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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ジェンティーレ・ベッリーニ

ヤーコポの長男ジェンティーレについて、ジョルジョ・ヴァザーリの『ルネサンス画人伝』(白水社)は次のように紹介しています。
ジョルジョーネヴァザーリ著「……ヤーコポとジェンティーレは『十字架縁起図』にキリストの十字架の奇蹟を主題として描いた七、八枚の絵をつけ加えている。前述の会堂(スクオーラ)がこれを遺品として保存している。奇蹟のあらましはこうである。

どんないきさつかはわからないが、問題の十字架がパーリア橋の上から運河に投げ棄てられた。多くの人はイエス・キリストの十字架を作っている木材を信心していたから、探し出そうと水中に潜る始末であった。しかし十字架を見つけ出した人は誰もなく、先ほど述べた会堂の主事だけが神の思召しがあったためかそれをうまく探しあてた。
十字架の奇蹟[ジェンティーレ画『サン・ロレンツォ運河に落ちた十字架の奇蹟』(アッカデーミア美術館蔵、サイトから借用]  ジェンティーレはこの物語を表現するにあたって、中央運河沿いに軒を並べる多くの家、パーリア橋、サン・マルコ広場などと、聖職者のあとに続く鈴なりになった男女の列とを遠近法を駆使して描いている。水中に飛び込む人々、飛び込もうと身がまえる人々、半身を水中に沈めている人々を同じ場面に描き、その他の人物も美しいさまざまな身振りと様子をしている。最後には十字架を探し当てる会堂主事を描き込んでいる。

おびただしい数の登場人物、実物をモデルにした肖像、遠方の人物を少しずつ小さくしていく手法、また、当時この会堂に属しているか正会員であった人々の似顔絵をほとんどもれなく描いている点、などを考えると、ジェンティーレの労苦と努力は、はなはだ大きいものであった。……この画布の上に描かれた物語絵のすべてが、ジェンティーレに大いなる名声をもたらした。
……
……さる大使が何点かの肖像画をトルコ皇帝への贈物としてトルコに持ち込んだことがある。皇帝は肖像画を見て、驚きのあまり啞然となった。マホメット教の法律で絵は厳禁されていたが、皇帝は大満悦で、作品の出来と作者について口をきわめてほめそやし、とどまることを知らず、ついには、絵の作者を派遣するよう要請する始末であった。

ヴェネツィア議会は、ジョヴァンニの健康では異国生活もままならぬだろうと同情し、また大会議室の仕事にかかりきりの人物を市が途中で手離すのもつまらないという思惑も働いて、兄のジェンティーレならば同じ程度の仕事をするはずだと考えて、こちらの派遣を決議した。議会はジェンティーレに用意万端ととのわせて、ヴェネツィア共和国のガレー船にのせて、無事コンスタンティノポリスへ送りとどけた。

その地では政府代表につきそわれ、メフメット二世に拝謁を許され、まるで珍しいものでも来たような歓迎を受けた。とりわけ、この君主に美しい絵を献上すると、眼を見はってこれを眺め、一人の人間のなかに神に近いものが存在して、自然の文物をかくも見事にあるがままに表現し得ることが、どうしても信じがたい様子であった。
メフメット2世[『メフメット二世像』(ロンドン、ナショナル・ギャラリー蔵、サイトから借用]  住みついてまもなく、ジェンティーレがメフメット皇帝の肖像を描き上げると、皇帝はまるでそれを奇蹟とみなした。たくさんの絵を見たあと、皇帝はジェンティーレに自画像を描く気はないかと尋ねた。その意志があると答えたジェンティーレは、日ならずして小さな丸鏡をつかい、本人と見まがうばかりの自画像を描き上げた。皇帝のもとにこれを持参すると、皇帝はその成果におどろいて、ジェンティーレには神意が宿っているとしか考えられないという様子であった。

前にも言ったように、画を描くことがトルコ人の間で法に触れなければ、皇帝はジェンティーレを手離しはしなかったであろう。陰口をきいている連中がいると疑ったのか、他の理由からか、ある日皇帝はジェンティーレを召され、それまで捧げられた心づかいに対し、まず臣下に報償を与えさせた。実に秀でた働きであったとねぎらった上に、いかなる望みでもかなえてやろうと言いわたした。

ジェンティーレは善良で控え目な人物であったから、故国のヴェネツィアの政庁と共和国議会への推薦状以外は何も要求しなかった。それで、あらんかぎりの賞め言葉の並んだ推薦状が書かれた。その後で、栄(はえ)ある引出物と騎士の地位が下賜された。

出立の際トルコ皇帝から授受さるべき餞別として、種々の特権のほかに、トルコ風の細工をほどこした、金貨二五〇スクードの重さに相当する首飾りが首にかけられた。これは現在でも子孫の手に残っている。 ……」 (小谷年司訳)
  1. 2019/06/28(金) 08:10:21|
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ヤーコポ・ベッリーニ

ヴェネツィアのルネサンス絵画は、ベッリーニ一族からその名が高まるそうです。父ヤーコポ、長男ジェンティーレ、次男ジョルジョ。ジョルジョ・ヴァザーリの『ルネサンス画人伝』(白水社)は、3人の事を語っています。先ず父ヤーコポ(15世紀初期、ヴェネツィア~1470年頃、ヴェネツィア)から引用してみます。
ジョルジョーネヴァザーリ著「さて、ヴェネツィアの画家ヤーコポ・ベリーニはジェンティーレ・ダ・ファブリアーノの弟子で、競争相手に、アンドレーア・デル・カスターニョに油彩の技術を伝授したドメーニコ(・ヴェネツィアーノ)を持っていた。このドメーニコがヴェネツィアの地からそとへ出て行ってしまうまで、ヤーコポの名は、本人がすぐれた画家になろうといくら努力を重ねても、さっぱり売れなかった。

対等に競い合える相手がこの町にいなくなって、ヤーコポの信用と名は上がる一方となり、腕のほうにも磨きがかかり、画業において当代随一の名声を得るにいたった。天は、絵画における名声がベリーニ一族ならびに子孫によって、いつまでも現状維持ではなく、さらに増大するよう望み給うたのか、二人の子供が授かった。

二人とも絵を大いに好み、かつまた輝かしい天才に恵まれていた。名を片やジョヴァンニ、片やジェンティーレという。ジェンティーレの名は、慈父のごとき師匠のジェンティーレ・ダ・ファブリアーノに父が抱き続けた優しい思い出にちなんでつけられている。二人の子供がある程度育つと、ヤーコポは自身で素描の基礎を熱心に教え込んだ。

しかし、両人とも父をはるかに追い越すのにそう長い時間はかからなかった。これには父も大喜びで、いつも両人を励ますことしきりであった。父は、競走して相手に負けぬよう全力をあげるのが自慢であるトスカーナの人たちの例にならって、画業の手引きを受けた順番に、まずジョヴァンニが父を凌駕し、次にジェンティーレが両者を越えるようになればよいと望んでいた。
聖母子(1455)[『聖母子』像、アッカデーミア美術館蔵、サイトから借用]  ヤーコポの名を高からしめた最初の仕事は、ジョルジョ・コルナーロとキプロスの女王カテリーナの肖像画であった。さらには、ヤーコポがヴェローナに送った『キリストの受難図』があり、そこでは多くの人物が扱われ、自画像も描いている。また、サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ会堂(スクオーラ)にあるとされる『十字架縁起図』がある。ヤーコポはこれらの絵を、他の多くの作品同様、息子たちの手を借りて描き上げている。最後にあげた物語図はヴェネツィアの通例に従って画布に描かれている。

他の地方では一般に楓、一部には白ポプラと呼ばれる樹の板が用いられるが、ヴェネツィアでは稀である。この樹は主に河岸および水辺に育ち、質が柔らかで、絵具の乗りが実によく、のりではり合わせて合板にすると反りがまったくこないからである。しかしヴェネツィアにおいては画板は作られない。稀に画板を作ることがあれば、樅の木の板しか使わない。アーディジェ川を通してドイツ領から大量に運ばれてくる樅材が、ヴェネツィア中にころがっているためである。スラヴ諸国から充分の供給があるのはいうまでもない。

さて、ヴェネツィアでは画布を使うのがしきたりで、その理由としては、割れない、虫食いがない、好みのサイズの画布が得られる、あるいは別のところで言及したが、望みの場所へ手軽にごく安く送れるといったことがあげられる。……」 (小谷年司訳)
  1. 2019/06/21(金) 03:01:41|
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ジョルジョーネ(4)

若桑みどりさんの『絵画を読む』(日本放送出版協会、1993年3月1日)の時代は、未訳だったサルヴァトーレ・セッティスの『La ≪Tempesta≫ interpretata. Giorgione, i committenti, il soggetto』 (Einaudi Editore、Torino 1978)が『絵画の発明――ジョルジョーネ「嵐」解読』(小佐野重利監訳、石井元章・安達薫訳、晶文社、2002年11月25日)として出版されています。少し引用してみます。
サルヴァトーレ・セッティス『絵画の発明』「二人とも、彼らのこれまでの経験と人類の未来の歴史を少ない筆致で要約する《教訓的な風景》のほうを向いている。背景には、“快楽の園”であるその町がエデンの川を越えてはいまやいかなる人間も通わない橋の向こうに、塔や円柱、城壁に満ちた近寄ることのできないものとして存在する。

人類と蛇に呪いを宣告し、またそれを繰り返す“遠くからの声”としての雲を裂く稲妻が、町の上にも橋の上にも、遠くから脅かすように迫っている。それゆえ、アダムは身じろぎもせずに棒に寄りかかり、エヴァは小さなカインに乳を与えながら、産後の裸体をかろうじて茂みに隠しているのである。二人に挟まれた二基の折れた円柱は、人間の生の筋書のなかに――労働の苦労と出産の苦痛を伴って――入り込んでしまった《死》を表すエンブレムとなっている。

物静かで可愛らしいカインは、将来、彼が犯すことになる兄弟殺しをその独りだけのあどけない容姿のなかに予告している。それは、罪と神の懲罰からなる苦痛に満ちた道を通って人間が歩まねばならない道程なのである。

前景には、かろうじて見える程度に、蛇が油断のならない様子で地に身を隠しているが、この蛇こそ誘惑と原罪の原因であり、それゆえ、蛇もまた神の呪いに打たれ、《女》のかかとに踏みつぶされる運命にある。このため、神の厳しい言葉は、人類には同時に《言葉》の化肉と贖罪の約束となるのである。
……
『三人の哲学者』にとってと同様に、もし場面が――ベルガモのコッレオーニ礼拝堂やロベッタの一連の版画におけるように――《原罪》、《楽園追放》、そして、神の声と彼らやわれわれの運命に関するこの無言の瞑想を表現する一連の作品のなかにあったのならば、それはたちどころに理解しうるものとなるであろう。

したがって、これは物語の表示された《希釈》からでなく、想像された《希釈》から生まれた場面ということになり、それに対して、物語の続きの諸瞬間を示す――つまり蛇(《原罪》)、小木(《恥辱》)、稲妻(《呪い》)、アダム(《労働》)、エヴァ(《出産》)、円柱(《死》)、カイン(《犯罪》と《責め苦》)――があたかも《縮約》されたかのように、そしてそれにもかかわらず、《道徳的な》風景の中に完璧に溶け込んでいる。

神を稲妻に、蛇をかろうじて見えるような存在に《還元し》、《死》を折れた円柱で表し、《犯罪》をまだ純真なカインで表すことによって、ジョルジョーネは自らの絵が物語の諸瞬間の集積物になることを回避した。 ……」
  1. 2019/06/14(金) 02:33:59|
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ジョルジョーネ(3)

ジョルジョーネの『嵐』(ヴェネツィア、アッカデーミア美術館像)は、描かれた直後からその主題が判らず、色々の研究者が色々の説を述べているという作品だそうです、謂わば研究者の数だけ説がある訳です。私などは主題等判らずとも何故か作品に引き込まれてしまいます。
ジョルジョーネ『Tempesta(嵐)』アッカデーミア美術館……若桑みどりさんと言えば、『クアトロ・ラガッツィ――天正少年使節と世界帝国』(集英社、2003年10月30日)という大部の本を書かれ、傑作として頓に有名ですが、亡くなられる前、大分前の事、若桑さんがNHKでこの『嵐』に関わる諸説を紹介されたことがありました。それが本に纏められ、『絵画を読む――イコノロジー入門』(若桑みどり著、NHKブックス、1993年3月1日)として上梓されました。
クアトロ・ラガッツィクアトロ・ラガッツィ裏絵画を読む「……またやっかいなことには、一九四二年に発表されたこの絵のX線写真によると、作者ははじめ、男性が描かれている左の下の部分に、全裸の女性が川に足を浸しているところを描いていたことがあきらかにされた。つまり、作者ははじめ画面の左側に男性ではなくて、女性を描こうとしたということになる。このことをどう解釈するかによって主題の考え方がちがってくる。

たとえば、この事実をもとにして、作者は結局男でも女でもよかったのであるから、特定の主題には固執していなかった、ととる場合である。このような受け取り方をする学者のなかには、この絵には特定の主題はなく、やはり一種の風景画であったという結論にいたるものもいる。

また第二の種類の考え方は、作者は最初男女ではなく、《二人の女》によってなにかを表現しようとしたが、後にこれを男と女に変えたのだ、というものである。それは蓋然性が高い考え方で、これにもとづくと、バッコスの誕生という線は消えてしまう。そして、2人の女性像、いっぽうは川に足を浸した女で、いっぽうは大地にいて子供を養っている女という二人の女性像からなる主題が重視されてくる。

そこで、この当時流行していた《二人の女》の対峙する図像を探ってみると、まず浮かびあがってくるのが、《二人のヴィーナス》という図像である。すでに第二回で扱ったティツィアーノの『聖なる愛と俗なる愛』は、ジョルジョーネと同門、同時代の画家がこの二人のヴィーナスによって地上的な愛と天上的な愛を象徴させたことがあきらかになっている。

一九九一年に出版されたマルセラン・プレイネという学者の『ジョルジョーネと二人のヴィーナス』(邦訳なし)という本はこういう考え方をしたもので、単独の女性像は天上的なヴィーナスで、大地に座って子供に乳をやっている女性は豊饒のヴィーナスだと考える。そうなると、女性が抱いている子供はクピドということになる。
……
ここで消えた女のことをまた考え直してみると、あるいは、作者ははじめから男と女を描くつもりで、ただ、最初に女を左側に描いてみただけであったかも知れないという推論が成り立つ。この場合には、女は最初から子供をもっている必要はなかったということになる。制作の過程で作者は左に男性を、右に女性をおくことにし、さらに女性を子供を抱いて表わした方がいいと考えたかも知れない。

最初から男女が考えられていたとする説のなかで、もっとも緻密な推論を組み立てたのが、サルヴァトール・セッティスという学者の唱えた《アダムとエヴァ》である(『解釈されたテンペスタ』邦訳なし)。 ……」
  1. 2019/06/07(金) 08:53:27|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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