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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

運河の閘門

先日TVで、押上から屋形船で船旅をして小名木川の扇橋閘門などを巡るツアーの紹介をしていましたが、この扇橋閘門をパナマ方式と称していました。私自身はこの閘門をまだ見ていないのですが、日本にもこれが存在することを知りました。早速色々のサイトをクリックして情報を探索してみました。
扇橋閘門 一の口水門[左、扇橋閘門、右、一の口水門。両者サイトから借用]  サントリーの水大事典によりますと、運河を制御する技術にはロック(閘門)方式、インクライン方式、リフト方式の三つがあり、産業革命で運河が急速に発展したイギリスでこれらは考案された、のだそうです。しかし《紀行歴史遊学》というサイトによりますと、倉敷市船穂町水江に一の口水門というのがあり、閘門方式の運河だそうです。築かれたのは正保二年(1645年)に築かれたものだから、産業革命やパナマ運河より250年も前で、世界最古のものが日本に存在すると書かれています。その原理は産業革命ではなく、日本人の発明のようです。

私がヴェネツィアに行った時、ブレンタ川沿いにヴェネツィア貴族達が避寒避暑用に豪奢な館を建てているのをブルキエッロ号という遊覧船で、見学に行ったことがありました(アンドレーア・パッラーディオらの素晴らしい建築があります)。ヴェネツィア政府はブレンタ川が土砂をラグーナに流し込み、潟が陸地化することを恐れて[潟は城の堀の役割をしました]、ブレンタ川は運河化し、本流はキオッジャの南、直接アドリア海に注ぐように水路変更の工事をしました。ですから、運河は幾つかの閘門があり水の流れは殆どないように思われます。

ブルキエッロ号はフジーナからブレンタ運河を遡っていきます。暫くして最初の閘門(chiusa)モランザーニがあります。その時案内説明の人がその閘門をレオナルド・ダ・ヴィンチの考案によるものだと説明しました。船は幾つかの閘門(3基あります)を経、美しい館に入館するために客達は上陸したりして船は進みます。終着駅はストラ(Stra)で、豪壮なヴィッラ・ピザーニの前に停泊します。ここにはダンヌンツィオの小説にも描かれた有名な庭園の迷路があります。ヴェネツィアがゴールのヴェニス・マラソンはピザーニ館前が出発点です。

閘門はミラーノのナヴィリオ運河のためにダ・ヴィンチが考案したのだそうです。それが非常に便利だとして、ブレンタ川でも採用されたのでしょう。モーツァルトは少年時代ヴェネツィアを後にした時はブレンタ運河の船旅だったそうです。日本人にとって忘れられないのは、天正の遣欧少年使節が挙げられます。使節達はヴェネツィアを後にしてパードヴァに向かう時、この水路を利用したのでした。イエズス会の巡察師となり、少年達をローマに送ったアレッサンドロ・ヴァリニャーノは、青年時代パードヴァで学んだ故なのか、次のように閘門について詳しいのです。
モランザーニ閘門[モランザーニ閘門周辺、サイトから借用]  その著『デ・サンデ版 天正遣歐使節記』(1590年マカオ刊、新異国叢書5、泉井久之助、長澤信壽、三谷昇二、角南一郎訳、雄松堂書店、昭和44年9月30日)は、モランザーニ閘門の構造を:
「……一種の貯水池を設け……水門を利用して……水を貯め……それを放流するようにしつらえ、船が下流から上がって来ると、このところで一定の仕切りの中に入れ、水門を閉じて徐々に水を入れて水位を高め、それが上流の水位と一致するまでになると、船は平らな水面を上流に向って送り出され、反対に上流から来た船は水をいっぱいにした仕切りの中に入れられ、水門を開きつつ徐々に水を放出して水面を下げ、これに応じて次第に高度を下げた船は、下流の流れと水面が一致したとき下流にむけて送り出される……」としているように、使節達は船でパードヴァに向かったのでした。

ブレンタ運河のモランザーニ閘門を天正遣欧使節が通ったのは1585年ですから、倉敷市の一の口水門の築かれた1645年より更に60年古いです。閘門の構造原理はモランザーニ閘門もパナマ運河も同じと思われます。レオナルド・ダ・ヴィンチという言葉をそれらの文中に見かけませんが、何か違うということなんでしょうか。
  1. 2019/09/29(日) 12:36:33|
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フラ・マーウロ(マーウロ修道士)

カマルドリ会修道士でマーウロ僧という人がヴェネツィアにありました。マルチェッロ・ブルゼガーン著『ヴェネツィアの神話と伝説』(Newton Compton editori)に《ルチーフェロから夢を盗んだ僧》というお話が載っています。ルチーフェロとは魔王サタンが神に反逆して堕天使となる前の名前だそうです。
Marcello Brusegan『ヴェネツィアの神話と伝説』「ヴェネツィアのサン・ミケーレ島(今日、市の墓地)の修道院で長い年月修行し、色々の必需備品を備えた自分の工房で、中世地図学の最大の功績として仕上げられたもの、それは有名な巨大な平面球形図であるが、その製作者カマルドリ会修道士のマーウロ会士についてはあまり知られていない。

彼自身、彼の姓も生涯も知られておらず、神話的で伝説となった絵が残されたのである。地図製作者、地理学者としての自分の仕事に相当な認識を持っていたので、彼自身が存命中にも拘わらず、彼の名誉のために正にメダルに鋳造され、ヴェネツィア当局が“比類なき天地学研究者”の称号を授けたということは確かなことなのである。ブレンタ川の水流を転換する研究をする水理委員会にも参加した。1459年、年老いての永眠であった。

彼の地図工房では熟練した協力者の手助けがあり、特に彼が直接接触した船乗りや旅行者のニュースや話のお陰で、驚くべき世界地図を描き、今日、国立マルチャーナ図書館に保管されている。

しかし貧しい僧侶であったように、旅をしたこともなく、常にサン・ミケーレ修道院に籠り、自分の地図を描いていたのであろうか? 伝説の影響下にあるその答えは、彼は夢に描いた自分の地図の線を引くことが出来たということである。しかし注意しなくてはならない。彼自身の夢ではない。ルチーフェロ自身のものであった。[ルチーフェロ(ルシフェルとも)とはサタンと同一視される反逆天使の名]

事実僧は、自分の島の上の悪魔(ルチーフェロ)の夢を集中させる特殊能力の持ち主で、空が特に曇っている時、その夢を雲に投影させることが出来た。それ故、フラ・マーウロは夢を制御する法を見出して、夢を通して、当時殆ど知られていなかった世界の果て(境界)を知る法を発見し、嵐の続く時化の時、雲に映える周辺部や色調を読むことが出来た。 」

マーウロ修道士については、2010.12.25日の修道士マウロの地図で触れました。ジェイムズ・カウアンがフラ・マウロを主人公に書いたフィクションです。彼の世界地図(Il mappamondo di Fra Mauro)とはどんなものでしょうか?
修道士マウロフラ・マウロの世界地図[マーウロ修道士の像と地図。実際は北は下に描かれているそうです(ここでは判り易く天地逆に――Wikipedia《Fra Mauro》のサイトから借用)
「国立マルチャーナ図書館の古いサン・マルコ図書室に向かう連絡通路の階段の第2セクションの右上に際立つのは、中世地図学の最大の記念碑の一つ、カマルドリ会修道会士マーウロ僧の堂々たる世界地図(mappamondo)である。平面球形図(東西は大きい196cm、北南はより小さい193cm。平面は少々省略した形の)は、情熱的な地図製作者と彼の協力者によって、今日市立墓地である島、サン・ミケーレ島の修道院の静寂の中で、1459年頃完成するのに約20年を要した。

特に多くの宣教師、旅行者、船員、探検家との接触があり、知られた全ての世界とコミュニケートし、1500年代のヴェネツィアの地理学者で作家のジョヴァン・バティスタ・ラムーズィオの指示に従って、先行する古い地図を辿るように、また支那からマルコ・ポーロが齎した似たような平面球形図を利用して実現した。

世界地図は板の上に糊付けされた羊皮紙の上に描かれ、その時代の地理学的、人類学的知識の体系を表している。そして同時代の多くの海図のように、南が上で、北が下を向いている。明らかに当時よく知られていた幾つかの地方は能く書かれ、作図されている(全ヨーロッパ、全地中海)。一方アフリカやアジア、この遠くの地域は能く知られていなかったから、時に精確さにおいて少々物足りない。

同様にこの地図が完成した時、クリストーフォロ・コロンボの航海はまだなされておらず、今日新世界として有名な大陸は、当時想像的仮説の段階であったから、アメリカは描かれていない。

主たる地域や全ての装飾的要素である特徴的なミニチュアの挿絵は大変美しい(装飾的要素とは色々な地域の境界を示す並木、暈した色による曲りくねった川、ファンタスティックな海の生物が現れてくる波打つ海)。それらは興味津々のものとなっている。

世界地図はポルトガル王アルフォンソ5世に贈られたもので、コピーが作られたが、譬え存在したとしても、失われてしまったのである。」
  ――マルチェッロ・ブルゼガーン著『ヴェネツィアの神話と伝説』(Newton Compton editori、2007.10)

マルコ・ポーロに学んだフラ・マーウロはズィパング(Zipangu)を書いたそうですが、今に残る世界地図は、Zimpagu(ズィンパグ)となっているそうです。フラ・マーウロの協力者Andrea Bianco(アンドレーア・ビアンコ)が彼の地図をコピーしたものが今に残り、その時、写し間違えたのかも知れません。日本人として、何か複雑な感懐を覚えます。
  1. 2019/09/19(木) 13:21:32|
  2. | コメント:0

パーオロ・サルピ(Paolo Sarpi)

ヴェネツィアの幾つかのカンポ広場に何人かの人物の銅像が建っています。例えば、スキアヴォーニの海岸通りにはヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の像、リアルトのサン・バルトロメーオ広場にはカルロ・ゴルドーニの像、マニーン広場にはダニエーレ・マニーン像、サント・ステーファノ広場にはニッコロ・トンマゼーオ像、サンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ広場にはバルトロメーオ・コッレオーニ騎馬像、また鉄道駅からリアルトへ向かうストラーダ・ヌオーヴァのサンタ・フォスカ大通りに面するサンタ・フォスカ教会前の同名の広場には、パーオロ・サルピ像が今でも思索に耽っています。
パーオロ・サルピ像ガブリエール・ベッラ画『サンタ・フォスカ橋の棒戦』[左、サンタ・フォスカ広場のパーオロ・サルピ像、右、ガブリエール・ベッラ画『サンタ・フォスカ橋の棒戦』]  このサンタ・フォスカ広場に架かるサンタ・フォスカ橋は、サン・バルナバ広場に架かる拳骨橋同様、ニコロッティ派とカステッラーニ派が熾烈な戦いを演じた橋として有名です。この橋にも白い足型が嵌め込んであります。ヴェネツィアに住み慣れたゲットのユダヤ人も後になると、サンタ・フォスカの戦いでニコロッティに属し参加したと云います。他にもサン・ズリアーン教会裏の“Ponte de la Guera(伊語Guerra)“橋もそれだったようです。この戦いは後、死人が出たために、政庁は禁止処置にしました。
Marcello Brusegan『ヴェネツィアの神話と伝説』マルチェッロ・ブルゼガーン著『ヴェネツィアの神話と伝説』(Newton Compton editori)に、《気難しがり屋のパーオロ・サルピ師》というお話がありましたので“日本語”にしてみます。

「 哲学者、思索家、宗教者、神学者、歴史家にして科学者
フランチェスコとイザベッラのモレッリ夫妻から1552年8月14日、ヴェネツィアに生まれた(洗礼時にはピエートロという名が決められた)。14歳の時、パーオロという名で聖母下僕会(ordine dei Servi di Maria)に入った。若くして深い教養を示したので、1567年にはマントヴァ、そしてボローニャの修道会へ派遣され、そこで《神学と自然哲学》について、優に318の論文を発表した。彼の成果はかくも大なるものだったので、マントヴァ司教は彼に神学の説教壇を任せた。

1575年ヴェネツィアに戻り、聖母下僕会の修道院に入り、1578年まで4年間、哲学の教授と科学の研究(医学、数学、化学、物理学)に付いた。特に彼の内部で公会議の歴史、特にトレント[トリエントとも]公会議の推移について興味が生まれたのはその当時のことである。

1579年ヴェーネト管区の管区修道会会長に任命され、そしてパルマの下僕会の総長となった。その間修道会の基本法の文書の点検を任された委員会に参加した。1585年ローマ教皇庁駐在の下僕会の代表に選ばれ、その結果ローマに行った。そこでは非常に実り多い、知的レベルでも豊かな交友関係を結んだ。ナーポリにも行き、ジャンバッティスタ・デッラ・ポルタに出会った。彼とは実りある科学的議論を、将来も続ける関係を結ぶことが出来た。

1589~92年にはヴェネツィアに戻り、教会と俗界の歴史を深めるために科学的哲学的研究を続けた。1600年と1601年にそれぞれ、カーオルレとダルマツィア(クロアチア)のNin(伊語Nona)の司教を願い出たが、クレメンス8世(Clemente VIII)は、教皇大使の否定的情報で、彼には司教座を任せなかった。しかしヴェネツィアはその代わりに1606年、ヴェネツィアのために疲れを惜しまず働いてくれたお礼に、元老院が共和国の教会法学者としての神学者に任命した。

パーオロ・サルピにとって、最も意味あった年月とは? ヴェネツィアの聖務停止の時、所謂“文書戦争”に積極的に参加した。彼自身は偏にヴェネツィアのためであり、更に神学的に参画することから自由であるために、“異端”であるとされ、1607年1月5日破門された。10ヶ月後の1607年10月5日、教皇庁の刺客(ヴェネツィア人ロドルフォ・ポーマ、アンコーナ人アレッサンドロ・パッラーズィオ、ベルガモ人ミケーレ・ヴィーティ)3人が、カンナレージョのサンタ・フォスカ橋の傍で何度か突き刺し、殺そうとした(その凶行のあった場所に、今日、1892年エミーリオ・マルスィーリが銅像を建てた)。

彼の命を脅かす、更なる凶行が彼の修道会の道士2人によって行われ、1609年十人委員会の官憲により発見され、回避された。1623年1月15日の彼の死の日まで、サルピは教皇庁のあらゆる画策に対して、セレニッスィマ共和国の特権の擁護に、肉体的にも文化的にも全精力を注いだ。

特に1619年、Pietro Soave Polano(Paolo Sarpi Veneto のanagramma)のペンネームで『Istoria del concilio tridentino(トレント公会議の歴史)』をロンドンで出版した。その出版は6ヶ月後、反ローマの内容故、禁書目録に加わった。

サルピは1623年亡くなった。彼の厳かな葬儀にはヴェネツィアの全当局以外に、同信会・病院の代表者、46人のドメニコ修道会士、60人のフランチェスコ修道会士、28人のカルメル会修道士、50人の聖アウグスチノ修道会士が出席した。

遺体は防腐処理されて、下僕会の教会左の後陣の礼拝堂に埋葬されたが、教会が崩れ落ち、全てが霧散してしまう1812年までそこに残っていた。しかしヴェネツィアの思慮ある人達のお陰で、遺体が確保され、ムラーノ島のサン・ミケーレ教会内部に最終的に埋葬された。
パーオロ・サルピ像[ヴィンチェンツォ・ジャコーニ(Vincenzo Giaconi/Giacconi―1760.02.03トレミニョン~1829.07.17ヴェネツィア、刻版師)画、サイトから借用]  ヴェネツィア人のこの人物に対する隠された愛はかくたるものだったので、彼の没後多くの“奇跡的出来事”が彼の所為にされた。中でも最も有名なのは、右手が不自由だったマリーア・エリザベッタ・ガブリエッリという人は、1722年8月9日、サルピの墓に祈願したところ、突然治癒したということである。 」

尚、ブラーノ島のガルッピ広場には、この島で生まれた音楽家のバルダッサーレ・ガルッピの胸像が広場中央にあります。
  1. 2019/09/09(月) 00:58:13|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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