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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ガースパロ・ゴッズィ

この際、カルロの兄ガースパロ・ゴッズィについても見ていきましょう。彼については、M. ブルゼガーン著『ヴェネツィア人物事典(I personaggi che hanno fatto grande Venezia)』(Newton Compton editori、2006)に彼の事が纏めてありますので、それを紹介してみます。
『ヴェネツィア人物事典』「 ガースパロ・ゴッズィ(1713.12.04ヴェネツィア~1786.12.26.パードヴァ) 作家
貴族の一家の11人の子供の長子で、弟カルロ同様、一家の経済問題で大いに悩まされた。最初の妻、女流詩人ルイーザ・ベルガッリと共に出版業で、困難で不運続きの道を進まざるを得ず、注文を受け、古代ローマの喜劇作家プラウトゥス(Plauto)、古代ギリシアの『ダフネスとクローエ』の作家ロンゴス(Longo Sofista)、古代シリアのサモサタ出身のギリシア語で執筆した風刺作家ルキアノス(Luciano di Samosata)、仏国喜劇作家モリエール(Molière)、独国作家クロップシュトック(Friedrich Gottlieb Klopstock)等を翻訳して、糊口を凌いだ。

弟カルロの新しい、文化的なものに対する熱情よりは、より開明的で、カルロ・ゴルドーニや、作家や諷刺詩人に対して高い評価を示した。彼の文学的デビューは、1752年選集《Lettere serie, facete, capricciose, strane e quasi bestiali》の上梓だった。

引き続き《La Gazzetta Veneta》(1760~61)、《Il Mondo Morale》(1760)、《L'Osservatore Veneto》(1761~62)と題する新聞を一人編纂・発行し、簡潔・軽快・諷刺的、しかし正確な語法を編み出し、当時のヴェーネトを活写・報道した。

二つの作品『Sermoni』(1745~81)と『Favole espiane』は著名で、モラリスト的着想による、11音節による選集である。更に『Giudizio degli antichi poeti sopra la moderna censura di Dante attribuita a Virgilio』(1758)は、僧サヴェーリオ・ベッティネッリとの論争によるダンテ擁護で、古典主義的修辞学に基づいている。

弟カルロとは、擬古典的なグラネッレスキ・アカデミーの会員仲間であった。

最初の妻ルイーザ・ベルガッリとの間に5人の子供を生した。1779年鰥夫となり、貴族トローン家の家庭教師だったフランス人のサラ・セネと結婚した。トローン家は、その2年前の1777年、彼が自殺未遂を起こし、その後長い間、彼の面倒を見ていたのだった。
ガースパロ・ゴッズィ[像はサイトから借用]  1786年パードヴァで亡くなった。 」
  1. 2019/03/24(日) 03:43:48|
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カルロ・ゴッズィ(4)

彼についてのこの評伝は、まだ蜿蜒と続いていきます。簡略にイタリア・ウィキペディアのゴッズィの記事から紹介してみます。
カルロ・ゴッズィ[サイトから借用]  「ヤーコポ・アントーニオ・ゴッズィ伯とアンジョラ・ティエーポロの夫婦の間の11人の子供の内の第6子で、遠くベルガモ出身の一家は1500年代ヴェネツィアに到来し、幸運にもヴェネツィア本島と本土側(フリウーリのヴィズィナーレ(Visinale)にヴィッラを得た)に所領を獲得した。1600年代にはゴッズィ家は伯爵位を得たが、1700年代初頭には一家の繁栄に陰りが見えた。

この状況が『Memorie inutili(出来損ないの回想録)』の中で彼自身が述べているように、彼の人間形成に影響を及ぼした。兄達ガースパロとフランチェスコには公立学校で通常の教育が授けられたが、彼は平凡な司祭に気儘なレッスンを受けただけだった。それ故当時文学者として頭角を顕し始めたガースパロのようになりたいと、独学で自分の学習を深化させねばならなかった。

1300~1500年代のトスカーナの文学者を特に研究した。それは短編作家のサッケッティとフィレンツオーラであり、ある時にはプルチやブルキエッロ、ベルニであった。

1740年軍に入隊し、4年間ダルマツィアで生活した。帰郷し、文学の勉強を再開し、直ぐにグラネッレスキ学会(アカデミー)の最も輝かしい会員として声価を得た。そこで風刺作品により認められたのである。この会は饗宴とエスプリに捧げられており、真摯の文学目的を持って、外国の影響からトスカーナ文学を守護しようと真剣に取り組んでいた。

フランスの例をモデルにして、ピエートロ・キアーリやカルロ・ゴルドーニの仕事が古いイタリア喜劇を作り変え、社会的努力を排除しようとする気配を感じた。1757年ゴッズィは諷刺詩を発表してそれを救ったのである。それは『La tartana degli influssi per l'anno bisestile 1756』と1761年の喜劇『L'amore per le tre melarance o Analisi riflessiva della fiaba』、寓話に基づいた別の2つの詩のスタイルのパロディである。

それを板に乗せるのにアントーニオ・サッキの劇団仲間の協力を得た。彼らの諷刺的活動のお蔭で、喜劇は大成功であった。サッキの仲間達は舞台を神秘的・神話的に構成して観客に与える効果を計算し、感動を呼んだのであった。それは最初は諷刺的作品として単純に舞台化されたのであったが。

続いてゴッズィは、寓話を下にドラマティックな作品を書いた。最初これらの作品はよく知られていたが、サッキ・グループが解散した後は忘れられてしまった。ゲーテやシュレーゲル、スタール夫人、スィズモンディ等も非常に評価した。この劇作品の一つ『トゥランドット』はシラーによって翻訳されたし、プッチーニの同名の作品にインスピレーションを与えた。

最晩年ゴッズィは、喜劇的要素を大いに取り入れた悲劇を描いた。しかしその作品は当時としてはあまりにも斬新であり過ぎた。次第に彼の新機軸は批評家達の受け入れ難いものとなっていき、彼はスペイン劇に方向転換し、そこから色々な表現様式を吸収した。

しかし彼の初期作品に比べ、恋人の女優テオドーラ・リッチの芸術的才能を際立たせはしたものの、成功は僅かであった。 」

ゴッズィは最初の劇作品『三つのオレンジの恋』(1761)の中で、敵対したピエートロ・キアーリを妖精“モルガーナ”、カルロ・ゴルドーニを魔法使い“チェーリオ”に見立て、批判しているそうです。
  1. 2019/03/14(木) 08:01:55|
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カルロ・ゴッズィ(3)

(続き)
「1744年10月帰郷すると、我々は彼の自伝が伝える2つの労苦に満ちて象徴的な事を目にすることとなる。一つは家の内部がランク落ちしてしまい、通行人が《極貧》で修復不可能と見做している、ヴェネツィアの先祖代々の《館(palazzo)》であり、今一つはカルロは、結局はそこへ行くことになるのだが、ヴィチナーレの《崩れそうな城の頂上に》引き籠ってしまった病父のことである。
Gozzi更に何年かが経過し、その後1747年彼は、弟と年老いた侍女と共に家族と生涯の別れをし、サンタ・カテリーナ地区の倹しい住まいに引っ越した。しかし彼の内面は今や突飛で気紛れな気質が、貧乏貴族の反動的性格と渾然一体となっていた。

30年代末から既に、正にカルロが詩的試みを更に推し進めようとし始めた矢先の事であったが、ゴッズィ家で《文学的常会》として兄ガースパロとその恋人の肝煎りでの集まりが行われていた。メンバーには二人以外に、ヴェルダーニとセゲッツィとジョヴァンニ・スィビリアートで、アントーニオ・スフォルツァ、ジュゼッペ・トマーゾ・ファルセッティ等、錚々たるインテリが集まった。この目的は、続いてゴッズィ・アカデミーと呼ばれることから明白である。

文学的伝統である古典を再興すること、言葉と文体を守護すること、トスカーナの一大シーズンを成した1400年代の活気に溢れた詩人達――ルイージ・プルチ、イル・ブルキエッロ、フランチェスコ・ベルニ――を実際に模倣することで見直すこと。“純粋主義”を標榜したこの会は何年もの間、火を灯し続けた。

1747年、ダニエーレ・ファルセッティがサン・マルコ広場に所有していた建物に、《ゴッズィ》の意図を実現するある一つのアッカデーミア・グラネッレスカ(アカデミー)を設立しようと彼の新旧の友人達が集まった。更にガースパロのお蔭で(彼は当時文学団体の革新の必要性と伝統の継承ということを知的レベルで一致させようとしていた)、アカデミー会員はイタリア文化の枝葉末節では無いテーマに直面しており、例えばそれは、あまりにも長い間過小評価されていたダンテのある役割であり、それ故国内では明確に突出したものとなっていた。

しかし特にカルロの要求としての、独学者が見習い研修的期間に論争したいのだという気紛れな野望は、《グラネッレスコ》のアカデミーの中に押し込められており、アカデミーの色々の報告者達は、パロディーや諷刺、罵詈雑言を引き出してはお巫山戯の文体(時には実地練習で)で楽しむということに専ら意を注いでいた。この会の次から次へと起こる出来事は、カルロに代表されるような傾向が色濃くなっていく。

そのような選択の結果として、グラネッレスコ・アカデミー会員(グラネッレスキ)達は、思想・文化的新情報(関連して言語的に混交した)について、あるいは敵意によって特徴付けられる、夥しい、本質的には匿名の詩歌という成果を産出することになる。その思想・文化的情報が、ゴッズィ家の最年少が学ぶレッスンとなったのだった。そしてこのアカデミックな習慣は痛手を蒙ることはなかった。

それは1757年、執筆してコロンバーニ社から出版される『La tartana degli influssi』まで続くことになる。 ……」 (4に続く)
  1. 2019/03/04(月) 03:34:48|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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