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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアのトランスジェンダー(性同一性障害者)

ヴェネツィアに《Tete(伊語tette乳房)》橋という不思議な名前の橋があることは知る人とぞ知るですが、この橋の奥のカ・ボッラーニ小広場を中心に近辺はかつては赤線地帯だったそうです。ヴェネツィア共和国は他の共和国と異なり、国民皆兵制だったので国民の男子の数の減少を大変怖れました。男色等もっての外で、政庁は娼婦に乳房を露にして男の気を惹くことを求めました。それが橋の名の由来だそうです。
Tete橋[この橋の奥がカ・ボッラーニのコルテ]  このヴェネツィア遊郭については、2008.06.27日のカランパーネ埋立通りや2018.03.26日の街案内(32)で触れています。伊語の“carampana”[身形のだらしない女]はこの事から始まったようです。

ヴェネツィアの新聞Il Gazzettino紙に次のような記事が掲載されていました。
ロランディーナ「 ロランディーナ・ロンカーリャ
完璧に一人の女であるためには、彼女にはただ一つの事が足りなかった。身体全ての外観――胸から優しそうな目鼻立ち、体付きから声まで――彼女とベッドを共にした全ての男達は、実はロランディーナ・ロンカーリャが男として誕生したことに気付かなかったほど、彼女の人となりの中に溢れんばかりの女らしさを感じていた。

現代史の中で最初のトランスジェンダー(性同一性障害者)として知られ、彼女の存在はその事件簿の判決主文が述べるドキュメントで証明された。

何故なら彼女が見付かった時、人生の終りは芳しくなかったのである。1300年代彼女が生き、火刑台に送られた時は一人のトランスジェンダーの問題ではなく、この事以上に1348年のペストの蔓延は殆どが、町が冒した罪故とされ、その中には所謂男色の罪も含まれていたからである。

しかしロランディーノがまだ男装だった頃は、“正常な”生活を送るよう色々試みていた。ロンカーリャで生まれた(当時よくあったように、姓として生地の地名を採用した)ので、パードヴァ人としてその地方の娘と結婚した。しかし――ヴェネツィア共和国の古文書館に保存されていた“犯罪者係の夜の紳士(夜警Signori dele notte)”の判決文から抽出された、その認定で――彼の妻が1348年のペストの流行期間中死ぬその前には、逸早く彼と別れたほど二人の関係を持続することは最早出来なかったのである。

パードヴァに引っ越したのはその時であった。多分田舎での陰口を避けようとしてか、両親の家に居住するためか。しかしここでも男装をしていても、態度や表情、女性的な自然の優しさを露呈する物腰を抑えることは出来なかった。その時点で多くの人が男物の服装をする女として、彼女を思い込むようになり始めた。

ある夜、転換点が訪れた。家の客人であるある男が、“カレは女であると思い込んで”彼女をこっそりベッドに招き入れた(判決理由から読み解けるように)。そして誰にも気付かれず、彼女と関係を結んだ。

ロランディーナにとって一つの天啓であり、解放であった。その時以後、自身が女の役をすると決め、《女であると考えることを望み》――言い換えれば、深く女であると感じること――少し後に(そして彼[女]の本質を知らない男達との関係の体験後)、ヴェネツィアに移り、女装を始めた。その時から全ての人々にとって、カレはロランディーナ(Rolandino→Rolandina)となった。

昼間は籠を持ってリアルトを歩き回り、卵を売り歩き、時に夜は――あまり売れなくて(何故売春するのかと“夜の紳士(夜警)”の質問に“金を稼がねばならないので”と簡単に答えた)――同じ通りを進みながら、この地域で10件もの売春で体を提供した。

寧ろ売春の方が頻繁だった。そして誰も、身を売るデリケートではにかみ屋のこの娘が、正確には娼婦達の一人ではなく、実際には男である、とは気付かなかった。客と居る時、ロランディーナは非常に用心深く、恥骨の上に帯をして、彼女の双成りが露見しないようにして、“Stua(=伊語Stufa)”(リアルトにあった沢山の公衆浴場の一つ)でお客を洗ってやったり、ベッドを共にした。

しかし長くそれを続けることは危険だったが、約7年間のことであった。その後ロランディーナは見付かってしまったからである。歴史的にはセレニッスィマは性にはかなり寛容であったが、男色――特にホモセクシャルに繋がるもの――は火刑に値するのであった。そして町ロンカーリャを汚した重大犯罪であり(1354年3月20日取り調べ中、男子名“Rolandino”に帰り、その間手を背後に繋がれて持ち上げられていた)、それは火で浄化すべき大罪であった。

1354年3月28日ヨーロッパの現代史で、男装で知られた最初のトランスジェンダーは、総督アンドレーア・ダンドロの前に引き出され、総督は彼(女)の自白を認めた。同日裁判官ジョヴァンニ・ニコロ・ロッソとダニエーレ・コルナーロの下で焚刑に処すと死刑を言い渡された。 」
Processo-a-Rolandinaこの話を書いた Marco Salvador著『Processo a Rolandina(ロランディーナ裁判)――La storia vera di una transgender condannata al rogo nella Venezia del XIV secolo』(Fernandel Editore)という本が出版されています。
  1. 2019/08/29(木) 03:07:03|
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ヴェネツィアの賭博

かつてヴェネツィアで街歩きをしている時、サン・ポーロ区の流れから外れた静かな通りで、5、6人の男達が何かを取り囲むように立っていました。怖いもの見たさにちらちら見ると輪の中心に一人の男がカードを地面に張って、その度にドスの利いた声が周りから掛かります。賭博のようでした。見てはならないものを見ない振りしてゆっくり通り過ぎました。どういう展開になるか気になるところでした。

ヴェネツィアのハリーズ・バールがあるヴァッラレッソ通り(Cl. del Vallaresso)の左側にヴァッラレッソ・エーリッツォ館があり、E.&W. エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のような事を記述しています。
ホテル・モナコ他「装飾もない簡素な建物。現在はホテル・モーナコである。リドット・グランデの庭があった跡地に19世紀に建てられた建物。かつてRidotto Grande があって、1638~1774年間続いた公共の賭博場であった。」

アルベルト・トーゾ・フェーイ(Alberto Toso Fei)は『大運河の秘密(I Segreti del Canal Grande)』(Studio LT2、2010)の中でヴェネツィア人の賭博について紹介しています。
「古くは、賭博が許容されていたのは、サン・マルコ小広場の2本の円柱の間でだけであった。いずれにしても何世紀もの間に色々の禁令が発せられた。
[リアルトの木造の橋の建造者、Nicolò Barattieroは、オリエントから到来したサン・マルコ小広場の2本の円柱を今見るように立柱したことで知られていますが、そのご褒美にその2本の柱の間で、禁じられていた賭博をしてもよしというお墨付きを政庁から貰いました。総督セバスティアーノ・ズィアーニ(在位、1172~78)時代の事です。賭け事が好きだったようです。]

1254年: サン・マルコ寺院入口柱廊やファサード下のアーケイドでの賭博禁止。その後には、総督宮殿中庭や大評議会会議場周辺での賭博禁止。
1266年: 総督宮殿内では、総督の側近ら全員の賭博禁止。
1292年: 唯一許された遊びはチェスと二人でする西洋双六(バックギャモン)。全ての非合法の行為には25リラという罰金が科せられた。
1506~39年: 十人委員会は、excepto schachi, arco, balestra et ballo(チェス、弓、弩弓、舞踊以外)全ての遊戯を禁止した。
1600年代初頭: 政府は賭け事の蔓延を黙過出来ず、カーニヴァル中に限り[10月末からMartedì grasso(カーニヴァル最終日)まで]許可することになった。
1638年: 貴族マルコ・ダンドロがヴァラレッソ通り(Cl. del Valaresso)に公共の賭場 Ridotto Grande(リドット・グランデ)を開くことの認可を得た。《Ridotto(休憩場)》という言葉はこの種の建物の内部のしっくい装飾と共にあり、何年か前まで劇場で使用されていた。
グアルディ『リドット』. 『ヴェネツィアのリドット』賭場の胴元[『ヴェネツィアのリドット』(左、フランチェスコ・グァルディ、中・右、ピエートロ・ロンギ)。ウィキペディアから借用]   ここ Ridotto Grande にはジャーコモ・カザノーヴァが身内同然に出入りしていた。デンマーク王フレデリク(Federico)4世は、1708年当地滞在中――他の賭博者同様にマスクを被って――ある貴族から莫大な額の賭金を勝ったと言われている。正に大物然とした態度ながら、しかし立ち上がろうとした時、無様な振りをして、王は記録紙や賭け金などの載ったテーブルを引っ繰り返してしまった。そんな事をすれば全ては banco(胴元・親)の手に帰すことになる。」
  ――アルベルト・トーゾ・フェーイ著『大運河の秘密』より
カズィノ[読売新聞の囲み記事。2019.07.30]  この記事ですとヴェネツィアに公式“カジノ”が登場したのはやはり1638年のようです。ウィキペディアから“Casinò di Venezia”を訳してみます。
             
「ヴェネツィア最初の賭博場(世界最古)はサン・モイゼのリドット(Ridotto)で、1638年誕生した。1930年代末、リード島にカズィノ・ディ・ヴェネツィア(Casinò di Venezia)が出来た。1950年代にはチェントロ・ストーリコ(ヴェネツィア本島)のカ・ヴェンドラミーン・カレルジにも賭博場が開かれた。館は大運河に面しており、カズィノは現在も存続している。

1999年新しい賭場、カ・ノゲーラ(Ca' Noghera)が開店した。イタリアで初めてのアメリカ式のカズィノである。ヴェネツィアの二つのカズィノは町のチェントロ、大運河に面したヴェンドラミーン・カレルジ館であり、リヒャルト・ヴァグナーの最後の住処であった。そしてノゲーラ館はマルコ・ポーロ空港近くの5000m²の広さを有する近代建築である。」

現在、市の公式賭博場となっているヴェンドラミーン・カレルジ館の歴史については、2014.02.26日のブログヴェンドラミーン・カレルジ館で、またヴァーグナーについては2014.03.05日のヴェンドラミーン・カレルジ館2で触れました。尚、上記Nicolò Barattiero(ニコロ・バラッティエーロ、?~1181)について伊ウィキペディアは次のように書いています。

「イタリアの建築家兼技術者で、12世紀後半ヴェネツィアで活躍した。現代の歴史家は半ば伝説的人物と考えている。ロンバルディーア出身で、総督ヴィターレ・ミキエール2世(1156~72)統治下で、バルトロメーオ・マルファットと共にサン・マルコ鐘楼の一室を手掛けることでデビューした。その時木製の箱状の装置で物を巻き上げることの出来る滑車装置を考案した。それが塔の頂上まで物を運び上げることを容易にしたのである。
[この滑車の原理で、サン・マルコ小広場の2本の円柱を少しずつ起ち上げて立柱したのでしょうか?]

総督セバスティアーノ・ズィアーニ(1172~78)時代、暫く前、オリエントから運ばれて来て、サン・マルコ小広場に放置されていた2本の円柱を彼が立柱した(伝説によれば、陸揚げ中、潟に落ちた第三の円柱があるそうです)。年代記は告げている。結果が上出来だったので、ニコロはこの2本の円柱の間で賭場を開陳して良しとする認可を得た。彼の姓はそれに由来するとか。

2本の円柱の基礎部や柱頭を見ると、バラッティエーロのスタイルはビザンティン芸術の影響を受けていることが明らかである。ズィアーニと次の総督オーリオ・マストロピエーロ(1178~92)の統治下、木製だが、最初のリアルト橋を作った。それ以前はこの二つの河岸は船を並べた橋(ponte di barche―船橋)で繋がれていた。

彼は技術者、数学者、彫刻家として知られ、多くの優秀な弟子を育てた。」

この第三の円柱の捜索にヴェネツィアは動いているようです。2017.01.01日の次のブログをどうぞ。第三の円柱
  1. 2019/08/19(月) 09:23:24|
  2. ヴェネツィアの民俗
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ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(3)

ティツィアーノについては、最初イタリアのファブリ社の『世界名画集』の日本版(平凡社刊、1971年)で知りました。解説は辻茂で次のような事が書かれています。
ファブリ名画集「……ジョルジョーネの芸術を総括し、同時に、それを完全に自己のものとして消化した記念碑的な作品は、有名な、ボルゲーゼ美術館の『聖愛と俗愛』である。この寓意画の意味についてはさまざまの解釈があるにせよ、それは、ジョルジョーネが発見した自然的宇宙の中から発展させられた人間のドラマである。人間と自然の均衡の上に成立をみた、ヴェネツィア美術での最も完成した古典的様式を示している。

この作品の完成(1515年ごろ)からほどなくして注文を受け、1518年に完成奉献された『聖母昇天』は、自らの可能性をさらに拡大しようとする大胆な試みが結実した作品である。ヴェネツィアのサンタ・マリア・グロリオーサ・デイ・フラーリ聖堂(通称フラーリ)の主祭壇を飾り、高さ7メートルにちかい大作である。それはゴシック式大会堂の巨大な空間に拮抗して、渦を巻いて飛翔する動静が、そしてマリアの恍惚の姿勢が主要なモティーフであり、ゴシックに挑戦する、そして結果的に来たるべきバロックを先駆ける意欲的な青年期の記念碑である。

同聖堂には、やはりティツィアーノによる『カ・ペーザロ祭壇画』が置かれているが、1519年から26年の間に制作されたこの作品も、独創的な構図で注目される。すなわち、玉座を右側に、そして消失点を左方、画面の外に移して、これまでの古典的なピラミッド構図を放棄する。

しかしティツィアーノの特色は、このような構図の工夫にあるのではない。それは、どちらかといえば、フィレンツェ派におけるような空間研究の積み重ねによるのではなく、現実的な人間心理の描写から出発して定着をみる、はるかに感覚的な、動きの一齣として設定された空間である。

最も研究的な労作である『聖愛と俗愛』ならびに『聖母昇天』を頂点として、彼のこの感覚主義は、次第に、より自由なものに解き放たれていゆく。1518年から22年にかけて、描かれた、エステ家のアルフォンソの書斎を飾るための一連の神話的な寓意画(プラード美術館の『バッカス祭』『ヴィーナス祭』、ロンドン、ナショナル・ギャラリーの『バッカスとアリアドネ』など)は、このような傾向を明瞭に示している。

『聖愛と俗愛』を筆頭とする、このような異教的寓意画、ならびに、『聖母昇天』を筆頭とする教会のための聖壇画に、さらに肖像画が加わってティツィアーノの作品の3つのジャンルが形成される。」
……
そして、イタリアの画家―パルマ・イル・ヴェッキオ、ロレンツォ・ロット、ヤーコポ・バッサーノ、パーオロ・ヴェロネーゼ、ティントレット、また外国人画家グレコ、ルーベンス、ベラスケス、プッサン、ヴァン・ダイク、レンブラントらの名を挙げ、そして
「……ドラクロワの『日記』には、ティツィアーノの名は頻繁に現れて、彼の芸術にとって古典と新しさの二重の意味を負わされており、さらに時代が下れば、ルノワールに、最も新しい共鳴者を見いだしている。

このように、近代絵画へのルネサンスの伝統は、誰よりもまずテツィアーノによって代表され、生きながらえているのである。その最大の理由は、彼が、それまでの全芸術史を通じての最大の色彩画家であった点にあり、それは、具体的には、テンペラに代わって新たな素材として登場した油彩画のもつ可能性を、かつてなく大きく、また近代を先駆けるほどに深く、切り開いたことである。

色彩による視覚が、彫塑的形体の視覚とは別個に成立しうるどころか、それに充分とって代わりうる権限を示した、彼は最初の画家だったのである。 」

2001年に始まった《日本におけるイタリア年》で、来日したイタリア絵画の展覧会『イタリア・ルネサンス――宮廷と都市の文化』展以来、度々ヴェネツィア絵画が来日しました。その中には必ずと言っていいほどティツィアーノが含まれていました。列挙してみますと
ヴェネツィア絵画展図録『ヴェネツィア絵画のきらめき』ラムージオの肖像[『ジャンバッティスタ・ラムージオの肖像』]  『ヴェネツィア絵画のきらめき――栄光のルネサンスから華麗なる18世紀へ』図録(Bunkamuraザ・ミュージアム、2007年9月2日~10月25日)
ルネサンス・ヴェネツィア絵画受胎告知[『受胎告知』]  『ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち』図録(国立新美術館、2016年7月13日~10月10日)
ティツィアーノとヴェネツィア派ダナエ[『ダナエ』]  『ティツィアーノとヴェネツィア派展』図録(東京都美術館、2017年1月21日~4月2日)
ピエトロ・アレティーノの肖像『ティツィアーノ《ピエトロ・アレティーノの肖像》』(フランチェスコ・モッツェッティ著、越川倫明・松下真記訳、三元社、2001年11月15日)――この本は、ティツィアーノが描いたアレティーノの肖像画に纏わるアレティーノについて述べており、ティツィアーノについては、あまりありません。
  1. 2019/08/09(金) 04:39:51|
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ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(2)

(続き)
M. ブルゼガーン著『ヴェネツィア人物事典』((Newton Compton Editori)の紹介するティツィアーノ・ヴェチェッリオの生涯は、次のようです。
『ヴェネツィア人物事典』「 画家(1490ピエーヴェ・ディ・カドーレ~1576.08.27ヴェネツィア)
非常に若くして、最初セバスティアーノ・ツッカートの工房に入門するために、ヴェネツィアにやって来た。次いでジェンティーレ・ベッリーニとジョヴァンニ・ベッリーニの工房に移った。

彼の芸術のために重要だったのは、ジョルジョーネの影響を受けたことで、彼とは1508~09年ヴェネツィアのドイツ人商館(Fontego dei Tedeschi)ファサードのフレスコ画を描いたことであるが、残念なことに今日失われてしまった。

1510年幾つかの祭壇画の依頼を受けた。その中にはサン・マルコ寺院の『恍惚の聖マルコ(S. Marco in estasi)』祭壇画とマドンナ・デッラ・サルーテ教会の『玉座の聖マルコと聖コスマス、聖ダミアノス、聖ロクス、聖セバスティアヌス(S. Marco in trono con i santi Cosma e Damiano, Rocco e Sebastiano)』祭壇画。

1511年にはパードヴァのイル・サント同信会館のフレスコ画を描いた。1513年には教皇レオ10世にローマに招かれたが、ジョヴァンニ・ベッリーニの死に伴い、セレニッスィマの公式画家に選ばれたため、ヴェネツィアに留まることを選んだ。この間、当時の貴族のために世俗作品を数多く描いた。それらには、ルーヴルにある『田園の奏楽(Concerto campestre)』、グラスゴーにある『密通者(Adultera)』、ローマのボルゲーゼ美術館にある『聖愛と俗愛(Amor sacro e amor profano)』がある。
Tiziano_Assunta[『聖母被昇天』、サイトから借用]  この時期の傑作としては、1518年に完成したヴェネツィアのサンタ・マリーア・グロリオーザ・デイ・フラーリ教会の『聖母被昇天(Assunta)』がある。所謂『ペーザロ家祭壇画』と呼ばれ、1519~26年に描かれ、フラーリ教会で常に展示されていた。
[ドイツの作曲家リヒャルト・ヴァグナーは1861年11月、ティツィアーノの『Assunta』(当時はアッカデーミア美術館に置かれていたそうです)に大変感動し、《とても崇高な、美学的感動を覚えた……と、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の作曲することを決意した》ということです。]

1518年にはティツィアーノはデステ公アルフォンソ1世のために働き始め、公は“アラバスターの小部屋(書斎?)(camerino d'alabastro)”の装飾を彼に委ね、神話的主題を持つ3点の画布を遺した。即ち『ウェヌスの祝宴(Festa di Venere)』と『酒神バッコス祭(Baccanale)』(マドリードのプラド美術館蔵)、『バッコスとアリアドネー(Bacco e Arianna)』(ロンドンのナショナル・ギャラリー蔵)。

イタリアや外国の沢山の宮廷から、肖像画家として依頼され、彼が描いた肖像画は常に人物の性格を把握して、正に傑作となっていた。この点に関して、フェデリーコ・ゴンザーガや枢機卿イッポーリト・デイ・メーディチ、フランチェスコ・デッラ・ローヴェレ、フランソワ1世(Francesco I)、カール5世(Carlo V)の肖像画に結実したのであって、誇りに足ることであった。

彼の肖像画の自然な表現は、『聖母マリアの奉献(La Presentazione di Maria al Tempio)』の聖画作品や『ウルビーノのウェヌス(Venere di Urbino)』のような俗画作品でも証明される。次の時代には彼の芸術はミラーノのサンタ・マリーア・デッレ・グラーツィエ教会のために描いた『荊冠(Incoronazione di spine)』で一つの転換期を迎え、造形的そしてフォルムに関する要素が彩色に関するものに勝り始める。ティツィアーノが晩年に行きつくところ(様相)は『聖ラウレンティウスの殉教(Martirio di S. Lorenzo)が代表する。この作品は光と色が溶け込んだ構図で、閉じられた絵画的フォルムから開かれたフォルムへと発展しているのである。
カンナレージョ地図Tiziano-1Tiziano-2Tiziano-3[ティツィアーノの家はカンナレージョ区地図上欄外にティツィアーノとメモした下5183番地です。中左のプレートには《ティツィアーノ・ヴェチェッリオはここに45年間住み、1576年没した。ヴェネツィアは四百年記念にこれを置く》と。この小さな広場はティツィアーノ広場と命名されています。]  ティツィアーノは1576年8月27日、ペストの蔓延する中、ヴェネツィアで亡くなった。サンタ・マリーア・デイ・フラーリ教会に埋葬された。

上記の作品以外、ヴェネツィアではサン・マルコ寺院: 『聖ジェミニアーノ(S. Geminiano―モーデナ司教)』。マルチャーナ図書館: 『英知(Sapienza)』1559年。カ・ドーロ: 『ウェヌス(Venere)1555年。ジェズイーティ教会: 『聖ラウレンティウスの殉教(Il martirio di S. Lorenzo)』1548~49年。サン・ジョヴァンニ・エレモズィナリオ教会: 『施しをする聖ヨハネ(S. Giovanni Elemosinario)1545年。サン・リーオ教会: 『巡礼する使徒、聖ヤコブ(Sant'Jacopo apostolo pellegrino)』1547~48年。サン・マルクオーラ教会: 『聖アンデレと聖カテリナの間の幼きイエス(Cristo fanciullo tra i santi Andrea e Caterina)』。サン・マルツィアーレ教会: 『トビアスと天使(Tobiolo e l'angelo)1543年。

サルーテ教会: 『イサクの犠牲(Sacrificio di Isacco)』1542~44年、『カインはアベルを殺める(Caino uccide Abele)』1542~44年、『ダヴィデとゴリアテ(Davide e Golia)』1542~44年、『福音史家ヨハネ(L'evangelista Giovanni)』1542~44年、『福音史家ルカ(L'evangelista Luca)』1542~44年、『福音史家マルコ(L'evangelista Marco)』1542~44年、『福音史家マタイ(L'evangelista Matteo)』1542~44年、『聖グレゴリウス1世(S. Gregorio Magno―教皇)』1542~44年、『聖アンブロシウス(Sant'Ambrogio)』1542~44年、『聖アウグスティヌス(Sant'Agostino)』1542~44年、『聖ヒエロニムス(S. Gerolamo)』1542~44年、『聖霊降臨祭(La Pentecoste)』1555年。

サン・サルヴァドール(伊語―サルヴァトーレ)教会: 『キリストの変容(La trasfigurazione)』1560年、『受胎告知(L'Annunciazione)』1564年。サン・セバスティアーノ教会: 『バーリの聖ニコラウス(S. Nicolo di Bari―ミラの聖ニコーラとも称され、日本ではイタリアのサンタクロースとして知られています)』1563年。

アッカデーミア美術館: 『ユーディット(Giuditta)』フレスコ画、1508~09年、『巨人と怪獣の闘い(Combattimento di giganti e mostri)フレスコ画、1508~09年、『寓意(Allegoria)』フレスコ画、1508~09年、『ドラゴンと闘うプット(Combattimento di un putto con un drago)』フレスコ画、1508~09年、『トビアスと天使(Tobiolo e l'angelo)』1511年頃、『聖母マリアの奉献(La presentazione di Maria al Tempio)1534~38年、『洗礼者聖ヨハネ(S. Giovanni Battista)』1542年、『ピエタ(Pietà)』1570~76年。

総督宮殿: 『カルザの仲間(Compagno della Calza)』フレスコ画、1508~09年、『聖母子と2人の天使(Madonna col Bambino e due angeli)』1519年、『聖クリストポルス(S. Cristoforo)』フレスコ画、1523年、『信仰の前で跪く総督アントーニオ・グリマーニ(Il doge Antonio Grimani inginocchiato davanti alla Fede)』1555~76年。サン・ロッコ大同信会館: 『キリストと悪党(Cristo e il manigoldo)』1512年、『受胎告知(L'Annunciazione)』1540年。 」
[直ぐ上の“Compagno della Calza(カルザ)”とは、当時ヴェネツィア貴族の若者達がこの名のグループを作り、町の活性化、ヴェネツィアを楽しくするために活動していたそうです。その伝統を受け継いだ現代の人達が、“Compagnia de Calza 《i Antichi》”と同じ名前でヴェネツィアを活性化しています。カーニヴァル中は多分最大の活躍時期で、何度かヴェネツィアに居たこの時期、このグループのカザノーヴァ劇など楽しませて頂きました。]
  1. 2019/08/02(金) 04:51:29|
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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