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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

カルロ・ゴッズィ(2)

「カルロ・ゴッズィは1720年12月13日、遠いベルガモ出身者の一家に生を享けた。しかし16世紀には《ヴェーネト市民権》を持ち、フリウーリに土地を所有している等、色々な面が知られており、封土の譲与権の更新のための毎年必要な費用のために、わずかな農業税の徴収と貴族の称号の使用の権利が与えられていた。彼の晩年の『出来損ないの回想録(memorie inutili)』の中で自分の事を語ったように、ゴッズィ伯爵家の人々の人生は生易しいものではなかった。
Carlo GozziGozzi父ヤーコポ・アントーニオは《洞察力のある、デリケートな感性》の人間だったが、《他人の影響を受け易い気質》で、奇抜なところがあり、自分の騎士道的性癖に従おうとして、資産を無駄遣いしていた。母アンジェラは、貴族ティエーポロ家の最後の人であり、カルロは否定的には考えていなかったが、この家族の不安定な動向には無関心で、偏った態度で接していた。

それ故11人の子供達は、サン・カッスィアーノ傍のヴェネツィアの家か、あるいはヴィチナーレのフリウーリの住居で、《進歩的で》無節操な自由気儘の中で成長した――教育的・文化的人間形成は、殆ど決定づけられていたのである。兄達ガースパロとフランチェスコは、公立学校の通常の勉強に通うことが出来た。しかし若いカルロの教育に関しては、田舎のヴィッラの熱意ある教区司祭が気が向いた時に、更に年齢を経て同じように町の、杓子定規の聖職者の手に委ねられた。

しかしながら教師達とは不満足な関係ではあったが、長男ガースパロ(彼は当時、才能ある文学者として頭角を顕しつつあった)や友人のジャンアントーニオ・ヴェルダーニ、アントーン・フェデリーゴ・セゲッツィの例や助言がありながら、イタリアの言葉や詩の深化を志す学者への道へは向かわなかった。というより、受ける教育の質に対する正確な判断や兄達やその友人達より優秀でありたいという欲求が、まだ若いカルロの心の中で勉学や著作に対する情熱を掻き立て(鼓舞し)、その過度なまでの独習熱は逸早く自覚的となり、継続的なものとなっていたのだった。

《古き、誇り高きトスカーナ語》を読み、一つの国のニュースを理解出来るように、当時好まれなくなったフランス語風の慣用表現の基本を《ピエモンテ人》から学び、当時の選集に纏められた沢山の文章を書いた(1篇のソネットがアポーストロ・ゼーノを理解する上で役立った)。

特に当時のヴェネツィアで流布していたフランチェスコ・ベルニの詩を範に書かれた跡を辿ってみると、出版されることもない幾つかの詩句(ベルリンギエーリの“Don Chisciotto”や“Gonella”)やフィオレンツオーラの“Discorsi degli animali”の韻文化された“La filosofia morale(道徳哲学)”(未出版)である。

しかし1738年、その間、兄ガースパロは才能豊かではあるものの最低の性格だった女流詩人、ルイーザ・ベルガッリと結婚し、益々混乱していく家族関係の中に彼女を引き入れた。それ故、本と原稿用紙で得られる隠れ家は不十分なものとなり、1740年カルロはヴェーネト軍の随員として、ダルマツィアに行くことに決めた。そこで丸3年間、会合や恋愛や冒険、それは熟考に満ちたものとなった。 ……」 (3に続く)
  1. 2019/02/24(日) 07:50:56|
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聖ヴァレンティーノ

今日はバレンタインデーです。私も一度だけ女性からチョコを戴いたことがあります。会社の少人数しか居ない同じ課で、定年退職する女性が直前の2月14日、男子にチョコを配られました。初体験だったので、大変感動しました。伊語形のヴァレンティーノという名前について、『名前事典』から伊国の様子を紹介してみます。
名前辞典「この名前は動詞Valère(状態が良い、健康である、強健であるの意)に由来する羅典語名Valentinus(ウァレンティヌス)から来たもの。西ローマ帝国皇帝3人がこの名を持っている。

有名な傭兵隊長チェーザレ・ボルジャ(1475~1507)はヴァレンティーノ公と呼ばれた。彼は、法王アレクサンデル6世の名で教皇庁のトップになった、その名の由来のヴァランティノワ公でロドリーゴ・ボルジャの息子だった。全ロマーニャ地域を占有し、中央イタリアに自分の国を作ることを夢見たが、その夢は新しい教皇ユリウス2世の即位で無に帰した。

現代人の中では、編集者ヴァレンティーノ・ボンピアーニ、宇宙飛行士ヴァレンティーナ・テレスコヴァ(ワレンチナ・テレシコワの事)、女優ヴァレンティーナ・コルネーゼとヴァレンティーナ・フォルトゥナート、デザイナーのヴァレンティーノ(ガラヴァーニ)。

ヴァレンティーナはクレパスで描かれた有名な漫画の登場人物である。文学では、ヴァレンティーノはパースコリが書いた同名の詩の中で謳われた少年の名前である。

教会は2月14日、聖ヴァレンティーノ(ウァレンティヌス)のことを思い出す。この日は聖ウァレンティヌスのローマ殉教の日であり、愛し合う人達の愛に捧げられている。何故かならば、中世には2月14日、春の訪れを最初に感じて、小鳥達は番いとなり始めると信じられて、聖ヴァレンティーノの日は愛のお祭りとして祝われたのである。

イラストレイター、レモン・ペネ(日本ではレイモン・ペイネと通称)は、素晴らしい筆さばきで二人の恋人達の祝祭のメッセージを創出した。アングロサクソンの国では、2月14日に送る愛の手紙をヴァレンタインと呼んだ。それは普通、“君は僕のヴァレンタイン”、あるいは“あなたは私のヴァレンタイン”という文句で綴られる。

こうした伝統は、若者の衝動とはあまり関係のない聖人の名前に異教的(古代ローマ的)祝祭を繋げているとして興味深いところである。事実聖ウァレンティヌスは犠牲と禁欲で鉄壁の信仰を守り、殉教したのだった。この名を持つ者は2月14日の聖名祝日にお祝いをする。

この名前の変化形は: Valente(ヴァレンテ)、Tino(ティーノ)、Tina(ティーナ)。外国人名: 仏国=Valentin(ヴァランタン)、Valentine(ヴァランティーヌ)。英国Valentine(ヴァレンタイン)。独国Felten(フェルテン)。西国Valentìn(バレンティン)。露国Valentin(ワレンチン)。 」  
 ――ジュゼッペ・ピッターノ著『名前辞典』(I edizione Manuali Sonzogno、1990.03)より
  1. 2019/02/14(木) 16:11:31|
  2. 名前
  3. | コメント:0

カルロ・ゴッズィ(1)について

荒川静香さんがトリーノの冬のオリンピックで金メダルを獲得されたのは、プッチーニの『トゥランドット(Turandot)』の曲で踊られたスケーティングでした。プッチーニのこの曲は、彼の最後の作曲で未完に終わったものではありますが、美しい名曲ですね。

私は伊文化会館の伊語のデッサルド先生の音楽教室を受講した時、オペラは誰が好きですか?と問われ、プッチーニと答えたのですが、後で若い女生徒さんにプッチーニのような歌謡曲ばかり聴いていてはだめですよ、ベルクとかシェーベルクとか硬派のものも聞いて下さいと諭されました。以来プッチーニが気になっています、まだ彼の生地ルッカを訪れたことがないのです。

この曲は彼の手になるものか、あるいは彼の死後補筆したフランコ・アルファーノの手になるものか、私には判りませんが、『ラ・ボエーム』は仏国の、『トゥランドット』は中国の、『西部の娘』は米国の、『蝶々夫人』は日本の物語と、世界各地を題材にしているところがプッチーニのとてもユニークな処と思われます。

この本の原作は、ヴェネツィアの作家カルロ・ゴッズィ(Carlo Gozzi―1720.12.13ヴェネツィア~1806.04.04ヴェネツィア)の演劇作品『トゥランドット(Turandot)』を基にしています。(多分ローマで学ばれた)学者さん達は、Gozziをゴッツィと訳されていますが、ヴェネツィアでは“ゴッズィ”と発声されている筈です。例えばモンテプルチャーノではGozzano(ゴッツァーノ)でも、ピエモンテではGozzano(“ゴッザーノ”)と濁った音ですし、特にヴェネツィア共和国の言葉はウンベルト・エーコが言っているように、方言ではなくヴェネツィアの国語であったとすれば、共和国時代の“ゴッズィ”はますますそうです。Zorzi(ゾルズィ)とか、その手の名は多いようです。
私が初めて伊語会話を教わった先生フィカーラさんの町レッジョ・ディ・カラーブリアでは“マンツォーニ”通りがあると言っていました。ミラーノではマンゾーニであっても、土地に行ったら土地に従うものでしょう(Quando a Roma vai, fa' come vedrai.)。ですから私のVeneziaも、Venesia、Venaxiaとかにすべきだと思っているのですが。
[エーコの言葉については、2011.12.24日のバーカロで触れました。]

『トゥランドット』は、上記のようにヴェネツィアのコンメーディア・デッラルテの作家、カルロ・ゴッズィの原作です。同じ伊人作曲家フェッルッチョ・ブゾーニもプッチーニの前(1917)、この作品をオペラに作曲しているそうです。私がヴェネツィアの語学学校通学時、ストゥーア小広場にアパートを借りた時、傍のゴッズィ館の一階がパン屋さんになり、毎早朝パンを買いに行きました。そんな訳でゴッズィには大変興味があります。仏人青年がゴッズィの館を知らないかとこの日本人に訊いてきたこともあります。いそいそと案内しました。
ゴッズィの家右、ゴッズィ館[左、パン屋さんが開店。右、サンタ・マリーア・マーテル・ドーミニ広場から見たゴッズィ館(正面右)、サイトから借用]  今までゴッズィについては何度か極軽く触れてきましたが、ここで今までの記述を簡単に纏めてみますと――『三つのオレンジへの恋』(1761)=S.S. プロコーフィエフ、『鴉』(1762)=A.J. ロンベルク、とJ.P.E. ハルトマン、『鹿の王』(1762)=H.W. ヘンツェ(1956)、『蛇女』(1763)=F.H. ヒンメル(空気の精1806)とR. ヴァーグナー(妖精1834)、A. カゼッラ、『トゥランドット』(1762)=ブルーメンレーダー、C.G. ライシガー、ホーヴェン、レーヴェンスキオルド、A. バッズィーニ、オーケルベリ、F.B. ブゾーニ、G. プッチーニ(1926未完)、ザーベル、『幸運な乞食達』(1764)=J.A. ベンダ、ツムシュテーク、ダントワーヌ――とカルロ・ゴッズィの書いた戯曲がオペラ作品にされているそうです。

彼と同時代の劇作家、カルロ・ゴルドーニが演劇の改革として新しい劇を発表し、当時の知識人、ガースパロ・ゴッズィ(カルロの兄、ヴェネツィアの新聞《Gazzetta veneta》等の初の創刊者)にはその革新性を認められながら、弟のカルロの目指すコンメーディアとは異なってカルロと論争になり、結局ゴルドーニはパリに去りました。ゴルドーニのパリでの最期については、2009.10.10日のゴルドーニ(3)で触れました。
Gozzi次回からそのカルロ・ゴッズィの生涯を、Carlo Gozzi著『Fiabe teatrali』(Garzanti、1994)で辿ってみます。

最後に、上で触れました伊語の表記の問題で伊語に関心のある方に、語学校ではあまり触れない事を:  ①は正書法と発音の本、②は姓名事典、③は名前辞典、④は道路地図(これは地名についての一例です)。①はアクセントを含めて伊語の発音を教えて呉れます。希臘語起源の固有名等教えられます。②③はその題名通りです。人によりますが、伊語の先生方で固有名を判っているとしてわざわざ調べないで文字にする人がいるのではないかと推察します。私の先生もその一人でした。また伊語は常に最後から二音節目にアクセントありとする表記も見掛けます。音引や促音便なしで、アルファベットを字句通りカタカナに変換するのは、訳ではなく単なる変換だと思うのです。④この地図の総索引には地名にアクセント記号が記してあります。
DOP姓名辞典名前辞典道路地図④  また大きな百科事典にも、紛らわしい言葉には発音記号が付してあるものがあります。

Beliceはスィチーリアの“ベーリチェ”(地震で有名)ですが、複数形の地名Beliciは“ベリーチ”ですし、Salice Salentinoは“サーリチェ・サレンティーノ”ですが、カラーブリアのSalice Calabroは“サリーチェ・カーラブロ”と複雑です。またギリシア神話のテーセウス(Teseo)はギリシア語風に発音すると“テゼーオ”なのに、ローマ神話風だと“テーゼオ” だそうで、その使い方の区別が判りません。
  1. 2019/02/10(日) 09:49:58|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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