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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィア本: 『ヴェネツィアの出版人』

ハビエル・アスペイティア著『ヴェネツィアの出版人』(八重樫克彦・八重樫由貴子訳、作品社、2018年5月30日)を読みました。西国人がヴェネツィアの出版人、アルド・マヌーツィオを主人公に、小説として描いた作品です。作者が想像力豊かに描いた、あくまでもフィクションの体裁です。
『ヴェネツィアの出版人』今までにも、小説風にアルド・マヌーツィオの事績に触れたドキュメント、ラウラ・レプリ著の『書物の夢、印刷の旅』(1~2)について触れています。一方ハビエルは、事実とされている事もフィクション化している面が多いようなので、アルドの実際を知ろうとすると、あまり参考にはならないだろうと思われます。あくまでも彼は物語の主人公なのです。

ベール
招待客らが何を噂しているかぐらい、私にだって想像がつく。新婚初夜に新妻を一人にするとは! 加齢による体調不良だなんて、怖気づいて書斎で震えてるんじゃないか?
彼らには想像すらできまい。
私の手元にいまだ出版されずに来た極上の本があろうとは知る由もなく、世間の夫たちは口を揃えて言うだろう。紙面に黒字で綴られた肉体にそそられるなどあるものかと。見当違いもはなはだしい。病気か死の瀬戸際でもない限り、それはあり得ることなのだ。若々しい肌の甘美な感触や、爽やかなリンゴの香り、肉体の崇高さを実感するには、見合った言語、適切な表現に直した上で、われわれの人生の書に取り込むだけでいい。

神の物質で綴られた完璧な文章は、脆い人間の肉体とは比較にならない永遠性を備え、強風に揺らぐことも浸食されることもない。そのことを私アルドは、身をもって痛感している。ヴェネツィアに住んで八年が過ぎ、九年になろうという時期になされた結婚式の日、自分がさらに年老いたように感じているからだ。

元はと言えば……あれさえなければ……。
忌まわしきアンドレア! 彼も、彼の妻も、二人の子供も、みんなくたばってしまえ!
私は最初から拒み続けてきた。私には不必要だ。ノーだ! 頼むからやめてくれと。

五十歳で結婚式など、たとえシビュラのご神託であっても、願い下げだ! 縁者びいきや家族ぐるみのつながりから、やっと解放されたと思ったのに。そんなものは私にはいらない。これまで一つひとつ積み上げ、地道に築き上げた末に得た自由を失い、他の家族らと同じように、トッレザーニの所有物になるのはご免だ。マリエッタの死がまだ胸を貫いた状態で、再び彼らの情緒ゲームに陥るわけにはいかない。

これから事あるごとに後継者、跡取りと口にしてくるつもりだろう。跡取りだって!? 自分が信念のない、誤植だらけの粗悪な写本になると考えるだけで気が滅入ってしまう。

だが、すべては宿命だった。その上よりによってちょうど今日、ベネデット・ボルドネの工房から二百以上もの挿画と飾り文字の見本が届いた。いずれも『ポリフィロの狂恋夢(ヒュブネロトマキア・ポリフィリ)』用、ジョヴァンニ・ピコ・デラ・ミランドラが生前、私に託した二冊のうち唯一手元に残った本だ。手渡された挿し絵は、私がこの三年間、眠れぬ夜に抱いてきた夢想を具体的に表現してくれる。世の中の多様性を愛した友ピコの戦い、ポリフィロの戦いがようやく具現化する時が来た。彼が敗北し、われわれみなが敗北しつつある戦いだ。 ……」
  ――ハビエル・アスペイティア著『ヴェネツィアの出版人』(八重樫克彦・八重樫由貴子訳、作品社、2018年5月30日)より
アルド・マヌーツィオ『ヒュプネロトマキア・ポリフィリ』中面[左、アルド・マヌーツィオ。右、彼の出版した出版物の中で最も有名な『ヒュプネロトマキア・ポリフィリ』の中面[通称『ポリフィーロの夢』と言われるこの物語については、『澁澤龍彦全集』13巻(河出書房新社)の中の、《ポリュフィルス狂恋夢》の章で知ることが出来ます。(サイトから借用)―
―アルドが1499年出版した『ヒュプネロトマキア・ポリフィリ(Hypnerotomachia Poliphili―ポリフィーロの夢)』は作者匿名の本で、この小説ではアルドの友人だったピーコ・デッラ・ミランドラ作としていますが、通常は装飾文字の折句から読み取れる、僧フランチェスコ・コロンナ作とされています。説は区々あるようです。『ポリフィルス狂恋夢』は澁澤龍彦の命名だそうです。この本の謎についての推理小説、イアン・コールドウェル、ダスティン・トマスン共著『フランチェスコの暗号』(柿沼瑛子訳、新潮文庫、2004.09.29)を以前読みましたが、近年この『ポリフィーロの夢』本体の訳が出版されたそうです。全訳『ポリフィルス狂恋夢』(大橋喜之訳、八坂書房)だそうです。]

[小説の中で、ドゥカート金・銀貨(ducato伊語―1284年からヴェネツィアで鋳造)を、ドゥカド金貨と書いていますが、ヴェネツィアでは Dogado と呼称し、もっと古くは Dugao と言っていたと、ボエーリオ著のヴェネツィア語辞典にあります。]
  1. 2019/01/30(水) 11:59:51|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ヴェネツィアのマドンナ・デッロルト(Madona de l'Orto)教会(2)

(続き)
「……内部は、中央が特徴的な五角形をしている後陣の3ヶの礼拝堂に繋がる3本の身廊である。身廊はギリシア産の高価な大理石の5本の円柱が2列並び、そこから内輪の繊細な仕上げの、オジーブ式のアーチが始まり、その間が木製の鎖で結ばれている。天井も木製であり(中央身廊のなだらかな天井と両脇の傾斜した天井)、極く普通の格天井ではないことを示している。
マドンナ・デッロルト内部[写真はサイトから借用]  身廊と内陣には、アントーニオ・リッツォ、アレッサンドロ・ヴィットーリア、ジャンバッティスタ・チーマ・ダ・コネリャーノ、ジョヴァンニ・デ・サンティ(聖母の1400年代の奇跡的な表現で、上記のようにサン・マーウロの礼拝堂にある)、ジュゼッペ・サルディ、ダニエル・ファン・ダイク、二人のパルマのもの、そして当然であるが、ヤーコポ・ティントレットのオリジナルの傑作がある。

ティントレットについては、彼の亡骸、娘マリエッタと息子ドメーニコのものが眠っていることが思い起こされるが、教会から少し離れた場所に彼ら一家の美しい居宅を、今でも目にすることが出来る(モーリ運河通り3399番地)。

キリストの12使徒の彫塑作品については前回触れたように、ファサードの装飾壁龕の中に置かれているが、その中の一つは、イエスを裏切った使徒であるイスカリオテのユダを描いたのではないかという伝承である。不名誉、不誠実、金次第、裏切りといった否定さるべき感情を不朽のものにするといったことではないにしても、キリスト教芸術史の中でこうした主題を見付け出すのはかなり難しいので、これは真に珍しいことである。

それではこのような表現が一体どうして、こんなに豊かで重要な教会のファサードの装飾の中にあるのだろうか? その答えはこれを制作した彫刻家ピエルパーオロ・ダッレ・マゼーニェのモチーフの中を探す必要があるだろう。彼は正に悪魔宗派に属しており、悪魔礼賛の正統派だったと思われる。それだけでなく、芸術的能力に多大なるものがあったので、同じ魔王ベルゼブ(Belzebù)は、彼を地上の悪の王国の、創造の第一人者で最も権威ある者として明示したに違いない。

否定的で瀆神的イメージで汚された聖堂の建設は、全ての悪の力の統合本部としてのサタン(悪魔)の意向によるものであらねばならなかったであろう。そのために悪魔は若きピエルパーオロに、そのためにイエスが裏切られた30もの銀貨の一枚を渡したのであった。その一枚が、彫刻家の工房が準備しつつあった彫像の一体に窃かに埋め込まれねばならなかったのであろう。ダッレ・マゼーニェは裏切り者イスカリオテの姿を12使徒の像の一つに託して、正に仕事を進めたのであった。誰にもその事を知らすこともなしに、また誰もはっきりと何かを疑うことが出来ないように。

教会の建設と装飾の仕事が最終的に完了した時、ヴェネツィア当局の多くの部署に関わっていた司教の司宰で、厳かに献堂式が行われた。多くの人が参加した神聖なる儀式に、若き貴婦人イザベッラ・コンタリーニが参列した。彼女は天上界と意思が疎通する、そのような能力者として町でも有名であり、実際人々に聖なる人として敬われていた。

儀式の最中、彼女は若いピエルパーオロ・ダッレ・マゼーニェの前に進み出ると、落ち着いて声も高らかに彼を次のように叱責した。『あなたは到頭、やって来た、サタンよ。あなたはキリストに捧げられた聖域に対して尊敬の念を持たない。しかしあなたは知っている、神に対しても信徒達に対しても、枢要徳の《正義》があなたが赴く所にはどこへでもやって来る。それ故、何も出来はしないことを。』

人々が離れると、一種の火花放電のようなものが発し、人々の間に次から次へと広がっていった。ダッレ・マゼーニェはパニックに陥り、驚きも露に、全体重もろ共に若き預言者に身を躍らせた、彼女を黙らせようと、首を絞めに掛かったのだった。しかし傍近く居た助祭は悪魔に聖水を振り掛けた、そんな気概の持ち主だった。それ故、この彫刻家の心を完全に支配していた悪魔は、この悪魔に取り憑かれた男の体から直ぐ様退散したのだった。

ピエルパーオロ・ダッレ・マゼーニェは失神し、その後覚醒したが、全ての記憶が失われていた。ユダの顔立ちの像は、その内部にはイスカリオテから貰った貨幣はそのままあり、そこに残されているのである。

こうして聖金曜日の毎夜、その貨幣はエルサレムの方角に向かって飛び立つのである。この土地(Akeldamà―アケルダマのアラム語で言う《血の畑》)は、ユダが30貨という邪な銀貨で手に入れたもので、卑劣な代償で獲得したものであることが歴然としているのであるが。 」 (終り)

[Akeldamà とは、エルサレム近くの地名で、ユダがキリストを裏切って獲得した賄賂金で買った土地だそうですが、彼は真っ先にそこへ墜落して、身体が真中から裂けて、腸が流れ出してしまった、という哀れな死に様だったそうです(『使徒行伝』)。これでは信賞必罰天罰覿面的であり過ぎます。物事は単純に“勝ち(+)負け(-)”で色分けした方が判り易く、宣伝もし易いということは判るのですが。『ユダの福音書』とかいうものを読んでみたいものです。]
マンショ像正像[数年前、ドメーニコ・ティントレット画『伊東マンショ像』が発見されました。それは1585年、天正遣欧少年使節の4人がヴェネツィアを訪れた時、4人の像をヴェネツィアに残したいと、父ティントレットが当局に依頼され、マンショの像は完成したと伝えられ、しかし何故かそれはティントレット工房から出ることはなかったので、結局未発見、とされていたものでした。
その後息子ドメーニコが肖像画家となり、父の絵に手を加えて売りに出されて転々とし、近年にミラーノのトリヴルツィオ財団が入手し、詳細に調べた結果、伊東マンショ像と判明したそうです。画布裏に“1585”という数字と“MANCIO”とい文字が書かれていたそうです。それについては2016.05.21日の伊東マンショ像展で触れました。また詳しい研究書、『《伊東マンショの肖像》の謎に迫る: 1585年のヴェネツィア』(小佐野重利著、三元社、2017年4月21日)があります。]
  1. 2019/01/20(日) 19:47:59|
  2. ヴェネツィアの教会
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ヴェネツィアのマドンナ・デッロルト(Madona de l'Orto)教会(1)

マルチェッロ・ブルゼガーン著の『ヴェネツィアの神話と伝説』(Newton Compton editori、2007)が、マドンナ・デッロルト教会について述べていますので、そのご紹介ですが、この教会は近くに住居のあるティントレットが葬られたことでも知られています。彼の住いは地図中丸数字52番がそれで、それは1400年代の建物と言われています(地図左上隅、丸数字55がオルト教会)。
Marcello Brusegan『ヴェネツィアの神話と伝説』カンナレージョ図「サンタルヴィーゼ教会近くの町の外れ、カンナレージョ区の最も外れた地域に設置され、古くは菜園や庭園が多く、かつて本土側からの商品の移動には関心が強かった場所に、この教会は建っている。

最初、聖域が聖クリストフォルス(S. Cristoforo)、即ち旅人、巡礼、商人、船頭の守護聖人クリストフォルスに捧げられたのは偶然なことではない。その後、教会前の菜園に置かれた像のために多くの信者に素晴らしいと言われ、途切れることのない巡礼行の目的地となり、1377年、聖母(Madona=伊語Madonna)に捧げられた。

寺院前部には狭いが同名の素晴らしい広場があって、それはイストラ半島石のような素晴らしい四角形の枠石の煉瓦で、ヴェネツィアでも舗装が施された古い場所だった。

教会は1365~77年に、1200年代からここに住む恭順な教団の修道士達によって建てられたが、パルマ出身の修道会長ティベーリオ・ティベーリの計画によるものだった。しかし崩れそうだと言われ、ヴェネツィアの大評議会の命令で、再建が行われ、1399年から完成へ向かっていた。1400年代のアーチ全ての工事が長引いたのだが、結果を見れば明白なように、ヴェネツィア・ゴシック建築の中でも最も意義深く、完成した例証となった。
マドンナ・デッロルト[サイトから借用]  ファサードは建築的品格を備えた正統的傑作で、バルトロメーオ・ボン作の大きな玄関門に特徴があり、ゴシック様式からルネサンス様式への推移を明確に示している(玄関門の3つの彫刻は、1460~64年に遡る。表しているのは『聖母マリアへのお告げ』『聖クリストフォルス』『お告げの天使(ガブリエル)』である)。

玄関大門の両脇の2つの大窓は、盛期ゴシックの最も典型的なヴェネツィア様式で実現された、両脇の小身廊と対応して開かれており、大変美しい。そして糸のような小柱で支えられた四連窓の形を取っており、細かい細工で仕上げられた、入り組んだ小アーチとなっている。その少し上には、丸い巨大な眼のような窓[rosone?]が浮き立つ様に際立っており、更にもう一つの小さな開口部がその上に位置している。

中央身廊の、装飾用の素晴らしいコーニスもまた印象が際立ち、屋根の勾配に沿って、両脇に伸びる2本の大きな壁柱と、2本の小身廊の飾りとしてのトランセンナの上を走る、宙空の優美な小アーチを持っている。そこには小円柱で区切られた一連の壁龕があり、その中には12人のキリストの使徒の像が鎮座している(それら全てダル・マゼーニェ工房の手になる)。
[トランセンナ(transenna)とは: 初期キリスト教建築で透かし細工や彫刻が施されている、内陣を囲む大理石や金属、また木製の格子をいうそうです。]

外部の装飾を仕上げている5棟の小礼拝堂の中には、ムラーノ島のサント・ステーファノ教会のファサードを飾る1700年代の同数の像が、1843年に置かれた。その5体の像はそれぞれ左から、《賢明》《愛徳》《信徳》《望徳》《節制》を表す。 ……」 (2に続く)
[カトリックの Virtù teologali(対神徳)には、fede(信徳)、speranza(望徳)、carità(愛徳)があり、Virtù cardenali(枢要徳)には、prudenza(賢明)、fortezza(剛毅)、giustizia(正義)、temperanza(節制)があるそうです。]
  1. 2019/01/10(木) 00:04:05|
  2. ヴェネツィアの教会
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ヴェネツィアのカーニヴァル(5)

(続き)
「 《行き過ぎと制限》
カーニヴァルは、仮装することで自らのアイデンティティを完全に隠蔽してしまうことを全ての人に許すことになった。その事は、何かが行き過ぎになってしまうということは避けようがなかった。仮装を悪用して良からぬ事を次々と思い付き、仕出かすのだが、それは犯罪となるものだった。

このため当局は、乱用や欺瞞的な利用、或いは正統的でない仮装に対して、繰り返し、制限、禁止そして重罪という通達を発した。事実、特に夜間、闇に紛れた仮装で、結局は知られてしまうことになったが、ひったくりや盗み、または迷惑行為のような各種の犯罪を犯してしまうのは容易いことであった。既に1339年2月22日には夜陰に仮面で町を歩き回ることに対して、禁令が布告されていた。

かなり一般化した乱用としては、秘所に入るのに偽装して女装したり、教会や修道院に入るのに僧侶服を着用し、破廉恥な行いや修道女との放蕩行為に及ぶ男達である。1458年1月24日の通達はその目的に適ったもので、聖域に仮面で入ることを禁じ、それは、multas inhonestates(破廉恥な罰則)を科されないようにする目的であった。

安全が行き渡った期間は、護身用に武器や危険物を簡単に隠せるタバッロのような大きなマントや色々な仮面の着用が広まったことに由来すると言えよう。しかしそれを定着させた公式文書が沢山あり、他人の安全のために何か凶器を身に纏うことの禁令を引き続き再確認していた。こうした犯罪の刑罰は非常に重く、厳しい刑罰として財産刑としての罰金と、ガレー船で何年も船を漕がせるぞ、という警告としての懲役刑があった。

売春という職業は、元々あって欲しくない職業でありながら、共和国の内部では許容せざるを得ないものであった。時に嘱望され、ヴェネツィア人や外国人に求められながら、堕落と風俗紊乱の源と考えられたが、梅毒の感染源と思われた。このため娼婦は、厳しい抑圧の下にあり、酷な課税下にあった。しかし娼婦は仮面との交流がスムーズで、決められた掟の下、仕事に励むことが出来た。それ故最終的に、かなり厳しい法律で娼婦の仮面は禁じられた。

厳しい罰則以外にも、ピアッツェッタの2本の柱の間で晒し者にされ、鞭打ち刑でサン・マルコ広場からリアルトまで晒され、共和国外への4年間の追放刑があった。

賭博場が普及したため、仮面を被ったある賭博師が債権者から逃れるため、ある無名の人を搾取したという記録がある。1703年にはこうした場所へ仮面を被って赴くことは完全に禁じられた。

その後1776年には既婚の夫人が劇場に仮面を付けずに出掛けることは、名誉のために禁じられた。

1797年の共和国崩壊後、個人の館でのパーティやカヴァルキーナやフェニーチェ劇場での舞踏会を除いて、仮装は禁止となった。結果として、何世紀も続いたこの歴史的カーニヴァル行事の精神的支柱が直ぐに崩れ始めた。行事が次第に消えていった。

 《現代のカーニヴァル》
1797年にナポレオン軍がヴェネツィアを占領し、その後オーストリア軍が進駐し、チェントロでは長い間、人民の反乱や混乱を怖れてカーニヴァルは中断していた。ただブラーノ島やムラーノ島では低調とは言え、ある種の熱気で曲りなりにも継続していた。

2世紀後の1979年、何世紀も続いていたカーニヴァルが、燃え尽きた灰燼の中から蘇った。ヴェネツィア市が経済的にバックアップし、フェニーチェ劇場やヴェネツィア・ビエンナーレや旅行協会等の幾つかの市民団体の企画や人力のお蔭である。 ……」 (以下の現代の記述は省略です)
  1. 2019/01/03(木) 04:08:32|
  2. ヴェネツィアの行事
  3. | コメント:2

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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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