人等、沢山の人々がここで出会った。

今日が、カッフェ・ドーリアが開店してから最後の日となる。ファッブリ通りとサン・ルーカ通りが交差する角に位置し、店の経営者アンドレーア・カヴァッリーンとリッカルド・フェッロは最も店に通ってくれた顧客達に対して、お別れの会を提供することにした。彼らはガッゼッティーノ紙を片手にブリオーシュでコーヒーを飲み、その日半ばには軽食・おやつ、夕方にはアペリティフ(各種スプリッツ)というバールの定番をここに見出していたのである。 ……」(Il Gazzettinoより)

「 サン・マルコ広場でカ・フォースカリ大学卒業生1148人の卒業式。一大スペクタクル
サン・マルコ広場での伝統的な卒業式がまたやって来た。カ・フォースカリの、優に1148人の卒業生が、友人や両親等と共に広場――学長ミケーレ・ブリェーズィ教授の前に――参集した。大式典である。

よくあることだが、新卒生の古典的丸帽(tocco)の放擲である、帽子の投げ上げの瞬間は、不思議な感である。今や大学の恒例となった式典の特別賓客はエンリーコ・メンターナだった。《我が国は非常に古い国家である。イタリアは強力な世代交代を必要としている。我々は諸君を熱狂的に支持している。》と著名なジャーナリストは訴えた。 ……」(Il Gazzettinoより)

またサンタ・マリーア・デッラ・サルーテ(マドンナ・デッラ・サルーテとも)教会のお祭り(11月21日)を前に、サン・マルコ側からドルソドゥーロ側への渡河の橋、Ponte votivo(奉納橋)が完成し、総大司教の祝福を得て、自由に渡橋出来るようになったと《La Nuova》紙にあります。この仮橋はレデントーレ教会祭日のために架かる交通止めとなる仮橋と異なり、ヴァポレットが下を潜れるようにアーチの橋に設置されます。
  1. 2018/11/18(日) 18:43:31|
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ヴェネツィアの夜間の監視隊

前回、ヴェネツィア国家異端審問官の事を書きましたが、同じ司法関係で“夜の紳士”と言われた、ヴェネツィアの夜間に街を警邏して歩く夜警の職務がありました。イタリア・ウィキペディアの《Signori della Notte》から紹介します。

「Signori della Notte/Signori di Notteは、ヴェネツィア共和国の二つの特殊な司法府の名称である。

一つは“刑事の夜警”で、12世紀には既に司法府の役職として明らかになっているが、人数としては2人となる前に、1260年からヴェネツィアの各区(カンナレージョ、カステッロ、サン・マルコ、サン・ポーロ、サンタ・クローチェ、ドルソドゥーロの6 sestieri)に一人で、6人であった。

最初その名前は、夜間に街で起こる全ての事を警備する専門家ということから始まった。間もなくその監視の権限が、盗み、人殺し、重婚、奴隷の肉欲、武器の携行、殴打、犯罪結社、放浪生活、強姦、夜間の踊り、ガレー船からの脱走、獄舎への滞納等と広がった。

責め具の部屋(Camera del Tormento)という総督宮殿内の一室に集合し、尋問と裁判は概ね夜間か夕暮時に行われた。
Supplizio di Corda[図はイタリアの一つの例、サイトから借用]  中でも、縄で縛り吊り下げるなどして責める拷問(supplizio della corda)に訴える可能性を予想させるものであるが、3人の裁判官は、容疑者の前に大きな窓に背を向けて登場し、その窓明かりからはその表情が能く見えないようにした。彼らの下した判決により、弁護院の代理人の手を経て、四十人委員会へ上訴することが出来た。

1544年から“民事の夜警”が設けられたが、それは刑事組織の権限の一部が移動したもので、外国の判決の適用、担保物件の売買、犯罪者や注意人物の告示、また祝祭日は働かない全ての司法府の代理をすること等であった。 」
  1. 2018/11/15(木) 05:58:05|
  2. ヴェネツィアの政治
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ロベルト・トゥラモンティーン、ゴンドラ製造家、逝去

11月08日のLa Nuova紙はドルソドゥーロ区サン・トゥロヴァーゾ運河に面したスクェーロ(ゴンドラ造船所)のマエーストロ、ゴンドラ製造家(squerariol)のロベルト・トゥラモンティーンさんが7日亡くなったことを伝えています。
ジャ・スキアーヴィ「 さようなら、ロベルト・トゥラモンティーン
――ゴンドラ製造家(squerariòl)は63歳だった。長患いの後、病院で亡くなった。彼の作ったゴンドラは、フェッラーリの作る車のようだと考えられている――

ロベルト・トゥラモンティーンが亡くなった(11.07)。このゴンドラ製造家はヴェネツィアでは知らない人はいない船大工(maestro d'ascia)だった。享年63歳、長患いの後、病院で亡くなった。彼はドルソドゥーロのオンニサンティのスクェーロ(ゴンドラ製造所)で、トゥラモンティーン家の4代目の船大工であった。

トゥラモンティーン・ゴンドラ製造所は、ドメーニコ・トゥラモンティーンによって、1884年に設立された。彼はヴェネツィアでかつてなかったと考えられるスクェーロ職人芸を体得した。即ち"Casal ai Servi"である。

ロベルトは船の外板作りの"a fasciame"という伝統的なゴンドラ製法の唯一の人であった。海水に接する合板は船底に使用するだけだった。1年で1艘、多くて2艘しか作らなかった。しかし彼の作る舟は世界に二つとないものであった。人々はそう考えた。フェッラーリ社の車に例えられた。それほど舟のラインはエレガントだった。

トゥラモンティーンが自分の“フェッラーリ”に使用した木材は8種類、樫、樅、桜、楡、マホガニー、胡桃、唐松、科の木で、彼が瓦と梁の古い屋根の下で何年も熟成させた木材で、イタリア全土から探し求めたものである。ゴンドラの平板を8mという正確な寸法に裁断してくれる製材所がますます減って、仕事が難しくなった。今や2mの長さの切断である。

この仕事を始めた時について彼は言う。《私が父Nedisの後を継いだ時、スクェーロについてのガイドは僅少というより無かったから、人々はゴンドラは自然に生まれてくるなんて思ってたでしょうね。皆、私が父と仕事していることは知っていましたが、船を実現出来るのは唯一父だけと思っていました。私の最初のお客様の事は能く覚えています。鉄道駅の前で漕いでいたゴンドリエーレです。その人の視野が狭かったのでしょう、そのため敢えて私の所に来たんです。一度作ったゴンドラが気に入られて、それで他の人もやって来るようになりました。》

スクェーロは彼の人生だった。彼は何度となく言っている。“ヴェネツィアでは、木の新しい舟が水に浮かんだ時、お祭り(festa)をする必要があります。息子の誕生のようなものです”。一人の偉大なるマエーストロが行ってしまうのだ。 」
墓地地図北のカドーレからやって来たトゥラモンティーナ家はヴェネツィアにやって来ると、一家の名前をヴェネツィア風に語尾の"a"を省略して“トゥラモンティーン”とし、船大工の修行をしたドメーニコが1884年2月2日に自分の会社を作ったそうです。図のように一家の墓はサン・ミケーレ島にあります。
アレッサンドロ・マルツォ・マーニョ『ゴンドラの文化史』またゴンドラやこのスクェーロのトゥラモンティーン家、ゴンドリエーレ等、ゴンドラに関するあらゆる事について答えてくれる本が訳されています。著者はヴェネツィア出身のアレッサンドロ・マルツォ・マーニョで、『ゴンドラの文化史』(和栗珠里訳、白水社、二〇一〇年八月三〇日)です。著者の著作には他に『そのとき、本が生まれた』(清水由貴子訳、柏書房、2013年4月8日)というヴェネツィアで書籍が発達進化した模様を書いた本も訳されています。
マーリオ・リゴーニ・ステルン『野生の樹木園』ヴェーネト州アジアーゴに居住していた作家、故マーリオ・リゴーニ・ステルン(1921~2008)のエッセー『野生の樹木園』(志村啓子訳、みすず書房、2007.06.08)の《ブナ》の章に、
「ことのほか木目が細かく、まっすぐに伸びた幹は、根に近い部分を残しておき、木目に沿って真っぷたつに割ってから、納屋の下に紐で吊して乾燥させた。 こうした木片からはあらゆる道具の柄が作り出された。斧、杖、槌、鶴嘴、鑿。ブナの材はほかのどんな木材よりも人の手に馴染むからで、ヴェネツィア人はそのことを知り抜いていたのだろう、船の櫂にする木を伐る目的で、賢明にもブナの森を育て、保護していた。」 とあります。
  1. 2018/11/10(土) 00:18:01|
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ヴェネツィアの国家異端審問官の用心深さ

前回の話の中に登場したヴェネツィアの国家異端審問官について、G. ニッサーティは『ヴェネツィア奇聞』の別の場所でその逸話を紹介しています。
『ヴェネツィア奇聞』「この問題について、ある仏人作家が一つの挿話を判り易く書いているが、それは真実であったかどうか?だが、その時代の事を能く捉えており、有名な審判がどのような考え方で下されたか、を示している。

この町に観光でやって来たある仏人貴族が、相当額のお金を入れた緑色のカバンを盗まれた。この事を訴えたが、その時は何も発見出来なかった。そのため、最初はヴェネツィア政府のだらしなさに公然と文句を言っていた。しかし出立する事にした。

メーストレまで行った時、彼のゴンドラが他のゴンドラに行く手を阻まれた。そのゴンドラにはある要人が乗船しており、彼は、数日前相当額のお金の入った緑色のカバンを盗まれたのはあなた様でしょうかと、尋ねてきた。然り、と肯定の返答を聞くや、足で布を押しやると、手にカバンを握った死体が現れた。その様子から、直ぐ外国人と知れた。
Grewembrock死体に目をやって要人は言った。《ご覧のように、正義が成就致しました。あなた様はお金を受け取られ、出発なされて下さい。また我らが国へ足を運ばれますよう、ご再考下さい》と。 」

またイタリアの《3人の国家異端審問官Tre inquisitori di Stato》というサイトは次のような話を掲げています。
「《Inquisitori di Stato》《Inquisitori contro la propagazione del segreto》《Supremo Tribunale》等と称される機関は、十人委員会を補佐する役を持つ共和国の司法機関で、国家機密の漏洩を見張る役職だった。

最初は十人委員会によって、特別にそして時々であったが、繰り返し設けられた機関であった。1539年9月20日以来、この機関は共和国の常設の司法機関となった。審問官は3人で十人委員会と同等の権力を与えられ、十人委員会が命名したものである。

次のような特徴を持つ、即ち、赤服を着る審問官はセレニッスィマ政庁の代表として6人の総督相談役の中から選出され、2人の黒服を着る審問官はDecenviri(10人の十人委員会)の中から選出された。投票が一致すれば自動的に確定裁定となり、極秘だったものがオープンになった時、公然と大評議会に知られることになった。
密告口[Boeche de Leon、サイトから借用]  秘密裡の判決の実施は、伝統に従えば、オルファノ運河と呼ばれる運河の傍のラグーナの水の中で、夜間溺死させられることを予想するようなものである。訴訟手続きの開始は十人委員会や他の多くの司法府のように、Boche de Leonと呼ばれる特別の箱に投げ込まれる密告の蒐集から始まるのが、屢々であった。 」
  1. 2018/11/08(木) 00:04:26|
  2. ヴェネツィアの歴史
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ヴェネツィアの修道女: Maria Da Riva(マリーア・ダ・リーヴァ)

前回のブログに、マリーア・ダ・リーヴァという修道女が登場しました。G. ニッサーティ著『ヴェネツィア奇聞』は彼女について語っています。
『ヴェネツィア奇聞』「マリーア・ダ・リーヴァはヴェネツィアの古い貴族の出で、サン・ロレンツォ修道院で若い時から薄いヴェールを被っていた。しかし修道院生活はこの美しい活気に満ちた少女には不向きであった。

1733年、大女誑しのフルーレ公がフランス大使としてヴェネツィアにやって来た。修道院面会所でダ・リーヴァに会うや、ゾッコンとなり、愛を囁き、大変幸運なことに、直ぐに何度となく愛人を尼僧院から連れ出し、夜を徹して夜明けまで自分の部屋で彼女と過すことが出来た。

1735年、ダニエーレ・ブラガディーンがサン・マルコ財務官に選出され、サンタ・マリーナ広場のブラガディーン館で催されたパーティへ、彼女に仮面を付けさせ、タバッロで男に変装させて(da homo in tabaro)、連れて行きたいと思った。そうしたゴタゴタは直ぐに露見するものである、ということはそれなりの意味があった。

それが故に国家異端審問官は、面会所に二度と現れないよう、修道女にフルーレとの出会いを禁じた。それにも拘わらず不倫関係は続行し、ダ・リーヴァがフェッラーラのある修道院に移動させられるまで続いた。

その後、新しく出来た愛人、モローニ陸軍大佐とそこから逃亡し、ボローニャに連れて行かれ、そこで彼と結婚した。しかし両親の訴えで夫婦は捕えられたが、マリーアは監獄から脱走して、罪を償われて自由の身になっていた大佐の元へ逃げ込んだ。遂には迫害して来る者の手を振り切ってスイスに逃れ、多分自らの激動の日々を終えた。

フルーレについては、フランス大使時代、彼は殆ど狂人の様であった。どしゃ降りの雨の下、金の布地の衣装で周りを歩き回り、夏には暑い最中、毛皮を着てサン・マルコ広場へ行った。そしてサン・ジョルジョ・マッジョーレ島のベネディクト会の菜園で蟻の採集に夢中になった。

ある人は言っている。《あれはダ・リーヴァ尼僧とのスキャンダル後、手の付けれないキ印になった》 と。」
  1. 2018/11/02(金) 00:05:17|
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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