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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(1)

ジョルジョ・ヴァザーリ著『ルネサンス画人伝』(白水社)は、三番目のピットーレ・ヴェネツィアーノ(ヴェネツィア画人)に偉大なるティツィアーノ・ヴェチェッリオ(1488/90ヴェーネトのピエーヴェ・ディ・カドーレ~1576.08.27ヴェネツィア)を挙げています。《他のだれよりもいちだんと腕の秀れているティツィアーノ》と書かれているようにヴァザーリはティツィアーノを非情に評価していたようです。
ジョルジョーネヴァザーリ著「……アンドレーア・グリッティが統領に選ばれた年には、彼の肖像画を描いたが、これが稀に見る逸品で、一枚の絵のなかに聖母と聖マルコと聖アンドレーアが、右の統領の顔とともにおさめられている。この絵はまったく驚嘆すべき作品だが評議会(コルレージョ)の部屋にかかっている。
ティツィアーノ画『アンドレーア・グリッティ像』[ティツィアーノ画『アンドレーア・グリッティ像』。サイトから借用] 彼はまた、前に言ったように、義務として統領たちの肖像を描かねばならなかったので、前記の肖像のほかに、当時の統領、ピエートロ・ランド、フランチェスコ・ドナート、マルカントーニオ・トレヴィザーノ、ヴェニエーロなどの肖像画を製作した。しかし二人の統領、パーウリ兄弟についてはもう非常な高齢であったから、その義務を免ぜられた。

現代でいちばん有名な詩人ピエートロ・アレティーノは、ローマ略奪(サッコ)の前にヴェネツィアに来たが、ティツィアーノやサンソヴィーノの親友となった。それはティツィアーノにとって非常に名誉なことであるばかりか、また実際上の役に立った。というのは、アレティーノの筆の及ぶ範囲なら、きわめて遠隔の地までもティツィアーノの名が知れ渡るようになったからで、特に有力な諸侯の間にこの画家の名はあまねく知られるようになったが、これについては後にまたふれる。
……
それからまもなく、コンタリーニ家の一貴族のために実に美しいキリストを描いた。このキリストはクレオバとルカと一緒に卓に坐っているので、コンタリーニ家の貴族は、『これは公衆の面前に置かれるだけの価値がある』と思い、また実際その通りなのだから、政庁(シニョリーア)に寄付した。これも祖国を愛する公共精神の発露である。この絵は長いこと統領の部屋に飾られてあったが、いまではみなの目にふれる場所、すなわち十人会議堂の前の金の小部屋の扉口の上にかけてある。

これと同じ頃にサンタ・マリーア・デラ・カリタの会堂(スクオーラ)のために、寺の階段を登る聖母の図が描かれた。ここにはありとあらゆる種類の肖像画も描かれている。同様にサン・ファンティーノの会堂のために、悔悛する聖ヒエロニムスを一枚描いた。これは画工たちの賞讃の的であったが、二年前に、その寺院もろとも火事で焼失した。
……
……ミケランジェロはかなりいろいろと批判して、こう言った。『ティツィアーノの色彩も様式も私の気に入ったが、しかしヴェネツィアでは、まず最初にデッサンをよく学ぶということをしない。これは残念なことだ。ヴェネツィアの画家たちは勉強の仕方をもっと改善することもできように、その点が惜しまれる。もしあの男が、あれだけ天賦の才があるのだから、技術を磨きデッサンで進歩したら、とくに実物を描写する訓練をしたら、もう匹敵する男はいないであろう。ティツィアーノは実に美しい精神の持主だし、実に愛らしく潑剌とした様式をもっている。』

これはまことにもっともな説で、デッサンをしっかりやらず、古代や近代の作品を選んで研鑽をつまなかった者は、当然のことながら、技倆がうまくないし、また実物をそのまま写した物に手加減をくわえることができない。自然というものは、通常美しくない部分を仕上げるためには役立つが、実物をそのまま写しとった物に、あの完璧な優雅さを与えるもの、それが自然とは次元を異にした芸(げい)というものなのである。
……
これらの作品に見られるティツィアーノの手法は、実のところ、若かりし日の彼の手法とはかなり違ったもので、青年時代の作品には、洗練された信じがたいほどの入念さで仕事がしてあったから、近くから眺めることにも遠くから見ることにも耐えるが、最近の作品は、大まかに、一気呵成に、斑点でもって描いてあるから、近くから見るとなんのことかわけがわからない。ところが、離れて見ると完璧な姿が浮かびあがってくる。

これが原因で大勢の者がこの真似をしだす。実際やってみると、つまらぬ下手な絵ばかり出来あがる。というのは結局、こうした絵が労せずして描けると思うのがそもそも間違いなので、実際はなんどもなんども筆を加え、その上に色を何回も塗っている。だからよく見ればその辛苦のさまもわかろうというものである。というわけで、こうした手法は思慮分別をもって行えば、美しい上に人を驚かせもする。なぜかといえば、絵は生き生きと目に映じ労せずして出来あがったかと思わせるほどの、すばらしい技術をもっているからである。
……
こうしてティツィアーノは素晴らしい絵画の数々でヴェネツィアもイタリアもまた世界のほかの国々をも飾りたてたわけだから、画工たちから愛され尊敬されるだけのことはあるので、いくらほめてもほめたりない作品を作った人として、いや、いまも作りつつある人として、多くの点で讃美され模倣もされている。その作品は、有名な人々の名が後世に記憶される限りは、長く長く伝えられるであろう。

大勢の人々がティツィアーノについて学ぼうとしたが、しかしいま、真に彼の弟子といえそうな人の数は実は案外多くない。というのもティツィアーノはあまり多くを教えないからで、弟子は、ティツィアーノ作品から学び取れるところを多かれ少なかれ各自勝手に学び取っていたようだ。 ……」 (平川祐弘訳)
  1. 2019/07/26(金) 09:17:05|
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ジョヴァンニ・ベッリーニ(3)

ジョヴァンニの絵画は、前回の《生涯》で明確なようにアッカデーミア美術館には多数保管されています。例えば次のように美術館図録に色々提示されています。
『アッカデーミア美術館』カタログ玉座の聖母子幸運の寓意[左、アッカデーミア美術館図録、中、『聖ヨブの祭壇画』、右、『気紛れな幸運の寓意』《寓意画》5点の内の1枚]  『聖ヨブの祭壇画』について、美術館図録等は次のような事を述べています――元はヴェネツィアのサン・ジョッベ(聖ヨブ)教会の右側のピエートロ・ロンバルドの第二祭壇に架けられていた祭壇画で、1815年教会から購入されたもの。玉座に座す聖母子の両側には、聖フランチェスコ(Francesco)、洗礼者聖ヨハネ(Giovanni Battista)、裸の聖ヨブ(Giobbe)。右側には聖ドミニクス(Domenico)、運動家、射手、兵士の守護聖人聖セバスティアヌス(Sebastiano)、トゥールーズの司教聖ルイ(Ludovico)。聖母足下には奏楽の天使達と配置されています。上部が切断された板絵のようです。
アカデミア展2アカデミア展図録[国立新美術館で2016.07.13~2016.10.10日行われた『ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち』展で来日したイタリア・ルネサンス絵画、その絵画を表紙にした図録。左表1、ティツィアーノ・ヴェチェッリオの『受胎告知』(サン・サルヴァドール教会蔵)、右表4、ジョヴァンニ・ベッリーニの『聖母子』(アッカデーミア美術館蔵)]  展覧会図録はジョヴァンニ・ベッリーニの事を次のように紹介しています。
「15世紀ヴェネツィア派最大の巨匠。出生に関しては明らかになっていないが、従来ヤコポ・ベッリーニの息子で、ジェンティーレ・ベッリーニの弟とされてきた。生年についても1425年から1440年まで諸説ある。近年、資料の再解釈に基づいて、ジョヴァンニはヤコポの年の離れた異母弟であるという新説が提起されており、同説に従えばジョヴァンニの生年は1424年から1428年のあいだ、ということになる。いずれにせよ、画家ジョヴァンニははじめヤコポの工房で修業し、また、マンテーニャの彫刻的な造形表現から大きな影響を受けた。

その後、ピエロ・デッラ・フランチェスカ、アントネッロ・ダ・メッシーナ、さらに北方絵画からも様々な要素を摂取し、色彩豊かな独自の様式を成熟させていく。初期から聖母子やピエタの主題を数多く制作し、背景に詩情豊かな自然風景を採り入れた。また《サン・ジョッベ祭壇画》(アッカデーミア美術館)に代表される単一画面の大型祭壇画において、祭壇画枠と祭壇画内の建築モティーフを一致させ、ヴェネツィア型の『聖会話』形式を確立した。

15世紀末からヴェネツィアで最大の工房を経営しており、次世代を代表するジョルジョーネ、ティツィアーノ、セバスティアーノ・デル・ピオンボらは、おそらく初期にベッリーニの工房で学んでいる。」
サン・ザッカリーアのベッリーニ[サイトから借用] サン・ザッカリーア教会のジョヴァンニ・ベッリーニの祭壇画『サン・ザッカリーア祭壇画』は聖母子と4聖人と奏楽の1天使ですが、4聖人とは左から十二使徒の一人ペテロという名のシモン(Simone detto Pietro)、アレクサンドリアの聖カタリナ(Caterina d'Alessandria)、聖ルキア(Lucia)、聖ヒエロニムス(Girolamo)です。

初めてこの教会を訪れた時、ベッリーニの祭壇画の前は能く観賞出来るようにvotivoの明かりが点いて、沢山の子供達(中学生?)が女教師の説明を聞いていました。その言葉は仏語でした。隣国仏国からも修学旅行のように勉強に来るのだと思ったことでした。付き添いの母親らしき年配の夫人も何人かありました。しかし最初に思った事は、宿泊費が高いヴェネツィアにも勉強とあればやって来るのだと。

後で気付いたのは、修道院宿舎が格安で借りれるということです。語学学校で知り合ったスペイン人アナは、修道院が経営する女子のみ対象の宿舎を借りていましたが、我々にはヴェネツィアでは考えられない値段でした。ヴェネツィアで知り合ったフィレンツェのソーニア夫婦も修道院で、門限は厳しいけれどヴェネツィアの馬鹿高い宿の宿泊費からは免れていると言っていました。

別の機会に、このベッリーニ後期の傑作の前に行くと、英国の絵画のサークルの何人かが摸写をしていました。ヴェネツィアの教会が有料になっていく趨勢の中、こんな風に《傑作》を自由に鑑賞出来る教会が残っていることは有難いことでした。
  1. 2019/07/19(金) 03:55:32|
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ジョヴァンニ・ベッリーニ(2)

マルチェッロ・ブルゼガーン著『ヴェネツィア人物事典』(Newton Compton Editori)は、ジョヴァンニの人生について次のように紹介しています。
『ヴェネツィア人物事典』「 画家(ca1432年ヴェネツィア~1516.11.26ヴェネツィア)
世界的な芸術の大立者の一人であった。ジャンベッリーニと呼称されたジョヴァンニ・ベッリーニの人生と絵画活動の軌跡を正確に再構成することは、年代的ニュース不足のため(1500年代のジョルジョ・ヴァザーリの提供したニュースがあっても)、正確な年記のある作品は彼の生涯の晩年に集中しているため、簡単ではない。しかもその時期は様式的な評価が工房への注文多数のため、より難しくなっていた時期だった。

彼が生まれたのは1432年頃と仮定する。画家ヤーコポの息子の、やはり画家のジェンティーレの弟。父の工房で60年代か70年代に画家活動を開始。しかし独立は早く、非常に活動的な工房のキャップとして1515年まで活動する。義兄アンドレーア・マンテーニャの古代文化のメッセージに感動し、アントネッロ・ダ・メッスィーナの実験に注目し、ジョヴァンニは洗練された画法と文化的に深みのある、堅実な語法で描くことを知った。

1490年代に始まる後期の活動の中で、ヴェネツィアの数多くの教会に欠くことの出来ない重要な大祭壇画に、また、この作家は死の推定年の2年前の1514年、フェッラーラ公アルフォンソ・デステのための有名な作品『Festino degli dei(神々の祝宴)』が例証するように、世俗作品を含めて他の宗教作品以外にも、興味を広げていった。それは、芸術史の中でも大変重要なものであった。

即ち、光の研究、風景の効能、厚い人間性の表現を中心に据え、65年に及ぶ芸術的精進で、彼はヴェーネト絵画を彼の世代に典型的で地域的な後進性から、ルネサンス芸術の前衛にまで押し上げたのだった。

ヴェネツィアの教会や美術館に現存する作品は多い。中でもマドンナ・デッロルト教会に1475年の『Madonna col Bambino(聖母子)』、サンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ教会のサン・ヴィンチェンツォ・フェッレーリの多翼祭壇画(1464~68年、板に描かれた9枚のテンペラ画)、サン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャ教会の1507年の『Madonna col Bambino benedicente, quattro santi e donatore(祝福された聖母子、4聖人と寄贈者)』、

サン・ジョヴァンニ・グリゾーストモ教会の1513年の『Santi Cristoforo, Gerolamo e Agostino(聖クリストフォルスと聖ヒエロニムス、聖アウグストゥス)』、サン・ザッカリーア教会の1505年の『Madonna in trono con il Bambino e santi(玉座の聖母子と聖人達)』、サンタ・マリーア・グロリオーザ・デイ・フラーリ教会のフラーリの三幅対祭壇画(1488年に板に描かれた3点の油彩画)、

市立コッレール美術館の1445~50年推定の『Crocifissione(十字架上のキリスト)』、同じく1455年の『Trasfigurazione(キリストの変容)』、1460年の『Cristo morto sorretto da due angeli(二人の天使に支えられた死せるキリスト)』、1460~64年の『Madonna col Bambino』、1475年の『Santo Coronato d'alloro(月桂冠を被った聖人)』、

クェリーニ・スタンパーリア財団の1460~64年の『Presentazione di Gesù al tempio(イエスの奉献)』と1516年の『Madonna col Bambino benedicente e san Giovanni Battista(祝福された聖母子と洗礼者聖ヨハネ)』、

アッカデーミア美術館の1450年の『Sant'Orsola con le compagne e monaca committente(聖ウルスラと侍女達、注文者修道女)』、1460~64年の『Madonna col Bambino benedicente(祝福された聖母子)』、サンタ・マリーア・デッラ・カリタの三幅対祭壇画(1460~64年に板に描かれた4点のテンペラ画)、サン・ロレンツォの三幅対祭壇画(1460~64年に板に描かれた4点のテンペラ画)、ナティヴィタの三幅対祭壇画(1460~64年に板に描かれた4点のテンペラ画)、マドンナの三幅対祭壇画(1460~65年に板に描かれた4点のテンペラ画)、

更に、1475~80年の『Madonna col Bambino benedicente』、1487年の『Madonna col Bambino, sei santi e angeli musici(聖母子と6聖人、奏楽の天使達)』、1487年の『Madonna col Bambino』、1480~90年と推定される『Madonna col Bambino e cherubini(聖母子と智天使達)』、

ヴィンチェンツォ・カテーナ(Vincenzo Catena)の所謂“restelo(熊手)”(1490年に板に描かれた4点の油彩画)、1490~1500年と推定される『Madonna col Bambino e i santi Paolo e Giorgio(聖母子と聖パウロと聖ゲオルギウス)』、

サンタ・マリーア・デイ・ミラーコリ教会のオルガンの扉(1500年の2点の画布に油彩)、1500~02年の『Testa del Redentore(救世主の頭)』の断片、1500~04年の『Madonna col Bambino, san Giovanni Battista e una santa(聖母子と洗礼者聖ヨハネと聖女)』、1505年の『Cristo morto in grembo alla Madonna(聖母の膝に抱かれた死せるキリスト)』と1515年の『Deposizione dalla croce(キリスト降架)』。 」
  1. 2019/07/12(金) 00:13:59|
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ジョヴァンニ・ベッリーニ(1)

ジョルジョ・ヴァザーリ著『ルネサンス画人伝』(白水社)の《ベリーニ》の項、最後の人はジョヴァンニです。ヴァザーリの紹介は次のようです。
ジョルジョーネヴァザーリ著「……ジョヴァンニのほうはジョヴァンニのほうで、前述のヴィヴァリーニのあとをうけて、四枚の物語絵にかかり始めた。最初の絵では、サン・マルコ寺において、足を差し出し、フリードリヒ・バルバロッサに接吻させている法王を描いている。サン・マルコ寺が、まさにあるがままに描写されている。いずれにしても、この第一の物語は生き生きと仕上げられた比類のない作品で、あのすぐれたティツィアーノをも凌駕している。

ジョヴァンニは物語をさらに続けて、次の絵ではサン・マルコ寺でミサを主宰する法王を描く。法王は皇帝と統領との間にあって、ある期間、特に昇天祭の時期にこの寺院を訪れる人々に対し、大赦と神の永遠の慈悲とを授けている。寺院の内部が描かれ、法王は聖座にあって、聖歌壇から出て階段をおりている。これをたくさんの枢機卿と貴族が取り巻いている。これらの人々がいるために、作品は豊饒な美しい物語となっている。

その下にある別の絵では、法王は法王衣をつけ、まず皇帝に傘を一本、その後に統領に一本与え、自身には二本捧げもたせている。ジョヴァンニの描いた最後の作品では、法王アレクサンデルと皇帝と統領がローマに到着する光景が見られる。城門の外で、ローマの僧侶および市民によって、八本の色とりどりの旗と銀製のトランペットが統領に披露され、統領およびその後継者代々の印として贈呈される。

ここで、ジョヴァンニはローマをやや遠景からの遠近法でとらえており、多数の馬、立っている数えきれぬほどの人々、立ち並ぶ無数の幟旗、その他にサンタンジェロ城の上での歓迎さわぎの様子を描き込んでいる。
……
心から兄を愛してやまなかったジョヴァンニは、ジェンティーレ亡きあとも生き長らえ、老齢にもめげず、なんらかの仕事を続けつつ時を過ごした。もっぱら肖像画ばかり描いていたから、その結果、人々がこの町でなにがしかの地位を得るようになれば、彼にばかりでなく他の画家にも肖像を描かせる風習の口火となった。そのためにヴェネツィアの各屋敷には肖像画があふれ、貴顕の家には、父、祖父さらには四代先までの肖像画が見られる。

もっと身分があがると、さらに先の代まで描かれている。このような習慣は当然賞讃してよく、古典古代においてもそうであった。先祖の授かった位階勲等の他に、その肖像を眺めて満足にひたらない人がいようか。しかもその先祖が、共和国の政治、戦争、あるいは平和に対する貢献、文芸その他における才能などによって著名であった人々であってみればなおさらではあるまいか。

別のところで述べたように、古代人は偉大な人物の肖像を公共の場所におき、碑文を彫って偉大さをたたえた。その意図は、後世の人々の心を栄誉と才能に向かって燃え立たせる以外にあり得ないだろう。

ところでジョヴァンニは、レオ十世に伺候すべくローマへ出向く前のピエートロ・ベンボのために、その愛人の肖像をまことに生き生きと、いかにもジョヴァンニらしい筆づかいで描き上げている。シエーナ人シモーネ・マルティーニが若きフィレンツェ人ペトラルカによって詩句にうたわれたように、このヴェネツィア人ベンボによって、ジョヴァンニは、《天上に在るかのごとき清らなるわが絵姿よ》というソネットでたたえられている。 ……」

[上記のフリードリヒ1世バルバロッサ(赤鬚王)と教皇アレクサンデル3世の仲を取り持った総督セバスティアーノ・ズィアーニの話については、2010.04.24日のブログアッカデーミア美術館が興味深いと思われます。]
  1. 2019/07/05(金) 03:37:18|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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